HOME > 対日ヘイト・ヘイトスピーチ > title - 在韓日本人二世、三世がいない理由と日本人差別
2016/02/20

在韓日本人二世、三世がいない理由と日本人差別


在韓または在北朝鮮日本人二世、三世がいないのは、アメリカ軍とソ連軍に強制送還されたからです。

当時の在鮮日本人の中には、現在の在日朝鮮人(韓国人)と同じで朝鮮で生まれ育ち、日本のことはよく知らないという人々もいました。

また現在の在日朝鮮人(韓国人)と同じで、朝鮮で生活の基盤を築いた日本人もいましたし、終戦後北鮮にいる家族の安否が気がかりで南鮮に在留したいと希望する日本人たちもいました。

しかし、米ソ両軍はそんなことはお構いなしでした。

朝鮮半島の極寒や虐殺をまぬがれた日本人たちは全財産を没収されたあと、容赦なく日本へ強制送還されました。

これが現在の朝鮮半島に、在鮮日本人の子孫がいない理由です。

しかも戦時中は朝鮮人も「日本人」だったはずですが、米軍は帰鮮する日本在留朝鮮人を優遇し、強制送還する日本人は冷遇して徹底的に差別しました。


【1949(昭和24)年4月27日 在日朝鮮人デモ@東京深川】
朝鮮人は強制送還してもまた日本に密航してきて革命運動に狂奔した。朝鮮独立運動の名の下に日本人を虐殺し、次は日本革命を企図する。在日朝鮮人デモ1949深川

【1946(昭和21)年5月1日 第17回メーデー】
皇居前広場に押し寄せた日本共産党と群衆。日本にも革命一歩手前という時があった。第17回メーデー皇居前広場1946


【なぜ在鮮日本人二世、三世がいないのかその理由を知ってるか?】

在日コリアン「明日への希望」 三部作を再演 新国立劇場
2016年2月18日 東京新聞

 「月はどっちに出ている」(一九九三年)や「血と骨」(二〇〇四年)など、在日コリアンらを描いた映画脚本で知られる劇作家・演出家の鄭義信(チョンウィシン)(58)。東京・新国立劇場に書き下ろした戯曲の三部作「焼肉ドラゴン」「たとえば野に咲く花のように」「パーマ屋スミレ」を、同劇場が三月から連続再演する。「歴史の波に翻弄(ほんろう)された名もなき人たちの物語。ヘイトスピーチが横行する今だから、在日の歴史を知ってほしい」と語る。 (五十住和樹)

 初演のころは韓流ブームだったが、今は嫌韓を口にする人が目立つ。ヘイトスピーチの動画にサラリーマンや女性がいるのを見て、鄭は「普通の人たちの不満のはけ口になっているのは、時代の流れが悪い」。この三部作で、在日韓国人がなぜ日本にいるのかという歴史的な認識を持ってほしいと願う。(後略)

ソース元URL:http://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/news/CK2016021802000215.html



本国送還における米軍の日本人差別
1. 持ち帰り荷物における日本人差別


南鮮在留日本人の引揚げ

1946(昭和21)年3月8日、米軍政命令により日本人強制送還が決定しました。

残留の猶予が許可されたのは、在鮮日本人を安全に日本に帰国させるために、日本人が自発的に組織した日本人世話会などの世話人たちでしたが、この人々も日本敗戦から三年後に日本に帰国しました。

中には北鮮にいる家族を案じるあまり、危険な三八線を越えて北鮮に入っていった人たちもいたそうです。その人たちがどうなったかは不明です。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
元京城日本人世話会 森田●夫 「三八戦に変貌する北と南 -朝鮮引揚史 その三-」



 総引揚命令

 三月八日、米軍政長官代理シーク大将は、

「米軍政庁により、必要とするもの以外の全日本人は、できるだけ速(すみや)かに朝鮮を撤退、日本に帰国すべし。その期間は三週間をこえざる(こえない)こと、軍政庁より前もって承認された文書を保持するにあらざれば(していなければ)、絶対に六週間をこえざること」

 の命を発し、三月十四日附で、米軍政庁エンダース外務課長は、

「日本人は二週間以内に日本に帰還すべきこと、とくに在留をみとめられない日本人で、四月一日までに出発しないものは、即決処分をうくべし(受けること)」

 と発表した。従来幾度か外務課を通じておこなわれた日本人引揚の指示は軍政命令ではなかった。ここに命令としてだされたのである。

 北に思いを馳せて

 北に家族をおいていた人達は、毎日戦災者名簿をみて、安否を気づかいつつ京城に止(とどま)っていた。しかしもう京城に残ることは許されなかった。多くは引揚を決意した。一部は世話会職員に混入した。

 しかしごく少数の人達は、悲愴な決意をいだいて三八線をこえて、北の家族のいる地に入って行った。



帰鮮朝鮮人に許可された手荷物

帰鮮朝鮮人は着物、個人の身の回り品、家具など500ポンド(≒226.8キログラム)までの荷物を朝鮮に持ち帰ることが許可されました。

それに加え、手工業、軽工業用の機械なども2トンまでは持ち帰ることが許可されました。


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C15010116700:陸軍省|総務課 「終連報丙第269号 昭和21年7月16日 総務課 引揚関係省連絡事項(7月15日)」



終連 朝鮮人送還に関し新指令発令 要旨 1.持返り荷物の増加即現在迄二五〇封度(ポンド)を八月一日より左記物品に関しては五〇〇封度(ポンド)迄携行を許可す 着物、個人の見廻品、家具 2.前項の外(ほか)或(ある)種の手工業、軽工業用雑機械器具類にして四、〇〇〇封度(ポンド)以内(二瓲:トン)迄を許可

引揚朝鮮人1


強制送還日本人に許可された荷物

米軍は朝鮮に進駐して間もない1945(昭和20)年8月17日、米軍政布告第三号を公布して日本人の通貨輸出入を禁止しました。

これにより、日本人は 「紙幣、貨幣、債券」 といった財産を日本に持ち帰れなくなりました。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
元京城日本人世話会 森田●夫 「解放の嵐の中に-朝鮮引揚史 その二-」



 恨まれたラジオ放送

 八月十七日の財務局長の放送は、一般日本人の最大関心事だけに、全鮮にひろく徹底した。盗難をおそれて、出した金をまた預入れた人達もおり、また札束では持帰りが困難なのでわざわざ送金小切手にかえたものもいた。引出を抑制した効果は相当にあった。

 総督府はこの預金通帳をもち帰った場合、それから月五百円の引出のことと、小切手の件について、大蔵省に交渉してその同意を得た。九月二十三日までは日本内で実行された。しかし二十三日以後は、送金小切手は米軍命によりその言明と違って無効となってしまった。

 さらに米軍政布告第三号に通貨の輸出入禁止が発表され、 「紙幣、貨幣および債券の輸出入をふくむ対外金融取引の禁止」 の条項の債券に貯金通帳が当る見解がとられ、計画輸送の当初には、日本に持帰りが認められなかった。所有者に釜山で受領書を交付の上とりあげられることになった。

 これは十二月中旬に解除されたが、その間の引揚者は没収されたもの多くまた持帰れぬものならばとて、二、三割引の値で朝鮮人に廉売したものも多かった。



一方日本人に持ち帰りが許可された荷物は、現金1000円、毛布一枚、手荷物二個まででした。

米軍は現金や債券、貴金属や反物、家具などの持ち出しを一切禁止し、没収しました。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
元京城日本人世話会 森田●夫 「三八線に変貌する北と南-朝鮮引揚史 その三-」



 貨車をつないだ引揚列車

 引揚者の身体検査は、米軍が厳重に実施しているが、現在の持出し禁止品は、金銀製品、宝石、株券、反物、絹物、夜具などで、毛布はさしつかえなく、現金は一千円までである。



1945(昭和20)年10月、米軍は在留日本人に 「帰国する時は手荷物二個までとする。残りの家財はあとで日本に送らせる」ことと、日本人が財産を朝鮮人に売渡すことを許可し、売り渡した代金を封鎖していた朝鮮銀行に預入れることを特別に許可しました。

しかし、米軍の言葉を信じた日本人が言われたとおりにしたところ、米軍は12月になって米軍政法令三十三号を公布して、日本人の財産および日本国の資産一切を没収しました。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
元京城日本人世話会 森田●夫 「三八線に変貌する北と南 -朝鮮引揚史 その三-」



 引揚者の恨み軍政法令三十三号
 
 南鮮からの引揚日本人に痛恨事がある。

 それは、二十年十二月六日に法令三十三号によって、この年九月二十五日以後、日本国家および個人の財産は一切米軍政庁の取得と宣言されたことである。

 米軍は十月に、日本人がその財産を朝鮮人に売渡す途(みち)を開いて、特別に朝鮮銀行に封鎖された貯金通帳に入れることを、みとめた。それが一切無効となった。

 また荷物も一人二個まではみとめてそれを世話会にあとで送らせるということについて、民政長官プレスコット大佐の手紙まででていた。京城の世話会はそのために特別に荷物輸送部をつくって、禁制品の指示をし、保管料までとって約二万四千個の荷物をあずかっていた。

 釜山でも、約二万八千個あずかっていた。大邱(たいきゅう)、大田(たいでん)、群山(ぐんさん)、全州(ぜんしゅう)、その他の土地でもこの荷物の保管はおこなわれた。それがこの法令がでてから一切没収され、世話会はその後、懸命に陳情をかさねたが、遂にゆるされなかった(台湾や華北ではこの托(託)送がみとめられたのに)

 引揚者は自分の財産の中から、わずか一人二個の荷物をまとめるために、本当に大事なものだけをえらんで入れた。 「荷物はあとでくるから」 とて気軽な気持で手廻り品だけで帰ってきた者に、いつまでたってもこの荷物は帰ってこなかった。子供をつれて帰るためにこの荷物にとっておきの着物を入れた女達の思出(おもいで)はかなしい。



日本人は家具の持ち帰りも禁止されたため、捨て値で朝鮮人に売り払ったそうです。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
元京城日本人世話会 森田●夫 「三八線に変貌する北と南 -朝鮮引揚史 その三-」



 引揚状況

 地方の人たちは、相当治安のわるい中を、無理して家財を大田(たいでん)まで運んだが、この持かえりができないことがわかり、捨(すて)うりしようとし、これを買いあさる朝鮮人で大きな臨時市場が開かれて混雑をきわめていた。



本国送還における米軍の日本人差別
2. 安全上における日本人差別


GHQは日本政府に、日本負担で帰鮮する朝鮮人に完全なる警護を付け、仙崎、博多両港で通貨交換することも指令しました。


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A05020306400:内務省 「昭和21年度第2予備金支出要求書朝鮮人送還費」



昭和二十一年四月九日付連合軍総司令官発帝国政府覚書に依って本邦在住の朝鮮人、台湾人、中国人合計約五十三万人ヲ来る九月三十日迄に送還すると共に送還朝鮮人に対しては仙崎、博多の両港で通貨交換を行ふことを指令された既に一部実施中であるが終戦直後の翠、鮮、台人送還の経験に鑑み今回も警備上の事故の頻発は予想されるので其の警備を完全にする必要がある、仍(よっ)て此の経費を必要とする 朝鮮人等の送還警備に要する経費内訳 区分 金額 備考(以下省略)

朝鮮人送還費用1


一方、在鮮日本人が朝鮮人に襲撃され、住宅や財産を奪われようと殺されようと、米軍が日本人を保護することはありませんでした。

在日米軍が朝鮮半島のためには血を流しても、日本人のために血を流したことが一回もないのと同じです。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
元京城日報社 中保与作 「略奪と赤色の劫火」



 四面悉(ことごと)く強盗の声

 米軍の保護は、少しも一般の日本人には及ばなかった。日本人がどんな被害をうけても、それを取調べようともせぬ。言葉という不自由な障壁があるせいもあるが、どこまでも日鮮双方の争いに割りこみたくないという態度である。目の前で行われる暴力沙汰は一応押えるが、

「いま、強盗が入ったから……」

 と、MPの駐屯所に愬(うった)えても、駈(か)けつけてくれはしない。知ってか知らずにか、家を強奪しようとする朝鮮人に同行している米軍大尉もあった。



本国送還における米軍の日本人差別
3.在留における日本人差別


米軍は日本人の強制送還には3年という年月をかけましたが、日本在留朝鮮人の帰鮮事業は終戦の翌年12月に一旦打ち切りました。

終戦直前の国民動員計画で日本への渡航資格がなかった朝鮮人が怒濤のように日本に押しかけ、密航もふくめると当時日本政府は日本にいる朝鮮人の数を正確に把握していませんでした。

しかし、帰鮮事業を一旦打ち切った時点での日本在留朝鮮人数について、日本政府は約60万人と推測しています。この数は昭和34年の朝日新聞記事にある日本在留朝鮮人数と一致しています。

kyousei_chouyou.jpg

また、日本人は根こそぎ強制送還になりましたが、朝鮮に帰らなかった日本在留朝鮮人は 「帰還の特権を喪失した者」 として取扱うことになりました。


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C15010132800:陸軍省|総務課 「終連報丙第432号 昭和21年12月20日 総務課 朝鮮人の帰還輸送に就て」



朝鮮人の帰還輸送に就て 朝鮮人の本国帰還輸送は十二月十五日を以て打切りとなったがこれに関し若干証明を行ふと次の通りである

一、輸送及残留人員
(1) 終戦以後本国に輸送した人員は九十八万人であり本邦に残当してゐる者の明確な数は不明たが諸調査を綜合すると約六十万人あると思はれる。
(2) 輸送開始後日本に密入国する者は今年始頃から次第に増加して六、七月頃には月数千に達したが此等(これら)は発見次第朝鮮に送還された

二、残留者に対する処置
(1) 病気等の特殊事情の為帰還出来なかつた者は明年一月中には送還される見込で又北鮮帰還者に就ては別途考慮される
(2)右以外の者は『帰還の特権を喪失した者』 として取扱われる
(3)残留者が日本国籍を有しているか否かに就ては各方面に於て種々問題視されている所であるが『日本人同様日本の認(原文ママ)べての法律規則に従い国籍の決定は将来にかけられている解放された国民』と見る向(むき)が多い

引揚朝鮮人再密航1

引揚朝鮮人再密航2


日本在留朝鮮人には帰鮮しない自由がありましたが、帰国を強制された在鮮日本人は朝鮮内での逆行すら許されませんでした。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
元京城日本人世話会 森田●夫 「三八線に変貌する北と南 -朝鮮引揚史 その三-」



 M・R・Uの活躍

 引揚者は、日本に帰るだけで、逆行は許されなかったが、M・R・U(移動医療局。メディカル・リリーフ・ユニオン)の腕章をしたものだけは北行(ほっこう)できた。日本から世話会職員へ連絡の手紙は、この医師のカバンに入って釜山をへて京城におくられていた。



【1959(昭和34)年2月25日 在日朝鮮人「北へ帰すな」デモ@大阪】
kaeranai.jpg

北鮮在留日本人の強制送還


1948(昭和23)年まで北朝鮮にも引揚船が往復していました。

同年6月、宗谷丸が北朝鮮に到着したとき、ソ連軍は在留日本人に強制送還を申し渡しました。

けれどもその宣言は米軍と同じで世界に向けた人道的行為の既成事実作りでしかなく、その後ソ連軍は出航直前に10名の日本人を突然拘引し、そのままどこかへ連行してしまいました。

アメリカやソ連(現ロシア)といった連合国にとって、条約も思想も自国の利益を増やすための道具にすぎないのです。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
元京城日本人世話会 森田●夫 「待ちわびる心 -朝鮮引揚史 その六-」



 技術者たち

 その後、正式引揚船は、二十二年三月(大安丸)、七月(山澄丸)、十一月(宗谷丸)、二十三年六月(宗谷丸)の四回あった。北鮮に残った日本軍人捕虜の引揚は、二十二年三月に完了した。カムチャッカからも二十二年初(はじめ)に八百名が北鮮に帰り、この船にのった。技術者もつぎつぎに帰って行った。

 二十三年六月宗谷丸がきた時、ソ軍は、 「日本人全員は、強制的に帰らねばならぬ」 ことを伝達した。僅かではあったが、自らすすんで残留したいという人達もいたが、それはみとめられなかった。

 二十三年二月末に、技術連盟日本人部は、解散を命ぜられ、それと前後して幹部は逮捕され、宗谷丸の発航直前に十名の者が拘引され、計十五名はソ軍の手に抑留された。船長は出発時間をのばして待ったが、帰ってこなかった。

 理由は、「反ソ行為」 とされているが、それまで北鮮産業の再建に懸命に努めたのにもかかわらず、この発航直前につれ去られ、家族は、無限の悲しみと憤りをもっている。



日本人が徹底的に差別される理由


日本人差別問題というのは戦前から現在にまでいたる根深い問題ですが、大東亜戦争で日本人が徹底的に差別され、虐殺された理由のひとつは、日本が円ブロックを構築したことにあります。

日本は搾取の象徴であるドルとポンドをアジアから排斥するべく、朝鮮銀行、台湾銀行、満州銀行、北支経済圏にも銀行を設立して円ブロックを作りました。

いわば、リビアのカダフィ大佐と同じことをやったわけです。

大東亜共栄圏というのはサヨクが宣伝するような 「日本によるアジア支配」 ではなく円ブロックのことで、日本はアジアから白人を追放し、搾取や弾圧や不平等取引のないアジアを作ろうとしました。そうすることは、日本の安全保障にもつながるからです。

ところが、というかやっぱりというか、日本のその行為が世界経済統一をめざしている米英財閥を激怒させ、日本は半殺しの目にあわされました。

そんな日本とは逆に日本敗戦に貢献した朝鮮人中国人は連合国に重用されて、「なんちゃって戦勝国」を自称したりしています。

特アが重用されたのは彼らが優秀だったからではなく、米英にしてみれば、共産主義を刷り込んで 「日本は悪だ!」 と教えればカンタンに踊る朝鮮人、中国人は実に単純で使い勝手がよくて 「利用する価値」 があっただけにすぎません。

連合国は朝鮮人や中国人を使って表の歴史を作り、その背後で自国の欲望を遂げました。

そしてわれわれ日本人は、ご先祖さまが受けた差別・弾圧・財産没収によって、大東亜戦争の真実を知ることができたのです。


日本がアジアを武力侵略したのなら円ブロックはいらない


出典:1970(昭和45)年 防衛庁防衛研修所戦史室 「戦史叢書 陸軍軍需動員 〈2〉 実施編」



 物資動員ニ就テ

(昭和16年9月8日軍需動員会議における整備局長の第二・四半期以降物動計画についての説明)

一 供給力

 輸入ハ英米ノ策動ニヨル輸出許可制ノ強化及資金凍結等ノ為 円「ブロック」以外ニ於テハ仏印、泰(タイ)ヲ除ケバ 僅少ノ物資ヲ間歇的ニ取得シアルニ過ギズ 仏印、泰モ資金難等ノ為充分ニ取得シ得ズ

円ブロック



【いまだに利用され続ける人々】
国会前反安保デモ1




【写真出典】1995(平成7)年 毎日新聞社 「毎日ムック 戦後50年」


関連記事
スポンサーサイト