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2015/12/30

台湾の従軍慰安婦を否定する10の根拠


ここ数日の日韓従軍慰安婦問題解決さわぎをヨコ目で見ていた台湾も、日本におわびと賠償を求めるそうですね。

でも、70年前まで台湾は日本だったので、日本は台湾にも日本国内と同様の「料理屋飲食店取締規則」や「娼妓取締規則」を設けて公娼を保護していました。

この公娼関連取締規則の詳細は、1931(昭和6)年に国連からやってきた「東洋ニ於ケル婦女売買実地調査員」に日本政府が手渡しています。わざわざ英訳まで付けてね。


台湾婦女売買調査員2【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:B04122144300:昭和6年7月9日 外務省 「分割1」

まったく、公娼制度の調査で日本くんだりまで来ておいて

「日韓の合意を歓迎する」

とか

「日本が性奴隷を認めた」

とか報道してる世界って、バカですか? バカなんでしょうね。国連なんか不要ですね、こんなにバカなら。


【台湾の馬総統-中共に言わされてる】

台湾にも元慰安婦4人 賠償を求める方針
2015年12月29日 日本テレビ系(NNN)(YAHOO! ニュース)

 いわゆる従軍慰安婦問題の解決に向けた日韓両政府の合意を受け、台湾も日本に賠償などの交渉を改めて求める方針。

 外交部の報道官は28日、日本にある台湾の窓口機関に対し、日本側が協議に応じるよう改めて交渉することを指示したと発表した。

 報道官は「台湾政府は一貫して日本側に被害者へのおわびと賠償を求めていて、今後も揺るぎない立場で交渉する」としている。

 支援団体によると、元慰安婦の生存者は現在4人いるという。

台湾馬総統1


台湾の馬総統に言っておきますけど、台湾人女性を金で買って「養女」にして売春させてたのは中国です。厦門(アモイ)の日本領事館が調査済みです。上述の「婦女売買実地調査」がらみでね。この調査員は中国にも行ってますよ。

なので、おわびと賠償は揺るぎない立場で中国政府に要求してください。日本に要求するのはお門違いです。

台湾婦女売買中国1【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:B04122143400:昭和6年1月8日 外務省 「分割1」


法治国家日本の公娼制度



きれい好きな日本人は、妓楼(公娼を置いている売春宿。警察許可済みの営業者)を一カ所に集めて管理していました。

その妓楼を集めた場所を「遊廓」と呼びます。遊廓はお役所的には「貸座敷指定地」と呼ばれました。「貸座敷」とは公娼が妓楼の座敷を借りて娼妓稼業をなすので、「貸し座敷」といいます。

この「遊廓」を管理するのは、日本国内の場合、地方の役所や警察でしたが、新規で遊廓(慰安所)を設ける時は内務省、移動したりする場合は地方警察署長の許可が必要でした。

台湾ならば新規で遊廓や妓楼を設ける場合は、台湾総督府が許可を出すのです。

戦前、台湾は日本だったので、日本国内とおなじように、遊廓がありました。

この広告からして、台湾の新竹にも遊廓がありました。

台湾遊廓1【出典】1900(明治33)年 史伝編纂所 瀬川光行編 「日本之名勝」

そして、帝国海軍の基地も新竹にあったので、日本軍はこういう高級妓楼を軍指定慰安所にして、そこへ通っていました。

【台湾にあった日本軍の基地】
◆…海軍 ◇…陸軍
taiwan_kichi.jpg

台湾では「日本の妓楼を保存しよう!」というニュースもありましたね。この地域も遊廓だったのでしょう。「遊廓街」と書かれていますから。

そして、台北にも帝国海軍の基地がありました。


無許可で取り壊された日本時代の“妓楼” 歴史的建造物に認定/台湾
2014年8月30日 フォーカス台湾(excite ニュース)

(台北 30日 中央社)台北市文化局は29日、100年以上の歴史を持つ「青雲閣」(台北市万華区)などを歴史的建造物に認定したと発表した。

青雲閣は日本統治時代に遊郭街の中に建てられた、当時台湾で最大の“妓楼”で、同局によって暫定古跡となっていたが、今月2日、地主の陳立偉氏が許可なく建物を取り壊したため、批判の声が上がっていた。

こうした事態を受けて文化局は29日、文化資産に関する臨時の審議委員会を開き、青雲閣などを歴史的建造物に認定した。また、取り壊しを強行した陳氏に対し、認定地区や建築物の調査を行い、周辺の再開発を行う際にはこれらの建築物と一定の空間を設けるよう言い渡した。

陳氏は手続きを誤解していたとして、無許可での取り壊しについて謝罪し、今後は当局の指導を受け入れて青雲閣の復旧と保存に全力で協力するとしている。

台北市文化局などによれば、青雲閣は日本が台湾から撤退した後、娼館として利用され、1997年に公娼制度が廃止された後は廃墟となっていた。詳しい成立時期は分かっていないが、1907(明治40)年の文献に記載があるという。

(黄麗芸/編集:杉野浩司)




なので日本軍には、サヨクが妄想しているような劣悪な慰安所を建てる必要もなかったし、そもそも日本軍は下に示した「取締規則」の貸座敷営業者の許可など持っていませんでした。

ですから、日本軍は法的に慰安所の経営はできなかったということです。

だいたい、常識的に考えて、新竹に行けばキレイなお座敷においしい料理と酒、それにふるいつきたくなるような日本美人がいて、清潔でやわらかい布団があるんですよ?

毎晩吊り床やせまいベッドで寝ている海軍さんなら、当然妓楼に行くはずです。

【日本の妓楼。外地でも兵站後方にはこういう遊廓があった】

【海軍の吊り床】
tsuridoko.jpg

新竹だけでなく陸軍、海軍の基地がある所には遊廓が設けられていたはずです。昔から日本では「軍隊のそばには安遊廓ができる」と言いますからね。

それなのに、移動先でわざわざ労力を使って慰安所を建てて、何度も朝鮮や中国に通って、性病や疫病に感染してるかも知れない不潔な民族を強制連行してきて、一晩中監視して、ヒマさえあれば虐待する?

はぁ????? バカかよ?????

費用対効果悪すぎwwwww


たとえ仮に大本営がそんな命令を出したら、前線でボイコットがおきまっせ。

【中国人売春婦-売春婦でこのレベル】
中国売春茶室妓女6


【朝鮮人】
3c.jpg

連合国も連合国で、1941(昭和16)年から対日経済制裁をやったので、その結果、資源・燃料・食糧不足におちいった日本は一機で一艦を屠る「特攻」という戦略を取らざるを得なくなったのです。

さらに連合国、特にアメリカは1942(昭和17)年の反攻以降、日本の船なら民間船だろうが赤十字の標識がある病院船だろうが攻撃しまくって撃沈させてるじゃないですか?

燃料どころか船もなかったのですよ?

その状況にあって、日本が朝鮮女や中国女だけはふんだんに燃料と船を使って無事に移動先に強制連行して行ったと言うんですかね?

日本にそういう余力があったなら「特攻」を組織しますかね? なぜ戦争に負けたのでしょうね?

米軍が艦上でユダヤの圧倒的物量のおかげでドーナツとコーヒーを楽しんでいた時、日本兵は自力で耕作して、干し野菜をかじって、たまに配給される缶詰がごちそうだった。


米軍とドーナツ


やがてそういった補給すらもアメリカに断絶され、インパールで飢餓に苦しんでいる日本軍に上空から色刷りの献立表をまくというイヤガラセをしたでしょう? アメリカは。

そんな悪逆非道なアメリカが聖人みたいな顔して、「日韓の合意を歓迎する」などとほざく資格がありますか? 

それでも、日本が従軍慰安婦を強制連行したとか、虐待したとか主張するのならば、以下の法で定めた書類をぜんぶ耳をそろえて持って来い、という話です。

これらの取締規則は戦前の国際連盟に提出しているのですからね。

サヨクや特ア、朝日新聞はそういう書類に自称従軍慰安婦のババァの名前がないから「強制連行」などいうアバウトな捏造をしたのではないですか?

ということで、

従軍慰安婦を否定する根拠をいろいろ書いて参りましたが、要約すると


・日本は国連(国際連盟)に日本の娼妓、貸座敷、周旋人関連の取締規則を提出している。

・国連の婦女売買実地調査員は日本のみならず中国も視察している。

・台湾人女性を買って売春をさせていたのは中国人。

・台湾にも日本の貸座敷、芸妓酌婦取締規則が施行され、遊廓もあった。

・戦時中の日本は連合国側の経済制裁で資源・燃料・食糧不足だった。

・日本船はアメリカに無差別攻撃され、船も不足していた。

・日本軍の「慰安所」は兵站後方の妓楼であって、最前線に慰安所が設置されたのではない。

・軍は慰安所設営の許可証を持たなかった。

・特攻と「従軍慰安婦」は矛盾している。

・世界は頭が悪い。



以上です。

台湾の料理屋飲食店取締規則、芸妓酌婦取締規則



出典:1921(大正10)年 帝国地方行政学会 台湾総督府編「台湾法令集覧.大正10年」 第八集 衛生 警察 第二章 警察 第三款 保安及風俗



料理屋飲食店取締規則
  明治四十四年十一月二十三日 台湾総督府令第八十九号

料理屋飲食店取締規則左ノ通相定ム

 料理屋飲食店取締規則

第一条 料理屋又ハ飲食店営業ヲ為(ナ)サムトスル者ハ左ノ事項ヲ具シ郡守、支庁長、警察署長又ハ警察分署長ニ願出許可ヲ受クベシ 其ノ営業ノ場所ヲ移転シ又ハ営業用建物ヲ改築若(モシク)ハ増築セムトスルトキ亦(マタ)同ジ

一 営業者ノ姓名、生年月日、本居(本籍)地、寄留地

二 営業ノ場所

三 屋号

四 営業用建物ノ構造、設計書、平面図(出入口、窓、道路、間取、換気法ノ設備、階段ノ位置及幅等ヲ詳記スベシ)及敷地ノ面積、客室の設ケナキ飲食店ニ在アリテハ前項第四号ノ事項ヲ省略スルコトヲ得

第二条 営業用建物ハ検査ヲ受ケ郡守、支庁長、警察署長又ハ警察分署長ノ許可ヲ得ルニ非ザレバ之(コレ)ヲ使用スルコトヲ得ズ 改築、増築又ハ大修繕ノ場合亦同ジ

第四条 左記各号ノ一ニ該当スル場合ハ三日内ニ郡役所、支庁又ハ警察官署ニ届出ベシ

一 廃業、休業

二 第一条第一号及第三号ノ事項ノ異動

三 死亡又ハ行衛(方)不明トナリタルトキ

前項第三号ノ場合ハ家族又ハ同居人、相続人若ハ遺産管理人ヨリ其ノ手続ヲ為スベシ

第五条 営業者ハ左ノ事項ヲ遵守スベシ

一 客ヲ誘引シ、客ノ需(モト)メナキ飲食物ヲ供シ若ハ不当ノ代償ヲ請求シ又ハ強(シイ)テ芸妓ノ招聘ヲ勧ムベカラズ

ニ 客ニ面会ヲ求ムル者アルトキハ故ナク之ヲ隠秘シ又ハ其ノ取次ヲ拒ムベカラズ

三 芸妓、酌婦ヲシテ外部ヨリ見透シ得ベキ場所ニ於テ粉粧ヲ為サシムベカラズ

四 客ヲ宿泊セシムベカラズ

五 芸妓、酌婦若ハ遊芸稼業人ヲ宿泊セシムベカラズ但シ稼業ノ場所トシテ寄寓スル者ハ此(コ)ノ限ニ在ラズ

六 芸妓、酌婦稼業ノ許可証ナキ婦女ヲシテ芸妓、酌婦ニ類スル所業ヲ為サシムベカラズ

七 飲食店ニ於テハ芸妓、酌婦若ハ遊芸稼業人ヲ客席ニ侍(ハベ)ラシメ若ハ寄寓セシムベカラズ

八 警察官吏ノ承認ヲ受クルニ非ザレバ遊興費ノ担保又ハ支払ノ為客ノ著(着)衣其ノ他ノ所持品ヲ領置スベカラズ

九 営業時間中門戸ヲ閉鎖スベカラズ

十 婦女ヲ宿泊セシメムトスルトキハ其ノ本居(本籍)地、寄留地、職業、姓名、生年月日及宿泊ノ事由ヲ記シ郡役所、支庁、警察官署又ハ警察官吏派出所(駐在所又ハ警戒所を含ム)ニ届出ベシ

(中略)

第六条 営業者ニ於テ従業者ヲ雇入レタルトキハ左ノ事項を具シ三日内ニ郡役所、支庁又ハ警察官署ニ届出ベシ

一 従業者ノ姓名、生年月日、本居(本籍)地、寄留地竝(ナラビニ)従前ノ住所及職業

二 従事セシムル業務

従業者ノ死亡、解雇又ハ所在不明トナリタルトキハ三日内ニ郡役所、支庁又ハ警察官署ニ届出ベシ
家族及同居人ヲ従業者トシテ使用スルトキハ前二項ヲ準用ス





出典:1921(大正10)年 帝国地方行政学会 台湾総督府編「台湾法令集覧.大正10年」 第八集 衛生 警察 第二章 警察 第三款 保安及風俗



芸妓酌婦取締規則
  明治四十四年九月二十日 台湾総督府令第六十九号
   改正 大正九年第一二八号

芸妓酌婦取締規則左ノ通相定ム

 芸妓酌婦取締規則

第一条 芸妓又ハ酌婦ノ稼業ヲ為サムトスル者ハ左ノ事項ヲ具シ郡守、支庁長、警察署長又ハ警察分署長ノ指定シタル医師ノ健康診断書ヲ添へ郡守、支庁長、警察署長又ハ警察分署長ニ願出許可証ノ下付ヲ受クベシ

一 姓名、生年月日、本居(本籍)地、寄留地、未成年者ニ在リテハ法定代理人ノ姓名、住所、有夫ノ婦ハ夫ノ姓名、住所

二 稼業地及寄寓所

三 芸名又ハ別名

四 抱主(カカエヌシ)ノ姓名、住所

五 稼業ニ関シ抱主トノ間ニ契約アル者ハ其ノ契約書ノ写

六 曾(カツ)テ芸娼妓、酌婦タリシ者ハ其ノ稼業ノ種類、場所、抱主アリタル者ニシテ債務ノ弁済ヲ終ラサルモノハ其ノ金額、廃業年月日及其ノ事由

第三条 稼業ニ関シ抱主トノ契約ヲ変更セムトスルトキハ予(アラカジ)メ所轄郡役所、支庁又ハ警察官署ニ届出認可ヲ受クベシ

第四条 郡守、支庁長、警察署長又ハ警察分署長ハ左ノ各号ノ一ニ該当スルトキハ芸妓、酌婦稼業ヲ許可セザルコトヲ得

一、結核、癩、梅毒、伝染性皮膚病ノ疾患アル者



鬼畜米英がインパールでまいた色刷り和食献立表


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収 
       日本新聞協会 鈴木正七 「見えざる戦い」



 インパールの堅陣は遂に抜けなかった。雨季を迎え、食も弾丸(たま)も失った敗退の日本軍八万は、こうしてその半数を失って行った。

 力尽き、路傍で蛆にまみれた屍(しかばね)は、そこまではヒョロヒョロとやって来た他の兵隊をさし招きでもするのだろうか、一人二人と枕を並べる数をふやして行くのだった。その屍さえ、追い迫る敵戦闘機の銃撃は容赦がなかった。

「ダダーン」

 独りぼっちで動けなくなって自決する手榴弾の音にはっとする間もなく

「バリバリバリーッ」

 と敵機の銃撃が襲いかかってくる。どろんこと、雨と、餓死と、ジャングルとのそれは正に"死の行軍"だった。

 追撃する敵は銃撃の合間々々に超低空で伝単(でんたん=ビラ)と陣中新聞を落して行った。投降の勧告と必敗感を与えるものばかりだったが、飢えに捉われる将兵にとって一番痛く切なかったのは、色刷り伝単にれいれいしくならべられた日本料理の献立表だった。曰く「おさしみ」「おでん」、「お寿司」から「お汁粉」までがあった。物量の懸隔は常に敵の武力戦と思想力にがっちりとした吻合を持たせて、日本軍を押(おし)まくった。




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