HOME > 従軍慰安婦 > title - 日本兵10万人に慰安婦2人そのとき日本軍は
2016/03/15

日本兵10万人に慰安婦2人そのとき日本軍は


夜ばいしてきた日本兵を撃ち殺しました。

まちがいではありません、日本軍は慰安婦ではなく日本兵を撃ち殺しました。ラバウル島でのことです。

1944(昭和19)年1月、孤立玉砕の色が濃くなったラバウルでは戦闘の足手まといになる女性を全員、最後の日本行きの船に乗せて送還しました。

しかし運悪く、国際法や条約などまったく無視する米軍の潜水艦に撃沈され、乗員、乗客のほとんどが溺死してしまいました。

ところが、その船に乗っていた日本人慰安婦が2名、泳いでまたラバウルに帰ってきたのです。

日本兵10万人に慰安婦が2人、これは軍の士気に悪い影響しか与えないと判断した陸海軍は、慰安婦2人とラバウルに居残っていた徴用船船長の妻を合わせた女3人のために壕を掘り、小屋を建てて、12名の護衛を付けました。

万一、慰安婦がいる壕にしのんでくる日本兵がいたら銃殺するためです。

そうして終戦までに日本兵が2名、護衛に銃殺されました。

ちなみに、ラバウル島に進駐してきたのは、今その首都で韓国人女性が慰安婦被害を訴えているオーストラリアです。

なので、韓国の妄想映画「鬼郷」のようなことがあったならば、オーストラリア軍がまるでナチスのユダヤ人収容所のような場所を発見して阿鼻叫喚、となるはずですがそういった記録はありません。

なぜなら、従軍慰安婦というのは捏造だからです。

中国、韓国、北朝鮮は連合国の対日作戦「ABCD包囲網」を知らないのでしょう。

日本軍の戦線をまっすぐつなぐと、地球の円周の5分の1に相当したことも知らないのでしょう。

終戦直前の日本軍は、ABCD包囲網によってあらゆる補給を断たれ、弾薬一個にも事欠くありさまで、韓国の妄想映画のような余裕はまったくありませんでした。

大本営に「食糧も武器も現地自活」と申し渡されて、日本兵たちは飢えに苦しみ、敵の空襲を受けても反撃できず、地下にもぐるしかなかったのです。

【こんなムダがあったら戦闘に回してる-韓国制作映画「鬼郷」】
従軍慰安婦映画鬼郷1

連合国も韓国の従軍慰安婦という捏造に踊るようなら、韓国と同等の国と言わざるを得ません。

韓国は韓国で、儒教の国を自称していますが、従軍慰安婦を自称している婆さんらはあの世に行ったとき、米軍に撃沈されて死んだ本当の慰安婦たちに、「私も慰安婦だったニダ!日本軍に強制連行されたニダ!」と言えるのでしょうか?

カネのためなら儒教もへったくれもない、それが韓国という国だと思います。

【バ韓国「連合国の対日作戦は失敗だったニダ!!」】

【慰安婦問題】オーストラリア、シドニー都心に登場した柳寛順・韓服姿の女性たち、「生きている少女像」パフォーマンス
2016年3月13日 聯合ニュース(韓国語)

▲オーストラリア、シドニー都心で開かれた「生きている少女像」パフォーマンスに参加した韓人女性たち<<オーストラリア韓人アンディ提供>>(シドニー=聯合ニュース)キム・キソン特派員=白いチョゴリに黒いチマ(スカート)姿の、別名、柳寛順(ユ・クァンスン)烈士韓服を着た韓人女性たちが12日、オーストラリア、シドニー中心街に登場して現地人らの目を引いた。



一年半以上も孤立したラバウル島

ラバウルは1944(昭和19)年2月20日を境に、日本国内との連絡、物資補給が途切れ、終戦まで孤立していました。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収 
     読売新聞社社会部次長 山崎英祐 「ラバウル地底戦記」



 地下の夢・百年戦争

 もぐらのように、穴から穴へ、ラバウル十万の将兵は、みんな地下へ潜った。

 朝な夕な、定期便と呼ばれる敵機群の来襲を避けて ─── 。

「たとえ、日本が敗れても、敵が内地に上陸したとしてもわれわれラバウル将兵は、二十年でも三十年でも、いのちの続くかぎり戦うのだ。絶対に降伏しない。生きぬいて、新しい日本帝国を、この南海の島に建設するんだ。覚悟はよいか、百年戦争だぞ」

 この、参謀の言葉が、いくぶん自暴自棄的な、空虚なひびきを与えても、兵隊たちは「百年戦争」かもしれない、ほんとに「新日本帝国が建設」されるのかもしれないと信ずる以外に道はなかった。

 参謀の言葉通りに空襲の間隙をぬって、防空壕掘りは、地の底がのぞかれるのではないかと思われるほど続けられ、現地自活のための農耕は、ジャングルを切り拓いて着々と進められていたからだ。

 働かざるものは食うべからず ─── これはラバウルの鉄則だ。自分の住む壕は自分で掘り、自分の食うものは自分で求めなければならない。なぜなら、ラバウルは内地との連絡を絶たれて孤立していたからだ。

 武器も、弾薬も、食糧も、何一つ内地からは届かない。腕をこまねいているだけでは、ガダルカナルと同様に、玉砕か、餓死か、二つに一つの道しかない。

 三人の闖入者

 男十万のなかに、日本人女性が三人いた。アナタハン以上である。

 一人は、徴用された船長の女房、船に一家族ごと乗り込み、開戦初期に沿岸輸送の任に当っているうち船が撃沈され、夫は行方不明という存在。夫帰る日を待っているうち内地との連絡もと絶えて、そのまま居残ったという。

 他の二人は、いわゆる慰安婦と呼ばれる存在である。

 十九年の一月、ラバウルにいた全女性は最後の内地行輸送船で送り帰されたが不幸、ラバウル湾を出て間もなく敵潜水艦のために撃沈されてしまった。

 百人ばかりの慰安婦はもちろん、船員も、便乗の、内地連絡の兵隊も、みんな溺れ死んでしまった。

 だが、この二女性だけは、泳いでラバウル近くの海岸にたどり着いたのである。

「屈強の男でさえ溺れているのに、沖合数浬(海里)をよくも泳いできたね」

 最初に救助した部隊の者が、不思議そうにきいたとき、二人の女は言った。

「死ねませんわ、こんな遠い名も知らぬ海では……和歌山まで泳いで帰るつもりだったの」

 一人の女の出身地は、和歌山県で、漁師の娘であった。小学校の頃から、紀伊半島の浜辺で泳ぎまくっていたという猛者である。

「歩くより泳ぐ方が楽なんだもんね」

 救われて、気付け薬のブドウ酒を飲みながらこう言った彼女S子だった。

 S子の年は二十三才、下ぶくれの丸顔で、海女によく見かける均整美の女であった。

ソロモン付近要図3

 いま一人M子は、沖縄の生れで、長くパラオ島で慰安婦をしていたという三十二才の女であった。

「死にたくないわ、逢いたい人がいるのよ」

 浅黒い細おもての顔をふせて、M子はこう言った。

 さて、女という女をぜんぶ帰して、玉砕態勢をとったラバウルに、こうしてちん入して来た三人の女性のために陸海軍とも頭を悩ました。

 背水の陣を布くには、これほど邪魔な、そして足手まといの存在はない。

 たった三人とはいえ、その顔や姿を見かける兵隊が、ふッと故郷を思い出したり、人間の性本能を抱いたりしたら、それは全部隊のマイナスとなる。

 三人の女のために、十二人の護衛がついた。

 田ノ浦と呼ばれる海岸にほど近い海軍司政官宿舎のそばに、三人の女のための壕が掘られニッパ椰子の家が作られた。

「絶対に、壕ならびに家屋以外には外出せざること(してはならない)」

 これが、三人の女に通達された命令である。

 着剣し、装弾した哨兵が、その宿舎の入口に立った。

 だが、性に飢える兵隊の嗅覚は、猟犬よりも敏感であった。

 噂は噂を呼んで、深夜ひそかに訪れる兵隊は数限りなく、終戦までに、二名もの犠牲者を出していた。

 別に、女性をどうこうして、おのれが本能をみたそうというのではなかった。

 ただ、なんとなく来たものらしく、

「女房を思い出そうとしたんです」

 と、歩哨に射(う)たれて息を引きとった中年の兵隊はいったという。

 翼なき飛行部隊

 十九年の一月には元日早々、敵機の来襲百機、七日には二百三十機、十四日には百六十機、十七日には二百六機と、ウナギ昇りにふえているのに、わが方は目に見えて十機、二十機と姿を消していった。

 そのころの記録によると、わが海軍航空隊の実動機数は、戦闘機八十、艦爆(艦上爆撃機)十五、艦攻(艦上攻撃機)十一、陸攻(陸上攻撃機)三十二、すべて合わせて百三十八機という半減ぶりを示している。

 同年一月末、連日の敵機猛爆撃に疲れきった部隊と交替のため、新鋭の艦戦(艦上戦闘機)六十九、艦爆三十六、艦攻二十七、計百三十二機が進出してきたが焼石に水であった。

 二月に入ると、敵機群は常に二百機をこえる大部隊で来襲してきた。

 そのうち敵機群のトラック島攻撃がはじまったので、危険を感じた海軍では、全ラバウル航空兵力のトラック島後退を指令した。

 ♪……銀翼つらねて南の前線……



 歌にまでうたわれたラバウル航空隊は、いまや戦闘機三十七、艦爆四、艦攻五という五十機にもみたぬ哀れな陣容でトラック島へと撤収して行った。

 ときに昭和十九年二月二十日。

 これをキッカケとして、ラバウルの様相は一変した。文字通りの孤立がはじまったのである。

 どっちが捕虜だ

 停戦の調印があってから二カ月ちかく経ったであろうか。待ちわびた(?)濠軍部隊がラバウルに進駐してきた。

 南の桟橋に、一列に整列して挙手の礼で迎えるわが参謀や連絡将校を、イの一番に舟艇で上陸してきたイレズミの濠州兵達は、何やら口々にわめきながら自動小銃を突きつけ、参謀肩章をむしりとって、

「ジャップ、消え失せろ」

 といったという。

 あとで考えると、彼等にとっては野蛮な鬼畜である日本軍の出迎えが薄気味悪かったにちがいない。

 とにかく進駐してきたのは濠陸軍の一個連隊三千人というわずかな兵力だからだ。

 ラバウル市内を明け渡して、山中のジャングルや椰子林に退いた日本軍のオドロキは、進駐兵力の少いこともさることながら、濠軍部隊が市の周辺にバリケードを築き、ピアノ線を張りめぐらし、機銃座を設けて防禦態勢をとったことである。

「オイ、占領部隊が円陣をつくり鉄条網を張って、戦闘準備しているぜ」

 小高い椰子林の丘から、ラバウル市街を眺める兵隊の言葉だ。

 ムリもあるまい。十万をこえる日本軍捕虜に囲まれては、わずか三千の濠陸軍では手も足も出ない。

 これでは、どっちが捕虜だかわからない。




関連記事
スポンサーサイト