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2016/03/21

中共軍司令激白-中国人女性を売り飛ばしたのは蒋介石


1933(昭和8)年、第一次国共合作が崩壊したあと、蒋介石は反共作戦と称して南京に近い共産党の紅区を襲撃し、女子どもをことごとく拉致して売り飛ばしました。

紅区というのは共産党に赤化された地域のことで、「解放区」、「ソビエト地区」ともいいます。

拉致された子どもたちは徒弟として都市部に売られ、女たちは国民党軍に強姦されたのち娼婦として売り飛ばされました。

仲買人が国民党軍の軍官から女子どもを買う商売は、非常に繁昌したそうです。

シナ事変は1937(昭和12)年のことですから、南京陥落の4年も前に中国では「日本軍がやった!」と中共が宣伝する惨状が行われていたことになります。

これらの話は紅軍(中共軍)第十五軍団司令だった徐海東がアメリカ人共産主義者エドガー・スノウに語ったものです。地位のある中国共産党員が見たままを証言しているのですから信用できますね。

徐海東だけでなくエドガー・スノウ自身も、売り飛ばされていく中国人女性を目撃しています。

一方、日本軍は中国の猛悪な梅毒を警戒して、中国人の家への立ち入り禁止、井戸も中国人とは別にしろと命令していたので、中国人女性を強制連行する動機がありません。

【徐海東】
徐海東1

【小汚かったころの徐海東@共産匪賊時代】
徐海東

最近、中共が新たに補充した従軍慰安婦も「1カ月あまり凌辱されて売り飛ばされた」と証言してます。これは徐海東の「国民党軍は婦女子を凌辱してから売り飛ばした」という証言と一致します。

あまたある国民党軍の極悪非道ぶりは、中共や韓国が捏造した従軍慰安婦哀話そのものです。

【NEW!!】

中国・新華社が存命の中国人・元慰安婦を紹介「強制連行された」 謝罪要求を続けるための布石か
2016年3月18日 BIGLOBE ニュース(サーチナ)

 中国国営の新華通訊社(新華社)系のニュースサイト「新華網」は、山西省長治市武郷県内に住むハオ菊香さんら、元日本軍従軍慰安婦とされる女性を紹介する写真記事を掲載した。「彼女ら」は、自分の残る人生では無理でも、子孫やボランティアが抗議運動を継承し、日本政府に謝罪させてほしいと語ったという。(ハオは「赤」におおざと)

記事はまず、ハオさんが強制的に従軍慰安婦にされた経緯を紹介した。17歳だった1939年4月、自宅にいたところを日本軍にさらわれ、従軍慰安婦にさせられたという。1カ月余りの凌辱の後、家族が金をかきかつめて買い戻したので家に戻れたと紹介した。(後略)



中共軍司令が激白!!国民党軍の極悪非道ぶり

徐海東の証言とエドガー・スノウの目撃談は少し長いので要約も載せておきます。

同胞にもこういう残虐なことをする民族を「観光立国」などと言って、無差別にわが国に流入させている日本政府の気が知れません。


・国民党軍の高官が多くの地方で一般市民をみな殺しにするよう命令を出した

・国民党軍は南京に近い湖北、安徽、河南の一般市民をみな殺しにするか強制移住させ、婦女子を拉致して売り飛ばした

・何千人もの子供たちが俘虜になり、漢口その他の都市に送られて『徒弟』として売られ、何千という若い婦女子が工場の奴隷としてまた娼婦として売られた

・1934(昭和9)年、エドガー・スノウは大工業中心地に到着した何百という婦女子が仲買人に売り飛ばされるところを目撃した

・天岱山と洛鐘山のソヴィエト地区(共産党に赤化された地区)には当時約6万の住民がいたが、国民党軍に家を焼かれたり爆撃で破壊されたりして、農民は土地を追われ、約300人の老人しか残っていなかった

・国民党軍の士官らは、婦女子だけを選び出し、断髪の者やテン足でない者はみんな共産党員として射殺された。高級将校は、自分用にきれいな婦女をより出し、残りは下級将校の選択にまかせ、あとの者は兵隊にわたして娼婦にした。これらの婦女子は『匪賊の妻子』だから、どんなことをしてもよいといわれた

・地域の青年たちや老人たちが、国民党軍の暴虐を見かねて国民党軍の将校を殺そうとしたところ、抗議した者は全部共産党員として射殺された←捏造従軍慰安婦にはないリアリティー

・国民党軍内は婦女の取り合いのケンカが絶えず、拉致した女性、少女を凌辱してから都会に送りこんで売り飛ばした←↑のハオさんとおなじ

・国民党軍の将校は数人のきれいな女性は手もとに置いて妾(めかけ)にした←中国、朝鮮には蓄妾(ちくしょう)の風習がある

・国民党軍に虐殺された人々の中には子供を固く抱いて死んでいる女もあり、多くの死体は交互に積み重ねられていた

・共産党軍は国民党軍に強姦されて虐殺された17人の女性の死体を発見したため、追悼会を開いてみなで泣いた←これも捏造従軍慰安婦にはない描写




出典:1953(昭和28)年 筑摩書房 エドガー・スノウ 「中国の赤い星」 
      2 中国における階級闘争



 第五次の反共討伐において、南京の高級軍官が、多くの地方で一般市民をみな殺しにするよう命令を出したことは今ではもうよく知られている事実である。これは軍事的な必要からなされた。すなわち総司令がある演説の中で述べているように、ソヴィエトが樹立されてから久しい地方では、 「善良な市民の中から赤匪を選び出すことは不可能であった」 からである。

このみな殺し政策は、鄂予皖ソヴィエト共和国には、とくに残酷に適用された。そのおもな理由は、反共作戦に従軍していた国民党の将軍のなかにはこの地方の出身者があり、かれらは紅軍に土地を没収された地主の息子だったからである。それで報復に対してあくなき欲望を持っていたのである。第五次討伐戦のおわりにはソヴィエト地区の人口は約六十万人減少した。 

【鄂予皖地区@北京】
北京南京2
鄂予皖:土地革命期(1927~37年)の鄂豫皖革命根拠地の首府。1931年、紅軍が新州(現在の新県県城) を占領したあと、鄂東(湖北東部)・予南(河南南部)・皖西(安徽西部)の3根拠地がここを 中心にひとつにまとまり、徐向前を指導者とする鄂予皖革命根拠地が築かれた。当時の旧址が 多く残っている。中国労農紅軍の第1号機レーニン号が誕生したのもここ。大別山の山中にあり、 風光明媚。安徽に近い湖北との省境にある。
(中国近代史観光ガイド:http://china-redtour.com/spot/tochi_ccpgakuyokan.html)


 鄂予皖地区における紅軍の戦術は、広い領域にわたる機動性に依存していた。毎年『勦(掃)共』のはじめには、主力軍は紅区を出て敵軍と敵地において闘った。紅軍は防禦(御)すべき重要な戦略上の基地を有せず、囮(おとり)戦術、分散戦術、牽制戦術を用いてところどころに移動し、機動戦の利益を活用した。

しかしこうした作戦は『人間基地』の周辺をいちじるしく敵に暴露することになった。しかし従来は国民党軍は、かれらが占領したソヴィエト地区において平和に仕事をはげんでさえいれば、農民や市民を殺そうとはしなかった。

 ところが第五次討伐戦 ─── 江西でも同様であったが ─── 新しい戦術を採用しはじめた。広大な地域で紅軍と交戦せずに、南京軍は密集部隊を作り、後方は広く●(石へんに周)堡でかためて一歩一歩前進し、着々と紅区に侵入してソヴィエト辺境の内外の広汎な地域の全住民を、系統的に皆殺しにするか他に移住させた。かれらはかかる地域を荒廃させ、人の住めぬ荒蕪地にして、将来紅軍がふたたびもどってくるようなことになっても紅軍の給養ができぬようにしたのである。

南京方面では紅軍の基礎がけっきょく農民であることを認識しはじめたからである。 ─── だからこそ、この基礎を破壊しつくさねばならぬと考えたのである。

【紅軍の基礎-農民兵】
china_nouminhei.jpg

 何千人の子供たちが俘虜になり、漢口その他の都市に送られて『徒弟』に売られた。何千という若い婦女子がはこび出されて工場の奴隷としてまた娼婦として売られた。都市において、かの女たちは『凶災難民』とか『紅軍に殺された者の孤児』とかいわれて玩具にされた。

私は一九三四年、大工業中心地に到着した何百というこうした不幸な婦女子の群を思い出す。商取引が繁昌して、仲買人が国民党の軍官から少年や婦女子を買取っていた。一時、非常に儲かる商売になったが、軍隊を腐敗させる雲行きとなった。そこで宣教師も口を入れはじめた。キリスト教徒の蒋介石将軍も、ついにこうした『賄賂行為』を厳禁する命令を出し、売買を行った士官は厳罰に処すと布告した。

「一九三三年の十二月までに」 と徐海東は話し出した。「鄂予皖地区の約半分は広大な荒地になってしまいました。昔は富んでいた村に、残っている家はごく少く、家畜は追われ畑は手入させず、白軍の占領した村々には、死体が山のようになっていました。湖北の四県、安徽の五県、河南の三県は完全に廃墟と化しました。東西四百里、南北三百里にわたるほどの地域のすべての住民が殺されるか移住させられました

北京南京1

「その年の戦争のあいだに私たちはこれらの地域のいくつかを白軍の手からとりかえしました。しかしもどってみると、肥沃な土地は荒れはてていました。二、三人の老年の男女が残っていて、人を怖がらせるような話をしてくれました。私たちは同じ中国人が、中国人に対して、こんな残忍な罪をおかせるものかと信じられませんでした」

「一九三三年の十一月に私たちは天岱山と洛鐘山から退却しましたが、そこのソヴィエト地区には当時約六万の住民がおりました。二カ月たって私たちが帰ってみると、この地区にいた農民はかれらの土地から追われ、家々は焼かれたり、爆撃で破壊されたりしていました。全地域を合わせても三百人に足らぬ老人と、ごくわずかの病気の子供が残っているだけでした。この事実から、私たちは二カ月の間にどんなことが起ったかを十分に知ることができました」

「白軍が来ると、ただちに士官たちは、婦女子だけを選び出しました。断髪の者や纏足でない者はみんな共産党員として射殺されました。高級将校は、自分用にきれいな婦女をより出し、残りは下級将校の選択にまかせ、あとの者は兵隊にわたして娼婦にされました。これらの婦女子は『匪賊の妻子』だから、どんなことをしてもよいといわれていたのです」

「これらの地域の青年たちの多くは紅軍に加わっていました。しかし残った者や、いく人かの老人たちも、以上のような婦女子にたいする罪を見かねて白軍の将校を殺そうとしました。白軍将校に抗議した者は全部共産党員として射殺されました。生き残った者が語るところによると白軍のあいだでは婦女の取り合いの喧嘩(けんか)で争いが絶えなかったということです。これらの婦人と少女をいじめてから、かれらはそれを都会に送りこみ、そこで売ったのです。将校だけが、妾(めかけ)として数人のきれいな女を手もとに置きました」

「それは国民政府の軍隊についておっしゃっているのですね」 と私は念を押した。

「そうですとも。湯恩伯将軍の第十三軍と王均将軍の第三軍でした。夏斗寅・梁冠英・宋天才将軍なども責任があります」

 徐はまた他の地区、湖北の黄岡県のことについても話してくれた。一九三三年七月に紅軍は王均将軍の手中からこの地を奪回した。

「かつてソヴィエトの合作社が繁昌し幸福な人々がいた句容集の鎮はまったく荒廃しつくして、二、三人の老人だけが生きていました。老人たちは私たちを谷間に案内して行きましたが、そこには白日の下に半裸体にされた十七人の若い婦人の死体が散らばっていました。かの女たちはみんな強姦された上殺されたのです。白軍は明らかに非常に急いでいたらしく、ようやく女の子のズボンの片っ方だけをはぎ取っていました。その日私たちは集会を開いて、追悼の会を行いました。みんな涙を流して泣きました

「そののちまもなく、麻城で私たちは以前運動場に使っていた原っぱに行ってみました。そこの浅く掘った穴のなかに殺された十二人の仲間の死体がありました。皮膚ははぎとられ、眼はえぐり出され、耳や鼻は切りとられていました。私たちはこの野蛮な光景を見て、憤怒の涙にくれ大声でないてしまいました

【従軍慰安婦映画「鬼郷」@韓国制作】
従軍慰安婦映画鬼郷1

「同じ月に黄岡県では、わが第二十五紅軍は欧公集に到着しました。ここはいぜんなかなか活気のあったところでしたが、すっかり荒れはてていました。私たちが鎮外に出てみると、丘の上の百姓小屋から煙が出ていました。そこに登って行くと、たったひとり老人が残っていて、それも気が狂っていました。谷にもどってくると、男女の屍体の山が、るいるいとならんでいました。そこには四百以上の屍体がありましたが、明らかにごく最近殺されたらしく、ある場所では血が何寸もの深さにたまっていました。子供を固く抱いて死んでいる女もありました。多くの屍体は交互に積み重ねられていました

「とつぜん私はその死体のひとつが動くのに気がつきました。行ってみるとまだ生きている男でした。それから、まだほかにも生きている者が見出され、皆で十名以上ありました。私たちは連れもどって傷の手当をしてやりました。かれらは私たちにどんなことが起ったかを語り出しました。これらの人たちは城鎮から逃げ出して、この谷間に隠れて野宿していたのです。白軍の将校は谷間に兵隊をつれて来て山腹に機関銃をすえるように命令し、下方の人々に発砲したのです。数時間も掃射しつづけました。そして皆死んだと考えたのです。それで別に見に降りてもこず、ふたたび前進して行きました。

【関東大震災虐殺も機関銃だったと】
関東大震災機関銃1URL: 「朝鮮人 竹槍で刺し石油をかけて焼いた」 ハンギョレ新聞 2013年9月1日

 翌日徐はこの谷間に全将兵をつれて行って、かれらに屍体を見せた。兵隊の中には、知っている農民もあり、かつて隠れ家を提供してくれたに違いない男女や、西瓜を売ったり、合作社で取引したりしていた顔ぶれもあった。皆は深く感動した。徐はこの経験によって、強固な士気と戦闘に命を投げ出す決心が皆についてきたと云(い)い、最後の大討伐戦の十二カ月を通じて第二十五師団から逃亡した兵はひとりもなかったと語った。

「第五次討伐戦がおわりに近づくと」 かれは話をつづけた。

どの家にも屍体がごろごろしていました。人気のない村に入って行き、荒れはてた家々をのぞくと、戸口や床や炕(かん:床下暖房装置)の上や、どこかかくれた所に屍体がころがっていました。犬さえ多くの村から逃げていました。敵の行動を偵察する間諜の必要はありませんでした。焼けた町や部落から立ち上る煙で一杯になった空の下ではよういに敵の動きが解ったからです」

【通州事件-旅館近水楼の惨状】
通州事件旅館近水楼1

 以上は、私が、この怖るべき年のあいだ闘いつづけて来た徐海東や、その他の人々から聞き出した物語のうちのわずか ─── まったくほんの小部分 ─── にすぎない。





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