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2016/01/10

朝鮮人慰安婦を虐殺したアメリカ


アメリカニューヨーク州上院議員とニューヨーク韓人父兄協会が結託して、ニューヨーク州上院に「慰安婦教育法案」を再上程するそうです。

大東亜戦争中、朝鮮人慰安婦は確かにいました。そして、朝鮮人慰安婦を虐殺したのは米軍です。

韓国人は本当の歴史を知らないので、本当の敵であるアメリカにすり寄っていくのですね。

【朝鮮人慰安婦を虐殺したアメリカと韓国人のツーショット】ニューヨーク慰安婦1


【事大主義で滅亡する韓国】

ノ・チャンヒョン特派員=慰安婦問題が米国でも関心を集める中、ニューヨークの政治家が韓人父兄らと共に慰安婦教育法案を今年通過させると宣言した。

ニューヨーク州トニー・アベラ上院議員が7日、記者会見を開いて「ニューヨーク州上院で慰安婦教育法案が通過するように法案を再上程する」と発表した。この日の会見にはニューヨーク韓人父兄協会(共同会長チェ・ユンヒ、ラ・ジョンミ)役員陣が一緒だった。

ニューヨーク州の慰安婦教育法案は戦争慰安婦動員を日本帝国主義による歴史上最大の‘反倫理犯罪’行為と規定し、戦争期間中の女性を相手にした性暴行をニューヨーク州公立学校で教育することを義務化する内容を骨子としている。

(中略)

ニューヨーク韓人父兄協会チェ・ユンヒ会長は「ニューヨーク州では東海法案は2009年から、慰安婦教育法案は2014年から発議したが、最後の峠を越えることができずにいつも挫折した。慰安婦問題がどれくらい残酷な犯罪で再び繰り返してはいけない悲劇なのか教科課程に入れて米国の若者たちが学び、進んで日本政府の公式謝罪と賠償はもちろん、日本もやはり未来世代のための教育をするように誘導する」と明らかにした。

ソース元URL:http://www.newsis.com/ar_detail/view.html?ar_id=NISX20160109_0013826697


慰安婦を乗せた引揚船を撃沈した米軍@ラバウル


1943(昭和18)年10月12日午前10時。

アメリカのB25、B26、P38などの戦爆連合200機の大集団が、平和な軍都だったラバウルを奇襲しました。この奇襲によって、太平洋航空決戦の火蓋が切って落とされたのです。

当時の日本軍は米軍のソロモン群島飛び石伝いによるジリ押し作戦に押され、ガダルカナル島、同年7、8月のコロンバンガラ島、10月のペララベラ島と押しに押されて、ラバウルに集結していました。

ラバウルにはパラオやトラック島から進出してきた日本人および朝鮮人慰安婦約100名がいました。
【ソロモン付近要図】
ソロモン付近要図2

戦闘が長引くにつれ、日本軍は補給線を断たれてしまい、食糧だけでなく兵器までも現地で自給自足しなければならなくなりました。

【無慈悲な大本営 「ラバウルは玉砕しろ」】
こういうのを「武士道」とは言わないと思いますが。
大本営ラバウル玉砕1

【無慈悲な大本営 「必要なものは自給自足しろ」】
大本営自給自足1【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C12120324200:陸軍省 昭和19年1月1日~昭和19年1月24日「昭和19年1月 機密戦争日誌(1)」

日に日に空襲は激しくなる、でも日本軍は日に日にナイナイ尽くしになっていく。

そこで日本軍は、婦女子を玉砕が確定しているラバウルから逃がすべくトラック島や日本国内に送還することにしました。そして、最後の日本行きの船にそれらの慰安婦や軍属を乗せて送り出したのを米軍が撃沈したのです。

その時のことを、二人の従軍記者が手記にしていますが、片方は「昭和18年末にトラック島に引揚げた」とあり、もう片方の手記では「昭和19年1月に日本行きの船が米軍に撃沈され、約100名の慰安婦も溺れ死んだ」とあります。

最初の手記は、元海軍中尉が手記に記したラバウルの状況と内容が一致しています。

ラバウルでは慰安所を「植物園」と呼んでいたようですね。

朝日新聞が従軍慰安婦を捏造する前は、慰安所と慰安婦はありのままを書かれていたのです。

ラバウルの慰安所
日本人、朝鮮人の女が100人ほど進出してパンパン屋が設けられた
昭和18年末、ラバウルの慰安婦はトラック島に引揚げた

個人情報保護のため、筆者名の一部は伏せ字にしました。「パンパン」とは売春婦のことです。

出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収 
     共同通信社社会部次長 荒尾●● 「ラバウル航空決戦」



序曲「雲染むかばね」

木馬黄(もくまおう)の町

 ラバウル ─── 土語では「マングローブ」(紅樹林)の意味だときいた。

 二階建といえば、百貨店のほか一、二軒しかないジャングルの田舎町が、一時に膨張していた。町には日本風の喫茶店ができ、マンジュウを売り、コーヒーをのませ、植物園には日本人や朝鮮人の女たちが百人ぐらい進出して、いわゆるパンパン屋が設けられていた

 図南道路、大阪道路と名付けた自動車やトラックの道が、つぎつぎと開かれ、交さ点には兵隊が旗をふって、交通整理に大童(おおわらわ)だった。 

(中略)

 涙の慰問袋

 年末には植物園(パンパン屋)の女たちもトラック島へ引上げていった。病院の看護婦は、眼を泣きはらして、傷病兵と別れを告げ、ぶえのすあいれす丸でラバウルを出港したが、たちまち撃沈されてしまった。一部のものが救助されてラバウルに逆送されたがそれも間もなく便をみつけてラバウルを去った。

【資料画像】
ラバウル慰安所2-1

ラバウル慰安所2-2

ラバウル慰安所3


ラバウルの慰安所
昭和19年1月ラバウルにいた全女性を乗せた船を米軍が撃沈した


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
     読売新聞社社会部次長 山崎●● 「ラバウル地底戦記」



三人の闖入者

 十九年の一月、ラバウルにいた全女性は最後の内地行輸送船で送り帰されたが不幸、ラバウル湾を出て間もなく敵潜水艦のために撃沈されてしまった。

 百人ばかりの慰安婦はもちろん、船員も、便乗の、内地連絡の兵隊も、みんな溺れ死んでしまった。

【資料画像】
ラバウル慰安所4


上掲手記の「パンパン屋が設けられた」という表現では、アカが「日本軍が設けたのだろう!?」などと言いそうなので、パラオの慰安所に関する手記を付けておきます。

慰安所は軍に寄生した業者が経営していました。日本軍慰安所は軍経営でもなければ、慰安婦も強制連行や人身売買ではありません。

補足:パラオの慰安所
軍とともに歩き、軍によりよく食いこんで儲けられるだけ儲けようとしたパンパン屋


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
     共同通信社通信部次長 多田●● 「パラオ諸島方面作戦記」




 在住民の中にはむろん真面目な出稼ぎ人が多いには違いなかったが、この当時は軍とともに歩き、また軍によりよく食いこんで、うまい汁を吸おうという、ひと旗組が相当あったことも動かし難い事実であった。

 そのころの内地ではあまり使われない言葉だった「パンパン」屋も十数軒しかもそれが頗(すこぶ)る大掛りなものであっただけに、これらの家に雇われている人の数も、三、四百人は下るまいといわれていた。

 街中(まちじゅう)の大小飲食店料亭には「海軍御用」の標札がぶら下がっていた。まさに海軍様々である。この海軍の島コロールに連合艦隊が入港したのだからその騒ぎは推して知るべしである。群島唯一の日刊新聞「南洋新報」がその全発行部数の三割以上も毎日増刷したとあり、兵隊達の楽しみの家「文(ふみ)の家(や)」「徳の家(や)」、「紅樹苑」その他全部が逃げ廻る連合艦隊とも知らず「儲けられるだけは儲けさせてもらおう」とハリキッったのもまたあたりまえ、ともいえよう。

【資料画像】
ラバウル慰安所1


昭和19年1月の日本の徴用船撃沈についての記録もあります。

「潜水艦」と「航空機」のちがいはありますが、アメリカは国際法など完全に無視して、日本の船ならば民間船だろうが、病院船だろうが、かまわず攻撃していたのです。

ですから、朝鮮人慰安婦はひと儲けしようと南方まで進出してきて、米軍に殺されたのです。

日本軍は頼みもしないのに勝手に進出してきた朝鮮人慰安婦を、米一粒の補給もなく、雨あられと砲弾が降ってくるラバウルから安全な場所に逃がそうとしたのです。

それでも韓国は日本を恨みたいなら、あらゆる屁理屈や妄想を総動員して、千年恨めばいいと思います。

そして、本当の仇敵であるアメリカにどんどんすり寄って行って、利用されればいいと思います。

日本人は韓国が滅亡していくさまを、のんびり鑑賞するだけです。


1944(昭和19)年1月13日
徴用船羽黒丸 トラック島に向け航行中敵航空機の爆撃を受け沈没


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C08050036700:海軍省 昭和18年12月1日~昭和19年6月12日「昭和18年~20年 大東亜戦争徴傭船舶行動概見票 甲 第5回の3(8)



ラバウル撃沈1


1944(昭和19)年1月2日
徴用船寗海丸呉発パラオ経由ラバウル向け航行中敵機の爆撃を受け沈没す


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C08050036600:海軍省 昭和18年12月23日~昭和19年8月21日「昭和18年~20年 大東亜戦争徴傭船舶行動概見表 甲 第5回の3(7)



ラバウル撃沈3




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