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2016/06/29

移民政策はゆるやかな革命


イギリスのEU離脱が決まってからというもの、反日マスコミの移民は被害者・ナショナリズム(民族主義)は悪報道がヒドイですね。

移民政策を推進する自民党の意向か、在日朝鮮人保護を目的とした偏向報道でしょうか?

どちらにせよ、排日移民法や排日土地法という排日法をいくつも成立させて日本人移民を弾圧したアメリカ、それに追随した容共連合国が日本に「移民受け入れを推進しろ」などと言えたものではありません。

移民政策とはゆるやかな革命であって、共産主義的政策です。

戦前、国策で満州に移民した日本人たちは、ソ連軍侵攻と同時に国や軍に捨てられ、ソ連軍、朝鮮人、満州人に虐殺されました。

国家権力で保護されなくなったみじめな日本人たちは、避難の途中で足手まといになる子を捨て、親を捨て、日本に帰りたい一心で南下しました。

もし現在の日本で移民政策が実行されたならば、満州居留民たちが味わった地獄が、この日本国内で再現されるかも知れません。


マッカーサーは「日本はいわば大きな強制収容所になった。占領軍は8100万人の日本人の看守になったのだ」と言いました。

この言葉は「いつでも日本人を絶滅させることができる」という意味です。



日本共産党自衛隊批判1共産・藤野保史氏発言 「自衛隊に助けられた」地震被災者は猛反発…民進陣営から悲鳴「共産共闘は間違いだった」2016年6月28日 産経ニュース


ユダヤ人による移民差別報道
報じているのはブルームバーグ、国際経済研究所の名称はピーターソン、所長の名前はアダム、ポーランド人=ユダヤ人、ユダヤ人=グローバリスト


英国で人種差別や過激思想表面化か-仏人やポーランド人に「出てけ」
2016年6月27日 Bloomberg


23日の国民投票で欧州連合(EU)離脱が決定した英国では、直後の週末に人種差別的な嫌がらせが相次いだ。投票結果を受けて社会に潜む過激思想が勢いづいているのではないかと英国民は危惧している。

  ロンドン警視庁の報道官が26日述べたところによると、同市西部にある市民センターのポーランド社会文化協会で「人種」が動機とみられる事件が報告された。壁や窓に「故郷に帰れ」という落書きがあったとツイッターに投稿されている。また、イングランド東部ケンブリッジシャーでは、小学校の外に「EU離脱、これでもうポーランドの奴らはいなくなる」と書かれた複数のビラが残され、警察が調べているとイブニング・スタンダード紙が報じた。

イングランド銀行(英中銀)の金融政策委員会(MPC)委員を務めた経歴を持ち、現在は米ピーターソン国際経済研究所の所長であるアダム・ポーゼン氏は、「英国で人種差別的な雰囲気や政策が強まりつつあることは間違いない」と話す。




自民党「移民政策と誤解されないように」

自民党政策集1



在日朝鮮人保護しか頭にない法務省

法務省ヘイトスピーチ1
法務省>国民の基本的な権利の実現>ヘイトスピーチに焦点を当てた啓発活動

外国人偏愛日本政府がキレイゴトを言いだしたら要注意

戦前軍部と日本政府は、年に100万人ずつ増加していく人口を養いきれず、日本人に満州移民を奨励しました。

満州第一次開拓団が佳木斯(チャムス)に到着したのは、1932(昭和7)年のことです。

満州移民の本質は人口問題の解決なのに、国民向け開拓の手引には「旺盛なる開拓精神」「熱烈なる尽忠愛国」「満州は日本の生命線」「最も堅実にして信頼するに足る日本農民」「民族協和」などの美辞麗句がズラリとならんでいました。

そうして国民をおだてて満州に移民させた軍部(関東軍)は、ソ連軍の満州侵攻の報を聞くなり真っ先に列車を徴発して満州から逃げ出しました。

しかも関東軍は南方戦線に人員と武器を送りこんでいたために居留民男性を昭和20年5月に約20万人、8月にはさらに10万人召集したため、居留民は女、子供、老人ばかりになっていました。

そこへソ連軍が侵攻してきたのですから、日本人はひとたまりもありませんでした。

戦前日本政府は朝鮮人にも満州移住を奨励しましたが、朝鮮人は天敵中国人がいなくて気候のよい、そして彼らが蔑視する卑しい民族の国日本にばかり移民してきました。

このように日本政府には外国人には甘くて日本人には冷酷という性質がありますから、政府がキレイゴトを言いだしたら煽動されずに注意する方がよいと思います。


【DKB「対鮮ヘイトスピーチは恥ずべきこと」】
西田昌司議員1


日本人には民共批判というリップサービスのみ。在日外国人の政治活動くらい禁止しろ↓↓↓
安倍総理民共批判1安倍首相、民共を批判「無責任」…埼玉で自公両候補の応援演説 2016年6月28日 スポーツ報知


選挙前だからポーズだけ? 不法滞在者が2年連続で増加しただと?
法務省ポーズ15カ国大使館に異例要請 法務省入国管理局が韓国や中国など5カ国の大使館に対し、不法滞在している自国の出身者に自主的な帰国を促すよう要請したことが29日、同省関係者への取材で分かった 2016年6月29日 デイリースポーツ


陸軍省「農業問題で人口問題を解決する」↓↓↓

【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C15120471200:昭和8年3月15日 陸軍省調査班 「第5、移民」



満州人口問題軍部1

満洲国は農地開拓の特殊機関を設置し農業移民をして十五箇年間に於て五百万町歩の開発を行ふことを方針として居る。

而(そ)して之(これ)が開発は邦人移民に負ふ所が蓋(けだ)し多からう。一方帝国は、帝国の大陸的発展の基礎を構成すると共に我が人口問題の解決に資し、併せて国防上の要求を充足し、以て日満関係を緊密且永久ならしむる為移民を奨励する方針をとり、基礎移民として昭和七年度以降十二箇年を期し、政府補助の下に内地人農業移民十万戸を移植するに決し(後略)



戦前日本政府「満州に大量の農民を移植して人口問題を解決する」↓↓↓

【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A14080359000:昭和11年5月24日 内閣|衆議院 「満洲国ニ農民移植実施ニ関スル件」



満州人口問題1

 満洲国ニ農民移植実施ニ関スル建議

我ガ帝国ノ現状ハ満洲国ニ大量ノ農民移植ヲ行ヒ以テ人口問題ノ解決或(アルイ)ハ民族発展ニ資シ(後略)



キレイゴトだらけの「開拓の手引」↓↓↓

出典:1939(康徳6)年 満洲拓植公社編 「開拓の手引 上巻(康徳7年版)」 第一篇 開拓要領 第一章 概説 第一節 開拓の動員-開拓精神



満州人口問題要項1

 第一項 開拓精神-国家のための開拓-

 何事も旺盛なる精神から発動する。開拓の根本動力は旺盛なる開拓精神にある。この精神の根本特質は、未開の地を切り拓いて其処(そこ)に新天地を築き上げるためには如何なる困苦をも辞せず、あくまでも遣(や)りとおすという追進的、創造的なるところにある。

 満州開拓事業に於て、この開拓精神は熱烈なる尽忠愛国の精神に発動する。満洲は日本の生命線であるという信念こそが満洲開拓事業の根本動力である。

今日では満洲は単に日本の生命線であるばかりでなく、東亜新秩序の拠点として東亜の生命線であり、興亜の礎石である。この礎石を最も堅実にして信頼するに足る日本農民を中核とする民族協和によって固めようというのが満洲開拓事業である。この熱烈な愛国精神の前には如何なる困難も克服されて行く。


元満州居留民の手記
「母は弟を捨てるとき泣きながら思い切り乳を飲ませてやりました」

管理人はこの手記を読むと、涙が止まらなくなります。この手記を書いた少年は満州で父母と幼い弟二人を失い、ひとりぼっちになってしまったのです。

この子の二歳になった弟は満州に置き去りにされ、生れたばかりの弟は一万円で中国人に売られていきました。

日本人移民はこんな血を吐くような苦しみと悲しみを味わったのに、日本に渡航してきた朝鮮人は日本政府に優遇され、日本人を暴力でだまらせてのうのうと暮らして順調に繁殖し、その裏面で日本を裏切って連合国に加担し、戦後は戦勝国民を自称して、いまは強制連行やヘイトスピーチの被害者を自称、在日朝鮮人の苦情で政権与党は「ヘイトスピーチ解消法」を成立させ、外国人である彼らを保護しました。

戦前日本政府にしても、なぜ朝鮮人を満州やアメリカ大陸に移民させず、日本人を外地に送ったのでしょうか?

朝鮮人はアメリカと結託しているからでしょうか?

どちらにせよ、移民政策はこの日本という収容所に押し込められた日本人を絶滅させるでしょう。


出典:1950(昭和25)年 文藝春秋新社 「文藝春秋」10月特別号所収
     戦争犠牲者の手記当選作発表

※筆者名は一部伏せ字にしました。


 幸福に
       浦 幸●


 僕達開拓団の避難民がハルピンに着いたのは、もう北満では冬の十月初めでした。

南満州地図ハルピン
☞ハルピン、牡丹江地図


 五十日の避難の旅に、死んだ人、捨てられた老人や子供、そうしてロシヤ兵や中国人にさらわれたり、自分で進んで嫁さんになったり妾(めかけ)になった女の人達があったりして、団員は出発当時の半分以下になりました。

 団長以下百名足らずの一団は日本人の国民学校であった、収容所(管理人注:日本人居留民がソ連軍の許可を取って満州避難民を収容していた)のゴザ一枚のコンクリートの床に寝起きして、日本に帰る日までを此処(ここ)で暮らすのだと聴きました。

 この収容所に集まっているのは、引揚者の中でもっとも哀れをとどめたといわれる開拓団の人々ばかりで約千名近くが収容されていました。

此処で受ける給与は、高粱(コーリャン。中国産のモロコシ。トウキビ)米が一人一日三合足らず、あとは日本軍が使っていた乾燥野菜が、それも無い日の方が多く、このままでは皆栄養失調で、この冬は越せまい、働ける者は出来るだけ金をもうけなければ、と団長や団の主だった人は皆それを考えたのです。

 しかし僕達の団は元気な人はほとんど七月の召集で出ておりました。父もその時の一人で牡丹江の部隊に入隊したのです。

 団長はもう五十を過ぎておりましたし、他の人々も相当な年の人ばかりでした。


満州ハルピン日本小学校1
満州ハルピン日本小学校【出典】昭和12年「全満洲名勝写真帖」



 母は長い道中を、やっと此処までたどり着いた気のユルミからか、道中の無理もたたって、収容所に入ってから二日目、急に高い熱を出して苦しみ、うわ言に途中で捨てて来た弟の名

「努、努」

 と呼びつづけるのです。

「しっかりせねや駄目だ。あんたにゃまだ二人の子供がある。勇吉君だってシベリヤで元気にいる筈(はず)だからな。生きて日本に帰るんだよ」

 団長は夜もロクロク眠らず母の看病をつづけてくれたのです。 


 努は二つ、歩き始めて間もない可愛い僕の弟でした。赤ん坊の芳男が生れたので、母はもう努には乳をやっていませんでしたが、あの河岸に努を捨てる時は、泣きながら思い切り乳を飲ませてやりました。

努は何時(いつ)も欲しがっていた乳を嬉しそうに飲み、いつしか眠ってしまったのを、そっと叢(くさむら)に置き、手を合わせて寝顔に別れを告げたのです。

「かわいそうじゃないか、連れて行こう」

 僕は泣きながら母のモンペを力一ぱいなぐりつづけたのです。

 母は涙いっぱいの顔を横にふって、

「努ちゃん、堪忍して」

 というなり、努のそばにうつ伏して大声に泣きました。

 其処(そこ)で捨てられたのは弟だけではなかったのです。


 僕達の一団が老人の手を引き、小さな子供を背負って、南へ南への行進をつづけ、その川岸の土手で昼食の休みをしている時、僕達の来た道を馬に乗った兵隊が二人走って来ました。大声で団長を探し、

「満人が暴れています。匪賊も出ています。あなた達が最後の開拓団です。ソ連の戦車がこの道を進んで来る情報がありますから、この橋は落しましょう」

 そう言って、ガソリンを橋にまいて、火をつけてしまいました。乾ききった橋は、見る見る焼けくずれていきました。

「ではお元気で」

 馬は砂ほこりをあげて消えて行きました。

「畜生、自分らばかり先に逃げやがって、何のための兵隊だ」

 皆うらめしそうに、其処此処で呶(ど)鳴る声がしました。

 ソ連の攻撃を知って、僕達の一団が、四里の道を急いで駅まで行った時、もうそこには一台の機関車もありませんでした。

 軍隊や、鉄道員や、町の人達が皆汽車に乗って逃げた後でした。こうして開拓団の人々だけが取り残されてしまったのです。


満州アジア号1
満州の広野を驀進する最新流線型列車アジア号【出典】昭和12年 「全満洲名勝写真帖」

 ソ連の戦車が来るという情報に皆はすっかりおびえてしまいました。主だった人達が団長を囲んで相談をはじめました。

 そうして、一刻も早く避難するため、足手まといになるものをおいて行こうということが決められたのです。

「途中で離れても、もうその人を待って、面倒は見られない。無慈悲のようだが今の場合仕方がない。団体行動のためだ。他人の世話にならんという覚悟を今のうちに決めてもらいたい」

 よく声の通る副団長がこう言いますと皆シンとなってしまいました。

 皆は其処で、それぞれ自分の捨てるべきものを決心したのです。

 良吉君の妹の由起ちゃんも其処に捨てられて行くことになりました。

「行ける所まで連れて行く」

 と泣きさけぶ良吉君のお母さんに、副団長は、

「お母さんよ、落付いてナ、今が一番大切な時よ、団員の中には、家で子供を殺して来た人も多い。眠ったままの乳飲み児をおいて来た者もある。此処は丁度(ちょうど)水もある。上流には満人の部落もある。きっと子供は誰かが育ててくれる。之(これ)から先はしばらくは部落はない。危険があれば廻り道もせにゃならん、俺も人の子じゃ。気持ちはよう解る、しかし……」

「団長さん、皆さん、俺が残る。安心して子供をおいて行きなせえ」

 突然前に出たのは良吉君のお婆さんでした。

「俺やもう齢(とし)が齢、これ以上はとても皆について行けねえ。可愛い孫を抱いて此処で死ぬ。いいや、俺は死んでも子供達はきっと満人にたのんで育ててもらう。皆安心しておいて行きなされ。こんな可愛い子供をいくらロシヤ兵でも殺すものかよ」

「お婆さん」

 良吉君と、お母さんが抱きつきました。

「時間がないゾ」

「戦車が来るゾ」

 誰かが叫ぶと、もう人々は歩き始めていました。

 お婆さんのまわりには子供が六人ばかりおかれました。弟の努だけが可愛い顔で眠っていました。

「お婆さん、努をお願いします」

 母は真白な握り飯と、乾パンの袋と、努の綿入れをお婆さんの前におきました。

「心配せんでいいよ。俺があずかる。あんたは赤ちゃんだけでせい一ぱいじゃ」

「お婆さん」

 団長はお婆さんの肩を抱いて男泣きに泣きました。

「お婆さん、薄情者と思うて下さるな。こんなになるのならお婆さんまで誘って満洲へ渡るじゃなかった。お婆さんを誘ったのはこの俺、申訳(もうしわけ)ない」


 こうして別れた努の名を母は熱にうかされて呼びつづけるのでした。努の名をきくと、あの可愛い顔と、ヨチヨチ歩く姿を思い、知らず知らず泣けてくるのです。

しかし僕は泣いてばかりおれませんでした。今はただ一人の弟の芳男が、乳の出ないため一日々々と弱って行くのです。

 収容所では病人と赤ん坊には米のかゆを少しずつ配給してくれましたが、それで到底足りるわけがありません。

金さえ出せば、露店では、米でも、ミルクでも、砂糖でもおいしいものは何でも売っていました。

しかし僕達一家にはもう余分なお金はありませんでした。売るものは途中で皆売りつくしてしまったのです。

 働き手のある人の家族は、少しずつでも米でも買えるようになりました。その当時の大人の仕事といえば苦力(クーリー。中国語で人夫、肉体労働者のこと)、子供の仕事は街頭の煙草売りだったのですが、資本のない僕にはそれも出来ない仕事でした。

 もう落付くとお互いが利己主義になって、僕達一家に哀れみをかけてくれる者はおりませんでした。


 母は熱だけは下がりましたが、目に見えてやせていきました。乳が出ないため芳男も、泣声も出ないほどに元気を失っていったのです。

芳男を真中にして、冷たいコンクリートのござの上に抱き合って眠る時、母のゴツゴツした骨ばかりの手が、僕の首にのびて来て、

「幸ちゃん。内地(日本)に帰って、お父さんに会うまではお母さんは死なないよ。戦争さえなかったら、お父さんも、お母さんも、努も、みんな幸福に暮していたのに、戦争さえなかったら ─── 」

 戦争さえなかったら ─── 僕の耳の底には母の悲痛なさけびが今もありありと残っているのです。


 団長は、皆を故郷まで送りとどけるのは俺の責任だと言って、何時も母を元気づけてくれました。

収容所には時々、医者が回診に来てくれました。しかし注射も、薬も思うようにないので充分な養生も出来ず、栄養さえ取れば少しでも元気づくものをそれも出来なかったのです。

「幸ちゃん、大福もち食べたいだろうにネ。お母さんが病気でその上貧乏で幸ちゃんに何も買って上げられない。我慢してや」

 母は気分だけはしっかりしておりました。

 収容所に入ってから何日位経ったでしょうか、ある夜、団長が母の枕元で、小さな声で、しかし何か決心したような口調で、芳男を中国人に売ってはどうかと言って僕を驚かせました。

そのころハルピンの中国人は、日本人の子供、それも物心のつくまでの幼児を大そう欲しがっていました。日本人は親孝行で素質がいいから大きくなったらきっと役に立つだろうと言って、収容所の事務所にも沢山(たくさん)希望者が申込みをしているということでした。

「子供の幸福ということを考えて、そうしてあんたの体のことも、幸●君のことも考えねばならん。事務所の通訳さんも、あんたのことを心配して、一番いい話を持って来てくれた。先方は家柄もよし、金もある中国人で、男の子なら一万円まで出してもいいと言うそうだ。 この収容所の設備では、本当の冬が来たら五つ以下の子供は皆、死んでしまうという話だ。乳もないし、体も弱いあんたには、到底育てられまい。どうかね。とにかく今はもう考えている余裕はないと思うが……」

 母はジッと芳男のやせほそった小さな顔を見ていましたが、やがて目をつぶると、

「いい人で、本当に芳男を可愛がってくれる人なら……」

 そう言うと、ボロボロの毛布を頭にかぶって、肩をふるわせて泣きました。


 翌朝、通訳と団長に連れられて、福々しい顔の立派な中国服を来た夫婦が僕の部屋に入って来ました。

 通訳が何か話すのも終らぬ中(うち)に、奥さんの方が、何やら声を挙げて、芳男を抱きかかえると、悲しそうな顔で通訳の話をさえぎりました。

 僕は中国人夫婦の善人らしい風采(ふうさい)と、奥さんの顔や、手ぶりで、何を言っているのかは想像ついたのです。

「この子はこのままでは死んでしまう。今日直(す)ぐ帰って夕方までに連れに来るが」

 通訳は母に向って、そうして同室の者にも聞えるような声で、

「僕は此処へ来て、この子供で五十五人お世話したが、こんなにいい人の所へ貰われて行くのはこの坊やが始めてだ。金持だし、とても親日家で、平和になって日本人がもう一度満洲へ来れるようになった時、この子供がいれば本当の親に返すと言っている。そうしてこの子供のために女中も雇うそうだ。お母ちゃんも、兄ちゃんも安心して赤ちゃんの幸福を祈って上げるんだね」


 芳男はその日の夕方、貰われて行きました。

 何処(どこ)で用意したのか、鯉の柄の立派な綿入を着せて、瓶に入れたミルクを吸わせて、その上を又暖かそうな毛布で包んで、夫婦であやしながら帰って行きました。

 僕は門の外に立って、裸並木の黄昏(たそがれ)に消えて行く馬車を手を振って送りましたが、すっかり見えなくなると、走って部屋に帰り、ワッと母にとりすがって泣きました。


 芳男を売った金は、その時の僕達にとっては大金でした。米も、砂糖も、寒さに向う防寒服も買うことが出来ました。

 しかし母は、どんなおいしいものをすすめても少ししか食べませんでした。

 自分の子供を売った金で、おいしいものを食べるということが、母親の身としては、どうしても出来なかったのでしょう。

「お母さん、かまわないじゃないか。芳男はあんないい所へ貰われたのだもの。沢山食べて元気になっておくれよ」

「そうね。努ちゃんも、きっと芳男のように親切な満人に拾って貰っているでしょう。幸ちゃんと二人になって内地でお父さんに何と話しましょうか。早くお父さんに会いたい」

 
 しかし母の健康は一日々々おとろえて行ったのです。一番淋しかった昭和二十一年の正月がもう直(き)きという年の暮、

「お母さんのこと、努のこと、芳男のことを、お父さんに会ったらみんな話して。お母さんはお前の無事内地に帰るのを守って上げますよ」

 つめたいコンクリートの床で母は若い一生を、思い残すことばかり多き痛恨の一生を終えたのです。

 
 あれから直き五年がやって来ます。

 父は未だシベリヤから帰って来ません。

 消息も解りません。

 僕が一番忘れられないのは満洲に残して来た弟達のことです。

 生きていれば努は七つ、芳男は六つになります。

 自分の運命も知らず、いたずらの毎日をおくっているでしょう。

 きっと生きているでしょう。母があのハルピン郊外の収容所で息を引取るまで心配した僕達兄弟のこと。

 やさしかった母の霊魂がきっと兄弟を守ってくれるでしょう。

「戦争さえなかったら皆幸福に ─── 」

 母がやせおとろえた手で僕を抱きしめて流した涙。

 悲しい思い出に、僕はひとり従兄弟(いとこ)たちにかくれて思いきり大声をあげて泣くのです。



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