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2016/01/13

慰安婦、慰安所の実態


朝日新聞が従軍慰安婦を捏造する(1982年9月22日)以前の慰安婦は、みずからの意思で外地(日本国外)に進出して、がめつく稼いでいた売春婦と書かれています。

しかも勝手に軍についてきて、戦闘中の慰安所利用料はハネあがったそうですから「慰安」もへったくれもありません。

そして朝鮮人慰安婦を雇っていたのは朝鮮人男子だったそうで、ラバウルの対岸ココポにも進出していました。

昨年11月、フジのプライムニュースで、1991年当時外務省アジア局北東アジア課長だった元駐韓国日本大使の武藤正敏氏に旧社会党の議員が連れてきた元従軍慰安婦が、『私の古傷をみて欲しい。梅毒の跡だ』と言ったそうですが、慰安所は性病予防施設であって、性病の感染源は日本兵ではなく慰安婦(公娼)や私娼だったのですから、武藤氏が面会した元従軍慰安婦はニセモノです。

【日本軍の朝鮮人女性強制連行はなかった】
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慰安婦というよく言えば「商魂たくましい」、悪く言えば「すれっからしのあばずれ」の、さらにそのニセモノが朝日新聞の捏造によって、悲劇のヒロインに仕立て上げられたのですから、報道ってコワイですねえ。

参考までに、資料を置いておきます。

・外出兵を待っていた慰安所
・軍では外出時にサックと薬の携帯検査、サック使用法レクチャーがあった


出典:1959(昭和34)年 日本文芸社 「現代読本」第四巻第十二号所収
      「軍隊生活座談会」



外出時はサック検査をして

菅原 「性的な問題は、戦時中、ことに、補充兵、召集兵が多くなると、急に増えてきた。これは、初年兵などとちがって、妻帯者が多く、性的にガマンできないためであろうと思われる」

司会 「外出が、そこで楽しみ? になってくるわけですな」

後藤 「意地の悪い将校がいましてね。早く外出させればよいのに、自分が日直で奥さんと会えないというので、その辛さを兵にも分けようと(笑声)」

千葉 「それは罪だ、早く出してやればよいのに」

岩切 「外出時のサックと薬の携帯検査などは、まさに軍隊ならではですね」

千葉 「全くそうだ、学校などでやったら、トタンにPTAにつるしあげられる」

司会 「サックの使用法を懇切丁寧に説明してね(笑声)」

後藤 「実際には使わないのに(笑声)だから、軍専用の慰安所などは、サックは山とある。兵隊が終ると、みな置いていってくれる。それを街に売る(笑声)ゴム製品がなかったので、飛ぶように売れる(笑声)」

皆原 「軍官民一致というわけだ(笑声)」

司会 「戦地では、それぞれ専用の慰安所が外出兵を待っていたが、内地では、いろとりどりというわけだったな」

【突撃一番】
突撃一番【写真出典】1993(平成5)年 石風社 麻生徹男 「上海より上海へ-兵站病院の産婦人科医」


・兵站後方には日本国内の遊廓と同等の慰安所があった
・後方への出張を楽しみにしていた日本兵
・現地人向けの安い慰安所もあった
・日本兵は俸給をためて日本婦人にすべてを捧げた
・兵の外出には門限があった

戦時中の北京、上海は日本軍占領地でした。なので赤い中国女はいませんでした。もしいたとしても反共日本が共産主義に染まっている女性を兵にあてがうはずがありません。


出典:1959(昭和34)年 日本文芸社 「現代読本」第四巻第十二号所収
      「性と兵隊」



至れり尽(つく)せりの駐屯軍施設

 駐屯軍の場合には、それが、内地とは隔絶されていただけに、施設は秘そかに充実されていた。

 この種のもので、もっとも発達しているところは、何といっても、司令部の所在地であった。これも、高級司令部になればなる程、内地以上の、性の歓楽がまっている。

 だから、将校でも、兵でも、司令部出張ともなれば、女にモテようと、ヒゲもそり、服も着替えて、いそいそと、出掛けたものである。出張の目的は、表面上、いろいろあっても、本当の目的は、ウッ積した精力をはかせる? ことで、したがって、この出張も、自然と、順番がきまっており、この順番を故意にかえたとすると、人事係はひどく、恨まれたり刃傷沙汰の原因となったものだった。

 中国でいえば、北京が一番よく、上海などと、双璧をほこっていた。ここには、日本内地ではたべられない珍味と、美人が、国民精神総動員などクソ喰らえで、精力総動員を展開していた。現地人専門のお安いのもあれば高いのもある。内地の芸者そっくりの美人もいれば、吉原、中村遊かくそのままの女郎屋もあった。将官用もあれば、下士官用もあった。後方ではこのように、女までが階級によって区別されていたのである。

 出張者は兵站旅館に装具を置くと、用務を簡単にすませ、ためておいた俸給を握って、それぞれの向きに合うように、処理しに出ていく。下士官、兵は大体、夜の九時か十時が門限で、それまでに、三カ月ぶりか、半年ぶり、なかには、一年ぶりで接する、日本婦人に、すべてを、財布の中身まで、そっくり捧げて、できるだけ、短い時間に、最大の効果を挙げるべく努力する。一時間に、十回などという猛者は、珍らしいことではなかった。

 ここで充分に堪能して、つぎの、半年なり一年を、軍務に精励するという寸法である。

【日本兵が夜通し朝鮮人女性を虐待する慰安所アニメ(韓国製)】


【日本の芸妓】
日本芸者1
 


・隊の規模に合わせて専属の朝鮮ピー屋(女郎屋)が進出していた
・一中隊約150名に対し朝鮮人慰安婦の数は5、6名だった
・朝鮮ピーはタフガイだった
・公娼の性病について毎週連隊本部、大隊本部、中隊本部から会報で発表された
・私娼はひどい性病持ちが多かった


出典:1959(昭和34)年 日本文芸社 「現代読本」第四巻第十二号所
      「性と兵隊」



タフガイなピーと同性愛

 ところが、こんな便利な出張ができないもの、また、そんなことでは、とても間に合わないもののためには、連隊本部、大隊本部、中隊本部、なかには小隊本部? にも、専属のピーと称する女郎屋が、雄々しく、出征していた。これも、単位が小さくなるに従って慰安婦と称するこの人々も少人数となり、部隊や場所によっても違うが、中隊ともなれば五、六人といったところ。大隊本部で、十五、六人が標準だった。

 その多くは、朝鮮の婦人で、俗称朝鮮ピーといい、そのタフガイぶりにはまさに驚嘆すべきものがあった。

 下士官、兵は日曜の外出時に使用し、将校とか下士官の古参は、週日に、適当に処理するのである。ここでは区別はない。

 百五、六十人に対して、五、六人であるから、中隊はほとんどが××兄弟というわけで、団結いよいよ鞏(かた)しということになる。が、なかにはわたしのスウちゃん騒ぎで、反目し合うこともちょくちょくあった。

(中略)

 毎週、連隊本部、大隊本部、中隊本部から性病検査の結果が会報で発表され、竹子は淋ちゃん(淋病)だから今週は駄目だとか、松子は梅の毒(梅毒)が消えたから、行ってみるか、といったふうに品定めをしたりした。

 衛生材料としては、外出時に、厳重に、サック携帯の有無とか、薬品はどうか、などを週番士官が検査したが、果して、これを正直に使っていたのは、その何%だったろうか。

 こんな器械? ではとても気分が出ないとなると、こっそりと女探しがはじまり、私設ピー(私娼)がそこで出現するわけで、いわば公娼制度に対する私娼の自然発生というところ。

 この種のものは、品物もよいが、多くの場合、性病、それもひどいものをもっており、それが玉にキズというわけ。

【朝日新聞が日本軍の慰安所と宣伝し続けた私娼窟】
麻生元陸軍軍医による注釈にもあるように、日本軍とはいっさい関係がない。
minei_ianjo2.jpg【写真出典】1993(平成5)年 石風社 麻生徹男 「上海より上海へ-兵站病院の産婦人科医」 証言

【参考記事】
日本軍慰安所の慰安婦は性病に感染したら、治療が完了するまで営業禁止になった。ところが韓国の元従軍慰安婦は梅毒の跡が傷になったという。ということは私娼だった可能性が高く、慰安婦(公娼)ではない。日本兵が梅毒に感染した場合は後方の野戦病院に入院、重度になると日本国内に送還された。韓国人は慰安所が性病予防施設だったことを知らない。

新藤前総務相「韓国は話を膨らませる」慰安婦問題で指摘
2015年11月11日 スポーツ報知

11日夜のBSフジの報道番組「プライムニュース」に出演した自民党の新藤義孝前総務相(57)は、日韓で政治問題化する慰安婦問題について「日本が一方的に謝罪して(韓国側の)ゴールが動いて、日本はお付き合いするのに疲れている。韓国は(慰安婦問題を)正当化するために、話を膨らませる」と指摘した。「日本は謝罪もしておわびもしている。決着に予定調和はない」とし、「率直と仁愛を持って付き合うべきだ」と提言した。

 91年に、外務省アジア局北東アジア課長だった元駐韓国日本大使の武藤正敏氏(66)は「(旧社会党の)議員が元慰安婦を私の前に連れてきて、『私の古傷をみて欲しい。梅毒の跡だ』と言われた。えらいところに来たなと思った」と振り返り、「慰安婦かどうかの確認はとれなかった」と述べた。



【性病感染源だった慰安婦と私娼】
其の他富士花園、昭和園各二名、朝日館、麗水館各一名、不明三名、私娼所在地は患者該地名を詳(つまびらか)にせざる為判然とせざるも下町に多きものの如し…昭和十七年九月十日頃罹患せしものの少きは当時罹患せし者の中の大分既に治療退院せしに由(よ)る花柳病公娼私娼比島1_2【資料出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C13071608900:「花柳病患者罹患経路調査 昭和18年2月26日南方第12陸軍病院調」


【性病に感染して野戦病院送り】
二、本日入院患者十名急性扁桃腺炎一、急性気管支炎二、急性筋炎一、座骨神経痛一、痔核一、花柳病(性病)二…。花柳病入院患者数1_2【資料出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C11111523300:「陣中日誌 昭和13年2月分 第108師団第4野戦病院」


麻生元軍医
「ラバウルの対岸ココポにも朝鮮人経営慰安所ができていた」

「慰安所」というのは朝日新聞の捏造報道のせいで、朝鮮人女性、中国人女性虐待施設を表す固有名詞のように使われていますが、単なる代名詞です。

慰安所とは妓楼、娼家、女郎屋、私娼窟、パンパン屋、貸座敷、料理屋を言い替えた言葉で、現代なら居酒屋やパチンコ屋を「慰安所」と呼んでもいいと思います。

それでも日本軍は「慰安所」と口にするのが恥ずかしかったようで、ラバウルでは「植物園」、ココポでは「精工舎」と呼んでいました。

ニセモノ慰安婦よりも日本軍の方がはるかに、はじらいがあったのです。

出典:1993(平成5)年 石風社 麻生徹男 「上海より上海へ-兵站病院の産婦人科医」 証言



 ココポ地区にも数軒の慰安所が出来、その一つは京城楼と称し二〇名の朝鮮婦人と経営一行五名余の朝鮮男子がおり、兵站司令部付属の時計修理班と同一建物の中に開設した。いつの間にか兵隊の間に「時計修理に行く」という隠語が出来た。即ち精工舎はセイコー舎である。

【ココポはラバウルの対岸】
ココポ地図1_2


・戦闘中、ピー屋(慰安所)は軍と行動をともにできなかったため、第一線部隊のあとに公娼のピー屋が続いた
・ピー屋が日本軍に追随したのはカネ目当て
・戦闘中の花代(慰安婦に支払う代金)はめっぽう高くなった


出典:1959(昭和34)年 日本文芸社 「現代読本」第四巻第十二号所収
      「性と兵隊」



女携行の野戦軍

 知らぬは内地の妻ばかり ─── 。

 駐屯間は、それでも、いろんな方法があって、ともかく処理もできたが、一旦戦闘状態ともなれば、まさかピー屋とともに行動もできず、そこにいろんな悩みが生じてきた。

(中略)

 これでは困ると、第一線部隊に続いてすぐ公娼のピー部隊が続くことが多かった。朝は鉄砲の弾丸を打ち、くたくたになり、夕はまた別の鉄砲の発射で討死(うちじに)という部隊も、かなりあった。

(中略)

 もちろん、ピー屋にしても、純粋の慰安の気持ばかりで、このような危険な行動をとるものではなく、そこには、金という魅力が繋がれていた。したがって、戦闘間ともなれば、一発の単価が滅法(めっぽう)たかくなり、なかには、値切ったおかげで、翌日名誉の戦死をしたという笑えぬ悲劇もおきたりした。



小説に描かれた慰安所、慰安婦


"気性が強く、軍人を軍人とも思わぬ"と描かれた慰安婦

娘子(ろうし)軍とは海外に進出した日本人売春婦のことで、戦前進出した売春婦から戦時中の慰安婦までをひっくるめた呼び方でした。


出典:1959(昭和34)年 日本文芸社 「現代読本」第四巻第十二号所収 「南海に消えた悲恋の翼」



 太平洋戦争で日本軍が占領した南方地域の島々には、特要員と呼ぶ"娘子軍(慰安婦)部隊"が進出していた。

 これは太平洋戦争になってはじめて出征したものではなく、満州や中国大陸の各地には部隊の駐屯するところ、どこにでもこの娘子軍がいた。

 彼女たちは前線で戦斗(闘)する兵隊を慰めるための、『大和なでしこ』ということであったが、男ばかりの部隊で、最も困ることは性の処理だったが、彼女たちは、そのために絶対必要な一夜妻であったことはいうまでもないだろう。

 園子もこうした特要員の一人だった。ラバウル方面行きの娘子軍部隊が募集されると、まっ先に志願したという女だった。もっとも園子は軍人を相手にするのはこれが始めてではなく、佐世保軍港で"ウメ子"と名乗って芸者をしていた。しかも、気性の強さで、軍人を軍人とも思わぬ態度が、かえって士官たちの人気を呼び"女ザムライ"という異名をたてまつられていた女でもあった。

 海軍では士官の行く料理屋と、下士官兵たちのゆける料理屋とは区別されていた。園子の呼ばれてゆく料理屋『青梅』は士官(少尉から上の人たち)の専用となっていた。

 園子は当然南方にも、士官用でゆくだろうとみられていたが、彼女は下士官兵用を志望して人を驚ろかせた。

「兵隊さん(下士官兵のこと)のほうが、可愛くていいよ。士官なんか、オツにすましているクセに、遊びのシツコさといったら話にならないよ。そんなのオカシクて相手にしてられないよ」

 彼女の言い分はこうだった。



外地まで来て稼いでいたのは商魂たくましい慰安婦だった


出典:1958(昭和33)年 日本文芸社 「現代読本」第三巻第十号所収 「漢口大空爆下のふたなり二等兵」



軍用慰安所で

 躯(からだ)の凍りつくような寒い晩のことである。村井は伊勢を伴って、慰安所へ遊びに出かけた。

 登楼すると直(す)ぐに、二人は、村井が二、三度買(かい)馴染(なじ)んだことのあるマリというのと、伊勢の相方にきめたユキというのと二人の女を相手に、寒さしのぎに飲みはじめた。

 マリもユキもまだ二十三、四だが、軍用慰安婦として外地(日本国外)へまで来て稼ごうというだけに、その顔や体からは、何か捨身の逞しさが感じられる。飲むほどに酔うほどに、露出症的なまでの嬌態をさらけだして来た。





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