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2016/05/06

報ステ「9条は幣原提案」報道に疑念あり


5月3日の報道ステーションで「憲法9条は幣原(しではら)首相が提案した!」と報道していました。

しかし外交評論家の加瀬英明氏の著書によれば、昭和20年1月24日に幣原首相がマッカーサーに面会したのは事実ですが、その時にマッカーサーから戦争放棄を切りだした、とあります。

さらに加瀬英明氏の著書には、「幣原も何人かの親しい友人にはマッカーサーから切り出されたものだと語っている」とあるので、テレビ朝日はまた事実とは逆のことを報道したのでしょうか?


占領軍は日本占領後すぐに昭和天皇の御料馬「初霜」を強奪して、見せ物としてアメリカ映画に出演させたような連中です。

「天皇制を維持」したかった幣原首相が、そんな連中に「お願い」などするでしょうか?その頭目が「涙を目にいっぱいためていた」だなんて韓国ドラマのようなシーンは考えられません。


「初霜」の写真を見つけられなかったので、同じ御料馬の「白雪」の写真です↓

【参考:昭和天皇の御料馬「白雪」】
御料馬白雪1☞紀元二千六百年記念観兵式(昭和15)年。


それに憲法9条を提案したのは誰か?という議論は昭和30年代か40年代にすでになされたことで、その時「幣原首相」の名前も取り沙汰されました。

それを確証とは言い難いまた聞き証言ノートを根拠に「9条を提案したのは幣原首相だった!」とあたかも事実のように報道したのは捏造にあたると思います。


【韓国ドラマかよ?許しを乞うたら相手が涙を目にいっぱいためてたwww】

憲法9条“発案者”の思い
2016年5月3日 テレビ朝日 報道ステーション

70年前、GHQ占領下で制定された日本国憲法。“戦争放棄”を掲げた憲法9条は、GHQのマッカーサー最高司令官の案だったという見方がある一方で、当時の幣原喜重郎総理は「私が発案者だ」と語っていた。過去のさまざまな資料をひも解き、その真相を探った。

1945年10月9日、幣原は73歳にして総理に就任した。1946年1月24日、幣原はGHQ本部のマッカーサーの元を訪ねる。外交官出身で英語が堪能だった幣原は、この日、3時間にわたってマッカーサーと2人きりで会談した。我々は、当時の会談内容を詳細に書き記した1冊のノートを見つけた。幣原と寝食を共にしていた盟友・大平駒槌が幣原から直接聞いた話を、その娘に書き取らせたものだ。ノートによると、この日、珍しく幣原から話を切り出し「自分は生きている間にどうしても天皇制を維持したいと考えているが、協力してくれますか」とマッカーサーに要望したという。これに対し、マッカーサーは「占領するにあたり一発の銃声もなく、一滴の血も流さず進駐できた(←ウソ。米軍進駐前に厚木航空隊の反乱、宇垣軍団最後の特攻、館山に上陸した占領軍部隊が軍政を布いた事件などがあった)のは天皇の力によることが大きいと深く感じているので、私は天皇制を維持させることに協力し、努力したいと考えている」と答えた。天皇の戦争責任を問う声が出ているなか、幣原の話を熱心に聞くマッカーサーの姿を見て幣原は「戦争を世界中がしなくなるようになるには、戦争を放棄するということ以外にないと考える」と述べた。さらに「世界から信用をなくしてしまった日本(←ウソ。日本を敵としたのは共産主義国とユダヤ人が多かった国)にとって、戦争を放棄するというようなことを、はっきりと世界に声明すること。それだけが日本を信用してもらえる唯一の誇りとなることではないか」と続けたという。これを聞いたマッカーサーは「その通り」と応じ、急に立ち上がって両手を握り、涙を目にいっぱいためていたと、ノートに書かれている。幣原自らが“天皇制維持”を要望し、“戦争放棄”を提案した。(←ウソ。自衛できない国は独立国ではないため天皇制は維持できない。日韓併合後の朝鮮のように)これはどういう意味なのか。幣原が亡くなる直前に、衆院議員だった平野三郎が幣原から直接聞いた証言が残されていた。それによると、幣原は「僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。この2つ(戦争放棄と天皇制)は密接に絡み合っていた。オーストラリアやニュージーランドなどは日本を極度に恐れていた。日本人は天皇のためなら平気で死んでいく。恐るべきは皇軍である。この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを考えたわけである。国体に触れることだから、仮にも日本側から口にすることはできなかった。僕はマッカーサーに進言し、命令として出してもらうよう決心した」と話したという。


「憲法9条は幣原首相が提案した」に違和感を感じた3つの理由

まず第一に、報道ステーションが「大東亜戦争は日本の侵略戦争」という前提で報道したことにあると思います。

だから、

天皇制=戦争

という共産主義的構図で制作された番組だったので、違和感を感じたのです。

日本とアメリカの戦争は経済戦でした。もちろん仕掛けてきたのはアメリカです。


【戦争の三形態】

1 経済戦 ← アメリカとの戦争 

2 武力戦

3 思想戦 ← ソ連、中国との戦争




第二に「日本と外国の"平和"の観念はちがう」ということです。

日本人が考える"平和"は隣組精神で「みんな仲よく、和が大事」といったところですが、外国の"平和"とは「自国の権益が誰にも侵害されないこと」なのですね。

だからアメリカは憲法9条を日本に強要して、自国の権益が二度と侵害されないようにしたのです。

イギリスの極東委員会委員が極東裁判でわめきまくった「将来の平和のために日本の造船技術を枯らしてしまえ!」という主張が、外国特に欧米諸国にとっての"平和"をよく表しています↓


 終戦直後、蒋介石は、戦利品として神戸の神戸の川崎造船所を要求した。その小型艦船の建造施設を狙ったのか、あるいはその得意の機関製作部門に着眼したのか、内容は聞きもらしたが、とにかく彼の目は高かった。

 もう一つ、さらに先を見た国があった。イギリスである。イギリスは日本の造船業を全面的に制限することを力説した。理由は堂々たるものであった。戦利品勘定ではない。第一次世界大戦後のベルサイユ条約の失敗に鑑み、日本の報復再軍備の芽を摘みとっておく、というのだ。造船はすなわち造艦の温床である。侵略野望の実行は、海国の場合には海軍が先鋒に立つものだ、故に艦船の建造を長期間制限して.その能力を枯らしてしまえば、日本が再び侵略戦争を挑むことは出来ない。だから、造船の制限または禁止は、「財閥解体」なぞよりもはるかに将来の平和を保障するゆえんである ─── と主張した。

【出典】1988(昭和63)年 文藝春秋 「『文藝春秋』にみる昭和史」第二巻所収 伊藤正徳「大海軍の遺産」


そして第三には、悪らつなアメリカ軍に幣原首相が「戦争放棄するから天皇制を維持してほしい」などとお願いするはずがないし、出来もしなかったということです。

特にアメリカはこの地球上で一番日本人を殺した国です。東京大空襲では昭和天皇の母宮の頭上に焼夷弾を落とし、旧皇居を全焼させました。

その他にも、条約・国際法は白人にのみ適用されると言わんばかりに

病院船、野戦病院を爆撃
日本の民間船撃沈
フィリピンで日本人を虐殺
アメリカ国内で不敬マンガを新聞にのせる
日本兵の骨でペーパーナイフを作りルーズベルトにプレゼント
原爆投下

などなどの日本人民族抹殺政策(ジェノサイド)を実行しました。

幣原首相も政治家だったのですから、アメリカはどんなに抗議しても条約も法も守らない国ということは知っていたと思います。幣原首相はアメリカの排日問題にも取り組んでいましたからね。

日米戦争の原因が「経済」だったこともあって、GHQは日本に乗りこんできてからはますますそのハゲタカぶりを発揮しました。

日本人がこういう傍若無人な人種に「もうあなたの命を狙わないから助けて!」と言ってすがると思いますか?


【日本の銀塊を持ち出す米軍】
銀塊を持ち出す米軍1946

GHQの中にも共産分子はいましたが、ソ連や中国とはちがって「天皇制廃止」はあとまわしで「賠償」を名目に日本の資産を強奪しまくりました。

残っていた艦船、飛行機、武器はその設計図まで丸ごと略奪され、会社、金銀も強奪されたので、こんな状態で皇室を守れるだろうか?と逆に不安になってしまうレベルでした↓

憲法制定までのGHQの日本占領政策
永年の野望だった日本経済強奪&共産主義で皇室の権威を踏みにじる

年月日出 来 事
1945年
(昭和20年)
8月30日
マッカーサー厚木到着

9月11日
東條英機以下38名戦犯として逮捕指令

9月26日
マ司令部、十一宮家に皇籍離脱を指令

9月27日
昭和天皇、マッカーサーを御訪問

9月29日
昭和天皇とマッカーサーの写真掲載の各紙に山崎内相が
発禁を命令

10月4日
マ司令部山崎内相の罷免を指令し、いわゆる
「自由の指令」を発す

10月5日
久邇宮内閣総辞職

10月9日
幣原内閣成立

10月10日
マ司令部、共産党徳田球一、志賀義雄釈放

10月11日
男女同権、労働組合結成、経済民主化等五大改革の指令、
憲法改正示唆
幣原首相に対しマ司令部憲法改正の示唆

10月12日
治安維持法廃止
幣原首相閣議でマ司令部を必ずしも憲法改正を要求せずと
発表

11月6日
財閥解体案承認

11月18日
民間航空の禁止、航空学の研究実験の禁止

11月22日
第一次農地改革案閣議決定

12月2日
マ司令部が日本政府に対し皇族を含めた各界59人の逮捕
を指令、梨本宮守正王が逮捕され、巣鴨拘置所に大きな
風呂敷包みを持って入って行く守正王の写真が報道される

12月8日
松本国務相憲法改正の四原則発表

12月9日
土地改革の指令

12月11日
336社の資産凍結指令

12月15日
神道禁止指令、婦人参政権、新選挙法成立

12月28日
マ司令部、天皇制強権支配の諸条件の基礎喪失を声明

月日不明
進駐軍一尉官が昭和天皇の御料馬「初霜」を強奪、米国に
送る
1946年
(昭和21)年
1月1日
元旦の詔書渙発(かんぱつ)(いわゆる「人間宣言」)

1月4日
政府憲法改正松本案脱稿
軍国主義者の公職追放、極端な国家主義団体解散の指令

1月22日
航空機工場その他400施設を賠償用に接収指令

1月24日
2016(平成28)年5月3日
テレビ朝日報道ステーションが
「この日幣原首相がマッカーサーに9条を提案した」と報道

1月31日
マ司令部憲法改正に関し声明

2月1日
政府憲法改正案をマ司令部に提出

2月2日
マ司令部松本案を拒否

2月3日
マッカーサー憲法改正三原則を示してホイットニーに
改正案作製を命令

2月9日
文部省が紀元節について通達
外電が「天皇の馬初霜がコロムビア映画でリタ・ヘイワー
ス、W・ハルゼー提督と共演」と報道

2月10日
マ司令部民政局憲法草案脱稿

2月13日
アメリカ2月12日エイブラハム・リンカーン誕生日
マ司令部憲法改正草案を日本政府に手渡す

2月14日
マ司令部100トン以上の造船の許可制限指令

2月21日
アメリカ2月22日ジョージ・ワシントン誕生日
幣原首相マッカーサーに会見、象徴天皇、戦争放棄確認

2月26日
極東委員会成立

3月2日
マ司令部、政府に憲法改正案の提出を督促

3月4日
政府憲法改正案をマ司令部に提出

3月5日
憲法改正会議の詔書渙発

3月6日
政府憲法改正案要綱発表
マッカーサー改正案支持の声明

3月16日
七大持株会社資産凍結令指令

3月20日
極東委員会日本国憲法草案を承認
4月29日天長節
外交官、外務大臣を勤めた重光葵が戦犯としてMPに連行され

5月12日
食糧メーデー。日本共産党、在日朝鮮人、煽動された市民らが
皇居に乱入。共産党が掲げていた不敬プラカードを日本政府が
問題視するもマ司令部が不敬罪を廃止
1948年
(昭和23年)
1月
アメリカ陸軍長官「日本を共産主義に対する防壁とせよ」
と講演
1949年
(昭和24年)
7月4日
アメリカ独立記念日
マッカーサー「日本は共産主義の世界侵略に対する防壁
である」
と談話発表
1950年
(昭和25年)
1月1日
マッカーサー「日本国憲法は日本国の自己防衛の権利を
否定しない」という声明
発表
1951年
(昭和26年)
3月2日
幣原喜重郎が回想録「外交五十年」上梓
「引続き現在に至るまで、公人生活を続けているが回顧談と
しては余りに生々しいので、それは後の機会に譲ることとし、
以下本文に漏れた数篇を、余談として追加する。」と結ぶ

3月10日
幣原喜重郎、狭心症のため急逝

6月25日
朝鮮戦争勃発

7月8日
マッカーサーが吉田首相にあて「日本警察力増強に関する
書簡(マッカーサー書簡)」
を送る。「日本政府に対し人員
7万5000人からなる国家警察予備隊を設立し、現在海上
保安庁にある人員をさらに8000人増加する権限を認める」

その結果、予備隊創設は国会を経ず、ポツダム政令によって
制定された。
1954年
(昭和29年)
7月1日
陸・海・空の3自衛隊が発足。


日本上陸からわずか9ヶ月でこの暴虐ぶりですからね。お願いなどできるはずがありません。当時の日本人はビクビクと大虐殺魔米軍の顔色をうかがいながら生きていた、それが真実です。

それに日本人は朝鮮人とはちがって米軍を正義なぞとはカケラも思っていませんし、許しを乞うその代償として自ら武装解除するなどという事大主義でもありません。

アメリカは日本が二度と外国の権益を侵害しないよう、日本人を日本に閉じこめておくために「憲法9条」を強要したのです。

枕を高くしてグッスリ眠れるように。
加瀬英明氏
「幣原も何人かの親しい友人にはマッカーサーから切り出されたものだと語っている」
「ケーディス大佐らもマッカーサーが押しつけたものだと証言している」


出典:1976(昭和51)年 新潮社 加瀬英明 「天皇家の戦い」 



 「天皇之ヲ統治ス」

 それでも、デモ隊の先頭が官邸前に到着したころに散会した調査会のメンバーたちは、まったく知らなかったが、二日前に幣原が総司令部でマッカーサーと会った時に、老首相はマッカーサーから、新しい憲法のなかに戦争と軍備を放棄する条項を入れることを強いられていた。

 幣原は年末から風邪をこじらせて、寝込んでしまったが、当時は珍しいペニシリンを貰ったために全快したので、お礼をいいに行ったのだった。そして、そのかわりに、たいへんなものを貰ってきてしまったのである。もっとも、マッカーサーは死ぬまで、「戦争放棄条項」が、幣原によって突然いいだされ、自分が賛成したといい張り、幣原も何人かの親しい友人にはマッカーサーから切り出されたものだと語っているものの、公的には最後まで自分からマッカーサーに対して提案したと主張している。

 これは、大きな謎となっているが、事実はマッカーサーが幣原に押しつけたものであっただろう。直接の担当部局であった民政局次長のチャールズ・ケーディス大佐をはじめ、総司令部側で憲法改定作業に従った幹部たちのなかには、そう証言するものが少なくない。しかし、幣原が押しつけられた、というと、正しくないかもしれない。幣原は自由主義者(リベラル)であったが、あの時代に生れて、育った者の多くのように、熱烈な尊皇主義者であった。

(中略)

 一月二十四日に、マッカーサーは総司令部の六階にある自分の執務室で、幣原と会った。あまり大きくない部屋で、壁が草色に塗られ、隅にはコーンパイプが五十本ほど置かれている小さなテーブルと「二人の相談相手」であるリンカーンとワシントンの胸像が飾られた書棚があった。

 ここで幣原は、マッカーサーから憲法に「戦争放棄」の条項を入れるべきことを、はじめてきかされたのである。



ダメ押し資料にどうぞ↓

重光葵氏
「占領政策は極めて厳粛なものであり弁明や拝み倒しはきかない」
「GHQは国民には寛大であり、政府には厳重な態度であった」
「幣原さんは憲法の改正は必要ないという英国流の議論を持っていた」
「占領軍の目的は次々に内閣を取り替えて米国の意のままになる新日本指導層を創造するにある」
「左傾分子が多い占領軍は幣原内閣ごときにもう用はないと示した」
「自衛できない国は独立国ではない」
「占領軍は天長節に私を逮捕した」


出典:1986(昭和61)年 中央公論社 重光葵 「重光葵手記」 
      戦争を後にして



 帝国ホテルの暁夢

 占領軍の占領政策は其の本質に於て極めて厳粛なものであることは、已(すで)に充分感得せられた処であった。弁明や拝み倒しでどうにもなるものでない。横浜に於ても東京に於ても所用〔要〕の家屋を用捨〔容赦〕なく徴発し始めた。戦後家屋払底の際水洗便所の設備ある家屋は殆(ほと)んど片っ端から徴発し、其の事務所又は兵舎用として大建築を指定し始めた。本郷帝大の建物全部及大蔵省の半成の新築も指定されて、大問題を起した。帝大一帯の建物は漸く用捨して貰ったが、大蔵省は遂に徴発されて、記者(管理人注:重光葵本人)は大蔵大臣から外交無能を呼(よば)はれたりした。

(中略)

 米国の日本向けラジオ放送は尚戦時の放送振りを改めず、天皇以下日本の指導者を攻撃し、特に俘虜の虐待振(ぶり)を高調して、日本人を悪魔の如き残虐非道の人種であると連日宣伝した。

 マッカーサーは東洋人統御の方法は寛厳二方面を併用すると云ふのであって、左の手で寛〔緩〕和策を講ずると共に右の手は苛赦〔ママ〕なく厳格にやると云ふことである。国民一般には寛大さを示し、政府に対しては厳重の態度を以て接すると云ふのであって、決して其の態度は決して阿諛(あゆ:おもねりへつらうこと)陳弁(ちんべん:事情を述べて弁解すること)の媚態追従によって寛〔緩〕和するものではない。

 夕陽楼之落暉

           一

 幣原氏は元来民主々義は明治憲法の運用によって実現し得るのであるから、憲法の改正〔は〕必要でないと云ふ英国流の議論を持って居たとの事であるが、マック司令官の要請に従って直に新憲法の起草に着手し、国務大臣松本〔蒸治〕博士を中心に研究を開始した。

(中略)

 新憲法の骨子は、明治憲法の重点であった天皇の大権を排して主権在民の民主々義の根本義を明確に規定した点であって、天皇は単に日本国の象徴(シムボル)であって、政治上の権力も責任もないことが明記された。更に政策遂行の為(た)めに戦争手段に訴へざる(訴えない)こと、之がために軍備を有(も)たぬことをも規定した。満洲事変以来の日本の政策の繰返さるる源を根絶せんと企図したものであって、云はば羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹いた形である。蓋し国防力なき国家は真の独立国ではないからである。 

 占領治下に於て幾多の行き過ぎを阻止することは容易のことではない。多分に左傾分子を含んだ占領軍は恐らく幣原内閣にも満足せぬ様になり、次ぎ次ぎと内閣を取り替へて彼等(かれら)の考案する理想的民主々義を占領地日本に於て試験することとなろう。此の形勢が如何に日本人の愛国精神と調和されるかの点が将来の占領政策の成否の分るる処である。
 

昭和二十一・1946年

           三

 四日には新年の爆弾が飛んだ。マック司令官の初指令は厳しい。此の爆弾指令は日本の戦争に関係した旧時代の人物及組織を一掃し、新時代を専ら新人に委ねて日本を再教育せんとする目的を以〔持っ〕て居るものであって、記者(管理人注:重光葵本人)が東久邇内閣時代に日本自ら着手すべきであると主張した趣旨のものであった。政界、財界其の他の指導者階級を全面的に公職より追放し、且つ将来公職に就くことを得ざらしむる(できなくする)もので、其の数は軍人のみで十数万に達すと云(い)われている。

 米国の意向は玆(ここ)に於て極めて明瞭となった。旧時代の封殺と米国の意の儘(まま)になる新日本指導層の創造とにある。皇室の存否素より之(これ)によって割り出される。幣原内閣の如きは素より問題ではない。赤の勢力の強いと云はれる占領軍司令部には臨時議会後は現内閣に用事のない事を暗示した訳である。

自民党1


 天長節 昭和二十一年四月廿九日

 間もなくけたたましく玄関を叩くものがある。自分が自ら玄関に出て戸を開けると、其処(そこ)には前に来訪した若い検事と雲をも握む〔衝く〕様な大兵はMPの将校とが立って居る。自分は静かに彼等を奥に招じた。七尺計(ばか)りのMP将校は身分証を見せて、「命令によって自分を逮捕するものである」ことを告げて、直(すぐ)に同行を要求した。自分は敢て理由をも質さなかった。




【出典】
アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06031073500:昭和15年10月30日 内閣情報部 「写真週報 140号」
・1951(昭和26)年 読売新聞社 幣原喜重郎 「外交五十年」


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