HOME > 皇室 > title - 皇室と被災地との絆-みくに奉仕団
2016/03/12

皇室と被災地との絆-みくに奉仕団


東日本大震災から五年もの年月が過ぎました。

畏くも天皇陛下におかせられましては、犠牲者、行方不明者を追悼するお言葉を賜りました。

今上陛下が東日本大震災にお心をお寄せになるのは、昭和天皇がとてもお喜びになられた宮城県栗原郡から皇居清掃にやって来た「みくに奉仕団」の思い出もあってのことかとお察し申し上げる次第です。

「みくに奉仕団」とは、終戦直後、G・H・Qが日本弱体化のために日本共産党や在日朝鮮人を煽動して、日本革命を画策していたときに、荒れ果てた皇居を清掃したいと宮内省に申し出てきた勇気ある青年団でした。今につづく皇居勤労奉仕の礎を築いた人たちです。

ところで、2013年園遊会において山本太郎議員が 原発事故の実情を今上陛下に知らせるべく手紙を渡すという事件がありました。こういうのを戦前は思想犯罪の一つである「直訴(じきそ)犯罪」と言って、りっぱな犯罪でした。

「天皇に手紙を渡したくらいで騒ぐな」というヤカラもいますが、直訴犯罪とは直接行動犯罪です。戦前朝鮮人が昭和天皇を暗殺しようとした二重橋爆弾事件も、この直訴犯罪に分類されています。


【歴史を知らない国会議員が不敬をはたらく】
山本太郎直訴犯1

この平成の直訴事件が起きた時、山本議員を明治天皇に足尾銅山鉱毒事件の被害を直訴しようとした田中正造にたとえる声もありましたが、管理人は閲兵中の昭和天皇に銃を持ったまま近づいて、軍における差別を直訴した北原泰作だと思っています。

わざわざ山本議員が知らせる必要はなかったと思います。

皇室と東北地方との絆はとても強く、今上陛下は東北のことを何もかもご存じだと思います。

1927(昭和2)年11月19日
昭和天皇の閲兵中、銃を持ったまま直訴した北原泰作


出典:1988(昭和63)年 文芸春秋 「『文芸春秋』にみる昭和史」第一巻所収 北原泰作 「観兵式場・直訴者の手記」 (昭和32年4月 特集文春掲載)



 何分かかったであろうか。私は最前線に出た。先導の賀陽(かや)中将宮がおどろいて、馬上から指揮刀を振いながら「捕えろ! 捕えろ」と叫んだ。天皇と私の間隔は十歩ぐらいであった。私は訴状を左手で高くさしあげて、右手に銃を持ったまま天皇に近づいていった。天皇は呆然と、馬上から私を見下(おろ)していた。そのとき奈良侍従武官長が馬をすすめて、天皇と私の間をさえぎった。私は停止して「折敷け(右脚を折り曲げて尻の下に敷き、左膝を立てた身の構え)」の姿勢をとり、「直訴! 直訴!」と叫びながら訴状を前にさしだした。

 「捕えろ! 捕えろ!」と、また賀陽宮(かやのみや)が叫んだ。そのとき私は背後から強い力で引き倒された。起きあがると、血の気を失った奥田少尉の顔が目にはいった。

 奥田少尉が何ごとか叫んだように思った。しかしその声はかすれて、言葉にならなかった。彼は震える手で、私の背嚢をつかみ、どんどんと突き押して、私を後方へつれて行った。私はこうして捕えられて、憲兵隊に引き渡された。

(中略)

 拘置所の夜は、寒さがひしひしと迫ってきて寝つかれなかった。あれを想いこれを想うと、胸がつまった。すると木枯しに送られて唄う声が聞えてきた。「解放の歌」であった。同志たちが、私をなぐさめ、はげますために、拘置所の塀の外で唄っているのであった。私の眼から涙が流れた。

(管理人注)「解放の歌」は革命歌です。


【直訴犯罪について】

出典:1928(昭和3)年 司法省調査課 「報告書集.6」 



 第二項 直訴犯罪

 然るに近世殊に最近世に至って其(その)数の激増を示して居る事は前述したる如くであって、明治時代一件、大正時代に於て三件、昭和時代に於て今日迄七件を算し、加之(しかのみならず)、大正時代に於ては之(これ)に類似せる事件五件を発生し、事に彼(か)の大逆事件竝(ならび)に二重橋爆裂弾事件の如き、皇室を中心とせる直接行動犯罪の現出を見るに至って居る。



【平成28年 東日本大震災追悼式】

天皇陛下「国民が心を一つに寄り添って」 おことば全文
2016年3月11日 朝日新聞

■東日本大震災5周年追悼式

 東日本大震災から5年が経ちました。ここに一同と共に、震災によって亡くなった人々とその遺族に対し、深く哀悼の意を表します。

5年前の今日、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波により、2万人を超す死者、行方不明者が生じました。仙台平野を黒い壁のような波が非常な速さで押し寄せてくるテレビの映像は、決して忘れることができないものでした。このような津波に対してどのような避難の道が確保できるのか暗澹(あんたん)たる気持ちになったことが思い起こされます。また、何人もの漁業者が、船を守るために沖に向け出航していく雄々しい姿も深く心に残っています。

 このような中で、自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体関係者、さらには、一般市民が、厳しい状況の中で自らの危険や労をいとわず救助や捜索活動に携わったことに深い感謝の念を抱いています。

 地震、津波に続き、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染のため、多くの人々が避難生活を余儀なくされました。事態の改善のために努力が続けられていますが、今なお、自らの家に帰還できないでいる人々を思うと心が痛みます。

 こうした苦難の中で、政府や全国の地方自治体と一緒になって、多数のボランティアが被災者のために支援活動を行いました。また、160を超える国・地域や多数の国際機関、また在日米軍が多大な支援に当たってくれたことも忘れることはできません。

 あれから5年、皆が協力して幾多の困難を乗り越え、復興に向けて努力を続けてきました。この結果、防災施設の整備、安全な居住地域の造成、産業の再建など進展が見られました。しかし、被災地で、また避難先で、今日もなお多くの人が苦難の生活を続けています。特に、年々高齢化していく被災者を始めとし、私どもの関心の届かぬ所で、いまだ人知れず苦しんでいる人も多くいるのではないかと心に掛かります。

 困難の中にいる人々一人ひとりが取り残されることなく、一日も早く普通の生活を取り戻すことができるよう、これからも国民が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。

 日本は美しい自然に恵まれていますが、その自然は時に非常に危険な一面を見せることもあります。この度の大震災の大きな犠牲の下で学んだ教訓をいかし、国民皆が防災の心を培うとともに、それを次の世代に引き継ぎ、より安全な国土が築かれていくことを衷心より希望しています。

 今なお不自由な生活の中で、たゆみない努力を続けている人々に思いを寄せ、被災地に一日も早く安らかな日々の戻ることを一同と共に願い、御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。



命がけだった「みくに奉仕団」


みくに奉仕団が「荒れ果てた皇居の清掃をしたい」と宮内省に申し出たのは、
昭和20年11月22日のことでした。

その頃の日本はG・H・Qの煽動による共産革命運動一色で、皇室の悪口を言うのが当然といった空気に包まれていました。

G・H・Qの手先である日本共産党と在日朝鮮人は日本革命を成就させようと共産運動に狂奔し、その革命騒ぎは巣鴨プリズンの中にまで聞こえてきたと重光葵が「巣鴨日記」に記しています。


出典:1953(昭和28)年 文芸春秋新社 重光葵 「巣鴨日記」



 昭和二十一年五月十六日 木曜日 少晴

 午前中運動。

 共産党野坂等の率いる「米よこせ」民衆大会は宮城(きゅうじょう:皇居)に押しかく。戦犯問題と共に天皇の責任を追及する革命運動は内外より激化しつつあり。



それだけでなく、G・H・Qは共産党が掲げた不敬プラカードを日本官憲が起訴するとそれを阻止し、なんと帝国憲法で定められていた「皇室に対する罪」の規定を無効にしてしまいました。


出典:1961(昭和36)年 錦正社 法学博士里見岸雄 「萬世一系の天皇」 
     第一章 序説 第四節 戦前の天皇論と戦後の天皇論



 1 言論の拘束時代と無制限自由の時代

 これに対し、戦後の天皇論は、日本国憲法未だ成らざるに、早くも占領軍司令官の覚書と称する強制命令で、刑法の皇室に対する罪の規定、治安維持法などが無効とされ、引きつづいて新憲法の制定施行となり、ここに、完全なる言論自由が保障された為(た)め、皇室に対する言論も無制限自由の下におかれ、欣喜雀躍した共産系乃至(ないし)これに準ずる者共は多年の鬱憤をはらすは此(この)時と怨恨憎悪を爆発させるに至った。所謂(いわゆる)プラカード事件などはその最も下等な表現の一つであって、日本の官憲は之(これ)を罰しようとして起訴したが、マッカーサーの阻止するところとなり、不敬罪適用の思想はわが司法官庁から払拭されざるを得ない破目に追い込まれた。

【不敬プラカード】
「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ 日本共産党 田中精機細胞」。
不敬罪に問われたプラカード


終戦直後の日本は現在日本よりももっと赤くて、皇室を案じて…などと口にすれば、G・H・Qに逮捕され、処罰される危険がありました。

そのため、みくに奉仕団は故郷で水盃(みずさかずき)を交わして東京に来たのだそうです。

宮内省は宮内省で青年団の思いを実らせようとし、そして外出もままならない
昭和天皇のお膝元に彼らを引き寄せようと、いろいろと手を尽くして勤労奉仕を実現しました。

昭和天皇はたいへんお喜びになられ、みくに奉仕団の作業現場にお出ましになられて、約三十分にわたり親しくお言葉を交わされたそうです。

そして午後には皇后陛下がお出ましになられ、ご成婚後は東宮同妃両殿下
(今上天皇皇后両陛下)も勤労奉仕の人々とお会いになることをお喜びになったそうです。

遠く宮城県から、買い出しや復員でぎゅうぎゅう詰めの汽車に立ったまま揺られ、東京に到着した青年団は、地元に居残りになった青年たちがそれぞれさかずき一杯ずつの餅米を持ち寄って作った紅白の餅を昭和天皇に献上したいと申し出ました。

その時の紅白のお餅を、今上陛下も召し上がったかも知れませんね。

しかし、戦前の宮内省は本当にりっぱでした。


【昭和天皇】
shouwatennou1.jpg


出典:1987(昭和62)年 日本教文社 元宮内省総務課長 筧素彦 
     「今上陛下と母宮貞明皇后」 第一回皇居勤労奉仕



 栗原郡からの来訪者

戦(たたかひ)にやぶれしあとのいまもなほ民のよりきてここに草とる

をちこちの民のまゐ(い)きてうれしくぞ宮居(みやい)のうちにけふもまたあふ

 以上の二首は、昭和二十年の末に始まった皇居内の勤労奉仕について陛下がお詠みになったものである。

 昭和二十年十二月八日、皇居勤労奉仕が口火を切られて以来既に四十一年、天皇、皇后両陛下は、その最初の日から親しくお出ましになって、直接、地方の事情について御下問(ごかもん)になり、激励のお言葉を賜っておられる。

 また、両陛下のみならず、貞明皇后さまも、皇太子さま方も勤労奉仕の人達とお会いになることを大へん喜んでおいでになって、それが実に今日までつづいているということは、その発端に関係した私としては、本当に喜びにたえないところである。

 昭和二十年十二月といえば、八月十五日の終戦によって国民は均しく呆然自失、そこへ連合軍が進駐し、いろいろな命令を出し、その違反者を処罰し、また今まで国のため戦争遂行に尽力して来た者たちを追放し、さらには戦犯として処断しようとしていた。また、日本弱体化の占領政策に協力させる目的で解放された人々は時を得顔に振る舞って連合国と共に天皇の責任追及に狂奔、一般国民またこれに同調、陸海軍は解体され、特高警察も廃止され、官僚達はG・H・Qに睨まれないように戦々兢々(せんせんきょうきょう)としていた頃のことである。

【米兵監督下で吸殻拾いをさせられる日本人たち】
米軍命令吸殻拾い1945

【G・H・Qが府中刑務所から解放した日本共産党徳田球一ら】
tokuda_kyuichi_20160219084637fae.jpg

【1946(昭和21)年第17回メーデー@皇居前広場】
19460501_mayday.jpg

【1949(昭和24)年 日本共産党と在日朝鮮人による平事件
共産運動平事件1949

【1949(昭和24)年 シベリア引揚者の赤旗デモ】
シベリア引揚者の赤旗デモ1949

【1949(昭和24)年 在日朝鮮人の踊って日本革命@東京深川】
在日朝鮮人デモ1949深川

 その頃の皇居(戦前は宮城といった)の有様はどうかというと、緑青色の銅屋根の美しかった宮殿は五月に焼失し、そのあとは片付けもままならぬ瓦礫(がれき)の山、周辺の土手は雑草がしげり、二重橋前の広場も荒廃して、照明燈はこわれ、清掃管理も行き届かず、真正面には占領軍の観兵式用の丸太を組んだ大スタンドが二カ所もつくられているという、まことに情け無い有様であった。しかも食糧は窮乏し、交通は困難を極め、衣料は不足し、宿舎なども無いにひとしかった。

 このような十一月も末の二十二日、突然、大臣官房総務課長の私のところへ、皇居坂下門を守衛している皇宮警手からの電話が鳴った。

「唯今(ただいま)ここに二人連れが見えて、皇居外苑の草刈りをさせてほしいとのことで総務課長にお目にかかりたいと言っていますが、どうしましょうか」

とのことである。どういう人達か、と聞くと、宮城県栗原郡青年団有志の代表であるとのこと。

 私はこれを聞いて、正直のところ耳を疑った。今どき、皇室の悪口でも言うのが一(ひと)かどの利(き)け者のように思われ、しかもG・H・Qの顔色ばかり窺(うかが)ってびくびくしている人達ばかりかと思っていたのに、こんな頼もしい人々がいるとは。また、それが、あの堅実な東北地方の米作の中枢である栗原郡と聞き、栗原郡なら間違いないと考え、即刻お通しするように伝えた。

 実は私は栗原郡については若干知るところがあったのである。それは、かねて家内の実家のある仙台へ疎開させてあった家族が、仙台空襲後、栗原郡の若柳町に再疎開していたため、そこが堆肥増産のための草刈り競争で何度も日本一となり、しかもそのあたりの人々がいかにまじめな親切な人達であるかを知っていたからであった。

 独断専行

 やがて、課長室の扉を排して現われた二人連れを見ると、一人は年の頃四十五か六位、もう一人は、それより十位若いように見受けられた。

 年長の鈴木徳一さんは慶大の理財科出身で、卒業後は暫(しばら)く消費者組合の研究のためアメリカに留学。帰朝後は、曾(かつ)て明治神宮御造営に青年団が奉仕して以来わが国における青年の指導者の草分け的存在となった田沢義鋪(たざわよしはる)先生のもとで、日本青年館に勤務して全国の青壮年の指導教育に当たった。戦争末期には翼賛青年団の部長として田沢先生やその親友の後藤文夫先生を輔(たす)けて活躍した人である。

 若い方の長谷川峻さんは、郷里栗原郡の築館中学校では鈴木さんの後輩、上京して早大政経に学びつつ中野正剛(なかのせいごう)先生の書生、門下となって指導感化を受け、東條内閣時代に師と連座して捕われた。東久邇(ひがしくに)内閣では緒方国務大臣の秘書官となったが、その後、総辞職によって郷里に帰り、青年の指導に挺身中であった。この長谷川さんこそ後に衆議院議員となり労働大臣二回、運輸大臣をも勤め、永年在職の表彰まで受けた、あの長谷川峻その人であった。

 以上の説明は後になって知ったことで、当時はそんなに詳細に知ったわけではなかったが、年長の鈴木さんは、むしろ訥々(とつとつ)とした調子で、熱誠こめて話し出され、長谷川さんはなかなか雄弁で、その吐露されるところ肯綮(こうけい:物事の急所、要点)にあたり、将来政治家に適するように感ぜられた。

 お二人の話の要旨は、荒廃している皇居外苑の草刈り奉仕を許可して貰いたいというのである。御両人こもごも話されるところによると、地方で闇(闇市のこと)は横行し、思想悪化(共産主義に染まること)は滔々(とうとう)として若い層をむしばみつつあるが、中堅の青年の中には、国の将来を憂え、皇室の上をお案じして、手弁当ででも上京して、荒廃したと聞く皇居内外の清掃奉仕なりとも行いたいという気運が生じつつあるという。

 参加者の具体的氏名は未だ確定するには至らないが凡(およ)そ六十名位と考えている。宿舎、食糧、乗車券などの問題は先(ま)ず参加者を確認した上で全力を尽くしてその実現を期する決意であるという。

 私は今の時節、命知らずの無鉄砲とも思えるこの話を聞いて腹の底から感動した。第一お二人の眼の光がちがう。その眉宇(びう:まゆのあたり)には非常な決意が漲(みなぎ)っているのを見て、全く頭の下がる思いがすると共に、これは何とかして実現したいもの、否(いな)、是非実現しなければならぬと考えた。それは単に清掃とか片付けというだけのことではなしに、陛下がなかなか外へお出ましになることのむつかしい折柄であるから、逆に皆をお膝もとの方へ引き寄せることが望ましいと思ったからであった。

 しかし、その頃は前述したように、G・H・Qに睨まれたら大変である。こんなことをあちこち相談したら、とんでも無い、止(よ)せ、と言われるにきまっている。組織の中に居ながら独断専行をするなどということがよろしくない位は百も承知であるが、相手は遠いところを、この交通至難の折柄、苦労して上京して来た人達である。役所流にぐずぐずしている訳(わけ)には参らない。ましてや書類を起草して回議すれば、時間を要するばかりか、例によって消極論が出て、大事を取れと言うにきまっている。

【終戦後の買い出し】
買い出し1

買い出し2

 私は内心、毎日同じ釜の飯を食って朝に夕に話し合って、その気心も十分に判(わか)っているつもりの直系上官である大金次官と加藤官房主管は必ずや自分と同意見であるに相違ないと確信してはいた。が、時局柄、事は甚(はなは)だ重大であるから、ちょっと内々念を押しておくつもりで次官室に行き、大金さんにこの話をしたところ、大金さんは意外にも「わたしは賛成し兼ねるな」とのこと。「それは何故(なぜ)」と喰ってかかると、次官曰(いわ)く、「過去幾多のわたしの経験からすると、この種の企ては始めは純粋で良いのだが、必ずしも期待通りの結果が得られなかったこともあるし、次次と同じようなものが出て来るとマンネリ化して堕落する弊害もあるので、自分としては賛成し兼ねるな」とのことであった。

私にもその趣旨はよくよく諒解出来たので、「それには私自身、そのつど十分に留意して必ず御趣旨に副うようにしますから」、と執拗に喰い下がったところ、次官もとうとう「君がそんなに熱心に言うなら君に一切委(まか)せる」とのことであった。

 私は大いに喜んで、お礼を述べると共に早速、鈴木、長谷川両氏の待っていられる課長室に取って返して承諾の旨を伝えたところ、恐らく、断られるか、相当の日時を要するのではないかと思っておられた御両人は、相当びっくりされた模様であった。

 そこで、「宿舎、乗車券など困難な事情もあるでしょうが、何時(いつ)頃来られますか」と訊ねると、「半月位あとなら大丈夫です」とのことなので、十二月八日から三日間ということに決定したのであった。この十二月八日は興亜奉公日であったが、戦争も終わったことではあるし、その時はまったく偶然その日となったことなので全く意に介していなかった。

 以上のような経緯で御両名は栗原郡へと帰って行ったのであった。

 水盃で上京

 そのあと私は侍従次長の木下道雄さんを訪ね、事の顛末を話した。木下さんはこれ又私の尊敬している先輩である。大へんまじめな方であり、昔、内閣書記官から宮内省に転じ、侍従、官房秘書課長、総務課長、内匠頭(たくみのかみ)、帝室会計審査局長官、皇后宮大夫兼侍従次長を歴任された。昭和十二年頃の審査局長官時代には、たまたまその頃に設置された防空部の部長を兼ねられ、私も参事官で防空部員を兼ねていたので、防空計画樹立のため二人で京都へ出張して紫宸殿(ししんでん)などの天井裏までも一緒にもぐったこともあり、いろいろ積極的な思いつきを断行する方であった。

 その木下さんは、この勤労奉仕の申し出にいたく感動し又(また)喜ばれ、大いに協力を惜しまない旨を強調され、奥(側近方面)の方のことは一切引き受けたと言明された。従って、陛下のお耳にも木下さんから直ちに達したので、陛下も大変およろこびになってお待ち下さったのであった。

 木下さんが、その著『宮中見聞録』の中に「皇居勤労奉仕発端物語」という見出しで名文を書いておられるが、それには、十二月八日、「何の前ぶれもなく突然六十人ばかりの青年の一群が現われた」とある。木下さんが皆に会われたのはその時がはじめてであったからである。

 前記両代表と二、三の幹部は、その前日の十二月七日の四時頃上京報告のために来省し、私と打ち合わせを実施したのであった。私としては、その後、あの食料不足、宿舎難、乗車券入手も容易でない折柄をはたして約束通りに顔ぶれを揃えることができたであろうか、乗車券を手に入れることが出来たであろうか、宿舎はと心配していたのであったが、各位の非常な苦心の結果、これらの問題はすべてがうまく解決したばかりでなく、志願者も予想を超えた多数となり、定員を超えた人達は次の機会にと待機することとなった由(よし)。

 しかも時局柄、場合によっては進駐軍に捕らえられ処罰されるかもしれないと、殆(ほとん)どの人が水盃をして、決死の覚悟で上京して来たと聞かされ、その決意には深い感動を覚えずにはいられなかった。宿舎は、調布に近い国領というところにある東京重機という会社の空いている寮を辛(かろ)うじて見つけたとのことで、そこから毎日、遠路を皇居まで通って来るのだそうである。交通機関の整備した今日とはちがい、極端に交通不便なあの当時としては、毎日の往復は並み大抵のことではないと同情したが、さりとて他に名案も無かったので已(や)むを得ない次第であった。 ─── その後はいろいろ検討の結果、皇居内に泊れるように工夫もしたのであったが ───

 奉仕の場所は、当初は外苑の草刈りでもという申し出であったが、木下侍従次長と相談の結果、どうせのことなら、片付けが間に合わず荒廃したままになっている宮殿の焼け跡の片付けをお願いしようということになり、この旨を伝えたところ鈴木、長谷川両氏の喜びようは大変なものであった。また、奉仕志願者で第一回の選に洩れた青年達が、各自盃に一ぱいずつの餅米を持ち寄って紅白の餅を作り、それを陛下にぜひ差し上げたいということで托(託)されて持参したとの話。

 やれ統制物資がどうの、献上は正規の手続きを履(ふ)むべきだのということはこの際問題ではない。こういう本当の真心のこもった献上は何よりのものと確信したので、それはまことに結構だから明日お持ち下さいと返答したところ、代表の御両人も大安心、大よろこびであった。

 序(ついで)に言っておくが、献上についてとやかく言うのは、下心のある献上、広告とか名誉とかの私利私欲につながるもの、あるいは巨費を要するものなどを防遏(ぼうあつ:ふせぎとめること)するためであり、その所管はわが総務課であるが、真心こもったこの種のものをとやかく言うようなケチな根性は全く持ち合わせていないということを御諒解願いたいと思う。

 十二月八日、初奉仕

 明(あ)くれば昭和二十年十二月八日土曜日である。勤労奉仕の時刻表は予定として次の如くに一応は定められていた。

  九時-十時半 (休憩) 十五分
  十時四十五分-正午 (休憩) 三十分
  十二時半-十四時 (休憩) 二十分
  十四時二十分-十六時 

 作業開始前の打ち合わせ等もあるので、八時までにはということで、団員諸氏は午前二時に起床したという。総員六十三名は勝手不案内の交通機関を利用して、遠路、調布近くの国領から三々五々東京駅に辿(たど)りつき、七時半頃には殆ど全員が坂下門外に集合されたのであったが、現在とはちがい、皆さんどんなにか御苦労であったことか、今さらにつくづく思う次第である。

 この時の団長は鈴木徳一、副団長は長谷川峻の両氏。それにオブザーバーとして後日に記録をとの長谷川さんの配慮もあって特別に参加を要請された木村毅早大教授、そして団員は男子五十三名、女子七名、計六十名、以上総員六十三名であった。

 その名称は、「みくに奉仕団」であった。

 八時すぎ、全員参集完了の報告があったので木下さんに電話すると熱心な侍従次長は自分もぜひ一緒に会いたいとのことなので連れ立って坂下門外にまで出向いた。

 青年達は殆どが二十代の青年である。みなとりどりの労働用の服装で、娘さんたちはもんぺ姿である。そして皆一挺(いっちょう)ずつ鎌を携え、食糧は無論のこと、中にはシャベルや箒(ほうき)を担いでいる者もある。よくまあ門外の何カ所にも立っている進駐軍の歩哨の前を恐れることもなく、ここまで辿り着いたものであると頼もしく思い、大へんうれしく感じたことであった。

 私たちは、御一同に対して一場の挨拶(あいさつ)をしたあと、先に立ってその日の作業場として予定された宮殿の焼け跡へと誘導し、途中焼け跡を一望出来る東車寄(ひがしくるまよせ)あたりに立って、これから作業をして貰う場所や作業の内容について説明をすると共に、後刻作業中に或(あるい)は陛下がお姿をお見せになることがあるかも知れない旨をほのめかした。

 ここで一つ付け加えておきたいことがある。それは、今まで一言も他言したことはなかったのであるが、十一月二十二日に鈴木、長谷川両氏にお目にかかった時、長谷川さんは将来、国会議員の選挙に立候補されるに相違ないと思ったので、甚だ失礼な申し分であったが、これを選挙の道具に使わないでいただきたい、と敢えて言ったものであった。はたして長谷川さんは後年選挙に立たれて見事に当選し、命がけの本当の政治家として活躍されたのであるが、最初の立候補の折には念のため一筆認(したた)めた手紙を出して念を押したこともあった。

 ところがその後、当時(昭和二十八年四月)の選挙公報を拝見して感心した。それには約束通り、皇居勤労奉仕については全く触れてないのである。一言半句も無い。無論、郷土の人達は知りつくしていることは当然であるが、とにかく、その後においても極めて慎重な態度をとっておられることはまことに敬服の至りで、立候補当時、手紙で念を押したなどということはまことに失礼千万であり、申しわけのないことであったと思っている。やはり、ここに長谷川さんの値打ちがあるものと思う次第である。

 涙ながらの君が代斉唱

 この奉仕行に参加した青年たちは、本当に皇室を愛し、命がけで陛下のお膝元にやって来た人達であるから、皆、眼の光り方がちがうのである。

 殺人的混雑の夜行列車で、長時間立ったままで一睡も出来ずに上京したあげく、遠く且つ時間のかかる国領の宿舎まで辿り着き、硝子(ガラス)は破れ、あちこち破損している宿舎に入って十分な休息をとる間もなく、翌朝は二時起き、そして、いろいろの道具を持って又皇居まで、というのであるから、本来ならば疲労困憊(こんぱい:疲れ果てること)しているに相違ないにも拘(かかわ)らず、皆ひとしくピチピチと緊張し、且つ喜びに溢れているのである。人間の精神力とは実に大したものである。

 そして、その仕事ぶりたるや、手もつけられぬ位に散乱している瓦礫の山を、実に丁寧(ていねい)且つ手際よく、整然と片づけるのには、木下次長も私も全く感歎(嘆)した。殊に木下さんは、その分類しての積み方が芸術的であるとさえ感歎する始末であった。

 天皇陛下が、お出ましになったのは正午近い頃であったが、みな夢中で仕事をしていて団長から声を掛けられるまで気のつかない人達が多かった。

 この日は幸いによく晴れていた。青年達もあるいは陛下のお姿が拝せるかもしれないと聞かされていたが、すぐ近くで陛下を拝し、しかも三十分近く団長にいろいろと御下問があったので、一同の感激は最高潮に達した模様であった。陛下のお供をして来た木下侍従次長はお側(そば)にあって司会者的役割を勤めたが、青年達は始めて現実にお姿を拝した上に、直接、お声まで承ることができて夢のような気持ちであったという。

 この時の御下問奉答は鈴木団長が「みくに奉仕団由来記」に詳しく述べているので、以下に転載する。

「奉仕はだんだん進んで正午近くなった頃です。静かだった奥御殿の石垣の上に、かすかに人の群の気配がするので、ひょっと見上げると、陛下がお立ちになって、こちらをご覧になっておられます。そばには木下侍従次長さんがお付きになっている。私は全員に合図をして陛下に最敬礼をしました。そしてすぐ又仕事にとりかかっておりますと、お付きの方が見えて、陛下がお呼びだという。私は作業衣のまま石段を上って御前にまいりますと、木下次長さんがお取り次ぎで、いろいろと御下問を賜りました。最初に陛下の仰せられたお言葉は『どうも御苦労』ということでした。私は恐懼(きょうく:おそれかしこまること)しつつ御礼を申し上げました。

『このたびは外苑の草刈りに奉仕いたすつもりで参上いたしましたところ、特別のお計らいで皇居深く参入を許され御殿跡の清掃に奉仕できましたことは無上の光栄でございます。青年たちもかくのごとく感激に打ちふるえながら働いております』と申しあげると
『ご苦労』というお言葉を更に賜り、つづいて、『汽車が大へん混雑するというが、どうやって来たか』
『栗原というところはどんなところか』
『米作の状況はどうか』
『どんな動機で来たのか』

など、いろいろご下問がありました。ほんの四、五尺(一尺は約30~37センチ)隔てて拝する陛下のお顔は、大へんおやつれになっておられました。お言葉の合間、時々軽く頭をおふりになるのも戦時中の極度のご心労とご激務のご疲労から来る軽い御発作のためかと、お察し申し上げるだに懼(おそ)れ多いことでありました。今年は米作は半作(はんさく:穀物の収穫が平年作の半分であること)ですが、栗原の農民は少しもへこたれておりません。草根を粉にして食ってでも強く生き抜こうと、いま粉食の実践に一所懸命なことも申し上げました。
 
 栗原という郡は宮城県では一番大きい郡で、宮城県の北海道とも言われています。農業が大半で、山地では馬も産します。朝早く起きて草を刈り、馬を肥やし、堆肥をつくって米を増産する。だから草を刈ることは昔から堪能で、ここ数年荒川土手の草刈競争では、この郡の青年は、いつも第一位を確保して来ましたと申し上げますと『あの草刈競争のことは新聞で見て知っている』と仰せられてお笑いになりました。戦争後期の最も繁忙を極めたご政務の中で、草刈競争のことまでご記憶に止(とど)めておられたことを拝承して驚いた次第です。

 約三十分、私はご下問ごとに、ありのままを率直にお答え申し上げましたが、そのつど『ご苦労』とか『ありがとう』とか仰せられ恐懼にたえませんでした」

 陛下がお帰りの折自然にわき起った君が代も、誰が音頭をとったというわけでもなく、勿論(もちろん)、はじめから計画したどころではなく、本当に自然に、已むに已まれず湧き上がったものであった。はじめは低く小さく、やがて次第に大きくなっていった。

 陛下が、それにお気付きになって、歩みを止めて振り返られると、おみあしをお止めしてはと躊躇する者もあり、また感極まって泣きながら歌う者も出て、遂にはすすり泣く声に変わった。終戦後、国旗の掲揚は禁止され、君が代も全く歌われずという折柄、青空のもと、声を限りに歌われた君が代は実にこれがはじめてであり、その感激は四十年後の今でも生々しい記憶として蘇って来るのである。

 皇后さまのお出ましは午后(後)であった。

 皇后さまが天皇陛下と別にお出ましになったのは、午前中はまだ、引き揚げ者の年寄りや子供達が薄着のままで寒さにふるえているのをご心配になって、あちこちから残りぎれや綿などをお集めになり、女官を相手にチャンチャンコなどを縫う作業をなさっている最中であった由。

 陛下はお戻りになって直(す)ぐ、皇后さまにも、ぜひ後で行って見るようにと仰せられた由で、この時も木下さんが皇后宮大夫としてお供をして来られ、やはり司会者の役割を勤められたのであった。

 その時、女子青年の代表として皇后さまにお答えを申し上げたのは佐藤文子さんであった。

 あの時、六〇枚余の乗車券が入手出来たのは国務大臣秘書官の前歴を持つ長谷川さんが、当時の鉄道事務次官平山孝さんに事情を話し、平山さんがこれに全面的に賛意を表して協力した結果と聞いている。

 あの当時、奉仕のニュースが一たび新聞紙上に報道されると、奉仕の志願者は次々と現われ、それを受け入れることが宮内庁の重要な仕事となり、両陛下はじめ皇太后陛下、東宮同妃両殿下はじめ皆さま方も、勤労奉仕の人達とお会いになることをお喜び下さって、それが遂に今日にまで及んだことは本当に感慨無量である。一度勤労奉仕を体験し、陛下、殿下のお姿に接し、お言葉をうかがった人達はより一層の親近感を覚えると聞く。

 四十年後の今日、諸事整備、生活も安穏、交通も至便となり、奉仕の条件も恵まれているが、非常な決意をもって、その口火を切った人達のことは、ぜひ知っておいていただきたいと思う。

 そこで、一言しておきたいことは、私が、当時の次官で後の侍従長大金益次郎さんから念を押されたこと、即ちマンネリの弊を生ぜしめないという一事である。私は、かねてこれを案じて、一度打ち切って、再び気運の盛り上がった時に再開すべしと、屢々(しばしば)主張したのであった。が、幸いにして奉仕の希望は止まることを知らず、何年先までも予約が有るからとのことで遂に今日に及んだことは、本当にありがたく且つうれしいことと思う一方、どうか物見遊山、東京見物の序(ついで)ということに堕落しないよう戒心を怠らないで欲しいと思うのである。



皇居勤労奉仕はこちらです☞ 宮内庁 皇居勤労奉仕のご案内




関連記事
スポンサーサイト