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2016/01/31

天皇陛下謝罪デモとフィリピンの私娼


おそれおおくも天皇陛下に、フィリピンの元従軍慰安婦が謝罪を求めるデモをやったそうですね。

ヒラリアさんという元従軍慰安婦は、1943年10月ころ日本軍の慰安所に強制連行されたそうですが、同年1月には日本軍指定慰安所が設置済みでした。

そしてヒラリアさんは駐屯地内の慰安所に連行されたそうですが、日本軍の軍指定慰安所は後方兵站にありました。

とっくに公娼がフィリピンに到着しているのに、なぜ強制連行が必要だったのでしょうね?

証言が事実にもとづいていませんね。


兵站諸施設位置要図@マニラ-1943(昭和18)年1月15日】
赤枠内は朝鮮人経営と思われる慰安所。麗水館、白頭館。
Manila_ianjo_reisui_hakutou.jpg【資料出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C14010080900:昭和18年1月15日 陸軍省 「マニラ防衛地域内軍人軍属外出取締規定 マニラ防衛司令部」


【花柳病(性病)患者罹患経路調査@マニラ-1943(昭和18)年2月26日】
感染源が公娼と私娼に分類されている。日本軍慰安所は民間経営で慰安婦になるには公許が必要だった。なので強制連行や誘拐被害者は日本軍の慰安婦にはなれなかった。従軍日誌慰安所マニラ1

花柳病公娼私娼比島1_2
【資料出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C13071608900:昭和18年2月26日 陸軍省 「花柳病患者罹患経路調査 昭和18年2月26日南方第12陸軍病院調」


【軍指定慰安所衛生指導監督に任命する命令@タクロバン(フィリピン)】
慰安所設置の目的のひとつは性病予防にある。日本人女性を性奴隷にした共産党司令部のように単純に「若い女を出せ!」というわけにはいかなかった。
従軍日誌慰安所タクロバン1【資料出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C13071916900:昭和19年3月17日 陸軍省 「勤作命甲第18号 独立混成第33旅団命令 3月17日」


【日本がマニラを占領したのは1942年です 天皇陛下に土下座して謝罪しろ】

「日本王は私の話聞きなさい!」 フィリピン慰安婦被害者の絶叫
2016年1月30日 ニューシス(韓国語) (NewYork Times) 1月30日

【ニューヨーク=ニューシス】ノ・チャンヒョン特派員=「昼間は家政婦で夜は性奴隷として毎日生きなければならなかった!」

日本軍人に拉致されて15カ月間、性奴隷生活をしたフィリピンのハルモニらが残酷だった過去を公開して日本政府の責任を要求した。ニューヨークタイムズが日本軍人に拉致されて慰安婦性的奴隷生活をしたフィリピンハルモニに光を当てて非常な関心が起きている。同紙は30日、アキヒト(明仁)日王が訪問したフィリピン大統領宮の前で熱い太陽の光の中で待つヒラリア・ブスタマンテ(Hilaria Bustamante, 90)ハルモニの事情を伝えた。

ヒラリアハルモニが日本軍の性奴隷に引きずられて行ったのはフィリピンが日本に占領された1943年だ。ある日3人の軍人が彼女を強制的にトラックに乗せて酷く暴行した。彼女の年齢はわずか十六才だった。ヒラリアが連れて行かれたのは日本軍駐屯地で他の3人の少女らと共に板張りの粗末な家のような所に収容された。そこで昼間は軍人の服を洗ってご飯を炊き、夜は最小6人以上の軍人に強姦されることが毎日繰り返えされた。日本が崩壊するまで15カ月間、地獄のような日々続いた。

ヒラリアハルモニは「日本政府は私に犯した行為について責任がある。今まで、お母さん以外に私の過去はいえなかった。あまりに恥ずかしかったからだ。しかし、今は人々が全てを知るよう望む」と話した 。 (バカバカしいので以下省略)

引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1454143869/



ヒラリアさんが日本軍に強制連行されたのは1943年10月かと逆算できますが、その月、日本はフィリピンの独立を承認して、日比同盟条約をマニラで調印しています。

フィリピン従軍慰安婦ストーリーを捏造したのは、日本はアジアを侵略した! と思いこんでいる中国か朝鮮半島でしょうね。

意外なところからシッポが出るもんですね。

アメリカがマニラの公娼制度を廃止して私娼が激増



フィリピンはアメリカの植民地でしたが、1918(大正7)年まで公娼制度がありました。

しかし、個人主義のアメリカは第一次世界大戦に参戦するにあたり、軍隊衛生上の見地からマニラ市の公娼制度を廃止してしまいました。まー、アメリカはダヴァオで日本人女性にやったようなことをやっていたのでしょうけどね。

アメリカとイギリスはユダヤ人の国なので、「女性の人権を重んじ」て売春婦の梅毒検査を廃止していました。なので当時のアメリカ人、イギリス人の性病感染率は世界でもズバぬけていました。

そういう米英とは逆に、世界一性病に感染していない軍隊はドイツ軍でした。当時の日本軍はドイツ軍の数字を目標としていました。


【列国軍隊花柳病兵員毎千比例表】
どこの国も海軍に性病感染者が多いのは、あちこちの港に立ち寄るため。第一次世界大戦で爆発的に軍隊の性病感染が増加、軍隊の性病予防は各国の課題だった。
軍 別陸海軍年 別毎千比
最大
毎千比
最小
毎千比
平均
日 本 陸軍自 1910
至 1919
25.220.022.4
 海軍自 1909
至 1918
179.3119.6144.0
独逸
(ドイツ)
陸軍普魯西
(プロシャ)
自 1901
至 1910
20.617.819.0
バイエルン自 1907
至 1910
17.314.315.6
 海軍自 1901
至 1910
101.962.272.5
墺太利
(オーストリア)
 陸軍同 上59.951.556.0
露西亜
(ロシア)
 陸軍同 上60.140.548.0
西班牙
(スペイン)
 陸軍自 1907
至 1910
93.667.976.2
仏蘭西
(フランス)
 陸軍自 1900
至 1909
27.823.026.0
合衆国
(アメリカ)
 陸軍自 1907
至 1916
185.1107.8153.6
 海軍自 1901
至 1910
199.292.3132.7
和 蘭
(オランダ)
 陸軍自 1896
至 1907
40.325.732.0
英吉利
(イギリス)
 陸軍自 1902
至 1911
125.060.083.0
 海軍自 1901
至 1910
124.4108.9118.3
白耳義
(ベルギー)
 陸軍同 上29.319.125.6
丁 抹
(デンマーク)
 陸軍自 1900
至 1909
44.025.336.9
【資料出典】1923(大正12)年 南山堂書店 山田弘倫、平馬左橘 「統計より観たる花柳病」 第九章 軍隊と花柳病 第一 帝国陸海軍及列国との比較

性病感染よりも個人の権利を重視する米英には、日本と同じような衛生的概念がないのでしょう。なので従軍慰安婦などという捏造も信じてしまうのでしょう。

1941(昭和16)年から、自分らが在米日本資産凍結令や対日石油禁輸という対日経済制裁やったことも忘れて、韓国の20万人強制連行やら中国の200万人強制連行やらを信じてしまうのでしょうね。


…話をもとにもどしまして、

アメリカがマニラの公娼制度を廃止した結果、私娼が激増しました。

昔のことですから、その道でしか食べられない女性はそうするしかなかったのです。

そして、アメリカやイギリスのようにフィリピンでも性病が蔓延してしまいました。そこでマニラ市は公娼制度を復活させようとしましたが、アメリカの許可がおりなかったそうです。

性病は国を滅亡させる、おそろしい病です。なんの管理もせず、予防もしないでいたらローマ帝国のように滅びてしまいます。

だれでもいいから強制連行してしまえ!

と考えて、現実味のない捏造をやるのは、アジアでもっとも衛生観念がない中国と朝鮮半島だというのもうなずける話です。

そして共産主義者が連呼する「人権」「自由」という言葉の裏側には、いろんなおそろしい意図があることも忘れないでください。


ヒラリアさんもコレかいな? 戦前フィリピン風俗事情

(  )内は管理人による注釈です。


出典:1930(昭和5)年 金鈴社 藤島晃 「歓楽の支那:南洋の陶酔郷」 マニラ



 -遊廓の撤廃-
  
 比律賓(フィリピン)群島においては、一九一八年まで公娼を認め、比島人(フィリピン人)婦女子の外(ほか)、アメリカ陸海軍駐屯地附近には、欧米人、日本人などの醜業(売春)に従事するものがあったが、アメリカが大戦に参加するに至った結果、軍隊衛生上の見地から大統領の布告を以って軍隊所在地十哩(マイル)以内の遊廓、舞踏場を悉(ことごと)く撤廃することとなり、マニラ市においても同年十月十六日を限り、突如営業を停止せらるるに至ったのである。

 マニラ市の遊廓は、市内サンパロク区、ガルデニヤ街にあった。当時廓内において醜業婦(売春婦)として営業していたものは、欧米人が十数名、比島人二百名、日本人百二十名であって、外国人売笑婦(売春婦)中、アメリカ人は比島政府において本国アメリカに送還し、日本人も悉くマニラ市を撤退し、多数のものは帰国した。また比島人中約八十名は、マニラ市において父母または兄弟など身内のものに引渡された由であるが、爾後のものは適当なる保護者がなかったのでミンダナオ島ダヴァオへ追放せられたということである。


 -代って私娼の激増-

 かくて公娼制度の廃止を見た結果として、私娼の数は漸次増加した。目下マニラ市及びその附近における私娼数は比島人約五、六百名、欧米人約二、三十名、日本人は市内数軒の料理店に酌婦として、又(また)市内において旅館兼酒場の給仕人として散在しているものが二、三十名ある。


 -舞踏場の売春婦-

 マニラ市街には、広大なる舞踏場が二ヶ所ある。此処(ここ)に出入する比島及び欧米人婦女子の大部分は売笑婦(売春婦)と見て大過なかるべし(間違いない)という。公娼が私娼となった結果花柳病(性病)の蔓延が甚だしいのに鑑み、マニラ市会は其(その)後再び公娼制度を復活せんとする意嚮(向)に傾いていたが、比島人協会、宗教家、教育家方面より激烈な反対を受けてまだ同業を具体化するに至らない。その結果として良家の子女の堕落するもの乃至(ないし)は、地方より遊学する女学生の誘惑せらるるもの著しく増加した。これに対して政府は売笑婦取締法案を提出したがまだ通過するに至らない模様である。

ダバオ・コタバト両州
 -倫楽の人妻、流転の密航婦-

 ダバオ・コタバト両州は、比律賓群島において、マニラ市と並び称せらる売笑婦の名所である。この両地の売笑婦は娼婦と酌婦と踊子の三種類に分れている。そして娼婦と踊子が比律賓人で、酌婦だけが日本人といった国籍別である。

 娼婦のいるのはダバオ町のみである。娼家は娼婦取締規則の下に比律賓人が経営している。舞踏場も矢張(やは)りダバオ町にある。現在十数名の踊子娘は相当の紳士を客として密かに春を売っている趣きである。

 酌婦は従来マニラにいたものがこの地に流れて来たもので、現在四軒の料理屋に僅かに六名いるだけである。彼女等(ら)の素性は、人妻の倫落(淪落。りんらく:おちぶれること。堕落すること)せるもの、乃至は満洲、南支那方面からの密航婦であって、その年齢はいづれも三十歳以上である。


 -張店禁止-

 一九二四年の改正娼婦取締規則は、まだ知事の裁可がなくて効力を発せぬが、これによれば公娼の許可地はバタオ郡内の、リブロンと称する村落の一小区域に限られることとなって居(お)り、遊廓は各戸鎧格子(よろいごうし)または青色カーテンを以って常に戸または窓を密閉して置かねばならぬ。そして娼婦には張店(はりみせ)を許さず、娼家の門口に其の写真を陳列する事日本と同様である。

【張店…遊廓で娼婦が店の入口に居並んで客を待つこと】
この動画の冒頭が張店。娼婦と店内で顔を合わせる業態は陰店(かげみせ)という。戦前は公許されていない売春宿が陰店の業態だった。




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