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2016/02/03

天皇陛下のフィリピンご訪問と日比ラブストーリー


天皇皇后両陛下のフィリピンご訪問にあたり、反日マスコミの天皇政治利用がヒドイなあ、と思いつつ報道を見ていました。

そして、アメリカと中国は同根であることを再認識しました。

反日マスコミは日本が東南アジア諸国独立を助け、その独立を承認したことなどなかったことにして、「加害の歴史」などという日本悪宣伝を続行しています。

マスコミが報道するように日本が極悪非道ならば、フィリピン人女性と日本軍との恋愛や結婚もなかったでしょう。

マスコミの報道は対日ヘイトスピーチにほかなりません。


【1943(昭和18)年大東亜会議にてフィリピン代表ラウエル大統領と東條総理】
従軍慰安婦強制連行が真実ならフィリピン大統領が来日するはずがない。大東亜会議3


日本が独立承認した、またはする予定だったアジア諸国およびタイ国と東條総理。(東條総理から左へ)中華民国代表汪精衛閣下、満洲国代表張景恵閣下、ビルマ国代表ウー・バー・モウ閣下。(東條総理から右へ)タイ国代表ワンワイタヤコン殿下、フィリピン国代表ホセ・ペ・ラウエル閣下、陪席者自由インド仮政府スバス・チャンドラボース閣下
大東亜会議1


大東亜会議場。
大東亜会議2【写真出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06031089300:昭和18年11月17日 内閣情報局 「写真週報」298号


反日マスコミの報道は赤い双子のアメリカと中国を利する


出典:1952(昭和27)年 中央公論社 重光葵 「昭和之動乱」下巻
       ゾルゲの離れ業 



 共産党の日本に対する働きかけは、多く米国共産党を通じて行はれてをって、ゾルゲ諜報団も、米国の共産党諜報機関を母体としてゐた。当時、日本及び東亜は、米国の共産党の活動舞台として、最も容易な場所であった。

【戦前の主な共産党】
各国共産党1【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A04010418400:昭和6年8月 内務省警保局 「外事警察報 第109号」 23コマ目 コミンテルンの主なる支部

【戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印する重光葵】
重光葵




戦時下のマニラに咲いた日比ラブストーリー

日本男児はフィリピン人女性にモテモテだったようです。また、現地でフィリピン人女性と結婚した日本人がいたことも記されています。

フィリピン人女性は恋人または夫である日本人のために、差し入れをもってビリビットの監獄に詰めかけたそうです。

日本政府は捏造従軍慰安婦の被害者よりも、こうした事実を探した方がよいと思います。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
      社会タイムス外信部 小林 勇 「マニラ市街戦」



 現地に咲いた恋の花

 だが、もちろんフィリピン人の全部が日本軍を恨み、憎んでいたわけではない。ベニグノ・ラモスの率いるギャナップ党は反米の立場から日本軍に協力し、港の荷役から道路の修理、治安維持から宣伝工作まで手伝っていた。

 そのほか国粋主義的な民族運動を展開しようとしていたアウレリオ・アルヴェロはアジア主義者であるピオ・デュランを会長とする"国柱会(こくちゅうかい)(ニュー・リーダーズ・アソシエーション)"を結成して、やはり日本軍に協力した。

 現地人と邦人とのまじめな恋も幾つか花咲いた。だが、戦局が切迫した最後のマニラではせっかく咲いた美しい花も涙のうちに散っていかねばならなかった。

 日本の軍属Yは、日本人のほとんどいなくなったマニラで、フィリピンの娘の恋慕の情をもてあましていた。名前はエステレーリア。うすいワンピースにつつまれた娘の肢体にはスペイン人と支那人の血がまじっていて、いつも悩ましげに波だち、きらきら燃える彼女の眼差しは、まだ若いYの気持ちをとらえずにはおかなかった。

 だがYは木石(ぼくせき)のように自分の気持ちを押し殺した。いまとなっては、それはただ一せつなの恋として終るほかないからである。そんな恋なら、なまじっかないほうがいい。Yはホテルに訪ねてきた彼女に思い切って言った。

「エステレーリア、まだ戦争は終っていないのだよ。戦争が終るまでは誰も幸福になることはできないのだ」

 Yからのやさしい言葉を待ちつづけてきた彼女の体は、崩れるようにソファーに落ちこみ、身を震わせて泣きだした。

 Yは彼女を誘ってホテルの屋上に出た。空はいつものようにセルビヤ色に晴れ上り、微風が汗ばんだ頬に涼しい屋上から仲間の逃げこんでいったマニラ東方拠点の山々がすぐ近くに見える。Yの眼はその山々を越えて空漠の彼方を眺めていた。

「Yさん、何を考えていますの」

 彼女の声はまだ悲しみを残している。それがYの心を一層感傷的にした。

「エステレーリア、なんでもない。実は僕もこのホテルを引越さなければならないのだ。これからどこに住むことになるのか、それを考えているのだよ」

「まあなぜ此処(ここ)を引越すのですか。どこにいくのですか?」

 エステレーリアは何も知らない。この戦争のことも、自分の国の運命のことも。彼女が知っているのは南の国の太陽のように、灼熱に燃える愛情だけだった。

 これは極めてささやかなエピソードの一つである。だが戦争はこんなエピソードなどには無とん着にどんどん進んでいく。マニラの空気はいよいよ緊張するばかりだった。

(中略)

 獄舎を訪(と)う比島女性の愛

 だが人間の適応性は生存の本能をむき出しにして、おどろくほどの工夫を見せた。日本軍が取り散らかしたままで逃げ去ったあとのかたずけや、庭の草むしりや、各監房の便器の掃除といった種類の使役に駆り出された帰りには、必ずなにかを見つけてくるのである。

 それはムシロだったり、ぼろきれだったり、木箱だったり、さまざまだった。ムシロは敷ぶとんになり、ぼろきれは掛けぶとんになり、木箱は戸だなになった。

 こうして三角の建物の各部屋には、めいめいが寝起きする生活の場所がそれぞれ出来上り、その場所ではめいめいの小じんまりとした暮しがつづけられた。

 こうしたなかで王侯貴族の生活を誇ったのは、フィリピン人の妻や恋人をもっている連中だった。

 どこの国でも女性は純粋である。だがとりわけフィリピンの女性は日本人に好意をもっていたようだ。 "戦争がすんだら、フィリピンの男はアメリカに行き、フィリピンの女はみんな日本に行くでしょう。" こんな冗談を口にするフィリピンの娘がいたほどだった。

 そうした気持のなかには征服者に対する女らしいあこがれもあったに違いない。

 だが同じ征服者ではあっても、日本人にはアメリカ人よりもはるかにアジア人民族としての親近感をもっていたことは確かであった。

 マニラが戦場となって反日的な空気が俄(にわ)かに濃くなり、フィリピン人のだれもかれもが反日派を装うのに忙しいときに、夫や恋人の安否を気づかいながら、ビリビットの監獄に詰めかけてくるフィリピンの女性は毎日数十名にも上った。

 そして戦火がマニラの中心を遠のき面会や差し入れが許されるようになってからは、収容所のなかでは絶対に口にすることの出来ない甘いものや、衣類、毛布などまでがおくりこまれた。

 差し入れがとどいた男のまわりにはふだんめったに口も利かない連中まで寄りついていって、なんとかしてそのおすそ分けにあずかろうと物欲しそうにするのである。

 差入れの品物のなかで、いちばん大衆性をもち、人気を博したのはやはりタバコだった。

 監獄のなかの生活が板についてくるにつれて、だれもがタバコに飢えはじめた。

 木の葉をもいできて乾燥させ、それを細かくきざんで新聞紙にくるみ、そうして出来上がった葉巻のようなタバコをぼうぼうと燃やして、やたらに煙りをたててはうれしがっているものもあった。

 だからだれかが苦心して一本のタバコでも手に入れて来ようものなら、たいへんな騒ぎになるのである。差し入れでタバコが少し出まわるようになってからは、こうした騒ぎもいくらか落着いたが、依然として葉巻のようなタバコをくゆらさねばならない運の悪いのもいた。




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