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2016/06/09

西田昌司議員への知性的な16の質問集【使ってね】


自民党の西田昌司議員に「反知性的」とdisられたので、史実にもとづいた16の質問集を作成しました。

確かに汚い言葉を感情的にわめくのはどうかと思いますが、実際に川崎の反共デモがヘイトスピーチ解消法で排除されていますよね。

西田議員は「日本人は思考停止」などと言いますが、日本人が朝鮮人問題に敏感なのは身内が朝鮮人に殺された人たちがたくさんいるからです。

大正時代にソ連に赤化された朝鮮人は「思想」を理由に日本人を虐殺しました。
皇室へのテロもすべて共産主義にもとづいたもので、日本が朝鮮を弾圧したわけではありません。

そんな朝鮮半島で日本人が虐殺されている時に、だれが守ってくれました?

在鮮日本人は約10万人も行方不明のままです。

朝鮮人(韓国人含む)が本当に日本に弾圧されたのなら、日本にいないはずですよ。朝鮮人に弾圧・虐殺された日本人のようにね。

それなのに寄生先に法を成立させてまで、日本に住んでいたいってどういうことですか?ってこと。

西田議員や自民党はそんな矛盾も感じずに、思考停止したままでヘイトスピーチ解消法を成立させたのでしょう。

どうして日本が日本人を虐殺した民族を法で保護しないといけないのですか?

西田議員も共産党治下のイタリアでは保守議員が殺害されていた、という事実を知るべきです。

ということで、西田議員に反論したい、または自民党に抗議したい方は、ご自分の言葉に直した上で自由に使ってくださいね。

この記事だけでなく、サイドバー→のカテゴリにある"対日ヘイト・ヘイトスピーチ"をクリックしていただくと、それ関係の記事一覧がリスト形式で出ますので、その中からネタになりそうなものがあれば使っていただいてかまいません。

それでも「反知性的」とdisられるかも知れませんけどwww

【天皇の言葉がヘイトだ!ということになったらどうするのか?】



川崎デモについては、「デモの中止はそれはそれで良いこと」と語り 自身への批判については「反知性的」「言っている言葉使いら恥ずかしい情けない」などとし 在日コリアン養護として「朝鮮人学校前でヘイトは許さない」等としながらも 沖縄反基地体制派による在日アメリカ人児童が乗るスクールバス包囲事件など アメリカ人やその他の外国人、日本人に対するヘイトスピーチ・ヘイトクライム案件には言及はなかった

また、川崎デモが、民進・共産両党への抗議デモ、ということには一切触れず、あくまで「在日コリアンへのヘイトスピーチ」と誤認している様子であり、重要案件も自身の手で調べない様子だった

自民党への抗議はこちら☞自民党

引用URL:正義の見方さん

西田議員・自民党への16の質問集


1.大東亜戦争は日本の侵略戦争ではなく、ソ連のアジア赤化アメリカのアジア経済侵略と戦った戦争です。朝鮮人は1917(大正7)年のロシア革命後、ソ連に赤化され、それ以来連合国側に加担して日本敗戦工作に狂奔しましたが、その当時"日本人"だった朝鮮人の裏切り行為についてどう思われますか?やはり日本に弾圧された、かわいそうな人々なのでしょうか?

帝国陸軍「剿滅共産党」と公言しています。侵略戦争ではありません

剿共自衛1【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C13031979500:陸軍省 「剿共自衛」

帝国海軍「江田島健児の歌」歌詞の
♪見よ西欧に咲き誇る文華の蔭(かげ)に憂(うれい)あり…はヨーロッパで吹き荒れた共産革命の嵐を、

♪太平洋を顧り見よ東亜の空に雲暗し…はアメリカのアジア経済侵略を指していますが?
 

朝鮮引揚者の手記によると朝鮮人は空襲を望み、警戒警報が発令されると空襲の目標にするためにワザと戸外に出てタバコを吸ったそうです。それほど日本敗戦を望んでいたのです


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
     赤尾●子 「純潔をまもって」



 父母の疎開と終戦

 朝鮮人たちは、京城(現ソウル)が爆撃されるのを願って、警戒警報が発令されると、わざわざ、戸外へ出て煙草をふかした。煙草の火でも、爆撃の目標になるのだと、まことしやかに伝えられていたから。


日本敗戦前、朝鮮人はおびただしい数のソ連のスパイを朝鮮に潜入させていたそうですが、この裏切りについてどう思われますか?


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
     元朝日新聞社清津支局長 兼元淳夫 「北鮮最後の日」



 知らぬは日本人のみ

 一方、朝鮮人の方では、日本側から情報ははいらなかったにもかかわらず敏感に大局的な動きを察知していた。

これは、この月のはじめから、巧みに潜入したおびただしいソ連のスパイ活動によるものでもあったが、日本人側がのん気に構えているのに反し、彼らはひそかに疎開をはじめ、ソ連軍が十三日を期して上陸するであろう、という予報は、電波のように広がっていたのである。


綏芬河(すいふんが)特務機関員の手記によると、朝鮮人はソ連軍の満州侵入前に国境から逃亡したそうです。これは朝鮮人がソ連の対日参戦を知っていたということですね?そして何も知らなかった日本人が大勢強姦され、惨殺されたのですが?


出典:1958(昭和33)年 日本文芸社 「現代読本」第三巻第五号 
   元綏芬河特務機関 北野征夫 「痛恨! ソ満国境部隊の奮戦」



 戦雲ただよう国境の町

 すでに七月からだったが、肉眼でもソ連のグロテコウオ飛行場には、一〇〇機に余る戦闘機を目撃したし、またその附近の地上部隊は、毎日実弾を使って歩砲(ほほう)連合演習を繰り返していた。

 このころ、われわれの諜報機関も、そうしたソ連の行動が、何を意味しているのか、それを探るため、七月六日にスパイを潜入させたが、スパイはそのまま帰ってこなかった。

 そして毎日のように、夜をも十時を過ぎると国境前線の作戦道路を、敵の戦車機械化部隊が轟々(ごうごう)とキャタピラをとどろかし、夜通し示威行進を行っていた。

 こうするうち、八月にはいると、国境の町綏芬河(すいふんが)からは、夜になると満鮮人が馬車をつらねて、荷物の移動を開始するようになり、夜の街の一人歩きはちょっと、心細い状態になった。それでもなお街々には、最後の勝利の信念をもった歩兵一個大隊だけの、綏芬河守備隊が残されていた。


これは終戦直前の満州についてのコラムですが、朝鮮人、満州人は日本敗戦一年前から「来年8月頃、日本はツブれる」と言いだし、日本人の言うことを聞かなくなったそうです。これも朝鮮人が容共連合国と通じていたからですね?当時の日本人には高飛車な態度をとる人も確かにいましたが、それが当時"日本人"だった朝鮮人が敵と結託する理由になりますか?


出典:1959(昭和34)年 日本文芸社 「現代読本」第四巻第十二号 
   「虚国 『満州国』 の予言」



 中でも日本人以外はそれぞれの国で一応インテリばかりであった。それが……終戦一年前から決して日本人官吏に対し非常に冷たい態度はとる、協力はしないし、役所の仕事は投げて、室の片隅で密談ばかりする日々が続いた。

 その頃、戦果発表は怪(あや)しくなり、モウ”軍艦マーチ”も鳴らなかった。誰云(い)うとなく

「来年(二十年)八月頃日本ツブれる」

と伝わって来て、心ある日本人を怒らせた。

 一般の満人も、電車やバスの行列に、日本人を押しのけて乗る有様(ありさま)。事実、それ迄(まで)日本人は優位を信じ満人に威張り返していたが、そんな事は考えられなかった。

「来年八月ツブれる」の声は次第に大きくなっていった。

 そしてとうとう予言通り日本人は敗戦の日を「八月」に迎えた。


2.日本敗戦後、朝鮮人は中華思想と共産主義により「日本人は日本へ帰れ!」「船がないなら玄界灘を泳いで帰れ!」「倭奴、早く帰れ!」とヘイトスピーチして、日本人の墓を暴き遺骨に汚物をかけて足で踏むなどしていますが、日本人が朝鮮人に「帰れ!」と言うだけでヘイトスピーチになるのはなぜでしょうか?

元京城日報社主筆の手記
「日本人は"無警察"の国にすわっているようだ」


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
      元京城日報社主筆 中保与作 「掠奪と赤色の劫火」



四面悉(ことごと)く強盗の声

「日本人は、無警察の国というより強盗国のまん中に、坐(すわ)っているようだね」

 と私たちは語り合った。一日一日、昼でも、街の一人歩きが危ぶまれ出した。

「倭奴、早く帰れ」

 と、いう宣伝ビラが毎日まかれてゆく。それには、

「船便がなければ、泳いで玄界灘を渡れ」

 とも書いている。

「俺は、ここで骨を埋めるつもりで来たんだから、帰化してもここに残る」

 と固い決心をしていた人々も、

「もはや、これまでだ」

 といい出した。

「親兄弟の墓を守りたい」

 と思っていた人々も、墓石をバラックの土台とし、その上で焼酎屋や焼鳥屋を開いているのを見て、やはり、引揚げのリュックサックを買うことにした。親たちや、夫や妻や、わが子わが兄弟の遺骨が土足にふみにじられ、不浄なものをさえかけられているのは、到底、見るに忍びないのである。

朝鮮引揚史倭奴早く帰れ



出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収 
      共同通信社特信企画部長 吉田儀助 「京城の落陽」



また街にベタベタと張り出されたビラやポスターの大部分は日本人には読めない諺文(おんもん。朝鮮文字)である。京城は日本式を消して朝鮮色で彩色され、日本人にとっては全くの外国になってしまったのである。

ポスターの中にはわざと日本語で

関東大震災を思い出せ」

「日本人よ釜山(ふざん)までは歩いて、博多までは泳いで帰れ」

などの気味の悪い文句を書いたものもあった。関東大震災のときのアノ事件を知っている日本人は思わず首すじをなでたのであった。

朝鮮引揚史泳いで帰れ

3.元朝日新聞社清津支局長の手記ですが、朝鮮人は日本人に「貴様たちの持っている物はみなおれたちの血と肉からけずりとったものだから、全部置いて裸で帰れ」と言って日本人の財産を接収したり強奪したりしたそうです。朝鮮人のこの言い分はコミンテルンの受け売りですが、在日朝鮮人の資産こそ被害者面してウソの歴史を振りかざし、日本人からけずりとったものではないでしょうか?


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
      元朝日新聞社清津支局長 兼元淳夫 「北鮮最後の日」



 彼のもたらした情報によると、昨夜工場の倉庫が襲われ、大半の食糧は暴民に運び去られていた。工場の職員は、幹部の家族が一部京城に疎開しているだけで、三千余の人々が居残っていた。これに対し、隠しおおせた食糧は、僅かに米四十石(一石は十斗、約180リットル)と雑穀が五十石ほどに過ぎなかった。

 だからどうしても分けられないというのを、工場長に泣きついて、米四石と大豆六石を出してもらうことに、話がついたのだという。今朝がたはさらに女、子供を混(まじ)えた暴民が社宅街を軒並(のきなみ)に襲い、洋服、着物から鍋、釜、机など、手当り次第に家財を荷車に積んで持去っていた。彼らはこういうのだ

「日本人は朝鮮に来る時、裸で来たではないか。朝鮮で儲けた物は全部置いて帰れ。貴様たちの持っている物は、みんなおれたちの血と肉からけずりとった物じゃないか……。」

 そしてさらに悪いことには、酔った労務者が、女を出せ、とあばれ込んで動かないのだという。工場の職員たちは、こうした暴民をなだめすかすだけが精一ぱいで、避難民の救援など思いもよらないところだった。社宅の若い女たちは、天井裏や床下に隠れて難をさけているのだ。

朝鮮引揚史裸で来た

4.朝鮮人に「日本人は日本へ帰れ!」とヘイトされ、財産を奪われて、日本人は命からがら帰国しました。
その後、済州島四・三事件などの祖国の赤狩りにあった朝鮮人が、常識的には思想を同じくする中国かソ連、北朝鮮に逃亡すべきところをなぜかあれほど嫌った資本主義(帝国主義)国日本に密入国してきました。そしてかつて「日本人は日本に帰れ!」とヘイトした朝鮮人が日本に来て「日本人はヘイトスピーチをやめろ!」と日本人に強要しているのですが、この事実に違和感はありませんか?

【博多港に到着した朝鮮からの引揚船】
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済州島四・三事件で南朝鮮政府による処刑を待つ済州島民 (1948年5月)】
済州島四・三1
対日ヘイトスピーチが書かれたアジビラがあちこちに貼られる


出典:1953(昭和23)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史」所収 
      元朝日新聞社清津支局長 兼元淳夫 「北鮮最後の日」



 出発は敏速に手際よく運ばれたが、いつの間にか朝鮮人の間に知れわたり沿道は一ぱい白い朝鮮服の人垣だ。彼らはあざけり笑っているかの如く、こそこそ話し合っては避難民の品定めをした。

 中にはひょうきんな子供が、身振りたっぷりで、一行のうちの大人をつかまえてなぐる真似をした。すると、群衆はどっとときの声をあげて笑う。彼らにとってこれは天地がひっくりかえるような異変だった。

本道の建物の壁という壁には、様々な文句のアジビラがはりつけられていた。

「撃砕、日本帝国主義!」

「東洋の吸血鬼日本の鉄鎖は切断された。韓国同胞よ団結せよ!」

「日本敗れたり! 起(た)て同胞」

 三十六年の総督政治は、ついに一片の白日夢と化してしまったのだ。そしていま、私達はかかる惨めな姿で、朝鮮を追われんとしている。


5.朝鮮人は日本敗戦までにソ連国旗や赤旗を準備していたそうですが、このことについてどう思われますか?日本が朝鮮を近代化しようとして資本を投資し、軍を配備して朝鮮防衛につとめた結果がこの裏切りなのですが?


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収 
      共同通信社特信企画部長 吉田儀助 「京城の落陽」



 山河を越えて

 十五日正午の天皇放送以後は、朝鮮はただ混乱という言葉くらいでは現せないような有様であった。米軍が来るのが先か、それともソ連軍が先にやって来るのか。そうしたとき朝鮮軍は抗戦するのだろうか。いま流通している朝鮮紙幣(朝鮮銀行券)はどうなる。顔を見合せればこんなことばかりが人人の言葉であった。

十六日になるとどこからともなくソ連軍の京城入城の噂が出た。その日の午後には京城駅前の広場には赤旗が数十本たてられ、ソ連軍歓迎のプラカードを持った人々の姿も見られた。ソ連軍の一部が北鮮から鉄道で南下してくるというデマが飛んだからである。しかしその日は夜に入ってもソ連軍らしい人の姿は遂に京城駅には現れなかった。

また京城のあちこちでは、日本人経営の会社銀行工場などを朝鮮人が接収するという騒ぎが持ち上がった。従業員の中の朝鮮人が案内役ではじめた接収なのである。この騒ぎは二、三日つづいたが、朝鮮軍司令部が武装した兵隊をトラックで運んで静めはしたけれど、中には日本人の重役や従業員が一人残らず追い出されてしまったところも少なくなかった。(後略)


6.日本敗戦後、朝鮮人は在鮮日本人の子どもから学校を奪い、命も奪いましたが、それは対日ヘイトクライムには当らないのでしょうか?日本が建てた学校を朝鮮人に奪われたのに舛添都知事が推進している韓国人学校土地貸与問題も、日本人が批判するとヘイトスピーチに該当するのでしょうか?

元京城日報社主筆の手記「日本人児童は学校を取られた」


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
      元京城日報社主筆 中保与作 「掠奪と赤色の劫火」



 櫛の歯の抜けるごとく

 秋に入って学校が始まると、朝鮮の児童たちが、勝ち誇ったように元気な声をはり上げながら、学校へ急いでいる。学校を取られた日本の児童たちはそれをじっと見送っているのである。

【京城高等小学校】
京城高等小学校1

朝鮮引揚史倭奴早く帰れ

元京城日本人世話会の手記「日本人の資産は、ほとんど朝鮮人の手に渡った」


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
元京城日本人世話会 森田●夫 「三八線に変貌する北と南-朝鮮引揚史  その三-」



日本軍が撤退するとともに、朝鮮人側から接収運動がおこされた。

 これは北鮮において、日本人の重要施設が人民委員会の手に渡されたことが大きな刺戟となったのであるが、××同盟、〇〇連盟、□□団という名を記した紙が、およそ市内の目ぼしい建物にべたべたとはられた。日本人は、

「ホッジ中将の命令書をもって来なければみとめぬ」

 といってみても何ともできなかった。学校、銀行、工場、百貨店、商店、会社から神社、寺院、病院、風呂屋にいたるまで、また住宅も大きなところはほとんど朝鮮人側の手に移った。

 米軍は大きな建物には、M・Pを派遣した。背の高いM・Pのたっている警察署に日本人警官が腕に英語で「米軍政補助者」の腕章を巻いて出入していた。しかしそれも長くはつづかなかった。日本人はぞくぞくやめさせられた。


命を奪われた日本人の子どもたち:
元京城日本人世話会の手記「一家全滅、その中で子どもが泣いている。子どもが病気になっても食べ物をやることができず死んでしまう。孤児院を創設したが収容者232名のうち61名が死んだ」


出典:1953(昭和23)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史」所収
     北鮮の憂愁 ──── 朝鮮引揚史 その四 ────
  京城日本人世話会



 九月末には、避難民は咸南の奥地からの人を加えて、二万七千となり、一万二千の咸南在住民の二倍以上の難民をかかえていた。

(中略)

 日本人住宅の接収がうちつづき、終戦当時の二千二百六十戸が、千二十八戸となり、それに多くの避難民を収容したので、十二月末現在一戸当りの収容人員は、二二.六名という割合であった。

 寒さの訪れとともに、避難民の生活は苦しくなった。着物は真夏に家をでた時のままであり、もち物はながい逃避行でなくなっていた。

 不潔な密集、極度の栄養失調に発疹チフス、再帰熱などが猛威をふるった。

 咸興日本人委員会の統計では、翌年一月までに、死亡者六千四百名をかぞえ、一月の死亡者は、一日平均五十名をこえていた。

 もっとも悲惨であった遊廓地帯の実情は

「八畳くらいだが、戸障子は全部やぶれ、オンドルはおちたままの北向きの部屋。さむいさむい風の吹きこむその片隅に、わらぶとん二枚をびょうぶのようにかこんで、八歳くらいを頭に三人の子供がかぼそい声を出して泣いている。

"坊や、お父ちゃんいるか"

 ときくと、 

"父ちゃんは死んだ"

"母ちゃんはどうしたか"

"母ちゃんも死んだ"

 そうしてさかんに泣いている。そのそばに人がねている。

"どうしたのか"

 ときいても返事がない。動かしてみると、一人が死んでいる。一人はチフスの高熱にうなされている。清津から九名避難してきた一家だが、その内七名がたおれ、八番目が今死んで、九番目が高熱の中に苦悶しているという。

その集団には四十名いるが、それを見ようとも、病院につれていこうともしない。いや、どうしてやる事もお互(たがい)にできないようになってしまっているのだ」

「ある日、日本人世話会の医療部に、みすぼらしい女の人が、子供を背負ってやって来て、

"私は駅の前で野宿をしているが、今子供が死んだから何とかしてもらいたい"

 と、おろおろ声でいう。主人はいない。しかも、

"この背中の子供も工合(ぐあい)がよくない"

 というので、みてやると、すでにその子も息絶えている。

 子供が病気になっても、たべものもやることができず、いつかな死んでしまう。病気になっても、闘病の気魄もおこらない。死人とおなじふとんに病人が三日も四日もねている」

という実情であった。

 十月末には、西本願寺に孤児の収容所が開設されたが、収容者二三二名のうちで、六一名は死亡した。


7.在鮮日本人および満州引揚者は米軍、ソ連軍、朝鮮人に全財産を没収され、死んだ子どもを火葬する金もありませんでした。なので泣く泣く遺体を朝鮮に埋めてきました。そして日本人の老人も道ばたに放り出され、死にかけていたそうです。今秋都税をつぎこんだとされる在日朝鮮人用老人ホームがオープンするそうですが、朝鮮人は朝鮮でも日本でも優遇され、日本人は冷遇されるのに、ヘイトスピーチ解消法で日本人をだまらせるのはなぜですか?


出典:1953(昭和23)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史」所収
     脱出 ──── 朝鮮引揚史 その五────  京城日本人世話会 森田●夫



今や北鮮の日本人は、大集団となって南下をはじめた。これを迎える三八線の第一線では、今までの延安、青丹、開城のほかに、高浪浦(こうらんぽ)、汶山(もんざん)、東豆川(とうとうせん)、抱川(ほうせん)にも派遣隊がでて、その受入れは多忙をきわめた。

その頃、延安に派遣されていた堀井野生夫君(京城工専学生)の手記をみよう。

 先(ま)ず到着者の宿泊の割当名簿をつくる。米軍に報告するのが朝十時と夕六時、警察への報告が正午まで、三時に駅に行き、人数の大体の見通しをもって車両の打合せをする。

夕方には汽車賃をあつめ、明日の出発について注意をする。また米軍の日銀券没収にも立会う。

(中略)

 また脱出者はいろいろのことを訴えた。

「国境で子供と離れてしまったから、その子のくるまで待ちたい」

「もう一銭もありません」

「日銀券がありますが、世話会で交換して下さいませんか」

 など、時には死者もでたりした。せっかく、苦労して越えた三八線で、息をひきとった子供を、せめて火葬にしたいと涙でいう母親もあったが、

「そのような金のかかることは大変だ、その金は生きている人に使いなさい」

 と心を鬼にしていってやらねばならない。

 またある朝送りだしをすませた時、駅の助役が日本人らしいのが駅前に倒れているというので、とんで行ってみると、おばあさんでたしかに日本人で南無あみだぶつ、南無あみだぶつと念仏をとなえている有様だ。

"おばあさん、しっかりしなさい大丈夫ですよ"

"ああ、もう死ぬ、もう、あ、なまいだぶ、なまいだぶもう口が……きけない、さみ(さむい)さみ……"

"しっかりしなさいよ"

 と背負って旅館につれて行った。

(中略)

 この脱出組で、開城の天幕(テント)村は満員の大賑いとなった。しかし収容人員の激増にたいして、食糧は不足がちで、八月十七日からは、一日一合五勺(しゃく:一合の10分の1。10ミリリットル)のとうもろこしの粥(かゆ)だけであった。

 携帯食糧ももたないばかりか、何日(いくにち)か食べないでようやくたどりついたやせた母親が、泣き叫ぶ乳呑児(ちのみご)に、僅かのとうもろこしをかみくだいて、口うつしにあたえてやったり、乾いた砂の上にとうもろこしのからをはき出してならべては、昨日は幾粒あって、今日は幾粒多かったといっていうる子供の姿など、胸のつまる光景であった。


【2016年秋、東京にオープンする在日朝鮮人用老人ホーム】
在日朝鮮人老人ホーム2

8.在日朝鮮人が「子ども、孫の代になって帰れと言われる筋合いはない」と言っていますが、在鮮日本人の場合、共産勢力はまず日本軍人を強制連行または帰国させ、次に朝鮮総督府などの役人を帰国させました。そして誰も守ってくれる者のいない朝鮮で日本人の男狩りが容赦なく行われ、女子どもと老人が残され、500名が死んで行ったそうです。そのうち大部分が六歳以下の乳幼児だったそうです。日本人は虐殺されて子どもも孫も残せない人々が万人単位でいたのですが、それでも日本人が在日朝鮮人に「帰れ!」というのはヘイトスピーチ解消法で弾圧されるのですね?


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収 元朝日新聞社会部長 木下宗一 「三十八度線に立ちて」

※文中の「火の玉行進」とは荒れ狂って日本人を襲撃した朝鮮人の群衆のことです。


 ソ連兵の進駐で火の玉行進は影を薄くして行った。今まで肩で風を切って歩いていた朝鮮自衛隊は解散させられソ連軍の統制下に治安署が生れた。さらに朝鮮の建国準備委員会が解散して「鎮南浦人民政治委員会」が成立した。

 こうなると、一夜漬けの「赤の闘士」がのさばり出た。初代の治安署長に選ばれた男は八路軍の闘士というふれこみだったが、後でバケの皮をはがされた。この男は憲兵隊の密偵だったことが判って処刑された。

 日本人の男狩りも容赦なく断行された。職業軍人三百五十名が狩り立てられ、平壌へ連行されたが、後にシベリア送りとなってしまった。後に残されたのは満鉄を始め民間会社の避難家族だけとなった。

(中略)

 日本人の所有家屋も千三百八十六戸あったが、ソ連軍の進駐で次々に接収され二分の一になってしまった。従って倍にふくれ上った日本人は移動につぐ移動の上、一握りの米にも苦労する日がつづいた。

五百名の日本人が死んで行ったが、その大部分は六歳以下の乳幼児だった。


9.赤化してのち、朝鮮人は戦前から思想による日本人虐殺や拉致を実行していますが、戦後の日本人虐殺もふくめ当時"日本人"だった朝鮮人の思想犯罪は裁かれず、日本人は朝鮮人に「帰れ!」と言うわけでなく、彼らの思想を批判しただけで警察に排除されるのでしょうか?


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C06031231600:大正9年11月12日 陸軍省 「春を襲撃せし馬賊の不逞鮮人の惨虐行為に関する件  発 朝鮮軍参謀長」



・領事館書記生高松作治方の雇い女柳川ツネ子は、領事館内署長官舎西方レンガ塀を越え逃れ出ようとしたが、外を包囲していた賊によって射撃され、塀の外に墜落した。 賊は銃床をもって女を乱打し、白布で首を絞め、財物を奪ったのち惨殺した。

・同避難民雑貨商原田亀次の妻は子女二名を抱き、前記レンガ塀から逃げようとしたが、賊徒はこれを捕まえ、まず夫妻を射殺し銃台で乱打、頭部を破砕したのち、銃剣で腹や背を刺し、白布で首を絞め死に至らしめた。
脳や血の塊および毛髪が今なおレンガ塀に固着し、惨状を極めている。残された子供らは両親の死骸に縋(すが)り、長女(6才)は足部に貫通銃創を受けていたが、泣くこともせず、人生の悲惨言語に絶する。

・領事館巡査部長志波嘉六の妻タキ子は、次男正治を負い長男正を抱いてレンガ塀を越え逃げようとしたところ、賊はこれを射撃、次男正治は(銃弾の)胸部貫通にて即死、また妻タキ子の肩部を貫き、長男正の右足を傷つけ、親子が塀の上から墜落すると賊が来て金品を強奪した。

・源城巡査の妻シズエ、長女ツヤ、次女満代、次男龍弘、大橋巡査の妻シツ、長男陽明、次男達磨、安部医師の妻房子、長女カズ子、次女、次男、山田カヲノ11名は猛火の中をくぐり領事館正門より逃げようとしたが、賊徒はこれに向け射撃し、安部医師妻房子は左手に貫通銃創を受けつつ畑中に遁走した。賊4名があとから追いかけ、房子を捕らえ所持金二千円、金の指輪を強奪し、なお暴行をなさんとしたため房子は両手を合わせ、賊に憐れを乞い助かることができた。

【その他惨殺、負傷.拉致された者】
【死者】

・領事館警察署長 佐谷武(54歳)
馬賊射撃に依り重傷を負い退避できず。ほどなく猛火に包まれ焼死。

・領事館巡査 愈昌禹(26歳)(鮮人)
裏門より北方一町の畑地に倒れ、左耳より右耳部に(銃弾の)貫通を受け、腹部を銃剣で突き刺されていた。

・木材商 野中右一(51歳)
裏門から出た後、畑の中に倒れる。胸部貫通、頭部乱打、背部に銃剣の刺突を受け所持金約三千円を奪われた。

・木材商 若林高麿(34歳) 
裏門から出た後、畑の中に倒れる、胸部に貫通銃創を受け、前頭部に二ヶ所の銃剣刺突の跡あり。

・指物職 安田誠松(37歳) 
裏門から出た後、畑の中にて貫通銃創、即死。

・朝鮮総督府道警部 渋谷昌策(35歳) 同三女 操子(1歳) 
西門の外である琿春川岸レンガ焼跡土穴の中に避難したが、賊が来て入口より射撃し、腹部貫通銃創を受け絶命。操子は頭部の大半をなまくら刀で打ち切られ惨死。

・芸工 安藤義好(30歳) 
領事館正門レンガ塀側にて頭部に賊の弾を受け即死。

【負傷者】

・警部 渋谷昌作の妻

・名古屋数之助(26歳)

・門広謙吉(38歳)

・大江静男(19歳)

・今川悦吾(40歳)

【拉致された者】

・雑貨商 彦坂田喜二

琿春事件1

10.戦前、満州の万宝山で朝鮮人が「私たちは戦勝国民だ!」と叫んで中国人を襲撃した事件がありました(万宝山事件)。朝鮮人は5000年間大国の属国だったため、大国や法という後ろ楯ができると暴走して暴力を働くのですが、今回のヘイトスピーチ解消法は在日朝鮮人が日本人を圧迫する後ろ楯になったのではないでしょうか?


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収 元朝日新聞社会部長 木下宗一 「三十八度線に立ちて」



 十七才以上の男子はシベリアへ。残された婦女子は飢えと寒さに三万名死んで行った。突如黙認の許可が下りた。老人は杖一本に、母親は幼な子を荒縄で、三十八度線さえ越えれば……南へ南へ難民の群は続く。

 赤旗の波

 まるで火の玉がころげ回っているようだ。街という街には、赤旗がゆれて、その炎の下から、汗まみれの顔や手がピストンのようにおどっていた。

「大韓民国万歳!」

「ソヴィエト共和国万歳!」

 リーダーの音頭に合わせて、一つの矢(や)叫(たけ)びが火の海をコダマのように渡って行く。

 もう誰も家に閉じこもっていない。刻々に火の海に吸収されて、そのウネリの下で、老いも若きも、歌い、泣き、おどり、走り、抱き、わめき ─── 歓びに崩れて行った。三十七年間の日本統治から解放されて、始めて自由の息を胸一杯に吸ったその日の京城(現ソウル)や平壌 ─── いわゆる朝鮮の表情である。

 その日とは昭和二十年八月十五日、日本人は皆泣いていたその日である。重大放送があるというので、日本人の家庭ではラジオの前に顔をそろえていると、意外にも天皇の終戦のお言葉であった。

"遂に来た!" 血の引いたお互(たがい)の顔がまだ震えている頃、街の一角から「ワァーッ」という叫びがあがった。いつ、どこに用意されていたのか、この叫びを合図のように、家という家から、大韓民国国旗と赤旗が手品師に引き出される小旗のように街にあふれ出た。

「日本人出て来い!」

 いち早く表戸を下(おろ)して、声をのみながら泣いている日本人宅は、早くもデモの赤旗で包囲された。

 刑務所からは、政治犯が赤旗に迎えられて新しい英雄として登場した。この新英雄に引率された群集は、日本の官憲 ─── 憲兵隊や警察署におっかなびっくりで投石して、その反応の無いのを知ると、始めて自分達の「解放された実力」に自信を持ち出した。

「おれ達は勝ったのだ!」

 三十七年間の反発が「戦敗者日本人」へ倍加され、ここに、三万人の死者を出した北鮮の大悲劇が惹起されたのである。


11.朝鮮総督府の資料によると日本に移民した朝鮮人は朝鮮人ではなくタタール人だそうで、その殺生を好む性質から高麗時代に排斥され、白丁という最下層の身分に置かれたそうです。日本政府が朝鮮人ではなく、祖国ですら法で保護していない人種・民族を法で保護する理由は何でしょうか?


出典:1926(大正15)年 朝鮮総督府 村山智順 「朝鮮の群衆」 第四章 階級争議にあらはれた群衆



 階級争議群衆を観察する順序として、常民を白丁との関係を少しく説述する必要がある。

白丁は前にも述べた如く朝鮮旧来の社会階級第四位に居た賤民の一部であって、その歴史は古く明確でないが、その沿革を説くに或(あるい)は高麗時代韃靼(だったん。タタール人)族の一種で水草を逐(お)うて漂泊し来った揚水尺(ヤンスウチョン)と云(い)う種族が、由来殺生をこのみ狩猟を事とし、柳器細工を為(な)し、其の妻女に売春させるという低級な生活をし部民(原文ママ)たので、当時仏教国民であった高麗人から卑められ、到底融合の出来ないところから遂に特殊て居(原文ママ)として取扱われるようになった者であると云い(後略)

【映画「38度線」に登場する親子の売春婦】


12.戦前の司法省調査課が「朝鮮人は残虐」と言っていますが、そういう民族にヘイトスピーチ解消法という武器を与えてしまったことを危険とは思わないのですか?


出典:1927(昭和2)年 司法省調査課 「報告書集 10」 内地に於ける朝鮮人と其犯罪に就て



 北鮮は扶余女真等の人種混し居り頑強にして争闘を好み且つ残忍性を帯ぶとせられ南鮮殊に三南地方は文化的で平和を愛するが利を好み残忍であると言わる。
 

13.戦前の内務省保安課の資料によると、在日朝鮮人はその反戦運動の一環として「戦争の悲しみを教える」ため、日本軍人の妻や娘をに強姦し続けるという事件を起こしていました。ヘイトスピーチ解消法成立以降、共産主義思想を抱く朝鮮人によって自衛隊員の妻子が危険な目にあうことは考えられませんか?もし万一のことが起きた場合、日本政府は神奈川県警のように「日本国民の世論だから」で片づけるのでしょうか?そして「朝鮮人は弁説に長じ且(か)つ他人の歓心を買うことに巧み」だそうですが、現在の日本の政治家も朝鮮人側に取り込まれたのでしょうか?


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A05020256900:昭和14年7月 内務省保安課 「内鮮警察参考資料」 57ページ 第四、朝鮮人の不良行為



 内地(管理人注:日本国内)在住朝鮮人の借地借家紛争等も其(そ)の多くは不良行為に属するものなれども、玆(ここ)に特に朝鮮人の不良行為として掲(かか)ぐるは、不良朝鮮人の内地婦人(管理人注:日本人女性)に対する忌(いま)わしき行為にして、之(これ)は最も内地人(管理人注:日本人)の感情を刺戟し、治安上にも将(まさに)又(また)風教上にも重大なる影響を及ぼすものにして厳に取締を要する次第なり。

 而(しか)して(そして)之等(これら)不良朝鮮人は自己を資産家たる如く吹聴し、或(あるい)は内地人たるの如く装う等凡有(ありとあらゆる)甘言を以(もっ)て内地婦人に接近し、之を籠絡(管理人注:ろうらく:我が手の中にまるめこむこと)自己の獣欲を満(みた)さんとする者にして、斯(かか)る不良の徒輩の毒牙に罹(かか)り悲惨なる境遇に呻吟しつつある内地婦人は極めて多し。

勿論(もちろん)斯(かか)る不良朝鮮人の跳梁は内地婦人にして彼等(かれら)に乗ぜらるる間際を与うるにも依れど、抑々朝鮮人は弁説に長じ且(か)つ他人の歓心を買うことに巧(たく)みにして、一つの民族的特性とも称せられ不要(用)意の内地婦人は知らず知らずの内に彼等の甘言に惑わされ不幸を招くものなり。

而(しか)して(そして)之等(これら)不良行為にして警察に於て察知せるもののみにても、次の如く多数に達し居る次第にして警察の察知し得ざるものは夥(おびた)だしき数に上るべし。

尚(なお)朝鮮人の之等(これら)不良行為にして特に厳戒を要すべきは出征遺家族の婦女子に対するものにして、彼等は巧みに同情的仮面を被り甘言を以て之等の婦女子に接近し、一度毒牙に罹(か)けんが以後は之等婦女子の世間態(体)を恥じての弱点を利用し、不倫行為の継続を強要するものにして銃後治安保持の上よりするも、将(まさに)又(また)出征者及(および)其の家族の名誉保持の上よりするも断じて許容すべきに非ず(管理人注:許容してはならない)。

いま斯(かか)る行為の特に悪質と認めらるものを列挙すれば次の如し。


14.日本敗戦後、在鮮日本人は「日本に帰れば安全」と思い、動かぬ身体を引きずるようにして「祖国に帰りたい」一心で日本をめざしました。ヘイトスピーチ解消法成立で日本政府は日本人を自国にいても危険な状態に陥らせたのですが、その意図はどういうものですか?ヘイトスピーチ解消法はなぜ、祖国に帰りたくなく、また日本人蔑視から帰化もしない外国人を保護するのでしょうか?太平洋戦争でアメリカ軍が叫んでいた「日本人を世界から抹殺しろ!」を実行しているのですか?


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収 元朝日新聞社会部長 木下宗一 「三十八度線に立ちて」



不良朝鮮人の横行

 夜を日についで鴨緑江を南下する避難列車 ─── それが京城の朝鮮軍司令部から南下を拒否されると、丁度(ちょうど)、山を下る奔流がセキに止められて平地に氾濫するように平壌以北の諸都市にあふれ満ちて、黄海道二万八千、平安北道三万四千、平安南道五万六千、咸鏡北道八万五千、咸鏡南道七万九千、江原道二万三千といった風にざっと三十万五千。

 それと北鮮に駐屯した百八方面軍が十三万六千三百、それに在住日本人を合せると、ざっと五十万人が北鮮にあふれていたことになる。

 北鮮の悲劇は、ソ連軍の進駐から始まる。満洲爆撃とともに西蒙古に待機していた機械化部隊が西から朝鮮北境に進入して来た。百八方面軍はこれを迎え撃って、咸鏡北道から南道にかけて激戦が展開された。

 過去三十七年間、営々として築き上げた家産をすて、リュックサック一つを生命として日本人は険しい山を越えて南下した。

「日本敗る」と知った不良朝鮮人は、この山越えの南下部隊をのがしはしなかった。関所、関所の山賊朝鮮人に、すっかり絞め上げられた避難民は、平壌への道の半分にも辿(たど)りつかぬうちに無一物になっていた。

 リュックサックにシャツ一枚でも入っているうちはまだよかった。最後の一枚まで献納して関所を越えて行ったが、若い女子部隊には山賊の眼が異様に光った。手をしっかとつなぎ合い、男子がその前後を守って行くが、草をかんで歩き呆(ほう)けた身体は、男といえども子供ほどの力も出ない。残忍冷酷にただ泣いて「敗れた者の宿命」にもだえるばかりである。

 地獄のような暑さだが、山の色は日本とそっくり、松の梢(こずえ)にはきょうも蝉が鳴いている。

「まあいいよ。日本に帰れさえすりぁ、こんな蝉の鳴いている田舎の家で芋でも作って暮そうよ」

 げっそりとやせ衰えた老爺が、慰めとも励ましともつかぬひとり言。一服するタバコもみんな取り上げられて、松葉をかむ唇の青さ。

 北鮮に生れてまだ日本の国を知らぬ娘部隊は、もう一枚のハンカチさえ持たぬ流浪者なのに「日本」と聞くと、一里も歩けぬ身体も忘れて、

「さア行きましょう、歩きましょう」

 と立ち上る。敗れた者の劣等感を、早く日本にたどりついて清めてしまいたいのである。


15.「昔のことを蒸し返してもしかたない」とおっしゃるかも知れませんが、今現在この日本には朝鮮で家族を殺された日本人が大勢います。日本政府はヘイトスピーチ解消法成立で朝鮮人に肩入れしたわけですが、朝鮮で家族を殺された日本人にはどう対応されるのですか?何も言わなければなかったことになるからですか?ヘイトスピーチ解消法によって日本国内という密室において本当の日本人差別・弾圧が実現しそうですが、ヘイトスピーチ解消法成立の目的はそれが目的だったのではないでしょうか?

五木先生は左傾していらっしゃいますが、藤原先生は御母堂の藤原ていさんが命がけで守ったお子さんだそうです


出典:2007(平成19)年 文藝春秋 「文藝春秋」5月号所収 
   五木寛之/藤原正彦 「わが引揚げ体験と昭和の歌」



歌謡曲が教えてくれる庶民の心

五木 言葉になったものが歴史になるわけですが、言葉にならないものも多いのです。

先ほど三十八度線を突破したときの話をしましたが、ついに書けなかった話もあります。私たちは外出禁止令が出ているなか、平壌からトラックを買収して三十八度線を目指したのですが、一回目の脱出は失敗しました。ブローカーに騙されて平壌周辺をぐるぐると回っただけでした。

 そして二回目の脱出行で、平壌と三十八度線の中間にあった紗里院(さりいん)のガードポイントをトラックで突破するときでした。それまで何度も止められましたが、そのたびに時計や万年筆などの貴重品を渡して、見逃してもらっていました。それがここでは女を出せと言われた。これは本当に困りましたね。

 若い娘はまずい、子持ちはだめ、あまり年上でもよくないということで、結局は元芸者さんなど水商売をしていた女性や、夫や子どもを失った未亡人に、みんなの視線が自然と集中するのです。そのうちリーダー役の人物が土下座して、「みんなのためだ、行ってくれ」と頼んだ。みんなから射すくめられるように見られるのですから、その女性は出て行かざるをえません。そうやって女性を送り出していった側の人間が生きのびて帰ってきたわけですから。

(中略)

藤原 女性たちを要求するのはソ連兵ですか。それとも中国や朝鮮の人々も同じことをしたのでしょうか。

五木 ソ連兵だけではありませんでした。

 日本へ引き揚げてきたら、港に婦人調査部というものがありました。私は博多に上陸したのですが、長崎にも佐世保にも敦賀にもあった。そこで十五、六歳以上から五十歳すぎの女性は一応みんなが検査を受けて、性病に感染していないか、妊娠していないか調べられたのです。

 当時は「不法妊娠」という言葉を使ったのですが、そうした状態の女性は手術を受けた。福岡の場合ですと、軍の保養所だった建物へトラックで運ばれて、麻酔なしで手術されたそうです。十五歳の娘さんと五十歳の母親が二人とも「不法妊娠」していた例も聞きました。

藤原 麻酔なしですか。

五木 ええ。数年前に、そのころ日赤の婦長だった方からお話を聞いたのですが、麻酔薬がなかったというのです。それでも一人として泣いたり叫んだりした人はいなかったと、その方は話していました。

16.戦前アメリカでは、日系アメリカ人を弾圧・排除するため多数の排日法が成立しました。そして日系アメリカ人はアメリカの共産主義者によって強制収容され、虐待、虐殺されました。こういうふうに本当の差別、弾圧の被害者はその存在も死すらも抹殺されたのですが、在日朝鮮人に日本の国会議員が動かされてヘイトスピーチ解消法が成立したことは、日本において在日朝鮮人への差別はないという証明となり、ヘイトスピーチ解消法と現実は著しく乖離、矛盾していると思いませんか?在日外国人の要求に日本国がこたえているのに「差別」が成立するのですか?


出典:1943(昭和18)年 大日本産業報国会編 「鬼畜米英罪悪集」



・日米開戦の当日、日本人一斉検挙(サンフランシスコ)

・日本人追放令が公布され、日本人3万余人がロッキー山麓の不毛地「死の谷」に強制収容(西部太平洋岸)

・日本人をアリゾナの砂漠地帯に追放(ロスアンゼルス)

・日本人収容所の周囲には二重、三重の鉄条網が張られ、武器を持った見張りが立つ(全米の日本人収容所)

・1942(昭和17)年6月第一次交換船出発までに悶死、病死、射殺された日本人十数名、サンペトロ在住25年の本多医学博士は邦人待遇改善を申し出て虐待され死亡(サンペトロ収容所)

・垣根に足をかけただけの日本人を射殺(オクラホマ州の収容所)

・重病の妻を介抱する夫を強制収容

・強制収容した日本人に星条旗への敬礼を強要

・日本のスパイの巨魁という理由をつけて日本人を逮捕

・毎夜、収容所の点検をして日本人収容者を睡眠不足にさせ、神経衰弱患者が続出

・在留日本人数百名がサンド島に監禁され強制労働させられる(ハワイ)

・ガン患者などの重病を患う日本人から強制収容して故意に死亡させる(ロスアンゼルス)

・高齢の日本人収容者に零下20度の中、破れた夏服のまま、屋外に食事に行かせる(ミゾラ抑留所)

・定員2名の地下留置場に十数名が押しこまれ、トイレに行くことすら禁止される(ロスアンゼルス警察署)

・ソロモン海戦で日本が勝利すると日本人収容者に言語に絶する虐待を加えた。その知らせを聞いた収容者が強制労働をボイコットするとアメリカ当局は軍隊を出動させ、全員刑務所に監禁した(アリゾナ州強制労働農園)

・日本人男女を丸ハダカにして身体検査(交換船が出航する港)



実際、ヘイトスピーチ解消法成立によって日本人は著しく自国において差別されている、と感じたので国会議員や自民党、日本政府に抗議しているのです。

そういう国民感情も感じ取れない議員、政党、政府は必要ありません。

次の選挙では自民党への投票を考えたいと思います。

自民党にしても反知性的な支持者は不要でしょうから。


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