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2016/05/02

朝鮮人の子は二日市保養所の桜の下に葬られた


韓国が桜の起源を主張していますが、二日市保養所の桜の木の下には日本人女性が朝鮮人にレイプされてできた子どもが葬られているそうです。

日本終戦と同時に中国大陸と朝鮮半島では日本人に対するヘイトが行われ、多くの日本人女性たちもその被害者となりました。

朝鮮人、中国人、ソ連人に強姦された女性たちは、引揚げ船が博多に到着すると
上陸前に堕胎手術の案内がなされ、二日市保養所で麻酔なしの手術を受けました。

被害女性たちの年齢は15、6歳から50歳までにわたり、日本人女性が手当たり次第に暴行されていた様子がうかがわれます。

そして、堕胎児は二日市保養所の桜の木の下に葬られたそうです。

今度「桜はウリナラ起源」と有頂天になっている朝鮮人を見かけたら、「桜の木の下には…」と教えてあげるのもいいですね。

教えないで冷笑するのもいいですね。


二日市保養所
写真上部に写っている木の葉は桜のようである。
二日市保養所1


【ソウルや鎮南で桜祭りとかやってるバ韓国 桜の苗木は在日が贈った】

36万本が咲き乱れ…軍港・鎮海の桜に秘められた日韓110年の歴史を紐解いた
2016年5月1日 YAHOO! ニュース

日本の桜前線は北海道まで北上し、今年の桜も閉幕を迎えつつある。昔から日本で“花は桜木”といわれてきたように「桜=日本の花」のイメージが強いが、実は、お隣の韓国でも桜を十分に堪能できる。日本的なモノには極めて敏感な韓国でなぜ桜が多いのか。素朴な疑問を抱いて、韓国最大の桜の街、鎮海(チネ)を訪ねた。(鎮海 藤本欣也、写真も)

(中略)

 軍歌「同期の桜」や特攻兵器「桜花」など、日本の軍隊と桜は切っても切れない関係にある。至る所に桜が植えられている理由が分かったような気がした。しかし-。

 「ええ、日本人が植えたのは事実ですが、解放(終戦)後にそのほとんどが切り倒されたのです」と運転手。ということは、街中の桜は一体、だれが、なぜ?

 鎮海の中心部にある軍港郷土歴史館を訪ねると、「日帝(日本統治)時代に植えられ、解放後に伐採された桜の切り株」が展示されてあった。

 「日本人たちが植えた桜の木は解放後、植民地の残滓(ざんし)を清算するという名分で瞬く間に切り倒された」との説明文が付けられていた。経済難の時代だっただけに、生活の燃料用に使用されたことも多かったようだ。

 だが、今の桜は誰が、どういう経緯で植えたのかが分からない。地元紙、嶺南日報の記事に手がかりがあった。

 「1966~80年代中盤、在日同胞と日本人たちが桜の苗木約6万株を鎮海へ寄贈した」(2012年8月31日、電子版)

(中略)

 そうはいっても、「日本的なモノ」として一度伐採した桜が再び植樹されることに、住民たちの抵抗はなかったのだろうか。

 鎮海の歴史に詳しい、鎮海近代文化遺産保全会の元事務局長、崔(チェ)ハクジュン氏(64)に話を聞いた。

 --鎮海の桜は日本人が植えたのが始まりだそうですね

 「はい、1910年から25年までの間に、都市美化の一環でおよそ11万本の桜が植えられました」

 --戦後、そのほとんどが伐採されてしまったと聞きました

 「日本の支配から解放された後、桜は日本の花だということで伐採されるようになり、消滅の危機に直面したのです」

 --それを救ったのが在日韓国人たちの植樹運動だったのですね

 「在日同胞が桜の苗木を寄贈してくれたのは事実です。それと同時に、韓国の植物学者により、鎮海の桜の原産地は済州(チェジュ)島であることが知られるようになり、桜の植樹が進みました」(後略)


特攻隊と桜の花-画像

韓国は「桜の花は韓国起源」と主張することで、日本人にとって神聖なものを汚しているつもりなのでしょう。

日本にあるものすべて「韓国起源」と言いたいのでしょうが、韓国にあるものは
日本の水準を越えないかそれ以下のものばかりです。


【出撃直前、整備員から桜を贈られる陸軍疾風特攻振武隊員】
機のエンジンをかけるとその振動で操縦席に花びらが舞った。心づくしの桜の枝は前もって操縦席に縛りつけてある場合もあった。
振武隊若桜


【陸軍特攻隊第60振武隊 熊本城の満開の桜とともに】
特攻隊員はまもなく散るわが身と桜を重ね合わせていた。
第60振武隊6


【「人間爆弾」と呼ばれた桜花(おうか)】
機首に桜が描かれている。母機一式陸上攻撃機に吊りさげられ、敵艦上空で切り離されてロケット推進で突進する。だが母機が敵艦隊のはるか手前で撃墜されることが多く、戦果をあげることは極めて困難だった。連合国は桜花を日本語で"Baka Bomb(バカ爆弾)"と呼んだ。海軍機。
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【一式陸攻に吊りさげられた桜花 鹿屋基地】
日本人はキレイだから桜の花を愛するのではない。日本人と気性が同じだから桜を愛する。たおやかでありながら桜は散る時がくるまで絶対に散らない。そして散る時来たらばいさぎよく散る。いっせいに咲き、いっせいに散る。まさに"日本人"である。
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【出撃する「桜花」】
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日本人女性を暴行したのはソ連兵だけではない
処理された堕胎児は二日市保養所の桜の木の下に葬られた

戦前日本には堕胎罪があったので、暴行被害女性の妊娠を「不法妊娠」と呼ぶことで堕胎手術は黙認されました。

ある宮様も二日市保養所をお見舞いになっているそうです。


出典:2007(平成19)年 文藝春秋 「文藝春秋」5月号所収 
   五木寛之/藤原正彦 「わが引揚げ体験と昭和の歌」



 歌謡曲が教えてくれる庶民の心

五木 言葉になったものが歴史になるわけですが、言葉にならないものも多いのです。

先ほど三十八度線を突破したときの話をしましたが、ついに書けなかった話もあります。私たちは外出禁止令が出ているなか、平壌からトラックを買収して三十八度線を目指したのですが、一回目の脱出は失敗しました。ブローカーに騙されて平壌周辺をぐるぐると回っただけでした。

 そして二回目の脱出行で、平壌と三十八度線の中間にあった紗里院(さりいん)のガードポイントをトラックで突破するときでした。それまで何度も止められましたが、そのたびに時計や万年筆などの貴重品を渡して、見逃してもらっていました。それがここでは女を出せと言われた。これは本当に困りましたね。

 若い娘はまずい、子持ちはだめ、あまり年上でもよくないということで、結局は元芸者さんなど水商売をしていた女性や、夫や子どもを失った未亡人に、みんなの視線が自然と集中するのです。そのうちリーダー役の人物が土下座して、「みんなのためだ、行ってくれ」と頼んだ。みんなから射すくめられるように見られるのですから、その女性は出て行かざるをえません。そうやって女性を送り出していった側の人間が生きのびて帰ってきたわけですから。

 
 日本人に対する幻滅がいまも消えない

藤原 この本にも、そこまでは書いていませんね。

五木 ええ、どうもそこまで言えません。さらにひどいことに、女性が明け方、ボロ雑巾のようになって帰ってくると、「ロシア兵から悪い病気をうつされているかもしれないから、あの女の人に近寄っちゃだめよ」と、こっそり子どもに言う母親がいた。本来であれば手をとってお礼を言ってもいいのに、そういうことを言って蔑んだ目で見る。戻ってきた女性の周囲には誰も近寄らないのです。私は自分も日本人でありながら、日本人に対する幻滅が強く湧いて、いまも後遺症が消えません。

藤原 なんとも言えませんね。

五木 その女性たちはいわば特攻隊員ですから。自分から飛行機に乗って死んで行った若い人たちの話にも感動しますが、嫌がるのを無理やり周囲から押し出され、泣き泣き出て行った人も特攻隊員、壮絶なものです。

 私が自分の引揚げ体験をミステリー以外、小説に書いたことがほとんどないのは、こうした話を書いて、「いい作品ができた」などと周囲に言われたら死んでも死にきれないし、女性たちにも申し訳ないから。

藤原 女性たちを要求するのはソ連兵ですか。それとも中国や朝鮮の人々も同じことをしたのでしょうか。

五木 ソ連兵だけではありませんでした。

 日本へ引き揚げてきたら、港に婦人調査部というものがありました。私は博多に上陸したのですが、長崎にも佐世保にも敦賀にもあった。そこで十五、六歳以上から五十歳すぎの女性は一応みんなが検査を受けて、性病に感染していないか、妊娠していないか調べられたのです。

 当時は「不法妊娠」という言葉を使ったのですが、そうした状態の女性は手術を受けた。福岡の場合ですと、軍の保養所だった建物へトラックで運ばれて、麻酔なしで手術されたそうです。十五歳の娘さんと五十歳の母親が二人とも「不法妊娠」していた例も聞きました。

藤原 麻酔なしですか。

五木 ええ。数年前に、そのころ日赤の婦長だった方からお話を聞いたのですが、麻酔薬がなかったというのです。それでも一人として泣いたり叫んだりした人はいなかったと、その方は話していました。

 そのころはまだ堕胎罪が厳格で、公式にはそうした手術はできなかった。それでもソウルにあった京城帝大医学部や九州帝大医学部、広島大の学生有志が、違法を承知で手術を引き受けたそうです。そうした活動が始まってからしばらく経ったころ、ある宮様が福岡の施設を訪問したことがあったという。これは違法行為を問うことはないという、当局の暗黙の意思表示だったのでしょう。多くの子どもたちが処理されて、保養所の桜の木の下に埋められたそうです。先年、そこを訪ねたら、老人ホームになっていました。



日本国内にも知れ渡っていた朝鮮人、中国人、ソ連人の日本人女性暴行
博多港で引揚げ援護会が妊娠中絶が簡単にできることを訴える


出典:1993(平成5)年 新評論 佐藤和明 「通化事件」 Ⅲ 引揚げ 



 故国を前に自殺をはかる女たち

 埠頭には六〇〇〇トン級の常陸丸、旧日本海軍の駆逐艦・槇と響が横づけされている。一人一人許可証と照合、旭台と玉花台部隊四〇〇人は槇に乗り込んだ。

 十月一日午後三時出港して、二マイル沖合で碇泊する。ここで初めてマストに日章旗が上がった。懐かしい「きんし五本、歯磨・ブラシ、ちりかみ」が手渡された。人々は船内に用意されたすり切れそうなタブロイド版の内地(管理人注:日本国内)の新聞や雑誌をむさぼるように読んだ。

 十一月四日。「内地だ!」と叫ぶ人々の声。久し振りに見る緑の山々。懐かしい故国の山河。

「その間に検診、DDTの散布、再度の注射、傷ついた義子の足も艦上での乗組員の手厚い医療と、この一週間の処置で大部よくなり、抜糸もすみ、肉も上がり、傷口も塞(ふさが)った様だ」

 上陸したい気持ちを押さえ、こうして一週間の艦上生活が続いた。船の間を縫って、引揚げ援護会の役員がマイクで、妊娠中絶が簡単にできることを訴えている。



京城日本人世話会
1945(昭和20)年12月中旬~翌年3月下旬@釜山
日本人女性の暴行被害者は105名、そのうち性病罹病者39名

在鮮日本人の引揚げは約3年間実施され、朝鮮での行方不明者85230名、病死者、殺害、自殺、中国に強制連行されて行った女性もいることから、日本人女性の暴行被害者の数は相当なものになると推測されます。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史」所収 元京城日本人世話会 森田芳夫 「北鮮の憂愁」



 釜山の港

 東海岸を機帆船で南下した人達にとっては、ここがその受入の第一線であった。その人達は、十二月から三月までに二十七隻、約二千名いる。

 釜山世話会の医療部では、十二月中旬から三月下旬にかけて北鮮からの南下者の婦人について、とくく健康診断をおこなった。暴行被害者一〇五名、その内性病罹病者三九名という報告がされている。





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