HOME > 朝鮮人強制連行 > title - 不二越ニセ女子勤労挺身隊と日本人大虐殺
2015/11/28

不二越ニセ女子勤労挺身隊と日本人大虐殺


韓国の元勤労挺身隊女性が不二越東京本社前で賠償を求めたそうです。

最近、従軍慰安婦の在庫が少なくなってきたせいか、韓国は新しく「子ども勤労挺身隊」というものを捏造しました。

もし韓国が「子ども勤労挺身隊は事実ニダ!」と主張するならば、不二越東京本社前で賠償を求めた朝鮮人女性らは、日本敗戦後、革命熱に浮かれて在鮮日本人の子どもたちから学校を奪った連中です。


【日本が朝鮮に建設した初等小学校】
日本敗戦後、戦勝国民でもない朝鮮人は日本人の資産を接収し始めた。
防共日本朝鮮学校1

【京城高等小学校】
京城高等小学校1

【朝鮮伝統の書堂】
防共日本朝鮮書堂1

【70年前に日本人から学校を奪った朝鮮人どもが物乞いに】

韓国の元勤労挺身隊女性 不二越東京本社前で賠償求め集会
2015年11月27日 YAHOO! ニュース(聯合ニュース)

【東京聯合ニュース】第2次世界大戦中に女子勤労挺身隊として日本の機械メーカー・不二越(富山市)で労働を強いられた韓国人女性2人が27日、韓国の「太平洋戦争被害者補償推進協議会」など韓日支援団体のメンバー約30人と共に同社の東京本社(港区)前で集会を開き、賠償を訴えた。
 
 不二越は戦時中、小学校を卒業したばかりの少女を含む約1600人の朝鮮人を自社の軍需工場で働かせた。韓国で昨年、元挺身隊員らへの損害賠償金の支払いを不二越に命じる一審判決が出たにもかかわらず、同社は「日韓請求権協定により戦後補償は解決済み」という日本政府の主張を盾に、履行を先延ばししている。
 
 集会に出席した80代のチェ・ヒスンさんは、全羅北道全州市で小学校に通っていた1944年、「金を稼げて勉強もできる」という日本人と校長の言葉を信じてついていったところ、不二越の富山工場できつい労働を強いられた。
 
 不二越で働かされた元挺身隊員の遺影を手にしたチェさんは、本社が入るビルに向かい「私は不二越を信じてついていった」「子孫たちに恥ずかしい人間になるな」などと叫び、「良心」にのっとり被害者に補償をするよう訴えた。
 
 元挺身隊員を支援する韓国市民団体の共同代表は「日本が加盟する国際労働機関(ILO)の規約に照らしても、10代前半の女性たちに対する強制労働は許せない犯罪だ」と指摘。日本が主張する「請求権協定による賠償終結論」について、「被害者を救えない協定にどんな必要性があるのか。被害者たちの要求は素朴で当然のものだ」と述べた。



なぜ韓国は反日か?



大東亜戦争は日本と共産党との戦争でした。

ロシア革命以降、ソ連はアジア赤化工作を開始しました。でも皇室を戴くわが国としては、近隣に共産主義国家が成立するのは望ましくなかったので、中国に出兵したまでのことです。


【陸軍省新聞班長の寄稿文】
日独伊防共協定とは「日独伊三国同盟」と呼ばれているもの。「防共協定」の名称だと日本が共産党と戦争したことがバレてしまう。支那敗戦とは南京陥落で中華民国は日本に敗戦しているので「敗戦」と言っている。

防共の大道に邁進せよ 
 昭和十三年を防共週年として
   陸軍省新聞班長 陸軍歩兵大佐 原 守

(前略)

他方共産赤化の魔手に対する防衛の点から見ましても、さきに我が国は日独伊防共協定をむすび世界の平和と秩序とを擁護すべく立ち上ったのでありますが、東洋平和に於ける赤化侵略は決して後退することなくむしろ支那の敗戦に乗じていよいよその本領を発揮しつつある現状でこれに対する防衛戦も亦(また)必ずしも楽観するを得ないのであります。

防共日本1

防共日本2_2

【出典】
1938(昭和13)年 国際防共強化聯盟大日本部兵庫県支部 「防共 : 特集コミンテルンの正体」




でも、当時は日本の一部で、共産主義から遠ざけられていたはずの朝鮮は、日本敗戦と同時に「革命」を叫び、翌日には「朝鮮建国準備委員会」を組織して、全鮮各道に代表を置く「共和国」建設を開始しました。

なぜ、朝鮮がこんなにすばやく行動できたかといえば、朝鮮は戦前から日本を裏切って連合国と結託していたからです。

そして朝鮮人は日本国内の暴虐とおなじく「戦勝国民」を自称して、暴力や殺人をもって在鮮日本人の財産を接収し始めました。。

役所や工場、学校、NHK朝鮮や個人商店までもが朝鮮人の標的になり、占領され、接収されました。

【NHK朝鮮】
京城放送局1


日本敗戦から半月後、9月になっても、学校は朝鮮人のものになっていたので、日本人の子どもは登校することができませんでした。

さらに、米軍の意向により日本人の財産は、タダ同然で朝鮮人に譲渡させられ、米軍は日本人から日銀券を没収しました。

米軍が日銀券をことごとく没収したのは、日本が朝鮮や満州などに銀行を設立して円経済圏を作ろうとしたからです。

在鮮日本人は家も財産も失って野に打ち捨てられ、掠奪と強姦、飢餓と疫病に満ちた過酷な朝鮮引揚げの中で、栄養失調や重病で命を落としていきました。

その中には多くの子どもたちがいました。朝鮮で死んだ日本人の数は何十万人にもおよぶかも知れません。

北朝鮮は、劣悪な環境に置いて殺した「日本人の遺骨一柱100億円ニダ」とふっかけてきたそうですが、

「ふざけんなっ!!」

という話なのです。

【博多に到着した朝鮮からの引揚船】
chosen_hikiage_sen.jpg


もちろん、朝鮮学校無償化や「共生しよう!」などという要求も

ふざけんなっ!! 

という話です。

米軍に日銀券を没収された母親たちは、死んだ子を火葬することもかなわず、梱包用の小箱やコモにわが子のなきがらを納めて朝鮮に埋めました。

最近、国連やアメリカが中国や北朝鮮の人権問題をとりあげて勧告などしていますが、どちらも人民みずからが望んだ体制なので放っとけばいいのです。


在鮮日本人女性の中には食いつめたり、日本に帰る船賃欲しさでソ連兵に身を売った者もいました。

韓国が世界に宣伝する従軍慰安婦、軍艦島は朝鮮人強制収容所だったというデマ、そして新しく捏造した子ども勤労挺身隊というのは、どちらも日本人が経験した地獄です。

ふたたび、「自称子ども勤労挺身隊」が日本企業に押しかけてきたなら、日本企業は遠慮せずに水でもぶっかけて、塩をまけばいいと思います。


本記事の資料


裏切り者朝鮮民族が日本人に対してやった非道の数々


出典:1953(昭和23)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史」



三八線に変貌する北と南 ──── 朝鮮引揚げ史 その三 ────
   京城日本人世話会

 北鮮からの脱出者にたいして、最初にこれの援護をはじめたのは、京城府防衛部戦災課の人達であった。(この課は、空襲を想定して準備をととのえていた) 当時、休暇中の府内の各学校が開放され、学校の先生たちがその世話にあたった。

 空襲の時にそなえて、府民から一軒に一枚ずつの座ぶとんを供出させていたので、それによってふとん千八百九十五枚つくり、また食器二万八千四百七十九個を、各学校に分配していたので、早速それらを役立たせた。

 九月になると、国民学校や女学校は朝鮮側の授業開始で接収されたが、古市町天理教会、永楽町天理教会、高野山別院、開教院、東本願寺、曹渓寺(そうけいじ)、興正寺(こうせいじ)、妙法寺、鶴松寺(かくしょうじ)、西本願寺、千代寺(ちよでら)、竜光寺(りゅうこうじ)、瑞竜寺(ずいりゅうじ)、元町西本願寺、興国寺(こうこくじ)、大念寺(だいねんじ)、護国寺、三中井洗心(みなかいせんしん)寮、覚心寺(かくしんじ)、金光教会、望月アパート、神宮奉賛殿などがこれに代った。



掠奪と赤色の劫火
  京城日報社主筆 中保与作

 秋に入って学校が始まると、朝鮮の児童たちが、勝ち誇ったように元気な声をはり上げながら、学校へ急いでいる。学校を取られた日本の児童たちはそれをじっと見送っているのである。

向いの家は、

「子供を学校へ入れるために、早く帰ることにしました」

 と別れの挨拶(あいさつ)に来た。隣りの家も、その隣りも次ぎへ次ぎへと歯が抜けるように引揚げて行った。北鮮から脱出して来る家族を待っていた人々のうちには、寒さが迫り、持ち金もなくなったので本願寺の白壁に、

「きっと、きっと生きて帰ってくれ」

 と家族の名と自分の行先きを書いて一まず帰国する人もあった。

(中略)

 京城日報社では、幹部も給仕も全員悉(ことごと)くが無給で働いた。朝鮮人社員は九月から一人もいなくなったので、記者が自分で書いた原稿の活字を拾ったり理事(局長)がそれを版に組んだりした。紙型をとる局長もある。見よう見まねで鉛版を作る理事もある。輪転機を操作する局長さえあった。

そうしたことのできないものは、掃除係や普及係となった。配達をしていた朝鮮人も悉くいなくなったので、普及係は手分けして要所要所に新聞をもって立った。

 しかし、何よりも人々の胸をうったのは、日本の少年少女が新聞売子となったことであった。むろん、みんなはじめの仕事である。五十部か百部ずつもって 「京城日報! 京城日報」と可憐な声を挙げながら怖(おそろ)しい強盗がソロソロ動き出す夕方の町々を走った。

普及係は枚数も数えず、目分量で、 「これで五円」、「これが六円」と、ほんの形ばかりの代金で一束ずつの新聞を渡すのであるが、少年少女たちの売上がみんなもうけとなっても、むろん僅かのものであった。

しかし、それが終戦で突如、職を失った一家の生計を支える柱ともなった。

【東京都民の税金がソウルへ行ったキャンペーン】
今がチャンスソウルへ1



北鮮の憂愁 ──── 朝鮮引揚史 その四 ────
  京城日本人世話会

 九月末には、避難民は咸南の奥地からの人を加えて、二万七千となり、一万二千の咸南在住民の二倍以上の難民をかかえていた。

(中略)

 日本人住宅の接収がうちつづき、終戦当時の二千二百六十戸が、千二十八戸となり、それに多くの避難民を収容したので、十二月末現在一戸当りの収容人員は、二二.六名という割合であった。

 寒さの訪れとともに、避難民の生活は苦しくなった。着物は真夏に家をでた時のままであり、もち物はながい逃避行でなくなっていた。

 不潔な密集、極度の栄養失調に発疹チフス、再帰熱などが猛威をふるった。

 咸興日本人委員会の統計では、翌年一月までに、死亡者六千四百名をかぞえ、一月の死亡者は、一日平均五十名をこえていた。

 もっとも悲惨であった遊廓地帯の実情は

「八畳くらいだが、戸障子は全部やぶれ、オンドルはおちたままの北向きの部屋。さむいさむい風の吹きこむその片隅に、わらぶとん二枚をびょうぶのようにかこんで、八歳くらいを頭に三人の子供がかぼそい声を出して泣いている。

"坊や、お父ちゃんいるか"

 ときくと、 

"父ちゃんは死んだ"

"母ちゃんはどうしたか"

"母ちゃんも死んだ"

 そうしてさかんに泣いている。そのそばに人がねている。

"どうしたのか"

 ときいても返事がない。動かしてみると、一人が死んでいる。一人はチフスの高熱にうなされている。清津から九名避難してきた一家だが、その内七名がたおれ、八番目が今死んで、九番目が高熱の中に苦悶しているという。

その集団には四十名いるが、それを見ようとも、病院につれていこうともしない。いや、どうしてやる事もお互(たがい)にできないようになってしまっているのだ」

「ある日、日本人世話会の医療部に、みすぼらしい女の人が、子供を背負ってやって来て、

"私は駅の前で野宿をしているが、今子供が死んだから何とかしてもらいたい"

 と、おろおろ声でいう。主人はいない。しかも、

"この背中の子供も工合(ぐあい)がよくない"

 というので、みてやると、すでにその子も息絶えている。

 子供が病気になっても、たべものもやることができず、いつかな死んでしまう。病気になっても、闘病の気魄もおこらない。死人とおなじふとんに病人が三日も四日もねている」

という実情であった。

 十月末には、西本願寺に孤児の収容所が開設されたが、収容者二三二名のうちで、六一名は死亡した。


【朝鮮は朝鮮人のものだ!と日本人を追放した民族】
防共日本3



脱出 ──── 朝鮮引揚史 その五────
 京城日本人世話会

 今や北鮮の日本人は、大集団となって南下をはじめた。これを迎える三八線の第一線では、今までの延安、青丹、開城のほかに、高浪浦(こうらんぽ)、汶山(もんざん)、東豆川(とうとうせん)、抱川(ほうせん)にも派遣隊がでて、その受入れは多忙をきわめた。

その頃、延安に派遣されていた堀井野生夫君(京城工専学生)の手記をみよう。

 先(ま)ず到着者の宿泊の割当名簿をつくる。米軍に報告するのが朝十時と夕六時、警察への報告が正午まで、三時に駅に行き、人数の大体の見通しをもって車両の打合せをする。

夕方には汽車賃をあつめ、明日の出発について注意をする。また米軍の日銀券没収にも立会う。

(中略)

 また脱出者はいろいろのことを訴えた。

「国境で子供と離れてしまったから、その子のくるまで待ちたい」

「もう一銭もありません」

「日銀券がありますが、世話会で交換して下さいませんか」

 など、時には死者もでたりした。せっかく、苦労して越えた三八線で、息をひきとった子供を、せめて火葬にしたいと涙でいう母親もあったが、

「そのような金のかかることは大変だ、その金は生きている人に使いなさい」

 と心を鬼にしていってやらねばならない。

 またある朝送りだしをすませた時、駅の助役が日本人らしいのが駅前に倒れているというので、とんで行ってみると、おばあさんでたしかに日本人で南無あみだぶつ、南無あみだぶつと念仏をとなえている有様だ。

"おばあさん、しっかりしなさい大丈夫ですよ"

"ああ、もう死ぬ、もう、あ、なまいだぶ、なまいだぶもう口が……きけない、さみ(さむい)さみ……"

"しっかりしなさいよ"

 と背負って旅館につれて行った。

(中略)

 この脱出組で、開城の天幕(テント)村は満員の大賑いとなった。しかし収容人員の激増にたいして、食糧は不足がちで、八月十七日からは、一日一合五勺(しゃく:一合の10分の1。10ミリリットル)のとうもろこしの粥(かゆ)だけであった。

 携帯食糧ももたないばかりか、何日(いくにち)か食べないでようやくたどりついたやせた母親が、泣き叫ぶ乳呑児(ちのみご)に、僅かのとうもろこしをかみくだいて、口うつしにあたえてやったり、乾いた砂の上にとうもろこしのからをはき出してならべては、昨日は幾粒あって、今日は幾粒多かったといっていうる子供の姿など、胸のつまる光景であった。



北鮮脱出記
 元満洲日報北鮮支局長 谷村幸彦

 群衆にまぎれて構内から抜け出し、元山(げんざん)駅前の広場に立った。案外まだ平穏だった。日本人も歩いていた。ただ異様に感じたのは、駅附近の映画館にスターリンと金日成の大きな肖像写真がかけてあることだった。邦人達は自分の家に閉じこもっていた。


【朝鮮に進駐するソ連軍を拍手でむかえる朝鮮人】
Sovetkorean.jpg

(中略)

 一方府庁(市役所)は朝鮮人が府尹(ふいん:市長)に就任、日本人吏員の代りにいままで雇(やとい)だった朝鮮の若者らが課長に発令、逆に日本人吏員は日雇人夫として使われ、又(また)保安隊も確立、三中井(みなかい)デパートが本部となってモスクワ仕込みの隊長が着任、治安を司った。

(中略)

 京日支局も遂に接収となり、私は埠頭附近の知人方に身をよせた。その頃各寺院の収容所にはあらゆる病気が流行、老人子供が次々と死んで行った。

 町端(はず)れの日本人埋葬地として指定された丘陵に、棺もなくコモにくるんで荒縄でまきつけ三尺位の深さに埋め、小さな木の札を立てるのがやっとだった。夜になると狐が現れて死体を喰い荒した。



北鮮最後の日
  元朝日新聞社清津支局長 兼元淳夫

 教室の中は身動きも出来ないほどぎっしり詰って、はいりきれない人たちが廊下にはみ出して寝ころんでいた。その国民学校は、吉州製紙がこの地方の子弟のため寄贈した、地方では珍らしい煉瓦(れんが)造りの立派な校舎だった。

三十からある教室に、各集団の代表が話し合い、一室に七十人の割ではいらせ、残った者を講堂や雨天体操場に収容し重病人やソ連軍の入城で傷ついた者は、小使(こづかい)室を医務室にして寝かせたのだった。

 こうして、三千人からの避難民の割当が終ると、各教室から班長を選び、校長室に集めて協議を重ねた。

 まず代表を決めることになり、比較的無難な清津商工会議所の副会頭水谷氏を団長に決め、これまでの行きがかり上、私は代表団の顧問ということになった。避難民団の顧問というのはおかしな話だったが、名目はなんでもいい、軍と官から見放された無力な人々を救ってやりたい、そういった激しい意欲に燃えてくるのだった。

 水谷がここの保安隊長と会った結果を土台として、刀、ピストルなど一切の武器を、今夜のうち畠(はたけ)に埋めること、朝鮮人の襲撃を防ぐため、各室から順に、二名の不寝番を出すこと、盗難予防、伝染病を防ぐため便所を清潔にすること、こんなことが決められた。こうして持久の態勢を整えるよりほか仕方がなかった。

(中略)

 出発は敏速に手際よく運ばれたが、いつの間にか朝鮮人の間に知れわたり沿道は一ぱい白い朝鮮服の人垣だ。彼らはあざけり笑っているかの如く、こそこそ話し合っては避難民の品定めをした。

 中にはひょうきんな子供が、身振りたっぷりで、一行のうちの大人をつかまえてなぐる真似をした。すると、群衆はどっとときの声をあげて笑う。彼らにとってこれは天地がひっくりかえるような異変だった。

本道の建物の壁という壁には、様々な文句のアジビラがはりつけられていた。

「撃砕、日本帝国主義!」

「東洋の吸血鬼日本の鉄鎖は切断された。韓国同胞よ団結せよ!」

「日本敗れたり! 起(た)て同胞」

 三十六年の総督政治は、ついに一片の白日夢と化してしまったのだ。そしていま、私達はかかる惨めな姿で、朝鮮を追われんとしている。

【日本児童の学びの場を奪った朝鮮民族】
防共日本4



平壌哀詩
  元朝日新聞平壌支局長 村 常男

 妻の日記から

 なにしろ避難して参りましたのは真夏のこととて、冬物はだれも不足して、そのために子供の病気が頻発して、かぜ、肺炎、発疹熱、はしかなどが猖獗(しょうけつ:悪いものの勢いがさかんなこと)をきわめ、日々いくたりかの幼い生命が消えてゆきました。

 特にはしかは部屋が寒いため、発疹せぬままに恐しいほど死んでゆきました。一度に三人のお子さまをなくされて、気の狂われたお気の毒な奥様もございました。

 他人(ひと)ごとではなかったのです。ちょうどそのころ私もただ一人の最愛の美恵子を病魔にうばわれてしまったのでございます。

〇…十一月七日、ソ連革命記念日の寒い風の吹く夜でございました。この日をたたえるソ連兵の、

「ウラー、ウラー」

 という歓声が遠く近く、それが私どもにはまことに物悲しさをさそうのでした。

(中略)

 野辺の送りもみじめなものでした。冷たくなった美恵子をひしと抱きしめて一夜をあかし、翌日やっと見付けていただいた梱包用の小箱に、小さな美恵子のなきがらを納めて一里余もある火葬場まで私がかついで参りました。

 その日は順番がまわらず、さらに一夜あけてやっと小さな骨箱をかかえて帰ることができました。

〇…新聞もラジオもない、ニュースから遮断された生活は、明日への望みも、行末もまことにおぼつかなく、或(ある)いはデマに踊らされ、あるいはたよりない空想にからくもすがって、一日一日をすごしてまいりました。

聞くことは掠奪、凌辱など恐ろしいことばかり、よくもその恐怖にたえて来たものと思われます。





純潔をまもって
  赤尾彰子

 町角に人だかりがしているのを、何気なくのぞきこんで、私はハッとした。

 七つか八つぐらいの女の子と四つぐらいの男の子が、青年に何か質問されている。子供は日本人で、青年は、腕に安辺治安隊の腕章をまいている。子供は二人とも放心したような顔で、ときどきウンウンとうなずいてみたりワカラナイ、などと答えている。

答えるのは姉の方だけで、弟と思われる男の子の方は、足で土をけってみたり、かかとでクルクルと廻ってみたり、それでも時々、姉の答弁に協力するつもりかアッチデネ、とかシンジャッタとか、片言を口走った。

「コレジャダメダ。サッパリワカラン」

 などと、呟きながらも、その青年は、いろいろ質問してみたが、私はその子にぐんぐんひかれて行く自分を感じ、いそいで、人垣を離れた。

 こんなことから私の正体がばれるかも知れないのだ。今度は駅の柵に凭(もた)れてぼんやりしていると、その子供たちも駅の方へ、ふらりふらりと歩いて来たが、其処(そこ)でもまた朝鮮人たちの同情と好奇の眸(ひとみ)にとりまかれてしまった。

 金さんの話によると、北の方から逃げて来て、此処(ここ)で父母に死にわかれた日本人の子供だということだ。毎日、このあたりをぶらついて飯店の残飯をめぐんでもらって生きているらしい。着ているものは、すっかり汚れてはいるけれども、かなりいいものを着ている。胸に日本の住所を書いた白布をつけている。

もう、このごろは、朝晩めっきり寒くなったから、やがては凍死する運命であろうか。

「カワイソウダネ」

 と人々は語り合うけれども、誰も引取ろうとはしないらしい。私もまた、自分自身のことでせいいっぱいのときだ。異民族の中にさまよう小さい同胞たち!



四つの魂よ、さようなら
  片山智恵

 大宅夫人が、罐詰の空罐に、菫(すみれ)の花をぎっしりつめて、もって来て下さった。大勢の同胞の血を吸った、黒々とした大地から生れた、紫の可憐な花は、いたいたしい迄に美しい。

 白髪の老婆の事は口にしなかったが中佐夫人として今迄は、その名を知られていた、あの高慢さというか、一寸(ちょっと)近より難かった感じは、もう失せて、四十を過ぎた大宅夫人の素顔は、本当にやさしい美しさだと思えた。

時々、粗相したり、手におえない駄々っ子の世話は、皆この夫人の仕事になっていた。

 幸(ゆき)ちゃんが大宅夫人に身をよせて、

 お母さま、
 泣かずにねんねいたしましょう

 と唱(うた)うと、病室中の患者が唱和した。

「僕、タンポポなら、掘って食べたけど、菫もたべられるかな」

 避難生活から、長い収容所生活に、あらゆるものを食べる苦労をして来た之(これ)ら子供らは、一応すぐ食べる事に連関してこういい、ソ連兵の兵舎に残飯を貰いにいった思い出や、その時、若い女だけが美味しいものが貰えた話など、雄弁に語ってくれる。

「僕、歌を作ったよ。作詞作曲、ヘヘン」

 と唱ってくれたのは、

 目くされば、
 牛の大便、パンに見え、
 ヘヘン  ヘヘン ヘン

というのだった。
    



【写真出典】
1935(昭和10)-1939(昭和14)年 朝鮮総督府編 「朝鮮事情 昭和11年版」
1921(大正10)年 朝鮮総督府編 「朝鮮 : 写真帖」



 
関連記事
スポンサーサイト