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2016/01/17

大阪ヘイトスピーチ抑止条例と菊のご紋の三八銃


大阪市でヘイトスピーチ抑止条例が成立しました。大阪市は、かつて日本人を大虐殺した民族に言質を与えてしまいましたね。

1946(昭和21)年2月3日、旧満州の通化で日本人が共産軍、朝鮮人義勇軍に虐殺されるという事件が起きました。いわゆる「通化事件」ですが、日本人が虐殺された理由は「思想」でした。


【通化地図】
通化地図1


罪のない一般の日本人は、中国・朝鮮特有の中華思想と、共産主義の日本帝国主義(資本主義)および天皇制打倒という、くだらない思想によって殺されたのです。

しかも、日本軍から共産軍に寝返った朝鮮人部隊は菊のご紋章が刻まれた三八銃を肩にかついで、通化の街を行進していたそうです。

この事実は何を語っていると思いますか? そうです、おそれおおくて、日本人ならばとても口にはできないことです。

そのような民族に、大阪市がまたも「ヘイトスピーチ抑止条例」という新しい日本人弾圧の言質を与えてしまいました。


【通化で朝鮮人部隊を目撃した愛新覚羅浩夫人】
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【大阪市「ヘイトスピーチで苦しむ人々のために…」】

全国初のヘイトスピーチ抑止条例が成立 大阪市、認定団体は名称公表 
2016年1月15日 産経WEST

ヘイトスピーチ(憎悪表現)の抑止策を定めた全国初の条例案が15日深夜、大阪市議会で大阪維新の会や公明、共産両党などの賛成多数で可決、成立した。市は、新設する審査会の意見を聞いた上でヘイトスピーチを行ったと認定した団体などの名称を公表することで、抑止を図る。

 本会議場では賛成討論中、傍聴席からカラーボールのようなものが投げ入れられ、液体が飛び散るなど混乱し中断。約2時間半後、特別委員会室に場所を移して傍聴人を入れずに再開した。

 条例は、ヘイトスピーチを、特定の人種や民族の個人・集団を社会から排除し、憎悪や差別意識をあおる目的で侮蔑や誹謗(ひぼう)中傷するものなどと定義。罰則はない。市外で行われたものでも、市内の関係者に影響があれば適用するとした。(後略)



もともと通化という所は、1932(昭和7)年から共産匪賊の根城でした。

1935(昭和10)年には、中国共産党と在満極左朝鮮人が共闘した中韓抗日同盟委員会が組織されました。

なので習近平とかが「中韓は共に日本帝国主義と戦った」と言うのは、頭がおかしいからではなくて事実だからです。

現在日本共産党が野党に提案しているような中共系極左と朝鮮系極左の共闘は、約80年前からあったのです。

【司法省刑事局資料】

出典:1973(昭和48)年 東洋文化社 社会問題資料研究会 「思想情勢視察報告集(其の四) 満州に於ける共産主義運動」所収
1938(昭和13)年 司法省刑事局「満洲に於ける中国共産党と共産匪 第三編 余論」 



一、政治匪
 特色

(前略)

 旧軍閥系に属する所謂(いわゆる)満匪(満州匪賊)は満州事変に依り学良政権の没落後、関内に逃避せる学良系人物の使嗾(しそう:そそのかすこと)を受け、之等(これら)東北系要人と脈絡の下に東三省(満州のこと)失地回復を標榜、日本及び傀儡満洲国打倒の旗幟を掲げ蜂起したる所謂抗日反満策動にして最も勢力旺盛なりしは昭和七年唐聚五が東辺道通化を中心として敗残兵、農民衆を糾合、遼寧民衆自衛軍を組織し軍票として紙幣を発行、資金を徴集する等、一時其の勢力約一万と称せられ居(おり)たるが、昭和七年十月日満軍の討伐に依り根底を覆滅せられ、小匪団となり四散分離し今日に及べるものにして現在匪団中最も勢力あるは王鳳閣匪なり 王鳳閣は今尚(いまなお)遼寧民衆自衛軍と自称、安東省集安県を根拠地として、東辺道地方に於て相当根強き勢力を有しあり。

 政治匪に属する之等(これら)両系統は元来主義思想を異にするものなるが最近に於ては目的達成のため、互(たがい)に提携を策し、両者相倚(あいよ)り、昭和十年秋遂に中韓抗日同盟委員会の組織を見るに至り、反日満的共同戦線の下に没落の危機に瀕しつつありたる匪団の勢力挽回に腐心しつつあり。 

【資料画像】
共産匪賊通化


日本共産党志位和夫1_300px【参考記事】民主vs共産 参院選協力に破談の兆し 協議すら入れず…連合会長は「共産排除」明言 いらだつ志位委員長(2016年1月15日 産経ニュース)


その通化で、国民党が日本軍に「共闘して通化を奪回しよう」と持ちかけます。しかし、そのもくろみはソ連を後ろだてに持つ中共軍にあっさりと制圧されてしまいました。


【容共になったり反共になったりブレッブレのクソジジイ蒋介石】
蒋介石1

その結果、通化にいた日本人約3000名は軍人だろうが民間人だろうがおかまいなしで拘束され、8畳の部屋に120人といった具合で強制収容されました。

強制収容された日本人は立ったままのぎゅう詰め状態だったので、大小便は垂れ流し、少しでも音をたてれば朝鮮人、中国人が容赦なく銃撃を加えました。

もちろん日本人は逃げることはできませんから、その銃撃や病気、飢餓で死んでいきました。日本人の死体は凍った川に投げ捨てられ、春になって氷が解けると、日本人の死体も流れていったそうです。

このぎゅう詰め強制収容の間には、現在の裁判員制度のような共産党の人民裁判が開かれ、日本人は斬首されたり、銃殺されたりして死んでいきました。

1952(昭和27)年12月4日付の朝日新聞は、判明した通化での日本人死亡者数を1190名と報じています。

大阪市はこういう日韓併合前から対日ヘイトやってる民族に、新しい日本人弾圧のカタチをプレゼントしたのです。

日韓併合後から終戦直後まで共産運動に没頭して連合国に加担した民族、戦前は「朝鮮独立、朝鮮赤色政府樹立」を叫んで日本資本と日本人を排斥し、階級闘争として天皇を敵視している民族、

そして祖国が思わしくないと日本にやって来て、かつて排斥した日本資本主義のぬくもりでヌクヌクとし、日本人の国で日本人を弾圧しようとする民族、

日本人を蔑視し敵視する原因が「思想」という民族、通化で菊のご紋章が刻まれた小銃で日本人を殺したであろう民族、に大阪市は新しい武器を与えてしまいました。

朝鮮人の日本移民は世界でただ一つの、被植民地民が宗主国に大量移入しためずらしい例なんですけどね。アイルランド人だって、アメリカが移民法を改正しなかったらイギリスに出稼ぎなんか行ってませんから。

ユダヤ人が「アウシュビッツに子々孫々住みた~い!」と言いますか? 日本人捕虜がシベリアに妻子を呼び寄せましたか?

この条例に賛成した人たちは、子どもにもわかるようにリライトされた大東亜戦史=自虐史観をなんの疑いも違和感もなく受け入れた、とても心のキレイな優しい人たちなのでしょうね。

そのキレイな心と優しさが、この日本をとんでもない国難に突き落とすのです。

本記事の資料


愛新覚羅浩夫人が見た通化事件
「朝鮮人兵は菊のご紋章が刻まれた三八銃を肩に行進していた」


出典:1997(平成9)年 新潮社 愛新覚羅浩 「流転の王妃の昭和史」 
     第五章 流転の日々



 悪夢の通化(トンホウ)事件

 私たちの乗ったトラックが凍りつく長白山中の旅を終えて通化の町にたどりついたのは、三日目の夕方でした。

 トラックは町の中心街に入ると、銃を手にした衛兵が入口を固める建物の前に停まり、エンジンを切りました。耳にはりついていたエンジン音に代わって深い沈黙が訪れました。

(しまった。はかられたのだわ……。)

 私はそこが八路軍の公安局であることに気づきました。通化へ行くトラックに乗せてくれると言われたときに気づかなければならなかったのでしょうが、もう手遅れでした。

(中略)

 街頭では朝鮮人部隊がよく行進していました。あの人たちも生きるために八路軍に加わっているのでしょうか。

 私は窓から伸び上がって、旧日本軍の軍服と装備をつけた朝鮮人部隊の兵士たちが、

「天に代わりて不義を打つ、忠勇無双のわが兵は……」

 と、日本の軍歌をうたいながら、菊のご紋章が刻まれた旧日本軍の三八銃を肩に行進していく姿を眺め、胸を張り裂かれる思いでした。




毎日新聞副参事
「日本軍の服装装備で共産軍に寝返っていた朝鮮人部隊」


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史 満州編」(上)所収
      毎日新聞東亜部副参事 上妻 齋 「運命に泣く浩子姫」



屍中(しちゅう)に四日・通化の悲劇

 街頭では朝鮮人部隊が、日本軍の服装装備で日本の軍歌を歌いながら行進していた。それは全く共産軍に属しているとは思えない光景だった。



通化事件を報じた朝日新聞


出典:1993(平成5)年 新評論 佐藤和明 「増補版 通化事件」 序 通化事件の全貌



各紙、「通化事件」の全容を伝える

 この日の事件を通化在住の人たちは「二・三事件」と呼んだが、のちに厚生省復員局が調査を始め、昭和二十七年十二月四日の夕刊各紙は「通化事件」として、初めてその全容を伝えた。『朝日新聞』の記事を引用しよう。

【福岡発】 昭和二十一年二月満州で中共軍により日本人多数が虐殺されたと一部に報道された「通化事件」について、引揚援護庁と外務省で四年間にわたり調べた結果詳しい内容が判り、二日同事件の合同調査のため来福した引揚援護庁復員局吉田留守業務部長は福岡県庁で次のように発表した。

・昭和二十年八月ソ連の参戦とともに満州各地から避難したものなどで通化市内の日本人は三万名以上に上った。同年九月進駐した中共軍の日本人に愛する虐殺暴行はひどく、元百二十五師団参謀長藤田大佐らが中心になって元軍人、邦人などを集め中共軍諸機関を攻撃する計画をたて二十一年二月三日を期して攻撃を決行、四百名のうち大部分が戦死した。

・中共軍は日本人の男は十五歳から六十歳まで、女は攻撃に関係あると思われるものなど合計約三千名が投獄され、その大部分が処刑されたとみられる。

・いままでに判った死亡者は約千百九十名で、死亡公報の済んだものは七十二名、帰還者は八百六十三名である。



 この新聞がいうように、確かに日本人の高級官吏が銃殺されたり、暴動や略奪があったことは事実である。事件前の一月十日、かつてない一四〇名もの日本人が逮捕され、それから間もない二十一日、河内通化副県長ら四名が公開銃殺された。



通化事件で虐殺された日本人たち


出典:1993(平成5)年 新評論 佐藤和明 「増補版 通化事件」



Ⅰ 通化事件まで

 「坊や、軍馬をあげようか」

(前略)

 ところで、二道江小学校の担任だった赤羽忠保は最後の根こそぎ動員で、敗戦の一週間前、通化の部隊に入隊した。

「半分が朝鮮人で半分がいわゆる日本人の召集兵で、皆(み)んなヤルキのない連中ばかりでした。(笑い)で、銃は半分位しかいきわたらない。靴は、私は足が小さいのに、こんな大きな靴を履かされて、履いたらブカンブカンという具合で足が痛くて演習どころじゃない。(笑い)そのうちに 『集まれ』 というんで行ってラジオを聞いたんですが、半分も分からない。聞いたら、『どうも日本は負けたようだ』 というんです。それから朝鮮人が威張りだしまして、これでは戦わずして殺されてしまうというので、軍服の下に私服を着まして銃を持って、五、六人で逃げました。そして、途中の山の中で軍服を捨てて、私服を着て帰ってきた訳です。敗戦から一週間位過ぎてからだと思います」 (『二道江小学校同窓会会報』)



Ⅱ 通化事件(昭和二十一年二月三日)

 通化事件をどう考えるか

 その後、中山は病院で手当を受け、独房に入れられた。藁(わら)束が二つ支給された。

 何日か過ぎて、番兵から 「中山は明日死刑、銃殺される」 と告げられた。翌朝、「死刑台」のある土手に連行された。すでに土手の上には銃殺される人たちが立たされていた。中山は次が自分の番であることが分かった。 ─── その時、中山は、最後の力をふりしぼってこう叫んでいた。

共産党は罪のない日本人婦女子まで皆殺しをするな。その代わり、自分達が死んでいく。約束をしてくれ」

 八路軍の指揮官は気がふれたとでも思ったのだろうか。大幹部のもとに駆け寄り、何やら相談をしているようだった。すると、全く信じられないことが起こった。八路軍の指揮官が日本語で、「部屋に帰って修養せろ」と命じたのである。

─── 番兵に両脇をはさまれて中山が十米(メートル)も歩いただろうか。射撃官とともに人々の倒れる「ドスンドスン」という地響きを背中に聞いた。

「土手の上に立っていた人達が、やられたのかと思うと、自分も生きた心地はしなかった。(中略)本当なら喜ばなければならない筈(はす)なのに、悲しくなって、涙がこぼれ落ちるばかりであった。目の当たりに見た、あの数十名の人達は誰であったのか、一言の声もかけないままに、無惨な殺され方であった」

 しばらくして、独房に先ほどの八路軍の幹部がやってきて、達者な日本語でいった。

「どうしても君を殺すのは惜しいような気がしてならなかった。だからもう一度修養せろ、とは生かして共産党のことを勉強してみろ。俺は朝鮮人だ。以前は日本の士官学校に入ったが気に入らなくて辞めたが、仲間の先輩では朴も居た(朴大統領のことらしい)とにかく日本人の同志も多勢いるので安心して、釈放されたら又(また)会えるから、それまで修養することだ」

 こうして中山は奇跡的に釈放される。だが、凍傷で歩くことができず、人に背負われてようやく義兄の家に辿(たど)りついてみると、線香の匂いがするのである。中山は、義兄が事件で殺されたとを知る。



 後方司令官・太田の悲惨な最期

「そのうちに二、三十名の八路軍が着剣姿で我が家を外から剣で刺す、叩く。女子供は泣き叫び阿鼻叫喚の修羅場と化してしまう」

 式本らは数珠つなぎにされ、竜泉ホテルにある司令部の地下室に連行された。特に竜泉区は山側にあるため、参加者たちは地下タビにワラ縄を巻きつけて滑り止めにしていたため、すぐ発見されたという。途中、式本らは、「銃剣で刺殺して居る場面や、銃弾を打っても当たらないか、血だらけになって逃げまどう者」など地獄の光景を目撃するのである。後方司令官・太田の最期はさらに悲惨なものだった。

「朝鮮部隊の将校に裸にされて、上方を向いて歩けと言われ、歩いて居る所を後からけさ斬りにされてしまったと聞かされ、私も強く責任を感じました」

 通化会の世話役をしている横須賀房子は、下ばき姿の太田が坂道を登ってくるのを目撃している。太田はうしろから拳銃で撃たれた。遺体は四、五日間、そのままに放置されていたという。

 翌日、式本らは地下室から隣の官舎に移された。十五坪ほどの場所に百二、三十名が立ったまま押し込められた。

「息苦しく中には発狂する者もおり、まして夜間も勿論(もちろん)兵隊に取囲まれているため、カタリとも音を立てると、外からバリバリと銃弾を撃ち込まれます。夜が明けて見ると五、六名は必ず縦断に打抜かれて、立ったまま死んでいました」

 首を早く切ってくれ

 五日目の朝になってようやく粟粥がでた。それまでは、飲まず食わずだったという。八日昼頃、官舎に留置されていた百ニ、三〇名が外に出され、コの字型に整列させられた。

鮮系将校が血刀を引(ひっ)さげている中、以前から中昌区で印刷業を営んでいた 『金』 という男が首実験(原文ママ)を行い、私を見るなり、『イタイタ式本前に出ろ』 と言われて、私は素直に前に出ました。『お前はこの事件に関係しただろう』 と図星を指されて、『ハイ、確かに関係しました』 と応答すると、コの字型の全面に膝まずかされ、ドヤドヤと着剣の兵隊十名程に取りかこまれてしまいました。雪が二尺(一尺は約30センチメートル)位積もっていました。もう恐ろしい事も何もない、店の事も家族の事も何も考えず、唯(ただ)四十歳のこの若さで無名の此奴(こやつ)らに首をはねられるなら、もっともっと何か世の為に良い事をしたかった。という思いが、ちらりと脳裏をかすめました。首を前に突き出すと、寸時も早く切ってくれと思う事しきり、が、一向に首筋にざくりと来ない。その間十五分か二十分、その内に後でどやどやと人の動く音が聞こえました。同時に着剣氏の命令で立ち上がると、コの字型に並んで居た人達が誰も居りません。そのまま又、今まで留置されて居た官舎にほうり込まれました」




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