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2015/11/20

空襲をおそれ山に逃亡した朝鮮人


大東亜戦争で本土空襲が始まった時、日本にいた朝鮮人出稼ぎ労働者の
4割が安全地域や朝鮮に逃亡
しました。

それは朝鮮でも同じで、朝鮮人は空襲を恐れて山に逃げこんでいたそうです。

そして日本敗戦後、朝鮮人はアメリカソ連と密通していたことをカサに着て「戦勝国民」を自称し、日本人を虐殺したり、戦勝国でもないのに日本人の財産を接収したりし始めました。

そういった日本人への暴力は、戦後の朝鮮でも行われていました。


【俗称 朝鮮進駐軍】
空襲におびえて逃亡した民族が戦後は「戦勝国民」を自称した。
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朝鮮進駐軍は特攻服を着ていたそうですが、特攻隊の白いマフラーは死に装束の代わりとして隊員が首に巻いていたものです。

マフラーは古くなった落下傘(パラシュート)をリサイクルしたものでしたが、白い絹のマフラーは少年たちのあこがれであり、特攻隊員たちに唯一与えられた、最後のはなむけでした。

特攻隊員とはみずからが神風になろう、神風になって日本の戦況を好転させよう、と国に命を捧げた人たちです。

それを死ぬ勇気も、敵と戦う勇気もないどころか、敵と密通し、あげく空襲におびえて逃亡する民族が首に巻き、日本人を襲撃していたのです。特攻隊はそのような民族に侮辱される覚えはありません。


【帝国海軍 帰一隊】
帰一隊

【まだあどけない帝国陸軍旭光隊の出撃の日】
旭光隊


日本のマスコミの論調は明けても暮れても「日本は難民を受け入れろ!」一本ですが、日本は現在も100年前の移民や密入国者に悩まされています。

そしてその移民や自称難民が日本で何をしたかといえば、あらゆる権利の要求、騒乱に乗じての暴虐、日本人に対する侮辱、そして民主党という違法団体を組織して日本を乗っ取ろうとしたことです。

このような現在進行中の前例からして、災難に襲われた祖国から逃亡するような人々が、外国に尽くすとは思えません。

かたや我ら日本人は原爆を投下されようとも、武器が竹やりしかなくても、最後まで国を守りました。

日本人には「国を捨てる」という概念がありません。ですから、国を捨てる人々の気持ちや考え、そして難民受け入れを強要する人たちの思考が理解できません。

難民受け入れを強要するなら日本よりも中国の方がよいのではないですか?

中国にはたくさんあるでしょう、建てたけれども人が住んでいないマンションが。


【戦火を逃れてきた難民を自衛隊に徴用しろだって】

今こそ日本は難民をもっと受け入れるべきだ
2015年11月18日 YAHOO! ニュース(JBpress)

 日本の難民受け入れ体制に対する国際的な批判が強まっています。先日の国連における安倍首相の記者会見でも、日本はなぜ難民をもっと受け入れないのかという質問がありました。この背景には、欧州や中東諸国が万単位で難民を受け入れているにもかかわらず、日本では年間10人程度しか受け入れていないことがあります。

 しかし、日本ではもっぱら難民を受け入れることのリスクが叫ばれ、難民受け入れに賛成する人は少数派です。フランスでの連続襲撃事件以後は皆無に等しいと言ってよいでしょう。しかし、難民受け入れは本当に日本のためにならないのでしょうか。

 筆者は、日本はもっと難民を受け入れるべきだと考えています。今回は、難民の受け入れこそが実は日本の自衛隊と外交力を飛躍的に強化する施策であり、巷間で言われているリスク論は間違っていることを指摘したいと思います。

■ 難民受け入れは自衛隊を強化する

 日本の自衛隊の第1の問題は、人口減少社会にどう対応するかです。2015年は前年比27万人の人口が減りましたが、これは東京大空襲約2回分の死者に 匹敵する規模です。つまり、現在の日本は大規模な戦略爆撃を毎年受けているに等しいのです。しかも高齢化や要介護者の増加もハイスピードで進んでいます。

 これは近い将来、警察・消防・自衛隊・海保で人材の奪い合いが起きることを意味しています。実際、最近の自衛隊の志願者数は減少傾向に転じています。だからといって徴兵制は有効性・経済性の面で論外ですし、徴兵したところで若者の母数が極端に減っている以上、意味がありません。

 対策としては、米軍のように人工知能や無人システムの導入を急ぐことです。また、難民やその子弟から就業支援と引き換えに志願者を募って、フランスのように外人部隊を作るべきでしょう。これは海外作戦での政治的リスクを低減できる効果もあります。



オマケ:朝鮮戦争からも逃亡した朝鮮人



日本敗戦後、日本人に暴力をふるって強奪したものは、大東亜戦争の時に朝鮮人が密通した連合国にキレイに焼かれてしまいました。

しょせん事大主義で、戦わずして大国にひれ伏すような民族は、それなりの扱いしか受けないのです。


【韓国避難民 1950年大邱停車場】
朝鮮戦争 

【空挺隊 平壌付近 1950年10月】
朝鮮戦争5

【トルーマン大統領とマッカーサー元帥の会談 1950年10月15日】
マッカーサーは「クリスマスまでに兵士を帰還させる」と楽観視していた。
朝鮮戦争4

【ナパーム弾攻撃 1951年5月6日】
日本が近代化し、朝鮮人が強奪した朝鮮の街は灰塵に帰した。
朝鮮戦争2

【避難民 1951年2月21日】
朝鮮戦争3

そのころ、日本では…、

【阪神ビル裏"火災"現場に一夜で建ったバラック 大阪梅田1953年1月2日】
朝鮮戦争,大阪,バラック

【大村収容所から強制送還される密入国韓国人、朝鮮人 1960年4月7日】
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わかりやすぅ。

よくもまー、日本に来れたもんだ。


本記事の資料


(  )内は管理人による注釈です。

元朝鮮居留民女性
「朝鮮人は空襲をおそれて山に逃げこんでいた」
「朝鮮人はこん棒をふりかざし、"朝鮮を搾取した日本人!目にものみせてくれるぞ!"と叫び、襲撃してきた」
「日本人男性は朝鮮人の暴力を防ごうとしたが、血まみれの乱闘は次々にやってきた」


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史」所収 
     片山智恵 「四つの魂よ、さようなら」

※作者の息子さんである一彦君はまだ赤ん坊で、こののち衰弱して死んでしまいました。作者はりんご箱に一彦君の遺体を納め、朝鮮に埋めてきたそうです。


 襲う朝鮮人

 目がさめた。

 尾根と尾根の間の、すみきったコバルト色の空が、手でも届きそうな高さに見える。

 海抜千米(メートル)位の処(ところ)を、のろのろと上っているのか、列車をなでる山肌のそよぎは、胸の中を洗い出すように清浄だ。

 やがて、列車は汽笛をあげて、徐行にかかった。私達には、決して長くこの美しい高山の讃美にひたっている事は許されないのだ。

 数戸の人家が見えはじめ、駅が近くなると、男の人達は、車の前列に、スクラムを組んで、立ちはだかった。

 血迷った朝鮮人達の割込(わりこみ)に備えての身構えであった。昨夜一晩中、駅毎に繰返されたその乱闘は、まるで地獄絵図そっくりだった。

 空襲を怖がって、山の中に逃げこんでいた朝鮮人達が、偶々(たまたま)山中に避難列車をみかけたりすると、前後の判断もなく、まっ暗い駅のホームから、野獣のような体当りで、とびこんで来る。それは、ねている子供の上でも、女の腰の上でも、かまわず、女子供の悲鳴と、男の人々のどなり声、やがては暴力のるつぼになるのだった。

 その度に、何人かが、赤い血しぶきを見せ、桂さんの奥さんは、顔を土色にして、

「もし、産気づきでもしたら」

 と、人々をはらはらさせた。

 又(また)、列車を追うように、髪をふり乱し、あらわな乳房をゆさぶりながら、

「アイゴー、アイゴー」

 と街道を裸足で喚(わめ)いて走る、女房(オモニー)達も道に続いている。

 朝鮮人の女と関係のあった土師(はじ)の小父(おじ)さんは、

「女房共(ども)、帰ってみたら、一足お先に亭主に家の物を持逃げされたといってさわぎ出しているわい」

 と云(い)った。

 亭主より一層、敵機の怖かった女房(オモニー)達だったのか。

 しかし、その女房(オモニー)にもまして、不穏な空気を恐れて避難していく私達も、又、女房(オモニー)と同じに茂山(もざん)の社宅に残して来た着物や、家具等の未練が、漸く湧(わき)上がって来た。

 思い出すと、もう堪らなくなって来て、爆撃もうけていないそれらへの、綿綿の情が、お互(たがい)の胸から、尽きることなく、ほとばしり出るのであった。

 こうした列車の長い時間が過ぎて、漸くの思いで白岩(はくがん)についたのは十九日の真夜中を過ぎていた頃か。

 白岩だ。

 しかし、ここは、白茂(はくも)線と恵山鎮(けいざんちん)線の落合っている地であるため、今迄想像も出来なかった程の、避難者の群(むれ)で大変なごった返しようだ。

「あなた、東京の大震災を思出しますよ。あれ以上の山の中ですしね」

 と、いう老人達もある。

 又、宝庫だともいわれていた神秘の白樺の林も、之(これ)ら何十万人かの人間の糞便に汚されている…… 何というひどい浅ましい事か……。

 破れた銘仙(めいせん)のモンペに、ダブダブの地下足袋をつっかけた女が、お米を洗っている川の側(そば)では、おむつが、濯(すす)がれている。

 列車から下りて、この河原で夜明けを待った私達も、この川の水を飲んでいたのだった。

「松井さん、場所がとれたわよ」

 秀ちゃんが、しらせに来てくれた。

 その、今日から寝起きをするという場所は、大きな車庫の、醜く組上げられた鉄骨の下で、叺(かます:わらむしろで作った袋)がしいてあった。

 豆粕の臭(におい)が、している。

 郷田さんのおじいさんが、マッチ一本で、めらめらと燃上る白樺の樹皮(きのかわ)を一(ひ)と抱えもって来られて、之(これ)で炊飯だと。

 しかし、高原の夜の冷気と、水のせいでか、姑(はは)も一彦も、早速(さっそく)お腹の調子をこわして、元気を失ってしまった。

 土師の小母さんは、用心してか、葡萄糖(ぶどうとう)の注射ばかり、秀ちゃんにうたしている。

(中略)

 もえる篝火(かがりび) 

 輸坪洞(ゆひょうどう)の停車が、あまり長すぎると気がついた頃、小さな林の奥の部落の中から、篝火がもえはじめた。

 高原の冷気に、水銀の柱は、もう氷点にも近くなっているだろうと思われるのに、赤々と闇をなめるような篝火が、星のない空に、やがて、焦げるばかり燃上っていった。

 そして、その火を囲んで、土の底から湧出しでもしたような、テノールとバスのいかがわしい合唱が聞えはじめた。

「おい、見えるか」

「なんだろう、あの声は」

 それらは、次第に熱狂していく。

 更に、マッカリ酒でもそそぐのか、そのソプラノの交(まじ)っていない合唱は、次第に、怒りと呪いにかわっていくようで、身内が、ぞくぞくしはじめた。

 やがて、森のような黒い塊が動き出して見えた。それは、私達の首でもしめにくるのではなかろうか。姑(はは)と身体をすりよせ合った。

「機関車がないぞ」

 郷田さんのおじいさんが叫んで、首脳部の人々は、あわてて、駅に交渉に出かけた。

 間もなく帰って来た石川課長、ふるえる声をおさえるように、一本調子で

「或(あるい)は謀略にかかっているのかとも考えるが、日本が降伏したのだと、ここの部落民がいっている。無条件降伏だともいう者がある。今、電気課長が、茂山の松井さんに連絡をとっているが……… そればかりか、この部落の人々は、我々に非常な敵意さえ、感じさせる。で、一応、駅員の主張を通して、この列車を半分に削減し、夜の明け次第、又白岩に戻る事になる」

 と、伝えた。

 一瞬、唾をのみこむ音。

 やがて、一様に 「まさか」 と口々のつぶやきがささやかれたが、「謀略だ」といい出す勇気は、誰にもなかったのか……。

 お互に手を取合ったまま、涙のしらずしらずこぼれてくる私達。しかし信じられない事であった。

 篝火の炎が漸く、乱れはじめると、彼らの合唱も、次第にだみ声の汚い叫びとなり、黒い塊は、私達列車に向って集って来た。

 朝鮮語交(まじ)りの彼らの口々の言葉は、恐しいばかりで、よく分らない所もあったが、

「朝鮮を搾取した日本人」

「隠忍三十六年の仕返しを目にものみせてくれるぞ」

「吾(われ)ら、自由の日をみよ」

 等々の、棍棒(こんぼう)をふりかざした暴言。

 その衣冠束帯のような、古い朝鮮礼服に、民族の血をたぎらせている酔った形相は、私の未だ一度も見た事のなかった人間の姿であり、朝鮮人の声である。

 私は、ねんねこをかぶって、一彦を抱きしめ、姑(はは)と小さくなって、ふるえていた。

 もう、このまま殺されるのか。

 尼港(にこう)事件、通州事件等、あらゆる惨虐な話の場面を思い浮べて、固く抱えた手は、一彦の身体の中に、めりこむばかり。

 それ、何十分続いた事か、血まみれの乱闘。あとからあとから、やってくる之(これ)らの暴力に、郷田さんのおじいさんも、病気の郷田さんも立上がった。




【写真出典】
・1995(平成7)年 毎日新聞社 「毎日ムック 戦後50年」



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