HOME > 共産主義 > title - ISは共産主義者
2016/07/03

ISは共産主義者


親日国バングラディシュの首都ダッカで起きたテロで、日本人7名が殺害されました。

この事件についてIS(俗称:イスラム国)が犯行声明を出しましたが、このISという自称イスラム原理主義者の正体は共産主義者だと思います。

なぜなら、戦前ソ連がヨーロッパ諸国の植民地だった中東・近東のイスラム教徒を赤化したからです。

その赤化の方法は、ソ連が朝鮮人に対して使った手と同じで民族意識を刺激して、宗主国に反抗させるといった手でした。

そして朝鮮との相違点は、イスラム教徒の民族運動と宗教運動を混同させて共産運動へと発展させたことです。

このとき、ソ連が煽動に使ったスローガンは「民族運動とイスラム圏建設」でした。

なのでISのスローガンはロシア革命の翌年である1918年=約100年前から存在していたことになります。

そもそも日本は戦前から、ソ連の圧政を世界に知らせようと新疆を脱出したウィグル人をかくまったり、南方のイスラム教徒とも仲よくしていました。

どこにISから恨まれる筋合いがあるというのでしょうか?

日本がアメリカの同盟国だから敵視されているのでしょうか?

ホント、ISって共産主義者のようですね。


大東亜戦争でキリスト教の侵略と戦った日本に「十字軍の国民」と
のたまったIS バカじゃなかろーか?



ISIL1.jpg

バングラデシュ テロ、日本人7人殺害 JICA委託の男女 人質20人犠牲 ISが犯行声明
2016年7月3日 毎日新聞

【ダッカ金子淳】バングラデシュの首都ダッカで武装集団がレストランを襲撃した人質テロ事件で、治安部隊は2日、救出作戦を実行し、人質のうち日本人1人を含む13人を救出したが、20人が死亡した。実行犯6人は殺害され、1人は拘束された。現地当局者が明らかにした。菅義偉官房長官は2日深夜、首相官邸で緊急記者会見し、日本人7人の死亡が確認されたと発表した。

(中略)

 過激派組織「イスラム国」(IS)は2日犯行声明を出し「十字軍の国民」を狙ったと述べた。ISの影響下にあるニュースサイト「アーマク通信」は、「外国人を含む24人を殺害し、40人を負傷させた」と伝え、犠牲者のものとされる写真も発信してISの関与を報じたが、米国の情報筋からは国際テロ組織アルカイダ系の「インド亜大陸のアルカイダ(AQIS)」が関与した可能性を指摘する声も上がっている。



IS風刺画1
☞トンでもない同盟国、アメリカ

ISに見る共産主義的要素

まず、ISがどれくらい共産主義的かリストアップしてみました。


1)偶像ではないシリアの象徴パルミラ神殿を破壊。神殿は共産主義でいうところの「ブルジョア時代のオクレタ産物」。

「パルミラ神殿の破壊だけが、シリア人の壊滅を世界に気付かせるきっかけになっている」 専門家は嘆く(ハフィントンポスト 2015年9月2日)

2)シリア人虐殺

北満洲特務機関の調べによると、シリア人(ヒティット族)はユダヤ人の原型だそうです。

ユダヤ人の原型とされるものは「純セミット族」「ヒティット族」「アモンアン族」の三種族あって、シリア人であるヒティット族がその50%を占めています。

ISによるシリア人虐殺といい、アメリカの空爆といい、ユダヤ人の原型を消そうとしているようですね。

ウワサによると日本人も「ユダヤ人ではないか?」と疑われているそうですが。

ISシリア人は猶太人1アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C03010395100:1926(大正15)年 北満洲特務機関 「猶太研究配布の件」4ページ


3)なぜか日本の共産主義者がISではなく日本政府を批判する

ISILワタシハケンジ1
☞ワタシハケンジ



4)なぜか旧民主党が日本人がISに人質に取られた段階で「殺害された」とフライング

民主党日本人殺害1


5)2015年1月26日に自民党が「イスラム国」ではなく「ISIL」または「いわゆるイスラム国」という呼称を使うように申し合わせるも、その後もマスコミは「イスラム国」と呼び続けた

【過激派「イスラム国」呼称問題】朝日新聞も記事見出しと文中表記を「IS」に変更(2015.2.24)


6)戦前日本人を虐殺して、日本を世界戦争に引きずりこんだ共産主義者のやり口に似ている


7)戦前ソ連のイスラム教徒赤化スローガンは「民族運動、イスラム圏建設」。ISの目的は「イスラム圏統一、イスラム法にそった国家設立」


8)なぜかイスラム教徒であるウィグル人を弾圧している中国ではなく、イスラム教徒を保護した日本を敵視

1930(昭和5)年、ソ連の横暴圧迫を世界に知らせようと新疆ウィグルから脱出したムハンマドという男性がいました。

ムハンマドは反共日本を頼り、また日本もムハンマドを保護しました。

民国十九年以降 新疆省回民独立運動経過概要
ウィグル族東京3

"イーミン"を見送った後、バイアヂヂ(ムハンマドの部下)は10月2日上海に来て、11月17日文書で新疆の状況ならびに動勢を詳細に日本領事に対し報告した(新疆の状勢、ソ連の動向、住民の反共産的情勢等)。以後日本領事館と頻繁に連絡していたところ、上海でウィグル族が日本機関と密接に連絡していると知った英国機関は直ちにインドに連絡し、ムハンマドはインドを出て(英国、ソ連の影響下にある)サウジアラビアあるいはイランへ去るよう命令された

ウィグル族東京4

ムハンマドは秘密裏に在ボンベイの日本領事に連絡し、秘密裏に日本へ渡ることを相談したところ、日本国から許可が下りたので3月2日英国機関に見つからないように遠山丸に便乗して日本に向かった。そして4月6日、東京に到着した。

ウィグル族東京1

東京でムハンマドは語った

「われらウィグル民族の目的は新疆内におけるウィグル族の独立にある。上海、北京、厚和を通じ新疆の名の下に公会を作り、全世界の回教徒(イスラム教徒)に向かい新疆におけるソ連共産勢力の横暴圧迫を訴え、共産主義は悪魔的非道であることを発表し、回教徒の反共産戦線を構成し果敢なる反共産運動を展開することを期しつつあり。将来日本が打倒共産戦を起した時は必ずわれわれウィグル民族は日本に協力しソ連と戦うことを誓う」

ウィグル族東京2

☞【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C13021467200:1930(昭和5)年 陸軍省 「民国19年以降の新疆省国民独立運動経過概要」

本記事の資料:こうして中近東は赤化された【現代語訳】

はじめソ連はヨーロッパ赤化を工作しましたが、第一次世界大戦に疲れた諸国民は共産運動に熱狂しませんでした。

なのでソ連はヨーロッパ赤化を中止して、ヨーロッパ諸国の植民地であるアジアを赤化し、宗主国に資源や原料を輸出しないようにしむけて、ヨーロッパ諸国を弱体化することにしました。


出典:1931(昭和6)年 露西亜通信社 高橋利雄 「驀進途上のサウェート・ロシヤ」 第五章 サ聯邦の対外策、就中(なかんずく)其の東方策



 西方より東方へ

 サ連邦(管理人注:ソビエト連邦)は革命直後その理想とする世界革命の鋭鋒を資本主義の爛熟期に達した西欧文明諸国に向けた、そしてマルクス主義の原理により思想的活動を実行した。

しかもその最終の目的とするところは資本主義諸国の総本山である英国の赤化転覆にあった。この西欧諸国に対する革命煽動は当初多少の効果を収め、ドイツにおける革命、ブルガリヤの変乱、英国炭鉱労働者のゼネラル・ストライキ等を惹起した、従って欧州に相当の波瀾と恐慌とを巻き起こしたのであった、

しかし欧州諸国民の理性はロシヤ国民のごとくボリシェヴィキ(管理人注:過激派)にとって好都合ではなかった。また大戦によって窮乏疲弊の極みにある国民らは一意平和を愛好したため、西欧赤化の企図はついに終局の成功を収めるに至らなかった。

それだけでなく、かえって欧州諸国間に対サウェート(管理人注:ソビエト)連合の観念を生じ、ロカルノ条約(管理人注:1925年ヨーロッパ7ヶ国間で締結した地域的安全保障条約)のごときものを見る結果となったのである。

 ここにおいてサ連邦は世界革命の切っ先を欧州より転じて、その植民地であるアジア方面に向けた。思うにアジア方面においては、大戦による混乱と疲弊は欧州にくらべて僅少であった。

しかもその国民は多くは欧州資本主義国家による被圧迫民族であって、機を見てその弾圧から脱出してやろうという意識は年とともにその熱を加えており、この民族意識に照らしてみればアジア被圧迫民族の解放は、当然欧州資本主義諸国を困窮におとしいれ、革命の過程を促進することに着意し、サ連邦が西欧赤化の手をゆるめて主力を東方に用いるに至ったのは、まさしく当然というべきである。



ふつう共産主義は宗教を排撃しますが、ソ連はイスラム教徒の民族意識を刺激して「独立」を宣伝しました。

そして民族運動とイスラム教運動を混同させ、運動の実体が共産運動でることを巧妙に隠しました。

この時にソ連が使ったスローガンが「民族運動とイスラム圏建設」でした。


出典:1942(康徳9)(昭和17)年 大同印書館 引間功 「戦時防諜と秘密戦の全貌」 第十章 宗教防諜



 ソ連のイスラム教徒(回教徒)は、その大部分がトルコ族であるといわれ宗派は狂信的なスンニ派に属し、その多くはユダヤ人である遊牧民族である。

この満州・支那方面はその宗派を受け継ぎ、昔より独自の宗派によって活動しているといわれているが、その宗旨および行動はすべて本部(ソ連)の指令によることに注意しなければならない。

 ソ連のイスラム教徒は約1200万人といわれている。しかもその結果たるや実に偉大にして絶対的であるとまでいわれている。

 従ってソ連が自国内に居住するイスラム教徒を、いかに自国のために利用するかという問題が最近台頭してきた。ソ連イスラム教工作の重点である。

 周知のように、共産党がかつて反宗教運動を実行した時、このイスラム教も迫害され、イスラム教反乱の勃発した例も枚挙にいとまがないほどである。

現在になっても各地にイスラム教に対する圧迫は反発となり、各国のイスラム教徒の呼応するところとなって、ソ連極東対策上に少なくない複雑性を持つに至った。

こうした関係上ソ連の対イスラム教工作は漸次弾力性をもたらすに至り、従来の排撃をやめイスラム教と共産主義思想の混同化へと一歩を進め、コホメックの思想はレーニンの思想と一致するというところまでいっている。

 なおソ連の五ヶ年計画中のイスラム教文化工作は、その実際の成果を判断することは困難であるが、今日に於けるソ連のイスラム教問題は比較的静穏の現況と見て差し支えないものと思う。

 しかし現段階に於けるソ連イスラム教工作は、対内的よりむしろ対外的にその主力が注がれているのである。

 すなわち隣接の蒙古(モンゴル)、支那はもとより、トルコ、イラン、アフガニスタン等の全地域にその工作が進められているといわれている。

 ソ連の赤化工作はあらゆる場合、お先の都合主義である。すなわち赤化政策を把握した後に行う手段として、その他の民族運動とイスラム圏建設の混同煽動である。

この運動は支那に於ける国共合作の場合も如実に成功を収めている。またこの国共合作を宗教面より見るならばイスラム教運動と共産運動の妥協が基礎となっているといえよう。

 特に西北辺境と新疆のイスラム教徒が共産化した大きな原因は、民族運動をソ連援助の下に行ったことにあるという。従って国共合作が可能視されたゆえんもここにあったのである。

 今日ソ連は近東植民地諸国に対して、英国帝国主義の排除を民族運動の名により展開させようと準備しているもののようである。

 そしてその根底はすなわちイスラム教の共産主義化である。我々が常識的に考えるならば、宗教と共産主義を混同するということはきわめて不可解と思うが、これはロシア民族の伝統的思索の傾向とでもいうべきものであって、ある識者は言う「このような事実はソ連政権の反社会主義性向の歩みより考えて決して矛盾ではない」と。

 ソ連は最近現世に極楽を出現することが、人間の神性化であるという思想に共鳴する傾向が看取される。

すなわちソ連の共産主義の道徳化、生活への規範化であると宣伝している関係上、満州・支那におけるイスラム教徒の動向も、おなじ見地より自然とこれに感化しやすい現勢を示しているといえる。

従って真の信仰心に至らない盲目的信者は、それがなんであるかという分別もなく、共産主義に共鳴するところに、恐るべきコミンテルンのイスラム教に対する懐柔容易策の危険が考察されるわけである。

 このようにソ連の対イスラム教工作は、内部におけるイスラム教民族の活動を図るために対外的活動を展開し、特に民族運動とイスラム教運動とを結びつけ、思想混同を企図している点は一に大なる宗教的謀略というべきである。

 しかも、これらはすべてコミンテルンの世界支配の陰謀であり、かつユダヤ性がもっとも露骨に表現されているのがすなわちこのイスラム教工作であるといえよう。
 


コミンテルンのアジア赤化を担当した部署は「東洋部」といって、部内は極東部・中東部・近東部と三つのセクションに分かれていました。

東洋部が赤化目標にしていたのは、支那、日本、朝鮮、台湾、インドシナ、フィリピン、マレー群島、インドなど極東一帯にわたっていました。

そしてコミンテルンは中国上海に極東局を置き、天津にはその分局、ハルピンには全露共産党満州省委員会、ハバロフスクには極東宣伝部、ウラジオストックには全露共産党極東地方委員会中国部といった連絡機関を設置しました。

またソ連には在露極東青年教育機関があって、その主なものはモスクワの孫逸仙支那労働者大学、スターリン東方勤労者共産大学で、アジア人共産主義者が革命に必要な知識を学べる機関でした。


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:B02130968400:1936(昭和11)年 外務省情報部 「第五章 東亜に於けるコム・インターンの活動」

※管理人注:コム・インターンとはコミンテルンのことです。また●は判読不明文字です

 
 第一節 コム・インターン組織内に於ける赤化指導部

 コム・インターンの東洋方面に対する工作は、その執行委員会幹部会内に於ける東洋部がこれを主管していた。最初の部長はフィンランド人クーシネンであった。


ソ連クーシネン1

東洋部はさらに極東、近東の二部に分かれ、その極東部長がヴォイチンスキーであった。彼は支那赤化の重要人物で、真っ先に支那に渡来し、日本共産党の指導にも当った男である。

しかるに1928年のコム・インターン第六回大会で、東洋部の改組が可決され、極東・近東二部のほかに、新たに中東部が設けられ、だいたい左のような陣容になった。

 
東洋部部長 クーシネン
 極東部(支那、日本、朝鮮、フィリピン)部長 ミフ
 中東部(インド)部長 シュービン
 近東部(ペルシャ〔現イラン〕、エジプト、トルコ)部長 ●秋白


 日本共産党事件被告人佐野学の供述によると、1928年彼のモスクワ滞在中、東洋部では毎週一回会議を開き、前記四人と極東部員としての佐野とが出席し、支那、朝鮮、ペルシャ、エジプト等東洋部所管事務を討議決定し、特殊問題に関しては、随時臨時委員会を開くことになっていた。

あたかも彼の滞在中、支那問題委員会が開かれたが、それにはクーシネン、ミフ、張国●、佐野および他に二名出席し、対支指令を決議したと。

東洋部の人的構成には、その後もちろん変更が あったと推測されるが、何分にも情報がないので、はっきりした現状を報告できないのは遺憾である。

 中国共産党との連絡機関としては、最初は派遣員制度であって、派遣員として最初に渡支したのはヴォイチンスキーで、1920年、1925年、1927年の三回上海に来ている。

彼は中国共産党の創立を指導したことによって有名である。マーリンは1921年渡支、国共合作に努力し、同年11月桂林において孫文と会見した。

ロイはインド籍共産党員で、国共分裂時代に活躍した。ジョンソン、ゼームス、ヤンソン、オソール、ミフ等もかつて支那に渡来したことがあって、露支国交開始後は、上海総領事館内に極東赤化宣伝機関を設け、コム・インターン政治局指導の下に、館員をして派遣員、チェカ等を指揮させたが、1927年露支断交後は、上海総領事館の引揚げによって、その便宜を失った。

 しかるにプロフインターン(管理人注:赤色職業組合。労働組合)では、1927年5月20日漢口で汎太平洋労働組合第一回創立大会を開き、その結果上海に書記局を常設し、米人共産党員ブラウダーが書記となっていたので、コム・インターンはこれを利用し、1929年その極東局を上海に設け、ブラウダーをその書記を兼任させた。

同年9月ウラジオストックにおいて汎太平洋労働組合第二回大会が開かれ、それに出席したブラウダーは、その後モスクワに帰任したので、後任としてヌーラン1930年来上海依然極東局書記兼汎太平洋労働組合書記として活躍していたが、1931年6月15日共同租界工部局警察によって逮捕され、これによって極東局の全貌が明らかにされた。

すなわち極東局なるものは、ひとり支那だけでなく、日本、朝鮮、台湾、インドシナ、フィリピン、マレー群島、インド等、極東一帯の赤化に従事していたのであって、その連絡方法は、使者の往来によるもののほか、上海郵便局内に八個の私書箱を設け、各会社商店名義の電信アドレスによって暗号電信を受理し、短波無電を利用してモスクワと直接通信をやっていた。

 上海にある極東局のほか、天津にはその分局があり、ハルピンには全露共産党満州省委員会、ハバロフスクには極東宣伝部、ウラジオストックには全露共産党極東地方委員会中国部があって、いずれも連絡機関の役目を勤めており、またモスクワには中国共産党代表団が常駐している。この代表団主席が王明の名をもって知られる陳紹禹である。

 ヌーラン逮捕後の極東局は、その助手デイクロスによって継承されたという情報がある一方、局そのものがハバロフスクに移され、上海には単に派遣員ないし代表が残されているばかりだとの情報もある。後説の方が事実に近いように思われる。

 極東地方に絶えず新鮮な共産党員を送る役目を果すものに、在露極東青年教育機関がある。その主なるものはモスクワの孫逸仙支那労働者大学(中山大学と略称する)およびスターリン東方勤労者共産大学(東方大学と略称する)の二つである。

 中山大学は、もっぱら支那学生を収容し、これに社会運動家として必要な社会政治上の学問を授けることを目的とし、
1925年1月モスクワに設立された。校長はラデックであった。


ソ連ラデック1


本校の経営は中山大学後援会によって維持され、全然ロシア学制の外に立つ特殊学校である。学生は支那各地の左傾団体から選抜される男女で、在学中は一切の経費を支給され、小遣い銭まで与えられる仕組みになっている。

1925年授業開始、1927年第一回卒業生155名を送り出した。1928年現在の学生は、400名以上あった。科目はロシア語、経済、政治史、ロシア革命史、支那史、支那国民運動、地理、軍事等で、経済では資本主義経済と共産主義経済の差異、政治史ではフランス革命史、地理ではロシアおよび支那地理に重点を置いている。

教科書は露支二ヶ国語、教授はロシア人4、50名、支那人25名。図書館には支那および東洋に関する図書だけでも二万五千冊を擁し、国内随一だ。要するに設備の点では他の学校よりひときわ傑出している。

 東方大学(クードヴェー)は、東方諸国に於いて活動するコム・インターン党員養成を目的とする共産大学で、スターリンが名誉会長となっている。

学生は支那人がもっとも多く、1927年6月現在で400名を算し、これに次いでモンゴル、ペルシャ(イラン)人が多く、アフガニスタン、トルコ、朝鮮、日本人は少数である。

日本人で同校に学んだ者は、北浦千太郎等48名で、その中の二十数名までが日本共産党事件の被告である。科目はレーニン主義、共産党史、経済、歴史、自然科学、語学、唯物史観、東方諸国講座等である。

 右二大学のほか赤衛軍陸軍大学、歩兵士官学校、高等航空学校、アセンブレーネル歩兵学校等の軍事教育機関に支那学生の在学しているものがある。

赤衛軍大学に約15名、航空学校に20名、アセンブレーネル学校に朝鮮人を交えて120名と推算されている。




【写真出典】・1929(昭和4)年 外務省欧米局第一課 「現代『ソヴィエート』聯邦人名録

関連記事
スポンサーサイト