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2016/09/29

日本軍の燃料切れと従軍慰安婦|油の一滴は血の一滴


日本の市民団体「慰安婦問題解決の会」が安倍首相に「慰安婦被害者に謝罪の手紙を書け」と要求していますね。

でも、当時の日本には韓国が主張する20万人もの朝鮮人女性を船で強制連行して、遠方に送るための燃料がありませんでした。

20万人を強制連行する場合1回あたり重油が3000トン必要になり、20万人強制連行すると120万トンの重油が必要でした。

一方、1936(昭和11)年の帝国海軍の重油消費量は42万5000トン、陸軍はゼロです。

20万人を強制連行するには圧倒的に燃料が足りません。

これに北朝鮮や中国が主張する分も含めると、合計で60万人になり、重油は360万トン必要になります。

日本が大東亜戦争に踏み切ったのは、1940(昭和15)年に開始された連合国による対日経済封鎖と石油禁輸が原因です。

それなのに朝鮮人女性を20万人強制連行する、そういう余剰な燃料が当時の日本のどこにあったというのでしょうか?

それでも「朝鮮人女性強制連行はあった!事実だ!」とサヨクのみなさんが主張するのならば、

強制連行に必要な船と燃料を日本がどうやって捻出したのか証明してから言え!!

というハナシです。

終戦直後、日本にやってきたアメリカ戦略爆撃調査団の報告によると、対日経済封鎖のかいあって日本の備蓄は航空燃料が100万バレル=159,000キロリットル=135,150トンほどだったそうです。

昭和20年3月の日本では、ほとんどの艦艇が就役を解かれ、海上の砲台と化していました。


【戦前「日本の花」とうたわれた豪華客船浅間丸】
日本郵船所有だったがのち徴用船になった。乗客定員838名。これに朝鮮人女性を1000人乗せた場合、400回往復して出発時と到着時に重油の補給が必要になる。浅間丸1
【写真出典】Wikipedia


【浅間丸の重油搭載量は3000トン】
船  名浅間丸
総トン数16,000
長、幅、吃水(フィートインチ)560,72,28-6
重油搭載量(トン)3,000
航海速力(ノット)19
船体製造所長崎造船所
主機関製造所ズルツァー社
主機関数4
主機関型式ズルツァー単働二衝式
【出典】1933((昭和8)-1937(昭和12)年 海軍有終会編 「海軍要覧 昭和8年版」 第二篇 第六章 舶用機関最近発達の趨勢 


【従軍慰安婦は豪華客船に乗って】



1940(昭和15)年以降~連合国による対日経済封鎖一覧

経済封鎖は実質、宣戦布告を意味します。サヨクの中には「日本は宣戦布告をしないで戦争を始めた」というヤカラがいますが、戦争をしかけてきたのは連合国側であり、日本は宣戦布告の詔書を米英両国に送っています。

月 日日本の行動アメリカの対日態度
1940/
昭和15年
3月30日
南京新国民政府樹立蒋介石政府に7000万ドルの借款
供与

7月2日
武器その他軍用器材、工作機械、
その他多数物品の対日輸出許可制
(事実上の対日禁輸

9月27日
日独防共協定締結上記対日禁輸にくず鉄、鉄鋼を
加える

11月30日
南京新国民政府と条約
締結後承認
対日禁輸品中の鉄鋼および
工作機械の禁輸品目を拡大

一方、蒋介石政府には種々の
援助
1941/
昭和16年
7月25日
日本の在米資産凍結令公布。

日本は南米諸国との貿易につい
てニューヨークで決済していた
ため、南米諸国その他第三国との
貿易も途絶した

7月28日
日本軍が南部仏領
インドシナ進駐
8月1日対日石油輸出を全面的
停止


12月8日
米英両国に宣戦の詔書
煥発
米英両国、対日宣戦布告
【出典】1942(昭和17)年 東洋経済新報社出版部 国際関係研究会編 「米国の太平洋政策」 後編 支那事変を繞(めぐ)る米国の対日態度/1997(平成9)年 展転社 名越二荒之助編 「世界から見た大東亜戦争」


共産主義者のクセにぜんぜん科学的でない日本の共産主義者


日本の市民団体、「安倍首相は慰安婦被害者に謝罪の手紙を」
2016年9月29日 ハンギョレ新聞

28日「慰安婦問題解決の会」緊急記者会見 
被害者たちの本質的な要求との隔たりあり、根本的な解決策にはならず


 日本でも安倍晋三首相が日本軍「慰安婦」被害者のハルモニ(おばあさん)らに謝罪の手紙を送るべきだという主張が出た。
 東京大学の上野千鶴子名誉教授らが発起人として参加した「慰安婦問題解決の会」は28日、東京千代田区の参議院議員会館で記者会見を開き、「(日本政府は1995年の)アジア女性基金のときにも首相が(被害者の女性たちに)謝罪の手紙を送った。被害者たちが受け入れることのできる謝罪、名誉と尊厳の回復が行われるように『首相の謝罪の手紙』を(今回も)送ってほしい」と要請した。同会は昨年10月15日、約1500人の日本市民の意見を集め安倍首相に「慰安婦問題の解決のために韓国政府と交渉を行い、合意案を作ってほしい」との声明を出した。

(中略)

この日の記者会見に参加した重藤都氏は「報道を通じ、韓国の財団が謝罪の手紙を要求しているのに日本が応じていないことを知った。謝罪の手紙がなければ合意はなくなるかもしれないという覚悟で運動を進めていく。日本が自身の責任を果たすためには、謝罪の手紙が必ず必要だ」と話した。彼らはこの日の記者会見の前日午前11時に、内閣府を訪問し「慰安婦問題に対する日韓合意に基づき、誠意ある具体的な解決策である首相の謝罪の手紙を要求する」との要請文を送った。(後略)


戦時中日本のスローガン「油の一滴は血の一滴」

アメリカ戦略爆撃調査団報告資料

日本の石油製品消費量は1931(昭和6)年以降、急激に増加しつつありました。

それでも、日本軍が朝鮮人女性を20万人強制連行するのに必要な量には達していません。

(単位 1000キロリットル)
 年 次C 重油
陸 軍海 軍民 間
1931/
昭和6年
25025
1932/
昭和7年
33023
1933/
昭和8年
38046
1934/
昭和9年
43077
1935/
昭和10年
470114
1936/
昭和11年
500218
【出典】1970(昭和45)年 朝雲新聞社 防衛庁防衛研修所戦史室 「戦史叢書 陸軍軍需動員〈2〉実施編」


1936(昭和11)年におけるわが国石油在庫量

連合国の対日経済封鎖後、日本は輸入協力国からの石油、人造石油製造などで必要分をまかなおうとしました。しかし、どうしても追いつかず「決戦用」として封印されていた燃料に手をつけるしかありませんでした。

 (単位 1000キロリットル)
石油
製品
航空揮発油149
自動車揮発油116
B重油95
C重油4,564
潤滑油37
合 計4,960
内訳陸軍74
海軍4,750
民間136
原油800
【出典】1970(昭和45)年 朝雲新聞社 防衛庁防衛研修所戦史室 「戦史叢書 陸軍軍需動員〈2〉実施編」


帝国陸海軍 昭和19年度(1944年)液体燃料需要計画

タンカーによる南方石油還送に支障なく精油所が爆撃被害を受けなければ戦争遂行は可能であること、を前提として計画されました。

戦争末期であったため陸軍、海軍および一般(民間)需要を合計して、液体燃料が725万キロリットル必要とされました。

(単位 万キロリットル)
内地(日本国内)南 方
陸 軍10085185
海 軍120220340
一 般10595200
325400725
【出典】1970(昭和45)年 朝雲新聞社 防衛庁防衛研修所戦史室 「戦史叢書 陸軍軍需動員〈2〉実施編」


1945(昭和20)年1月、鬼畜ハルゼー登場 日本船舶をかたっぱしから撃沈 ついに南方からの石油が途絶

アメリカ軍ハルゼー中将は日本の軍艦だけでなく、油送船、商船、客船、病院船と日本の船ならばなんでも総なめになめつくして撃沈しました。

その行状は殺しても殺しても殺したりないといった状態で、日本人にはジュネーブ条約をはじめどんな条約も人道的待遇も適用されませんでした。

戦後、共産主義者らによって「犬死に」と宣伝された神風特攻隊は、容共連合国の世界侵略と対日経済封鎖が産み落とした悲劇でした。カミカゼは日本への補給路を守ろうと米艦船に突入したのです。

もしソビエト共産党が世界侵略を、アメリカが世界経済支配を企図しなかったならば、どれほど多くの人々が死なずに済んだでしょうか?

これらの事実が「日本は侵略国家」という共産主義者らの宣伝の裏に隠されているのです。


出典:1954(昭和29)年 富士書苑 「大東亜戦争写真史 特攻決戦篇」 
   油の切れた日本



当時の日本は何から何までないないづくしであったが、石油の欠乏には一番困っていた。台湾以北のストックを一切合財(原文ママ)あわせても百万キロリットルそこそこで、産業にも輸送機関にも、大体、油がきれてしまって、原始時代への逆もどりを始めていた。

煙突をたてた木炭自動車がその代表だった。特別優待券の航空部隊でさえも、油の不足で訓練ができない有様で、新搭乗員(特攻隊員などの機上兵力)の養成どころか、隊員の伎倆維持もあぶなかった。

特攻精神で南支那海を突破し断然輸送をつづけよう。一滴でも多く、何とかして、石油だけは輸入せねばならない」

 悲壮なこのために、特別の大命が下された。そして鉄鉱やボーキサイトの船団など一切やめて、護衛は石油船団だけに集中することになった。

 一方、ハルゼー部隊はまだむさぼり足りない禿鷹(はげたか)のように、こんどは北上して香港沖にあらわれた。十五、十六日と高雄、香港を空襲し、そこでもどっさり船を沈めた。

二十一日、台湾の東海上にぬけて出た。ここでまたもっと戦果の袋をふくらまそうと台湾に空襲をかけたとき、久しぶりに日本特攻隊員の若い血潮のしぶきを浴びた。

台南基地から出発した新高隊の三機が空母タイカンドローガ(タイコンデロガ)、駆逐艦マドックスに命中し、一機は軽空母ラングレーに小爆弾を投下した。タイカンデローガ(原文ママ)には二機とも殆(ほとん)ど同じ場所に命中して大火災を起し、艦長以下百四十名が冥途(めいど)の道づれになった。

【特攻を受ける空母タイコンデロガ】
タイコンデロガ

 一月中、日本船舶の喪失は四十二万五千総トンでその中の十八万トンはタンカーであった。また四十二万五千トンのうち二十八万三千トンはほとんどみんなハルゼー部隊の餌食となったものであった。

この月におけるタンカーのこのような大量喪失は全戦争期間中その比をみないものであったし、母艦機による撃沈量の方も、比類がないだろう。


【ハルゼー中将】
ハルゼー中将


【日本の船舶を総なめにしたハルゼー行動図】
ハルゼー行動図


【連合軍が撃沈した日本商船沈没地点図】
黒い点が沈没地点。黒い点の集まりとハルゼーの行動図が一致しているように見えます。日本商船沈没地点概図

ハルゼー部隊および連合国軍に撃沈された日本の艦船の位置と年月日、時刻を記した図。膨大な数の軍艦、一般船舶そして日本人が海底に沈められた。その理由は日本から植民地、満州国、朝鮮を強奪し、日本を植民地にするためだった。
米軍による日本船舶撃沈図

【出典】1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編 「大東亜戦争写真史  特攻決戦篇」



1944(昭和19)年
帝国陸軍「本年度末で液体燃料は皆無となる」


出典:1970(昭和45)年 朝雲新聞社 防衛庁防衛研修所戦史室 「戦史叢書 陸軍軍需動員〈2〉実施編」 第十章 昭和十九年度における軍需動員 液体燃料問題



 陸軍の石油対策

 陸軍は政府に協力して南方石油の確保還送に努めるとともに、部内においても各種の石油対策を講じた。

軍事課資材班は「十月以降南方還送油途絶の場合には液体燃料は十九年度末には皆無となる」との認識のもとに処置したのである。

 「機密戦争日誌」には七月二十一日次のとおり記されている。

 今後ニ於ケル地上燃料ノ対策に関シ、軍事課ノ省部主任者ニ対スル説明アリ

 高度ノ消費規制ヲ実施スルモ十九年度末ヲ以テ燃料ハ零(ゼロ)トナル(十月以降南方還送油途絶ノ場合) 但シ重油、軽油ハ還送確保ノ処置ヲ絶対必要トス




1945(昭和20)年
帝国海軍は国内の油をかき集めて菊水1号作戦に参加


出典:1983(昭和58)年 講談社 千早正隆編 「写真図説 帝国連合艦隊-日本海軍100年史-」 水上特攻の悲惨な最期



 しかし、4月5日、連合艦隊司令部の作戦会議に、大和を中心とする残存部隊を沖縄に突入させる案が、突如として持ち出された。

航空部隊がすべて特攻となって決戦にのぞんでいるとき、水上部隊も特攻となってこれに呼応すべきではないか、またそうすることによってのみ、大和以下の残った戦力を戦局に寄与させることができるというのであった。

 しかし、問題は作戦に必要とする燃料が残っているかどうかである。

かつて数百万トンの油を貯めこんだ徳山・呉のタンクにはわずか3,000トンしか残っていなかった。作戦部隊の片道分である。

いかに特別攻撃といっても、片道攻撃は許されることではなかった。たまたま呉にいた連合艦隊の補給参謀は、すぐ呉鎮守府の関係先をかけずりまわって、帳簿外の燃料を調べたところ、帳簿に記入されていない3,000トンが出てきた。

その報告を受けた会議では、すぐに水上部隊の出撃に対して断を下した。




アメリカ軍は日本への補給を完全に断絶すべく、日本列島の周囲に 機雷を撒布した

元従軍慰安婦の証言をウソだと断定できるのは、連合軍によって多くの船が撃沈されていたにもかかわらず、従軍慰安婦はホイホイと慰安所に強制連行され、ホイホイと朝鮮に帰るからです。

深刻な燃料不足におちいった戦争末期、日本は輸送船の護衛をやめてしまいましたが、韓国製のアニメでもわかるように元従軍慰安婦らは船の護衛について証言したことは一度もありません。

韓国が「日本がワザと爆沈させた」と言いがかりをつけている浮島丸はこの時の米軍の機雷で爆沈したのです。8千人乗船していた、とか船に爆発物が積んであったとか、朝鮮人はウソのかたまりです。


出典:1983(昭和58)年 講談社 千早正隆編 「写真図説 帝国連合艦隊-日本海軍100年史-」 激化した空襲と海上封鎖



 7月になると、敵の機動部隊は、傍若無人に日本本土の太平洋岸を荒らしまわるようになった。

7月10日から関東地方に、13・14日には北海道・東北地方に出没して攻撃を加え、石巻・釜石・室蘭には艦砲射撃すら加えてきた。

下旬には再転して、その鉾先が西日本に向けられた。7月24日、呉軍港に息をひそめていた、日向・伊勢・榛名・海鷹が沈められ、青葉はふたたび大破した。

28日には天城・大淀がその餌食となり、利根も大破した。

 そればかりか、3月以降、海の大動脈である関門地区や瀬戸内海、はては日本海側の仙崎・伏木・新潟などに空中から機雷を敷設した。

彼らが敷設した機雷は、それまで日本海軍が見たこともなかった磁気式・水圧式の新型で、わが海軍はその対策に完全に手をあげた。

かくして外洋の輸送路は潜水艦によってずたずたにされたあげく、たのむ内海の輸送路を新型機雷で封鎖され、日本の海の息の根はとめられた。




アメリカ戦略爆撃調査団報告
「日本は100万バレル(=158,987キロリットル)のストックをもっていた」


出典:1996(平成8)年 光人社 大谷内一夫訳編 「ジャパニーズ・エア・パワー-米国戦略爆撃調査団報告/日本空軍の興亡」 Ⅲ 航空燃料 



 六、結論

 航空燃料の不足は、訓練時間の削減というかたちで日本空軍に重大な打撃をあたえたが、終戦時、計画した作戦の実施に支障をおよぼすほどの直接的な影響はなかった。

 日本は内廓圏内に、一〇〇万バレルをやや上まわる航空燃料のストックをもっていた。これは、一九四五年七月と八月の月平均消費率でいえば、約七カ月分の供給量である。

また、一九四四年の第二・四半期に記録された日本空軍最高の消費率で換算すれば、二カ月分に相当する量である。



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