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2016/01/19

共産党が要求した日本人慰安婦


朝日新聞が捏造した従軍慰安婦ですが、そのモデルはなんと日本人女性でした。

ソビエト共産党、中国共産党、日本共産党、朝鮮人義勇軍は、終戦後も日本の民間人を満州に抑留していました。それらの共産主義者たちは、日本人女性を性的に虐待しました。

日本人難民に慰安婦の提供を要求する、「看護婦、付添婦」の名目で女性を徴用する、女狩りをしてトラックで運び去る、終戦から一年後やっと引揚げという時に日本人の娘たちを300名を強制徴用してどこかへ連れ去る…。

中でもソビエト共産党は「商売女(売春婦)ではなく娘をよこせ」と日本人難民に要求したそうです。

【朝日新聞記者のツィート】


韓国の自称従軍慰安婦は「日本軍に満州に強制連行されて行った!」と言いますが、満州にいた慰安婦(公娼)はそのほとんどが日本人でした。

この公娼たちの中には、無垢な少女たちを守るために自分が共産党司令部に行く、と言った人もいました。

【職業(小分類)別人口 満州】
満州貸席芸妓2

       ⇩ 拡大

料理店・飲食店・貸席業(貸座敷=妓楼=慰安所)・置屋業主…日本人93人、朝鮮人ゼロ。芸妓(公娼)…日本人161人、朝鮮人ゼロ
満州貸席芸妓3【資料出典】1931(昭和6)年 外務省通商局編 「在外本邦人国際調査報告 昭和5年」


そして、在満朝鮮人口は日本人の約5.5倍でした。

日本敗戦後にこれらの朝鮮人はソ連軍、中共軍側に寝返って、日本人を虐待したと容易に想像できます。朝鮮義勇軍という名の共産匪賊も、日本敗戦後はソ連軍、中共軍と行動をともにし、通化の竜泉ホテルに司令部を設けて駐屯しました。

その竜泉ホテルに日本人女性たちは通わされていたそうです。

【在外本邦人国別及在外公館別人口 昭和13年10月1日現在】
満州国…内地人(日本人)192,947人、朝鮮人1,048,002人。
満州邦人朝鮮人S131【資料出典】1934(昭和9)-1938(昭和13)年 外務省調査部第二課編 「海外各地在留本邦人人口表 昭和13年10月1日現在」

その共産党が戦後は一転して、

日本軍が朝鮮人女性を強制連行して従軍慰安婦にした!!

と言いだしたのですね。

そして本当に苦しい目にあい、殺されたかもしれない日本人慰安婦はスルーして、韓国のニセ慰安婦に謝罪と賠償をしろと迫っているのです。

今後、共産主義者が新たな捏造を繰り出してきた時は、日本人が受けた被害を元にした捏造ではないか? と疑う必要がありますね。


【本当の被害者は日本人でした】

安倍首相「慰安婦問題をめぐる誹謗中傷は事実ではないと示す」
2016年1月18日 産経ニュース

 安倍晋三首相は18日の参院予算委員会で、慰安婦問題をめぐる昨年末の日韓合意について一部海外メディアが慰安婦を「性奴隷」と報じ続けていることに関し、「海外プレスを含め、正しくない誹謗(ひぼう)中傷があることは事実だ。性奴隷、あるいは(慰安婦の数が)20万人といった事実はない。政府として、それは事実ではないと、しっかりと示していく」と述べた。

 日韓合意で日本側が認めた「軍の関与」については「衛生管理も含め、管理、設置に関与した」と述べた。日本のこころを大切にする党の中山恭子代表の質問に答えた。(後略)



本記事の資料


平壌駅前はソ連軍を出迎える朝鮮人の人波、
日本人居留民は元酌婦を集めて一般婦女子の強姦を防いだ

酌婦というのは宴会で客のそばにはべり、酌をする女のことです。酌婦も警察の許可があれば、公娼になれました。


出典:1993(平成5)年 新評論 佐藤和明 「通化事件」



 計画されていた後続部隊

式本米太郎 『育ちし海歩みし大地』私家版、
     昭和六十一年十月


 式本の経営する「式本洋行」は当時、通化省最大手の酒類販売店で、扱い高は全体の六〇%を越えていたという。昭和十七年から東昌区の区長をしていた。昭和二十(一九四五)年五月、三十九歳で召集を受け、朝鮮で敗戦を迎えた。式本の部隊の連隊長は、ソ連軍が進駐する前に全員を集めて 「唯今(ただいま)より諸君に無期休暇をあたえるから自由行動をとれ」 と命令した。

 式本らは山越えをして二十四日未明、京城に到着し、それから間もない六時頃、北へ向かう「最後の列車」に乗って午後五時、平壌に到着した。

駅前はソ連接収将校の出迎え、歓迎の鮮人で満杯、皆どこで手に入れたか北鮮国旗とソ連国旗を手に数千いや数万の大歓迎の人なみ、駅にはまだ日本憲兵が数名で人の整理をして居り、話を聞いてみると、当日午前十二時を期して三十八度線を設定したという。しかも機関車だけは各所機関庫に帰れと言うソ連軍の通達の由。各駅共、南下する避難列車は大混雑でした」

 式本はさらにそこから貴州、国境の町・満浦鎮を経て二十六日、通化に到着した。

 すでに通化にはソ連軍が進駐しており、難民対策は急務だった。

「影の日本人の在留民団を組織して、寺田山助氏を団長に担ぎ、早速官用資金を使用して元酌婦をしていた女郎を編成し、一般の婦女子の災害を防ぎました。どこの区も増え続ける難民の処理に手を焼いたものでした。 (中略) 難民の収容も初めは布団・毛布、最後には座布団まで皆解体して薄布団を作りましたが、三、四ヶ月で皆無になる始末、さらに家の取りあげには一番参ってしまいました。明日、十二時までに『全部引越せ』と命令が出ると、十二時を期して軍隊が、その家をとりまいてしまい、有無をいわせず引越、多い人達は五回から六回という始末、しかたなく区では事前に各家の人数及び畳数を記入しておいて、引越しの命令が出たらすぐに移転先を指示する、皆も又(また)それに従ってくれました。最後に我が区等は一人当り畳数が〇・七畳までに行きづまってしまいました
 


ソビエト共産軍 「売春婦はだめだ、娘をよこせ」

「からゆき」は「唐行き」で、貧しい家庭の娘だけでなく、明治維新後、没落した武家の娘も中国に売られて行きました。中にはダマされて中国に売り飛ばされた日本人女性もいます。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史 満洲編」所収 
      共同通人社会部記者 山田一郎 「通化幾山河」



 「からゆき」哀話

 ソ連軍司令部は最初満洲中央銀行通化支店に置かれた。その後興業銀行支店に移り、さらに竜泉ホテルに移転した。

 竜泉ホテルは鉄筋コンクリート四階建、白亜の近代的ホテルだった。関東軍司令部が通化に進駐してからは、その高級将校の宿舎に当てられていたのだが、いまは赤旗(せっき)が翻る運命となった。

 このホテルに日本人女性が、人身御供(ひとみごくう)となって送り込まれることになったのは、ソ連軍進駐後間もない頃であった。悪質なソ連兵が路傍といわず屋内といわず、日本人の女性を襲って暴行を加える事件が頻発していた。

 女は恐(こわ)がって外出せず、丸坊主に頭を刈る娘も多かった。

 居留民会の代表が堪えかねてこのことをソ連軍司令部に恐る恐る訴え出ると、治安の責任はとる、だが日本人の女数名を慰安婦として司令部へ連れてくるようにと、逆にいやな命令を下されてしまった。

民会の代表たちは頭を抱えこんだ。藪(やぶ)をつついて蛇を出すとはこのことであった。なまじ訴え出たばかりに大変な命令を受け取ったのである。いろいろと協議した末に、市内の料亭で働いていた女性たちに頭を下げて頼んでみることになった。

「まことに言いにくいことだが、この際、日本人のためになんとかわれわれの願いを聞いてくれないか」

 と頼みこむと、案の定、烈しい口調で彼女たちは断った。

「どうせ苦界に落した身体故、金で買われるなら仕方がないと諦めてきた。だけど、戦争に負けたおかげでやっと自由の身になれたと、私たちは喜んでいるのです。それも束の間、ソ連兵の相手になれとはあんまりです」

 と彼女たちは怒るのだった。

「戦争中だって私たちは犠牲にされてきたんだ。いままた犠牲になれというのはひどすぎる」

 ともいうのだ。

 しかし結局、彼女たちは弱い運命のもとに生れていた。姐(ねえ)さん株の一人が

「どうせ私たちは汚れた身体じゃないか。その身体を張って、清い日本の娘さんの身体が防げるというのなら、私は喜んでいきます」

 と泣きながら承知すると、それに吊られてやっと五人だけ数がそろった。居留民会を代表して民会の救済所長をやっていた宮川梅一氏が、一行に同行した。

「あんたたちにもしものことがあれば私も死ぬ」

 と宮川氏は五人と水盃(みずさかずき)を交した。女たちも泣いた。あまりの哀れさ、情けなさとに宮川氏も男泣きに泣くのだった。

 そうして司令部へいってみると、商売女は駄目だという。素人の娘を出せというのだった。宮川氏は必至に抗弁した。

「日本の娘はそういうことはしない。また、しろともいえぬ。もし無理にいえばかのじょたちはみんな死んでしまうだろう」

 結局、その日は五人を連れて宮川氏は帰ってきた。娘を出せという要求は民会でも最後まで突放(つっぱな)した。やがて向うも折れてきた。外地へ出稼ぎにいく女たちを「からゆきさん」と九州では呼ぶという。竜泉ホテルへ通う彼女たちもまた、そのからゆきさんだった。



竜泉ホテルに集結した
ソ連軍司令部、中共軍司令部、朝鮮人義勇軍


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史 満洲編」所収 
      共同通人社会部記者 山田一郎 「通化幾山河」



 内戦避け難し

 無血占領を遂げた中共軍は、いまや全く通化の支配者となった。国府軍(国民党軍)が完全に市内から駆逐されると、二十三日、正規一個師が入城してきた。華北(中国北部)戦線で日本軍と戦った毛沢東直系の筋金入りの部隊である。

 元省公署に通化専員公署が置かれ、陳専員が主席として行政を担当、政治工作を開始した。竜泉ホテルには八路軍司令部が置かれ、劉司令が就任した。その下旧公署」に県大隊本部、旧労務会館に公安局、元日満商事支店に後勤部、満林支社に専員公署司法分院、旧警察署に工兵学校、旧東昌校に砲兵学校がそれぞれ設置された。

 また同時に金日成将軍直系の朝鮮人義勇軍である李紅光支隊が、竜泉ホテルの中共軍司令部に向い合って駐屯した。

 いまや通化は完全に中共軍の手中に陥(お)ち、その急速な陣容の整備は日本人の目を瞠(みは)らせるものがあった。



通化にやってきた日本共産党-遼東日本人解放連盟通化支部(略称日解連)創立


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史 満洲編」所収 
      共同通人社会部記者 山田一郎 「通化幾山河」



 日本人移動命令

 十一月に入って「遼東日本人解放連盟通化支部」が創立された。支部長笹野基(ささのもとい)は元竜泉ホテルのコックであったというが、中共軍幹部に見出されて支部長となった。略称「日解連」と呼ばれるこの団体は、延安で野坂参三から共産教育を受けたといわれる杉野一夫という人物の指導のもとに、中共軍の日本人にたいする意志伝達機関として生れた。



「昭和天皇が退位した」と宣伝していた共産党


1993(平成5)年 新評論 佐藤和明 「通化事件」



 昭和天皇退位、新元号「大新」

 それは、囚われてから九日目だった。獄房から舞台のある会場に連れていかれた。そこには、二〇〇名ほどの日本人が集められていた。初めに、北支戦線で捕虜になったという旧日本軍兵士が壇上に立って、中共軍の中国東北部における軍政を称えた。

 田中敬吉が報告している。

「私は司令官の命令で大会の壇上に上がり、八路軍の寛大な政策に感謝し今後の忠誠をつくすという宣誓文を読みあげさせられた。」 (前掲 「穴倉の中」)

 ついで、「身の丈堂々とした偉丈夫」が壇上に立った。杉本一夫と名乗る日本人工作員だった。



共産党の日本婦人徴用


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史 満洲編」所収 
      共同通人社会部記者 山田一郎 「通化幾山河」



 絶望の日々

 市街では国共両軍の小競合(こぜりあい)が頻発した。それはごく小規模のものであったが、通化市周辺では絶えず相当な戦闘が行われているようであった。澄んだ空気をふるわして、砲声や銃声が市民の耳に響いてきた。十月の末に、通化近郊で行われた国共両軍の戦闘は三日間つづいた。ソ連軍の援助をうけて八路軍が大勝し、国府軍は潰走したという情報だったが、この戦闘で負傷した中共兵が通化へ後送されてくると同時に、日本人の独身婦人にたいする徴用が始まった。付添看護婦として毎日約五十名が通勤させられた。



引揚げを目の前にして中共軍に強制連行されていった日本人女性たち


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史 満洲編」所収 
      共同通人社会部記者 山田一郎 「通化幾山河」



 さよなら通化

 その頃、日本人たちは悲しい別れをしなければならなかった。

 独身婦女子の強制徴用が行われはじめたのである。付添婦、縫工婦として三百名の女性が徴用された。恋人がいるのもいた。親と別れていくのもいた。泣きながらみんなが彼女たちを見送った。

 日本から渤海国へ、さらに唐の長安に送られていった十一人の舞姫たちのように、彼女たちもまた遥かな旅路へ発っていかねばならなかった。



女狩りをしてトラックで運び去るのは共産党の手口
満州の四平でも日本人に慰安婦を要求した共産党


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史 満洲編」所収
      元満洲国通信社四平支局長 小幡不三男 「ひかれ行く女学生」



  二つの事実
 
 予想はしていたが困った問題が起きたと思った。しかし噂によれば鉄嶺(てつれい)ではこのため非合法的に女狩をしてトラックで運び去ったとも聞いた。それに較べれば四平の場合は極めて穏健なやり方ともいえる。少なくとも交渉の余地はある。人数にしても少し減して貰えはしないか。また看護婦の年令も少し年とっている女でもいいことにしては貰えまいか。交渉次第でそれが若(も)し出来るとしたら、あとで打つべき手もありそうだ……と私は考えた。そして私はこれを提案し、区長から居留民会を通じて軍にかけ合って貰った。この要求は許された。だが、そんなことより候補者を決めるのが大へんだった。

一方、従軍看護婦徴用の話を知り、年頃の女の子を持つ親、候補者の徴用条件に該当する女、応召者の若妻 ─── こうした人々は全く生きた空がなかった。

(中略)

 四平では初め難民のために家を提供したり、仕事の世話をしたりして難民の便宜を図った。難民は四平に感謝した、だが今度は逆にその難民に対して、従軍看護婦供与、慰安婦提供、労工供出などの難問が出て来たのを機に、かけた情を種に「何とかしろ」式の態度に出ようとしている。






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