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2016/01/08

アメリカ大富豪が身受けしたモルガンお雪


明治時代、アメリカ財界の二大巨頭といえば金融王のモルガン、石油王のロックフェラーでした。

時は明治、日清戦争勝利に日本中が沸き返っていた頃、大富豪モルガン一族の御曹司が日本の芸妓を身受けするという事件がありました。

と言っても、身受けですから芸妓への愛情あってこその話です。

杉原千畝氏の東欧ユダヤ人救出が硬派日ユ友好物語なら、ジョージ・モルガン氏と芸妓お雪の物語ははかなくも悲しいラブストーリーといったところでしょうか。

ところで、お隣りの国韓国はまだ「従軍慰安婦日韓合意」に反発していますね。今回の日韓合意では、アメリカが証人の役割をするようです。

そのアメリカは幕末の開港の頃から妓楼(慰安所)で遊び、イケイケだった日本を威嚇するために艦隊を組んで来日しては娼妓(慰安婦)と遊び、そしてジョージとお雪の悲しいラブストーリー…といった事実があるのです。

なのでアメリカは、いつでも捏造従軍慰安婦を叫び続ける韓国を切ることができるのです。

【モルガンお雪こと加藤雪】

モルガンお雪
1903(明治36)年 9月30日
京都・祇園の芸妓お雪(本名加藤雪)が、アメリカ人富豪・ジョージ・モルガンにより、4万円で落籍された。白米1升1円19銭の時代の恋のお値段である。

 モルガン財閥2代目の甥であるジョージ・モルガンは、3度目の来日。祇園でお大尽(だいじん)遊びを続けるうち、売れっ妓のお雪にひと目ぼれする。

 モルガンが身請け話を持ち出したとき、半ば投げやり半分に「4万円あれば」と口走ったところ、モルガンの方はあくまでも大真面目。お安いご用と大金を投げ出し、翌年、横浜でアメリカ総領事立ち会いのもと、めでたく結婚式をあげアメリカへ。モルガン32歳、お雪23歳のときである。

 お雪は夫の死後、1936年に帰国。63年、81年の生涯を閉じる。

〔出典〕1987(昭和62)年 講談社 「20世紀全記録」


【ジョージ・モルガン氏像】
ジョージ・モルガン1

モルガンのスゴさにびっくりぽん。コワくなるほどのお金持ち
 ↓


【金融王ジョン・ピアモント・モルガン(1837-1913)】
アメリカの政権をも動かした金融王。若くして父の銀行業務を引き継ぎ、モルガン商会を設立した。南北戦争では軍需品を納入、さらに戦後の急速な産業発展期に巨利を得てモルガン金融財閥を誕生させた。カーネギー製鋼を買収して自分が所有する鉄鋼9社と合わせて全米鉄鋼生産の7割以上を占める世界一の大企業USスチール設立はつとに有名。
ジョン・ピアポント・モルガン

【モルガン商会@ニューヨーク(1913年)】
モルガン商会1913年

【モルガンの風刺画-1910年代】
こどもが貯金箱に入れた小銭すらモルガンの支配下にあるという金融支配の風刺画。モルガン風刺画

【ニューヨーク金持ち連の贅を尽くした遊び】
競馬場でのパーティー。
ニューヨークの金持ち

お雪は京都尾野亭の芸妓でした。

時は明治30年代初頭、まだ船と汽車しかなかった時代に、京都で差し出した手紙がニューヨークに着くと、すぐにジョージ・モルガン氏が京都まで飛んで来るのです。

アメリカ巨大財閥の御曹司となれば、アポを取ることすら困難なんでしょ? 
恋の力はすごいですね。

高橋是清もびっくりぽんですわね。


【ユダヤ財閥に日露戦争の戦費を借りに行った高橋是清】
しかもアメリカのユダヤ財閥ヤコブ・シフに借りた。
高橋是清1

ジョージ・モルガン氏とお雪、どちらも悲しい恋物語



ジョージ・モルガン氏はアメリカマサチューセッツの出身で、↑のJ・P・モルガン氏のいとこ、また銀行業、鉄道業を営んでいたジョージ・デンソン氏の息子とされています。

ジョージ・モルガン氏には氏とおなじ大富豪の令嬢という婚約者がいましたが、権謀術数あったようで、一方的に婚約を破棄されてしまいました。

傷ついたモルガンさんは心をなぐさめるべく、世界を漫遊する傷心旅行に出発します。そこで、最初にパリに行ったのですが、パリでは傷が癒えなかったので、日本にやって来ました。

【1900年代初頭のパリのレビュー】
パリ大浮かれレビュー


日本では京都の澤文(さわぶん)という旅館に落ち着きました。すると日本の景色や情緒がモルガンさんの心の傷を少しずつ治していったのでした。

【日本の芸妓(げいぎ)】
日本芸者1

ある日、お座敷遊びに興じていたモルガンさんはお雪という芸妓と出会います。なにぶん昔のことなので、脚色かも知れませんがモルガンさんが澤文でピストル自殺を図ろうとしていたところを偶然、お雪が発見して引き止めたという説もあるようです。

どちらにせよ、モルガンさんがお雪に一目ぼれし、お雪には貧乏書生という恋人がいました。

日本ならば身受けした玄人女はどこかに囲って妾(めかけ)にするのが普通ですが、モルガンさんはとても純粋で、お雪を落籍して、妻にしたいと願うようになります。

落籍(らくせき)とは、芸妓、娼妓の借金を完済してやって自由の身にすることです。身受け、身請け、落籍(ひか)す、とも言います。

そこでモルガンさんはお雪に何度もアタックするのですが、お雪はなかなかよい返事をしませんでした。それはモルガンさんがユダヤ人だから、というような理由ではありませんでした。

それはお雪に「旦那」実は貧乏書生の恋人がいたことと、幕末開港の時に米、英、露、独、仏といった国々が黒船で乗りつけて、遊廓や芸娼妓を襲撃するといった非道を犯したことも一因だったでしょう。

お雪から色よい返事をもらえぬまま、実業家であるモルガンさんは、いったんアメリカに帰ることにします。その時、お雪にニューヨークの住所を書いた封筒を二十枚渡して、

「僕はカタカナなら読めるから旦那と別れたらすぐに手紙を書いて、そしたら僕はすぐに京都にくるから。それから一月になったらおめでとうと書いて、手紙を送って」

と言い残し、帰国してしまいました。

そうしてお雪がモルガンさんを跳ねつけているうちに、お雪の実兄の音次郎(瀧次郎と記している文献もある)が欲にかられて、お雪になりすまして、「旦那と別れた」というニセ手紙をモルガンさんに送ってしまいました。

すると喜び勇んだモルガンさんはなんと弁護士同伴で来日して、お雪の落籍、お雪の国籍を米国籍に変更する手続き、そして結婚の手続きに入ってしまいました。

困り果てたお雪は貧乏人の悲しさで、『法外な身代金を要求すればモルガンさんもあきらめてくれるだろう』と考えて、「四万円必要です」とモルガンさんに談判します。

あらかじめ、東京の新橋や柳橋で芸妓落籍の相場をリサーチしてきたモルガンさんは、思いもよらぬ金額にビックリしました。そこでお雪に金の使い道をたずねると、お雪は

「三万円は旦那への手切金で、一万円は私の借金返済にあてます」

と答えたのでした。

四万円とは明治30年代ですから、それは法外な金額です。貧乏人からすれば法外な金額でしょう。でもモルガンさんはアメリカ政府ですら動かすといわれる巨大財閥の御曹司です。四万円が出せないはずがありません。

そして四万円は支払われ、お雪は落籍となり、横浜でアメリカ総領事立ち会いの上で、モルガンさんと正式に結婚しました。

モルガンさんは嬉しくて、お雪をニューヨークに連れ帰り、社交界に紹介してまわります。くしくもそれは、日露戦争前年のことでした。

けれども日本人であるお雪に対するお金持ちたちの視線はさげすみに満ちていて、モルガンさんは日本人(異教徒)と結婚したという理由で、ニューヨーク大富豪の会である四百名(フォアハンドレッド)という会も除名されてしまいました。

モルガンさんはまたニューヨークの大富豪に心を傷つけられますが、今回はお雪がいるので前回ほどダメージは深くありませんでした。

そこでモルガンさんはお雪につらい思いをさせないよう、パリに移住します。そして亡父の莫大な遺産を使ってお屋敷を建築し、お雪との生活を始めました。

お雪もそうしたモルガンさんの愛情にこたえるべく、日本の物を食べたり、身に付けたりするのを一切やめて、語学を学び、ピアノを習ってモルガンさんをなぐさめようと努力したのでした。

そうして、年月は流れ、モルガンさんはシナ事変の前にスペインで急病にかかり、客死してしまいます。残されたお雪はシナ事変勃発前年の1936(昭和11)年に日本に帰国し、1963年(昭和38)年に81歳の生涯を閉じました。


せめてもの救いは、二人の恋が日米関係悪化以前だったことです。

日露戦争に勝利した日本は満州を勝ち取るのですが、その満州の権益を強奪しようとモルガン商会をはじめとするアメリカ銀行連が四国借款、六国借款などを組んで、日本に圧力をかけ始めます。

同じ頃、アメリカ鉄道王ハリマンが南満州鉄道を買収しに来日しますが、ハリマンはロックフェラー系です。


モルガン系ロックフェラー系


モルガンさんとお雪の恋は、日露戦争、第一次世界大戦、そして第二次世界大戦へとつづく欧州動乱に飲み込まれていったはずです。

第二次世界大戦でお雪の故国日本をアメリカの圧倒的物量がたたきのめし、焦土にしていくさまをモルガンさんが見ずにすんだことは、とても尊いことだったと思います。 一日本人として。

ああ、誰か、モルガンさんとお雪の恋を映画かドラマか朝ドラにしてくれ、と思ってしまうほど、モルガンさんもお雪もちょっとずつ悲しい、切ない恋の物語でした。

そしてこれが、実際の日本の花柳界でした。
条件のいい身受け話がきても、当の芸妓や娼妓が承諾しなければ成立しません。お雪は「左褄(ひだりづま)持つ悲しき身」と言っているので身は売らない芸妓だったと思われますが、日本の公娼制度が人身売買だったなら芸娼妓の意思に関係なく、法外な値段で売り飛ばされていたでしょう。

「左褄」とは芸妓が外を歩く時に、左手で着物のすそをつかんで少し持ち上げることを言います。そうすると着物のすその合わせ目が閉じるので「芸は売っても身は売らない」という意思表示とされました。しかし実際は、戦前の芸妓の中には身を売る者もいました。

左褄に対し、花嫁は右手で着物のすそをつかんで持ち上げます。すると着物のすそがわずかに開きます。これは身も心も夫へ、という花嫁ならではの仕草です。

アメリカは「慰安所って妓楼のことなんだって」と申し渡せば、それで韓国は終了します。

本記事の資料


モルガンお雪あらすじ


出典:1917(大正6)年 蜻蛉館 泉斜汀 「名流情話」 加藤お雪とヂョージモルガン 会話を習ふも夫のため 死目にも会へぬ最後



 モルガンは米国はマサチウセッツのシックスという処(ところ)で生れた富豪の子であった。彼は成長してからエール大学に通って居たが、中途で止(よ)してモルガン銀行に勤めて居た。此(こ)のモルガン銀行と云(い)うのは、米国第一流の金満家、ジェー・ピー・モルガン(彼の従兄)の経営する処であった。

 其(その)折(おり)から彼には第一の恋人があった。それは当時の紐育(ニューヨーク)社交界に、女王の聞え高きマーガレット・マッケィと云う花の如き令嬢であった。

 二人は、許し、許された中(仲)であった。旋(やが)ては娯(たの)しい蜜月をも夢みて居た。処が突然女の方の母親からはその婚約に故障が出た。

 それは恁(こ)う云う訳(わけ)だったのである。

「モルガンの今日までの素行に就(つい)て欠点があり、亦(また)非難すべき行動がある。」と云うのである。

 然(しか)し是(これ)はモルガンに取っては露覚えのない濡れ衣であった。それは米国紳士の通有性として、観劇や、舞踏や、音楽や、夜会やの所謂(いわゆる)歓楽の街(ちまた)に往来して居た事は事実であるが、然(し)かも猶(なお)嬢との婚約を破棄しなければならぬ程の何物も彼は持たなかったのである。

 けれども、幾ら彼の恋人マーガレット嬢がその母親を動かすが為に、色々に弁解に努めて見ても、遂にはそれは無駄に終った。母親は聞入れなかった。

 モルガンには数多(あまた)の恋敵があった。或(ある)いは然(そ)う云う者等(ら)の為に母親は唆(そその)かされたのだったかも知れぬ。

 けれども何しろ婚約は破棄されて了(しま)った。

 彼は絶望の極、世界漫遊を企てた。而(そう)して最初立寄ったのが巴里(パリ)であった。けれども彼の傷(きずつ)いたる心を慰むるに足るべき何物をも彼は得られなかった。次いで来たのが日本であった。


 花の巴里の放浪生活にも満足を得る事が出来なかった彼は、日本へ来て始めて荒(すさ)み果てたその心情を和(やわ)らぐるに足るべき穏やかな自然に接する事が出来た。

 玲瓏(れいろう)女神(にょしん)の如き富士の容姿、広重の絵の如き東海道五十三駅(つぎ)の景、否(いな)それにも増して彼の旅愁を慰めたのは、沈着(おちつ)いた京都の気分であった。しんみりとした加茂川の情緒であった。

 然かも蝋燭(ろうそく)の灯のなつかしき祇園の一夜は、彼に取って終生忘るる事の出来ない処のものであった。況(いわ)んや其処(そこ)でお雪を見しに於ておやである。彼は永い放浪生活の末、此処(ここ)に始めて異性の優しみを知ったのであった。


 お雪も最初こそは、異人さんだとか、毛唐だとか朋輩(ほうばい)達から後指(うしろゆび)を指されるのが辛かったが、二度三度と逢う瀬の重なるに連れて、いつとはなしに此の失恋の為に心が痛んでるモルガンに対しては、憐(あわれ)みの情も起り、又日本の男性には見られぬ親切振りと熱情とにも、絆(ほだ)されるようになって了った。

 他から虐(しいた)げられれば虐げられる程、二人は遂に特別な厚情を持つ様になったのである。

 お雪は遂に四万円を以て落籍(ひか)される事となった。それは丁度(ちょうど)明治三十七年の一月の事であった。二人が相(あい)知ってから四年目の正月であった。モルガンはそれまでに三度(みたび)も日本へ来たのであった。

 偖(さ)て同じ月の二十一日は、二人に取って忘れ難い日であった。二人は当時横浜に居た英国法学士の小林米珂(こばやしべいか)の媒酌で、正式に横浜領事館で結婚した。

 而してお雪は良人(おっと)の意に従い、住み馴(な)れた日本を米国に帰化して、知らぬ他国に趣(おもむ)くのであった。

 当時世間では兎(と)や角(かく)と、お雪の籍が日本を離れて、紐育(ニューヨーク)に移された事に就いて、非難の声が喧(かまびす)しかったが、夫婦の情に何の変りがあろう。

 お雪は日露開戦の数日前に、良人ジョージに伴(つ)れられて、米国へ向けて出発して了った。

 四方山に包まれた京都に生れ、京都で育てられ、常に水といえば井戸水か、高瀬川か、疎水位しをか見た事もなく、旅といえば近い大阪か、大津ぐらいより外(ほか)へは行った事がないお雪が、始めて大きな外国船に乗って、外国へ渡った時の心地(こころもち)はまあどんなであったろう?

 けれども彼女は米国人を良人と定め、西洋に常住する以上は、生活の状態等も凡(すべ)て良人と同様にせねばならぬと思った。

 で、紐育(ニューヨーク)へ着いてからも、最初の内こそ態々(わざわざ)三度々々の食事も、夏冬の衣服も、日本から取寄せ、日本の米を食べ、日本の衣服を着て居たが、旋(やが)て是等(これら)をもすべて洋風に改め、衣服は勿論(もちろん)食べ物とても、一切日本の物は用いぬ事にした。けれども困ったのは会話であった。

 それも切(せ)めて我が良人と同じ言葉でさえあれば、然(さ)のみ不便は感じないのであるが、夫婦間の言葉が違う様では、第一日用の事からして不便で堪(たま)らない。亦(また)情も移らない。何は兎(と)もあれ第一に会話を覚えなければならぬと思ったのが動機で遂には是(これ)をも習得した。


 又ヂョージモルガンは、失恋の手傷を負わせた、紐育(ニューヨーク)の社交界に向って、是(これ)見よがしに新夫人を紹介した。

 而(そう)して日本の最も古い歴史ある職業の一つである処の、刀鍛冶の娘であると吹聴した。又実際お雪はそれに相違なかった。

 けれども紐育(ニューヨーク)の社交界は、一向(いっこう)恬(てん)として顧みなかった。

 然かも異教徒である処の、彼女を見るに冷たい蔑(さげす)みの目を以てした。

 モルガンは亦(また)絶望した。けれどもその絶望は、優しい日本の京都女に依って慰められ得る処の絶望であった。

 彼は此の浮華(ふか:うわついていて華やかなこと。外面だけ華やかで実質のないこと)な冷淡な紐育(ニューヨーク)の社交界を捨てて、再び旅行の途に上った。と云うのが、可憐なお雪に寂寞な思(おもい)をさせたくなかったからである。

 而して、お雪を連れて仏蘭西(フランス)へ渡った。

 彼は、過去に於ける暗い自分を葬る為に、又現在の苦痛と煩悶とを恋女房のお雪に悟られまい為に、努めて、殊更に米国を捨てて、巴里で生活をする事にした。

 彼には莫大な父の遺産があった。彼はそれを以て花の巴里に壮麗な別荘を建築してお雪と二人で此処に住む事にした。

 又お雪とても、何(ど)うして良人の情に、感じずに居られよう。彼女は毎日、此処でも英語を稽古し、又家庭教師を聘して仏蘭西語と、良人を慰める為にピヤノ(ピアノ)の稽古をした。

 ピヤノは彼女の芸妓時代に最も鼓弓を得意とする処だったので、何の雑作(造作)もなく上達した。けれども、ただ困ったのは語学であった。併(しか)し是非覚え込まなければ可(い)けない、でないと此世(このよ)に生きて居る甲斐がないと思った。

 壮麗な邸宅に、日夜美衣美食にのみ耽(ふけ)るばかりが彼女の勤めではなかった。彼女にも亦(また)大和撫子の意地があった。而して日夜一心不乱に稽古した甲斐はあって、遂に良人にも不自由をかけず、亦何人(なんぴと)とも流暢に話を出来るようになった。

 けれども懐かしいのは日本であった。彼女は其(その)後も、洛東東福寺塔中(原文ママ。たっちゅう)五大堂に在る、亡父の墓を展墓(てんぼ:墓参り)の為に、良人モルガンと手に手を取って、二度三度も帰朝(きちょう:外国から日本に帰ってくること)した。

 又、モルガンは片時の間も離す事の出来ないお雪をさえ、いつも紐育(ニューヨーク)に帰る時は、巴里に残して旅立った。

 彼は異教徒、即ちクリスチャンでない女と、結婚をしたというのが原因で、紐育(ニューヨーク)の市中に成立して居る、有名な金満家四百名(フォアハンドレッド)という仲間の組合から除名されたなどという事を、お雪の耳には入れ度(た)くなかったからである。

 恁(か)くして彼の最後の旅行は、僅か一日の相違でルシタニヤ号の災難からは逃れる事が出来たが、狂暴なる独逸(ドイツ)の潜航水雷を避け様として、ジブラルター(ジブラルタル)に上陸し、其処(そこ)からスペインを陸上に旅行して、お雪の待ち詫びて(原文ママ)居る巴里に帰ろうとして、途中スペインのセヴレイという処で、急病でなくなって了った。

 お雪は自分を回護(かば)われたばかりに、遂にその死に目にさえ逢う事が出来なかったのである。



お雪さんプロフ、お雪がいう「旦那」は実は貧乏書生だった


出典:1916(大正5)年 玄誠堂書店 上山光雲 「モルガンお雪:祇園情史」



 芸妓は十八九位でもあろうか、すぐれて美しいと云う程ではないが、色白の、涼しい眼の、睫毛の濃い、細面の顔形(かおだち)で、物云うたびに、口辺(くちもと)に溢るるばかりの愛嬌を湛(たた)えるのは、妙に人を惹(ひ)きつける力がある。

 この芸妓は、尾野亭のお雪という者であった、お雪は京都市下京区の、新橋通大和小路東入一丁目橋本町に生れ、父は早く世を去って、母のお琴に育てられ、姉のお歌は、祇園新地の貸座敷、加藤楼を経営し、次の姉お隅は、継香(つぎか)と云って、末吉町に芸者屋をはじめ、その次の姉お直は、西陣の帯地商に嫁(かた)付き、兄の加東瀧次郎は、散髪屋を開いて居たが、お雪は十四の春に、尾野亭を見習茶屋として、舞妓になったので、その時は明治二十九年の三月であった。

(中略)

 それ程お金が大切なものか、私の辛さ苦しさを、察してはくれぬのかと、母の無情を恨まずには居られなかった。

 ところへ瀧次郎が入って来た、お琴は瀧次郎に委細の話をした。

「それは阿母(おっかあ)の云う通りだ、お前は何んで承知をしないんだ、貧乏書生の男があるとか、人の噂に聞かぬでもないが、そんな野郎に義理立てして、金の蔓(つる)を振り切るんぢゃなかろうな」

 この瀧次郎の一言は、お雪の胸には五寸釘打たれるような思いがした。

「否々(いいえ)、誰れに義理立てでもないのです、私は彼(あ)の方が、虫が好かないのですわ」

「爾(そ)うか、虫が好かないのか、虫が附いてるのか、それは此方(こっち)は知らないが、強情張ったら、引込みがつくまいぜ」

 と、瀧次郎はにやりと笑って出て行った。

 お雪は母や兄から、慰謝の言葉も聴き得ずして、力なくなく尾野亭へ帰った。


モルガンが自殺を企てたとする説
お雪は鼓弓の名手、お雪の兄が内密にモルガンへ宛て「了解」の手紙を出した
モルガンはニューヨークから弁護士同伴で来日、ニセ手紙を受け取った時点で夫婦約束は成立


出典:1902(明治35)年 駸々堂 鶴浦 「モルガンお雪四万円」

※上掲ジョージ・モルガン氏像の出典も同じ。


 米国ニューヨルクに於て銀行及(および)鉄道業に従事し居(お)る豪家(ごうか)の息子ジョーヂモルガンと云うが京都麸屋町澤文に滞在中同家の奥の下座敷にて痴情のために短銃(ピストル)を咽喉(のど)に当て自殺を企てたるに其(その)場に居合せし祇園新地の芸妓加藤ゆきが驚いて其(その)短銃を取り上げ懇々と意見を加え終(つい)に思い止まらせたる珍談あり 

 今其顛末を記さんに前記のゆきと云う芸妓は新地にて鼓弓の名人と云われし程の加藤次香(つぎか)の実妹にて十四の年より舞妓となり舞三味線の外(ほか)姉の教えを受けて鼓弓を善(よ)くし姉の廃業後は新地広しといえどもゆきほど鼓弓を善くするものなき程の伎倆(うでまえ)となり容貌も亦(また)十人並勝(すぐ)れたれば昨年五六月若葉すずしく茂る頃見習い茶屋なる縄手の貸座敷尾野亭より口がかかり招かれて行(ゆき)見れば其身の外(ほか)に二三人の芸妓もあり客と云うは外国人なりしが舞音曲数番を演じて尠(すくな)からぬ纏頭(ぽち:祝儀)に温(ぬく)もりて帰りたる事あり その外国人と云うは夫(か)のモルガンにてぞありける

(中略)

 其後(そののち)モルガンは益々おゆきを恋い慕いて手を替え品を替え有らん限りの心中を示して言い寄りしもおゆきは更に取合わず 

『御親切はうれしいけれど妾(わたし)は以前(まえ)から約束した旦那があるゆえ今其(その)お方を振捨(すて)て貴郎(あなた)に従うては義理が立ちませぬ』 

の一点張にて風に柳と受け流すにぞモルガンは愈(いよいよ)気を揉みて 

「貴女(あなた)旦那と別れる 少しも義理立たぬことありません 其(その)旦那来てもお茶出さぬ 話せぬ 旦那直(すぐ)に腹立って貴女を捨てる事請(うけ)合いあります 私世界中貴女ほど可愛い人ありません 二千三千の銀行(金銭の事を銀行という)私少しも惜くありません」 

と片言交りにて涙を流さぬ許(ばか)りに説き立てたれど肝腎(かんじん)のおゆきは身命(いのち)まで打ち込みし大切なる未来の夫あれば素より聞き入るべくもあらず 

唯(ただ)左褄持つ悲しき身とて手強(つよ)くも跳ねつけ兼ね表面(うわべ)のみ優しく待(あし)らい居(お)るにぞモルガンは落胆(がっかり)し鬱々として過し居たるが 或る日おゆきに会いて

「私一度亜米利加(アメリカ)へ帰らねばなりませぬ 私日本に居る中(うち)旦那と手を切れば其れほど嬉しいことありません、ケレど其れ叶わねば私国へ帰ってから是非其の旦那と手を切って而(そ)して私へ知らせて下さい 私直ぐ日本に来て貴女と約束するあります。 この事貴女と私だけ話しては後の証拠ありません 私の下女のお松(福井県三方郡西郷村字松原田中まつというもの)を証人にして貴女と約束して置きます」

と直ちに召使のお松を呼び寄せておゆきに紹介(ひきあわ)せ同人立会(たちあい)の上にておゆきが旦那と手を切りたる時は早速モルガンに通知する事、モルガンは其(その)通知を受くるやいな急ぎ日本に来るべき事、モルガン日本へ到着の上はおゆき約束に基きて其(その)心に従う事との三箇条を固く神に誓い、約束したり

其(その)際モルガンは状袋(じょうぶくろ:封筒)二十枚を取出して其(その)表に米国紐育(ニューヨーク)、モルガンとの宛名を自ら認(したた)め其(それ)をおゆきに渡して

「私日本のアイウエオ知って居ます、 貴女片仮名で手紙書いて此(この)状袋に入れ郵便に出して下され 若(も)し病気でもしたら直(すぐ)に報せてお呉(く)れ 又一月にはお目出度(と)うと書いて送ってお呉れと」

綿密に言い置きて其(その)日は立ち別れしが 間もなく名残の涙を飲んで京都より横浜へと出発したるは昨年九月の下旬なりき

(中略)

元来音次郎は妹おゆきがモルガンを跳ねつけて看(み)すみす幾万という大枚の金銭惜気(おしげ)もなく取逃がしたるを歯痒く思い居る折からとて其(その)モルガンより度々親切なる手紙を寄越すにつれて忽(たちま)ち慾(欲)心を起し おゆきが手箪笥(てだんす)の中へ大切に納(しま)い居(お)るモルガン自筆の状袋を取り出して 「約束の事は宜(よろ)しい 当地の旦那とは分れました 今直(すぐ)に来て下さい」 との手紙を認めておゆきへは内密に竊(そっ)とモルガンへ宛て差し出したるは昨年十月末の事なりしが 十一月となりてモルガンよりおゆきへ宛て

『約束の手紙着きました 私是(これ)ほど嬉しい事ありません 明後日船出ます 私直ぐ乗り込んで日本へ参ります 私貴女の顔を見る何よりも楽(たのし)み 今荷物の準備(したく)忙しうあります』

との手紙を寄越したるにぞおゆきは余りに意外の事とて呆気(あっけ)に取られしまま其(その)手紙を見詰め居たり。

(中略)

おゆきはモルガンの詞(ことば)にハタと当惑して暫(しば)らくは何事も答えざりしが此(この)場合に望みてアノ手紙は兄さんの贋(にせ)手紙です私は尚(まだ)旦那とは別れませぬとは奈何(いか)んしても応(こた)え難く種々(いろいろ)と気を揉み苦しみし揚句遂に思い切りて ハイ旦那とは別れました と述立てしにモルガンは愈(いよいよ)悦びて アア克(よ)く別れて呉れましたおゆきさん私嬉しうあります貴女直(すぐ)に亜米利加へ連(つれ)て帰ります斯(こん)な嬉しいこと私一度もありません と我を忘れて悦び勇むにおゆきは益々気が気でなく此上は済まぬ事ながら大枚の身代金を言い立(たて)て思い切らせる外(ほか)はなしとモルガンに向いて 私旦那と別れる事は別れましたが四万円の金銭(かね)がなければ貴郎(あなた)と約束する事は出来ません四万円さえ出して戴けば亜米利加へでも何処(どこ)へでも参りませう と言いしに流石(さすが)のモルガンも驚いて 四万円の金貴女奈何(どう)するのです 私芸妓を落籍(みうけ)すること聞いて居ります 東京の新橋柳橋で一番上等の人八千円から一万円位其上はありません 貴女もその金何にする積(つも)りです と問えばおゆきは思案した末 四万円の内三万円は旦那への手切金、一万円は私の借財(しゃくざい:借金)を返さねばなりません と、述べしにモルガンも沈(じっ)と思案して 爾(そう)ですか私考えて置きませう 今日は久し振(ぶり)に貴女と食事しませう とモルガンが好める鯛、鰻等を取り寄せて日本料理を命じ別室に竢(ま)たせある母おことと兄音次郎をも招き入れて四人一緒に食事を為(な)し居る中(うち)早くも其日の夕暮となりたり

(中略)

今このモルガンが相談する人とは何人なるか是(これ)ぞ米国紐育(ニューヨーク)に住む法学博士ビゲロー氏という彼(かの)国にて、極めて名高き法律学者なり モルガンが昨年米国へ帰りし際このビゲロー氏に面会して自分が日本芸妓おゆきを恋慕へること今にもおゆきが承諾せば直(ただち)に夫婦になりたしと望める事など詳しく打明けて話したる上 其場合ともならばおゆきと正式の婚礼を結びて其戸籍を亜米利加に移す事に就き氏が尽力を頼みしに何分名誉ある博士の事とて容易には引き請けず種々相談を重ねたる末愈(いよいよ)モルガンが望みの如く首尾よくおゆきと婚礼の手続を済し且(かつ)おゆきが戸籍を亜米利加に移し得たる上はその報酬として金五千円を貰い受くる事、其(それ)がため博士が日本に出張するに就いては旅費として数百円を貰い受けたしとの旨をモルガンに話したるに 素より金銭(かね)には頓着なきモルガンの事とて早速博士の要求(もとめ)に応じたるのみか若(もし)中途にて変改されてはならじとおゆきが兄音次郎の贋手紙(即ち旦那とは別れました直(すぐ)来て下さいとの手紙)を受取るやいな夫婦約束は早や成立ちたる者と見做(な)して即時五千円の報酬と数百円の旅費とを博士に渡し置き自分と同道にて米国を出発せんとしたるも博士は他に所用ありて二三週間遅るる事となり偖(さて)こそ二月八日となりて漸く日本の横浜へ到着するに、至りしなれ。




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