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2016/04/09

日本革命を早めるヘイトスピーチをなくすための法案


政権与党が「ヘイトスピーチをなくすための法案」を参議院に提出したそうです。

このまま永遠に自民党が政権与党であるならまだしも、こんな日本人言論弾圧法案が成立して、また民主党のような売国奴政党が与党になったらどうします?

保守派の言論を弾圧するということは、日本革命を早めます。

国家権力によって言論弾圧されて、一時中国に帰国して中共に拉致された在日中国人のように何をされたのか一切外国に漏らすことをしなくなる、ということは日本国内で共産運動が過激化しても一切外国に知られなくなるということです。そうなれば日本国内での共産運動はやりたい放題で加速します。

かつてソ連では共産党の秘密警察によって、数千万といわれるロシア人が虐殺されました。

自民党は支持者の口をつまむような法案を提出したりして、何考えているんですかね?

「自由、平等、友愛」という共産主義のスローガンに従った法案を提出すれば、いずれ改悪されて、皇室にまでその被害が及んだらどうするんですかね?

大東亜戦争で日本は反共国として共産主義の侵略と戦ったのだから、たとえ敗戦という結果であっても「反共」という矜持は保ってもらいたいと思います。


日本国憲法の「言論の自由」はどこへやった?


自公、ヘイトスピーチ法案提出 与野党修正協議へ
2016年4月8日 朝日新聞

自民、公明両党は8日、特定の民族や人種を標的にして差別をあおる「ヘイトスピーチ」をなくすための法案を参院に共同提出した。すでに独自案を提出している民進党など野党との修正協議に入り、今国会での成立をめざす。修正協議では、ヘイトスピーチの範囲や禁止規定を盛り込むかどうかが焦点になる。

 与党案ではヘイトスピーチについて、在日外国人や家族に対する「差別的意識を助長または誘発する目的で、地域社会から排除することを扇動する不当な差別的言動」と定義。差別解消のため、国や自治体の取り組みの必要性も盛り込んだ。

 一方、旧民主党など野党が昨年提出した法案では、「人種などを理由とする差別」全般を禁止するとした。内閣府に審議会を置き、ヘイトスピーチに対する調査や勧告の権限を与えることも規定した。



一方、ロシアでは帝政ロシア時代のように、内務省下に反革命運動を弾圧する国家親衛隊が創設されるそうです。

国家の現体制を守るという点では、ロシアの方が正しい。

ロシア人は72年間もかけて、やっと赤色ユダヤ財閥からロシアを取り戻したので、もう共産党一党独裁というバカげた体制にはもどらないでしょう。

マルクスが定義した「工場労働者による共産革命」すら実現できず、中国もロシアも農民革命に終わった共産主義を、実現できる!と信じてるのは、コミンテルンに破門された日本の劣化サヨクだけです。


プーチン、君は正しい


プーチン大統領 ロシアに国家親衛隊を創設
2016年4月6日 sputnik (スプートニク)

プーチン大統領は、内務省部隊を基礎にロシアに国家親衛隊を創設すると発表した。

「決定は下された。我々は、ロシア内務省部隊を基礎に新しい連邦執行権力機関、国家親衛隊を創設する。国家親衛隊は、テロリズムや組織犯罪との戦いに取り組む。今後も内務省とは、密接なコンタクトを持ち続ける事になるだろう。

治安維持諸機関の仕事の改善問題、特に、その部隊の改善問題については、すでに以前から討議されていた。我々は、テロリズムや組織犯罪、不法な麻薬の流通に関するものも含め、あらゆる方向に沿って、いかに仕事をより良いものにすべきかを考えてきた。そうして下されたのが、今回の決定である。」

プーチンゆめ1


ロシアでも共産革命のきざしがあるから、国家親衛隊が創設されるのではないでしょうか?


「オウム真理教」とイスラム過激派が同盟を組む危険性はあるか?
2016年4月7日 sputnik (スプートニク)

ロシアの治安機関は、モスクワとサンクトペテルブルグにある宗教団体「オウム真理教」のメンバーの住宅を家宅捜索し、拘束した。ロシアの神学者で、 ロシア連邦司法省附置国家宗教学鑑定実施鑑定人会議の副議長を務めるロマン・シランチエフは、「オウム真理教」の潜在的な脅威についてラジオ「スプートニク」に語った。

シランチエフ氏によると、「オウム真理教」のような団体の存在は、あらゆる国家にとって極めて望ましくないものだ。ロシアには今「オウム真理教」の信者が数千人いる。「オウム真理教」の活動のピーク時には、1万人以上の信者がロシアにいた。「オウム真理教」は、強力な勧誘班を持っている。「オウム真理教」は、常時勧誘を行う拠点をモスクワの地下鉄に持っていた唯一の宗教団体だ。ここ数年ロシアで「オウム真理教」についてほどんど耳にしなかった。モスクワとサンクトペテルブルグで「オウム真理教」の信者が大勢逮捕されたのは、何と関係があるのだろうか?シランチエフ氏は、次のように語っている-

「私が知る限り、『オウム真理教』の勧誘活動の急激な高まりが特務機関に警戒心を抱かせた。『オウム真理教』は、仏教の実践やヨガを装って新たなメンバーを勧誘していた。『オウム真理教』は、テロ組織だ。このような団体がイスラム系テロリストらの同盟に加わった例がある。そのためこのような種類の団体の活動の高まりは懸念を呼び、治安機関は対策を講じる。ロシアでは『オウム』が常時監視下に置かれている。活動を高めようとするあらゆる試みが中断されている。」(後略)



ソビエト秘密警察の歴史


言論弾圧といえば共産圏の秘密警察が定番ですが、ロシアで最初の秘密警察を創設したのは革命で処刑されたニコライ二世でした。1880(明治13)年のことです。

そしてロシア革命が1917年、第二次世界大戦終戦が1945年ですから、わずか28年間でソ連の秘密警察は党中央では管理できないほど巨大化し、人民を弾圧しました。

人間に欲がある限り、共産主義は実現しません。党の書記長だの主席だのにお釈迦様かキリストが就任しないかぎり実現しません。

そもそも共産主義自体が、外国の富を武力で強奪する「欲」を満たすための思想ですからね。

共産主義者が夢見ているのは有色人種を奴隷にして、自分らはタイタニック号で世界一周を楽しむ、そんな豪奢な生活です。

1880(明治13)年 秘密警察(アフラナ)誕生

・皇帝ニコライ二世が革命運動(共産党)を弾圧するため、内務省のもとに国家警察局を設けた。

・国家警察局の構成
 ・中央特別機関…特務部(アソーブイ・アッジェール)
 ・全国に配置された保安組織網…特別公安警察(アフランヌイエ・アッジェレーニヤ)

 ロシア国民には「秘密警察(アフラナ)」の名で知られた。

・1906(明治39)年…秘密警察に追いつめられたレーニンがスイスに逃亡。

・1914(大正3)年…ペトログラード(ペテルブルグ)でパンを買うために行列していた主婦たちが突如小規模抗議運動を開始、数日たらずのうちに4万人の工場労働者がストライキに入って二月蜂起が勃発。5日間、就労拒否や市内デモ行進がつづいたあと、守備隊が市民側に加わる。

この一カ月後、赤色政権が樹立され、その二日後にニコライ二世は退位した。

【ニコライ二世と皇太子アレクシス(アレクセイエフ)】
nikorai.jpg

1914(大正3)年10月
軍事革命委員会、工場労働者を武装兵力にした赤衛軍誕生

・狂信的な革命家ジェルジンスキーが「反革命・サボタージュと闘う」委員会設置を提案、軍事革命評議会に採択された。

やがて内務人民委員部〔NKVD(エヌ・カー・ベー・デー)〕が設けられ、民兵の創設が決められた。


宣伝戦ロシア革命

・1917年12月5日…軍事革命委員会は解散を宣言し、ボリシェビキ(過激派、多数派)の優位を保持しつつ、その任務を全ロシア中央執行委員会(フセロシースカヤ・ツエントラーリヌイ・イスポルニーチェリヌイ・コミチェート)(立法府)のしかるべき機関(反革命・サボタージュと闘う委員会)に移した。

人民委員評議会(ソビエト・ナロードヌイフ・コミツサーロフ)(政府)は全土でゼネストが行われるという情報を入手すると、レーニンみずからジェルジンスキーに対しゼネストを阻止するよう要請した。

【ジェルジンスキー】
ジェルジンスキー1

1917(大正6)年 KGBの原型"ベーチェーカー"誕生

・12月20日、反革命・サボタージュと闘う委員会は"ベーチェーカー"こと「全ロシア非常委員会(フセロシースカヤ・チェレズビチャイナヤ・コミッシャ)(反革命・投機・サボタージュ・職種濫用と戦う非常委員会)」の設置を決議した。

これは法的根拠にもとづく布告ではなく、ただ一片の決議により、KGBに成長する機関が設けられたのである。

・レーニンは恐怖政治の信奉者であり、フランス革命でもっとも過激だったジャコバン党を熱烈に賛美した。"ベーチェーカー(Vecheka)"はロシア語で「車輪止め用のくさび」を意味する"チェーカー(cheka)"と略称されるようになった。

チェーカーはレーニンから積極的に後押しされて急速に膨張し、令状なしの逮捕、即決裁判、死刑執行まで行える権限を持つようになり、逮捕者を強制収容所に監禁する権限まで与えられた。

食糧生産地では裕福な住民のあいだから二、三十人の人質を選び出し、共産党一党独裁のために増大する飢餓と"闘う"ための余分の食糧を供出しなかった所では、たちまち人質は射殺された。

1922(大正11)年 "チェーカー"からGPU(ゲペウ)へ

1月、ロシア人民の憎悪の対象となったチェーカーは、"GPU(ゲペウ)"と改められた。GPUとは「国家政治保安部(ガスダルストベンノエ・ポリチーチェスコエ・ウプラブレーニエ)」の略称である。

さらに共産党政治局(ポリトビューロー)は、GPUを内務人民委員部(NKVD)と完全に合体すべきと決定し、ジェルジンスキーも長官として留任した。

ところがGPUがテロ緩和したことについてレーニンが不満を述べたところ、GPUはチェーカー時代の権限を回復し、反革命行為(いくらでも拡大解釈できる用語)に対して、法律上の審議も行わず追放処分ができるようになった。

また盗賊行為(これも拡大解釈できる用語)に関しては、現行犯であればその場で処刑する権限が与えられた。

この頃、密告制度の前例が作られ、都市住民四人のうち一人が密告者だったという数字が残っている。

1923(大正12)年 GPUが拡大してOGPU(オー・ゲー・ぺー・ウー)へ

7月、ソビエト連邦憲法が採択されたことにともなって、GPUは一共和国レベルではなく全連邦レベルの名称が必要になった。

そうしてGPUはOGPU〔合同国家政治保安部(アブデイネンノエ・ガスダルストベンノエ・ポリチーチェスコエ・ウプラブレーニエ)〕となり、モスクワの党中央委員会に対して直接責任を持つ機関となった。

しかし、ソビエト連邦下の各共和国ではGPUとして残された。

こうして人民弾圧のための機関が急成長をとげていくのに対し、統制経済で生活必需品は党からの配給制であるソ連では地方都市でパンの配給制が実施されたのは1928(昭和3)年、モスクワやレニングラード(現サンクトペテルブルク)といった大都市では1929年初頭になってからであった。

1934(昭和9)年 OGPUの悪名が世界に広まりソ連は国際連盟加入を決意 一方国内はスターリンの大恐怖時代

・1930年1月から3月までの間に、全農民人口の半数1400万人にのぼる農民の私有財産が、集団農場の所有に移された。

農民たちは内戦に発展しそうなほど反抗して家畜をみずからの手で殺したり、OGPU要員を銃や斧、ナイフで追い返そうとした。

そこでスターリンは、OGPUがもっと大きな、思い切った「努力」を払うよう要請し、輸出目標を達成するために、穀物や酪乳を農場から強制搬出させた。

しかしOGPUのこの行為は飢餓を招き、550万人もの人々が餓死か、関連疾病で死亡した。

・1934年頃になると、西側(資本主義)諸国で血に飢えたOGPUという悪名が広がっており、OGPUの存続が難しくなることを懸念したスターリンは国際連盟加入を決意、OGPUのトップだったメンジンスキー死亡にともない、その後任を農民大量虐殺機関運営に辣腕を発揮したゲンリヒ・グリゴーリエビッチ・ヤーゴダに任せた。

ヤーゴダは正規の教育を受けた薬剤師だったため、OGPU長官時代、人間抹殺の化学的方法の研究を大いに進めた。ルビヤンカ監獄の地下室で好んで生体実験を行い、前任者のメンジンスキーを毒殺したのもヤーゴダであった。

1935(昭和10)年 内務人民委員部に国家保安管理本部を追加

スターリンによる大恐怖時代とは粛清裁判の公開、大量抹殺、大量監禁、強制労働の時代であり、控えめに推定しても1000万人の生命が奪われた。

・10月、内務人民委員部に「国家保安管理本部(ウプラベレーニエ・ガスダルストベンノエ・ベズオパースノスチ)」が追加され、長官にはニコライ・イワノービッチ・エジョフが選ばれた。

ソ連国内のテロルは、エジョフの指揮下で最高潮に達し、この時期に実施された大量抹殺は「エジョフ時代」と総称されたほどである。

身長150センチに満たないこの男は「血に飢えた小人」と呼ばれ、1937年ついにエジョフは内務人民委員部の自分の部下3000人を処刑した。

スターリンですらも多くの大量殺人に関与したエジョフを公開裁判にかけることをおそれ、1938年12月にエジョフを追放したあと、ヤーゴダを銃殺したルビヤンカ監獄地下室の隣室でエジョフを処刑した。

(1936年6月、ヤーゴダは追放され、殺人者、外国スパイとして公開裁判にかけられ、みずからが毒殺実験を行っていたルビヤンカ監獄の地下室で銃殺された)

1938(昭和13)年 秘密警察帝国"NKGB"誕生

・12月、エジョフの後継者としてラブレンチー・パブロビッチ・ベリヤが選ばれた。ベリヤはジェルジンスキー時代のチェーカーに加わった人物で、ベリヤをジェルジンスキーに紹介したのはスターリンである。

スターリンとの主導権争いに敗れて、トルコからドイツへ、そしてデンマークからついにメキシコでトロツキーを暗殺したのもこのベリヤである。

【トロツキー】
トロツキー2_250

・第二次世界大戦中、ベリヤは秘密警察帝国をほとんど管理不能な規模にまで拡大した。内務人民委員部は事実上シベリアを管理していたし、支配下の強制労働収容所を通じて、ソビエト産業の大部分に責任を感じたベリヤは、この"帝国"をもっと能率的に運営するため、内務人民委員部の保安組織を独立機関として分離し、名称をNKGB〔国家保安人民委員部(ナロードヌイ・コミッサリーアト・ガスダルストベンノエ・ベズオパースノスチ)〕とした。

責任範囲を分割した結果、内務人民委員部は警察行政、秘密警察、民事を、NKGBは国内治安、対情報工作、国境警備、矯正労働収容所の管理、ゲリラ工作、対独地下活動を受け持つことになった。

第二次世界大戦後、省に昇格したNKGBとNKVD

・戦後、NKGBもNKVDも省に昇格し、NHGBはMGB(エム・ゲー・ベー)、つまり「国家保安省(ミニステルストボ・ガスダルストベンノイ・ベズオパースノスチ)」となり、NKVDはMVD(エム・デー・ベー)、すなわち「内務省(ミニステルストボ・フヌートレンヌイフ・ジェル)」に改称された。

閣僚会議の副議長ベリヤは、事実上の副首相として全体的な支配力をもつことになった。1953(昭和28)年3月、スターリンが死ぬと、ベリヤはMGB長官のイグナチェフ、MVD長官クルーグロフを追放し、MGBをMVDに吸収して、保安組織の全面的な支配権をにぎり、ベリヤの権力は強大となった。

ベリヤは政治警察と対外情報工作を指揮し、民警や三十万の特別部隊を自分の私兵にした。強制労働収容所の囚人もベリヤの管理下に置かれ、ベリヤはソビエト産業の大部分に責任を負うことになった。

のち、ベリヤはフルシチョフやチェスラフ・モロトフ、軍部によって裁判にかけられ、ルビヤンカ監獄で銃殺隊に処刑された。

1954(昭和29)年 KGB誕生

・1954年、国家保安組織はKGB(カー・ゲー・ベー)の略称で知られる「国家保安委員会(コミチェート・ガスダルストベンノエ・ベズオパースノスチ)」に改められた。


国際連盟 KGBプーチン1

国立国会図書館で読めるゲペウ
共産主義国家では国家機関が対人民赤色テロ、犠牲者200万人


出典:1937(昭和12)-1938(昭和13)年 東京朝日新聞社 「朝日時局読本 第10巻」 三、戦慄のゲペウ



 『泣く児も黙る』という程、一般ロシヤ人の戦慄の的となっているゲペウ(正しくはオ・ゲ・ペ・ウであって、単一国家政治監督庁という)機関は、どうして発達して来たか。オゲペウの前身は、「チェカ」といって、一九一七年末の法令で「反革、サボタージュ、投機取締非常委員会」という割合に優しい名前で誕生したのであった。

隊長にヂェルヂンスキー、委員にはオルジョニキーゼ、クセノホント、ペテルソン等(ら)という顔触(かおぶれ)で、主として、旧官吏のサボタージュ取締が任務で、検挙した者は革命裁判に引渡すことになっていた。然るにサボタージュは反革運動になり、武力決起となって、サウインコフの反ソビエト陰謀事件から、外国の干渉、社会革命党員のレーニン暗殺事件等に発展して来たので、「チェカ」はそろそろその本体を露(あら)わし始めた。

 それでも一九一八年七月頃迄は、反革運動者で銃殺されたのは僅か二十六名であったと報告されている。然し一九一八年末から反革命派の武力決起になってからは、白色テロ(管理人注:資本主義体制の国家権力、警察等による暴力)に報いるに赤色テロをもってするといった訳(わけ)で、「チェカ」は公然テロ手段に出で、反革命加担者の銃殺は日毎、夜毎に集団的に続き、その数を知らず、内輪に見積もっても赤色テロで斃(たお)れた者は、二百万以上を算した。

文字通り「チェカ」の仕事は、ギロチン機械と変って、「チェカ」の革の手袋は、真赤に染められたのであった。




【出典】
1929(昭和4)年 外務省欧米局第一課 「現代『ソヴィエート』聯邦人名録」 
・1987(昭和62)年 岩波書店 ブライアン・フリーマントル 「KGB」 

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