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2015/11/07

朝鮮人が日本の管理売春をパクるまでの歴史


韓国が「慰安婦研究所」を設立するそうです。

ありもしなかったことに国家予算を割いて、来年から研究を始めるのだとか。

ならば、と先回りして、朝鮮人がどんなふうに日本の管理売春をパクッたか年表にしてみました。


【朝鮮名物だった妓生(キーセン)学校】
平壌の妓生学校が最上とされ南へ行くほど格が下がった。この妓生学校から少女たちはあちこちに売られて行った。官妓学校1

日本人が朝鮮で初めて日本料理屋を開店したのは1887(明治20)年のことでした。場所は京城(現ソウル)の日本領事館や総督官邸がある韓人町でした。

この料理屋が芸妓を店に置くようになり、のち妓楼となっていきます。

これを見ていた朝鮮人は日本の妓楼をパクッて、みずからが経営する料理屋や飲食店に私娼を置いて売春させるようになりました。

そして日本のような歴史や沿革もないのに「貸座敷」と自称し、雇い入れた私娼には日本の公娼をまねて前借金までさせていたそうです。

こうして誕生した朝鮮人経営妓楼が明月館のように日本軍占領地に進出して行って慰安所になったのです。

「従軍慰安婦」という捏造を国家予算を設けて研究する国、それが韓国です。


【日韓併合の年に早くも誕生した鮮人貸座敷組合】
keijo_kumiai_21.jpg【出典】1936(昭和11)年 日本商工興信所編纂 「日本商工興信要録 昭和11年 満州、朝鮮」 


【なかったことに税金をつぎこむバ韓国】

韓国「慰安婦研究所」設立へ 資料展示も 今国会で予算と韓国紙報道
2015年11月5日 産経新聞

 韓国紙、国民日報(電子版)は4日、韓国政府が慰安婦問題の資料の展示館を併設した研究所の設立を進めていると報じた。

 韓国政府で元慰安婦女性らの福祉政策や記念事業を担当する女性家族省の関係者が今国会で予算を確保して、来年から設立のための研究を始める計画だと述べた。

 韓国政府は、慰安婦問題の関連資料を2017年までに国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産に登録するための活動をする考えを示しているほか、「国家記録物」に登録する方針も表明している。展示館や研究所設置はこれらと連動している可能性がある。(共同)



日本「わが国の売春婦を朝鮮人の目にさらすは国辱である」


朝鮮人が日本の妓楼をパクるまでを年表にしてみました。

そしたら四つの事実が出てきました。それは


1. 日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦で、戦勝国日本は朝鮮人女性を強制連行して従軍慰安婦にしていない。しかも日本軍は朝鮮に駐留したり、朝鮮の近くが戦場だった
 
(「従軍慰安婦」に出てくる日本は敗戦の色濃く、物資は払底して「油の一滴は血の一滴」が国家的スローガンだったにもかかわらず、終戦間際まで朝鮮に通って朝鮮女を強制連行、従軍慰安婦にした)

2. 料理屋経営者の「日本から芸者を連れて来たい」と願い出を、日本領事館は「わが国の売春婦を朝鮮人の目にさらすは国威に関わる、国辱である」と却下した
 
(「従軍慰安婦」に出てくる日本は、わが国の売春婦(朝鮮人従軍慰安婦)を何十万人も引き連れて転戦した)

3. 朝鮮で料理屋を経営するにあたり、日本人居留民は「日本国内から芸者を連れて来たい」と在鮮日本領事館に何度も願い出ただけでなく、上京して外務省で「領事をやめさせろ!」と運動した

(「従軍慰安婦」に出てくる日本は、朝鮮女に異常に執着して終戦間際の死闘沖縄戦になっても朝鮮に行って強制連行、従軍慰安婦にした)

4. 日本人は朝鮮人経営妓楼が不潔であることから「魔窟」と呼んでいた

(「従軍慰安婦」に出てくる日本は、性病疫病に感染している朝鮮女を素手で連行し、待ちきれずに輸送途中で強姦した。しかもそれが「ごほうび」だったりした)



「従軍慰安婦」という捏造を、なんの違和感もなく信じている人は日本人ではありません。

大東亜戦争でだけ日本が朝鮮人女性や中国人女性を強制連行して従軍慰安婦にしたのは、「従軍慰安婦」がロシア革命(1917:大正6年)以後に湧いてきた共産主義者どもの捏造だからです。

当時の日本人は共産主義者の捏造とは、まったく正反対でした。

日本人は不潔な朝鮮人を嫌い、朝鮮の伝染病や性病を避けるために料理屋飲食店営業取締規則、芸妓酌婦芸妓置屋営業取締規則、貸座敷娼妓取締規則といった規則を設けて、朝鮮人の売春を取り締まっていました。

それでは、年表です。

・1887(明治20)年
朝鮮初の日本人料理屋が開業

・料理屋井角が開業。

当時の在鮮日本人居留民はわずか300人ほどだった。

日本人居留民は日本公使館および領事館、警察署がある地域の韓人家並の中に雑居しており、朝鮮初の日本料理屋もこの地域で開業した。料理屋といっても、オンドル二間くらいのお粗末な造りであった。


1888(明治21)年
在鮮日本領事館「外国にわが国の売春婦を連れて来るのは国威に関する」

・在鮮日本料理屋が合同で「日本から芸者を連れて来よう」と画策。しかし在鮮日本領事館は外国に日本の売春婦を連れてくることを恥として渡航許可を出さなかった。


1890(明治23)年
朝鮮で二軒目の日本料理屋が開業

・井角と同じ地域に二軒目の日本料理屋花月が開業。こののち、日本料理屋は6、7軒に増加。

料理屋では女を2、3名ずつ雇っていたが、娼妓(しょうぎ:公娼)どころか芸妓(げいぎ:芸者)を置く許可がなかったため、「仲居」の名目で店に置く。


1894(明治27)年~1895(明治28)年
日清戦争

・日清戦争が始まり、在鮮日本人が増加。人が増えるにつれ、料理屋も増加し十数余軒となった。

戦時中、居留民の家はぜんぶ兵士の宿舎に徴発され、料理屋は軍用の仕出しを命ぜられて、夜に日をついで弁当の供給に励む。


1895(明治28)年
領事館から料理屋に芸者を置くことを許可され、日本から芸者を輸入

・領事館から許可が下り、料理屋では仲居の中からどうにか三味線を弾ける者を選んで芸妓の鑑札(領事館で発行される芸妓営業許可証)を受けた。

同時に、日本から3、4名の本物の芸者を朝鮮に輸入した。


日清戦争後、日本人居留民が激増、京城花柳界が発展するも領事館は遊廓設置願を拒否

・京城花柳界は日露戦争後に第二段階、統監府設置とともに第三段階の発展を遂げた。

朝鮮京城における三大楼は、花月楼、掬翠楼、清華亭であった。オンドル二間くらいだった花月楼も三十余人の芸者を置くまでになった。

第二流として松葉亭、明月楼、光昇楼ほか十二軒の料理屋があった。

・日本人が増加するにともなって切実に遊廓の必要に迫られたため、料理屋組合11軒が連合して、遊廓設置願を領事に提出したが、「日本人売春婦を朝鮮人の目にさらすは国辱である」と許可が下りなかった。

日本の遊廓は地方自治体が指定し、国の許可を得た遊廓指定地でしか営業が許可されなかったためである。


1904(明治37)年
朝鮮京城に遊廓設置が許可される 

居留民団長中井喜太郎氏をはじめ、朝鮮の議員が上京し、外務省に行って「領事をとりかえろ!」と運動した結果、1904(明治37)年6月、京城新町に遊廓設置が許可された。

同年11月、営業許可8軒。のち年々増加して12軒となった。


1910(明治43)年
・明石警務総長時代に京城の集娼制が本格化

10月、明石警務総長は京城市内に散在している料理屋に対し、新町、弥生町両遊廓に移転するよう命じた。その結果、新町遊廓で営業する妓楼は21軒になった。これがのちの大和新地の始まりとなる。

・京城弥生町に鮮人貸座敷組合が発足。


1911(明治44)年 

・遊廓設置が許可されたものの朝鮮では貸座敷を第二種料理店、公娼を乙種芸妓と公称したため、しばしば雇った日本人女性と楼主との間でトラブルとなった。

周旋人が日本国内に女を抱えに行った時、就業する職種が公娼ではないもののようにあざむく弊害があったためである。

そこで朝鮮総督府は発布済みの領事館令または理事庁令を改め、朝鮮でも貸座敷、娼妓(公娼)とした。


1916(大正5)年3月
朝鮮人が日本の集娼制をパクりまくったため、朝鮮総督府が法規制定 

・従来朝鮮には飲食業や売春を取り締まる法律がなかったため、朝鮮人料理屋、飲食店などをひっくるめて酒幕と称し、カルポ(低級売春婦)やキーセン置屋をなんの沿革もなく貸座敷、娼家、と称するようになった。

また在鮮日本人が経営する貸座敷(妓楼)は乙種料理店または第二種料理店、娼妓(公娼)は乙種芸妓または第二種芸妓あるいは乙種酌婦と称し、芸妓置屋については公称がなかったため、朝鮮総督府は日本人・朝鮮人統一の法規を制定した。

1916(大正5)年3月、料理屋飲食店営業取締規則、芸妓酌婦芸妓置屋営業取締規則、貸座敷娼妓取締規則を発布、同年5月より施行した。

しかし、朝鮮人経営店では法規どおりの衛生管理たとえば「便所に防臭剤を備え付ける」といった程度のこともできなかったため、全道その土地土地の状況によって規定事項を加減することとした。


1918(大正7)年
日本人が「魔窟」と呼んだ朝鮮人経営貸座敷を東新地に集める

・当時の京畿道警務部長隈部大佐時代に京城市北米倉町、長谷川町、笠井町他にに散在していた朝鮮人経営貸座敷を新町東方に集めるべく、移転を命じた。これがのちの東新地の起原となった。

本記事の資料


日本政府「外国へ売春婦を連れて行くのは国辱である」


出典:1930(昭和5)年 南山吟社 今村鞆 「歴史民俗朝鮮漫談」 京城花柳の変遷



 内地人料理

 京城に於ける、内地人(日本人)料理屋の濫觴(らんしょう:ものの始まり。起源)は、明治十八、九年頃の事で誰れもが抑(そもそ)もの開祖であるかは、今日では判明せぬ。現在の料理屋の中(うち)、井角が明治二十年に開業し、花月が国会開設の年の明治二十三年に開業したと云(い)う。

 其の時居留民の総数は、僅かに三百人足らずで、今日の田舎の郡庁所在地と同一である、其等(それら)居留民は公使館(総督官邸の所に在り)領事館(和城台交番所辺(あたり)にあり、郵便局も警察署も同一構内)の下、一帯の地を中心として、本町二丁目の中程から、同三丁目の中程、其(その)時の地名泥峴(チンコウカイ)の韓人家屋並の中に、ボツリボツリ雑居して居た、料理屋も、初め此(こ)の地帯の中に二、三軒開業せられ、追々増加して六、七軒となった。


【統監官邸】
統監官邸1

 料理屋と云っても、温突(オンドル)二(ふ)た間位の御粗末至極のもので、仲居と云う名称で、女を二、三名づつ抱えてあった、其(その)女共の御面相も柄も、大抵推定が付くが、夫(そ)れでも、当時異郷の土に在る荒くれ男共の目には、天女の来降とも見えて、ドレダケ此の歌舞の菩薩の君達の済度(さいど:仏が人々を迷いから救うこと)に救われた事であろう!

 其の時より七、八年前までは、京城では、日本の女と云う者は、写真の外(ほか)は見る事も出来なかったのであるが、抑(そもそ)も京城へ来た、イの一番の女は、今の古城梅溪氏の宅の辺に菓子屋があって、其の主人が妻と妹を連れて来たのに始まる。其時公使館の御役人連、要らぬ菓子を盛んに買い行って、胃病を起したものだと云う、定めて涎(よだれ)も流した事であろう。

 料理屋の主人連は、仲居丈(だけ)では物足らぬから、是非芸者を連れて来ようと企てたが、ドウしても渡航免状が下りなかった、夫(そ)れは他国へ醜業婦(しゅうぎょうふ:売春婦)を連って(ママ)来ては、国威に関すると云う様な考(かんがえ)からであった。

 明治二十一年に花月の松井君が、苦心惨憺其(その)筋の目をくらまし、大阪から福助と云う一人の芸者を連れて来た、之(こ)れが朝鮮先登第一着、今晩アリーのレコードである、併(しか)し芸者と云う者の存在を認めないから、矢張(やはり)仲居として届け出でた。初めての迎車、唯(ただ)一人の芸者、其芸者と云う言葉の響きが、如何に居留地の隅々まで、無上の福音を伝えたかは、詮さくする丈(だけ)野暮だ。

(中略)

 其後料理屋営業者が共同して、度々芸者を置く事を出願したが、領事の名は石部金吉であったと見え、仲々(なかなか)御許しにならなかったが、酌婦(客に酒の酌をする女。一般には私娼だったが公許をとれば公娼となった)と云う者が調子の外れた三味線は(ママ)鳴らして居た。

 其中(そのうち)に日清戦争が初まり、人が殖えるにつれ、料理屋も増加し十数余軒となった。戦役中一時、居留民の家は全部兵士の宿舎に徴発せられ、料理屋は、皆軍用の仕出(しだし)を命ぜられ、夜に日をついで弁当の供給をやって居た。

 明治二十八年の秋に至って、愈々(いよいよ)領事館から芸者を置く事を許可せられた、事実は常に法律に先ずものである、乃(そこ)で料理屋は従来置いてあった、仲居の中より、ドウニカ三味線の弾ける者のみを選み、芸妓の鑑札を受け、猶(なお)其時日本から、三、四名実際の芸者を輸入した、是(こ)れが朝鮮に於ける、鑑札公許付きの芸者の嚆矢で、総員ズラリ三十余名であったと云う。

 京城の花柳界は、日清戦争後、居留民の激増により、一躍進を為(な)し、日露戦争後に、第二段の発達に向い、統監府設置と共に、更に第三期の進歩を遂げた。而(しか)して(そして)此(この)第三期に於て、啻(ただ)に其数の増加のみならず、一段と質の向上を見るに至った。

(中略)

 遊 廓

 其後、料理屋組合十一軒が連合して、遊廓設置願を領事に提出したが、日本人の醜業者を、異国人の目に曝(さ)らすは国辱である………と云う様な見地から、容易に許可にならなかった。

日本人が次第に増加するに従い、切実に遊廓の必要を感じ、一方民団議員の方に於ても、遊廓を設置し、其(その)土地を営業者に貸付け、料金を取れば民団の収入が増加し、諸事業経営の財源となると云う点から、民長中井喜太郎氏を初め、議員が躍起となって………上京して外務省へ行って領事を取替えよとまで力んで運動した結果、遂に明治三十七年、新町へ遊廓が許可さるる事となった。

 而して遊廓とも娼妓とも言わず、第二種料理店、乙種芸妓と公称した。

 料理店、芸者、と云う名称は、楼主(妓楼経営者)が内地(日本国内)へ女を抱え(娼妓として雇うこと)に行った時娼妓でないものの如く、欺く弊害があり其点で連れて来た後に於て楼主と女との紛擾が屡(しばしば)起ったに鑑みて、明治四十四年頃規則を改めて、貸座敷(かしざしき)、娼妓とした。

 料理屋組合の行掛かり上、十一軒が連合共同して、新町の真ん中へ双林館と云う、客間が五十もある、スバラシイものを建て、女を五十余人も抱えた、其外(そのほか)に第一楼、皆春楼外(ほか)五、六戸の営業者が開店した。

 双林館は十七歳未満の女を客席に出したと云う点で、其歳(そのとし)の暮の書入時(かきいれどき)に一ヶ月の営業停止を喰い、大打撃を受けて一年位の後に解散した。

 当初は昼間は玉代(娼妓を買った代金)を取らず、勘定も人により月末払にして居た。当時植民地のノンキさが察せらる、遊廓開始以来今日まで営業を続けて居るのは、第一楼丈(だけ)である。

 夫(そ)れから二、三年の後、龍山の桃山に遊廓が設置せられ、又(ま)た明治四十年頃、三浦理事官が風紀維持の上から、市内のアイマイ小料理をまとめ、資本主を説いて、吉野町南廟の前に中の新地と云うものをつくり、夫(そ)れに追込んだ。中の新地は憲兵政治の時に、明石警務総長により、ツブされて新地へ追込まれた。其時に、新町を拡張して今の大和新地をつくって、新町が倍大に拡張せられた。



朝鮮警察
「朝鮮人経営宿屋は不潔をきわめ、日韓併合後取締規則を発布して相当の取締を加えたが旧態依然である」


出典:1927(昭和2)年 朝鮮総督府警務局 「朝鮮警察の概要」 七 宿屋取締



 従来朝鮮に於ける宿屋は内地人(日本人)は旅人宿、下宿屋、朝鮮人は旅閣、客主、酒幕と称し、内地人宿屋に対しては領事館令又は理事庁令を以て規定せし取締法規ありしも朝鮮人宿屋に対しては別に拠るべき法規なし、而(しか)して(そして)内地人宿屋は内地(日本国内)に於ける宿屋と概ね異ならざるも朝鮮人宿屋は前記の如く取締法規なく自由営業に放任せし関係上客室、料理場等一般に不潔を極め営業設備として殆(ほとん)ど見るべきものなく又(また)宿屋と料理屋、飲食店との区別なかりし為(ため)公安風俗上弊害尠(すくな)からざるものあるを以て併合後地方警務部令を発布し相当の取締を加え、又内地人宿屋に在りても時勢の推移に伴い営業用家屋其の他営業設備に関し適当の改善を加えしむる必要ありしも併合前の取締法規不備の点多く又規定事項各地区々に別れ寛厳(かんげん:ゆるやかなことときびしいこと)其の宜(よろ)しきを得ざる憾ありたるを以て全道同一法令の下に内鮮人を統一する必要を認め大正五年三月警務総監部令を以て宿屋営業取締規則を発布し同年五月より之(これ)を施行せり、施行後の状況は一般に良好の効果を収め特に市街地に於ける朝鮮人宿屋は其の後営業状態改善せられ従来の面目を一新せり、然(しか)れ共(ども)市街地外に於ける営業設備に付(つい)ては依然旧套(きゅうとう:旧態)を脱せざるものあるを以て土地の状況に応じ漸を追うて之(これ)が改善を期せしむる方針に依り取締を加えつつあり。



朝鮮警察
「朝鮮人酌婦や芸妓置屋がなんの沿革もなく貸座敷、娼家、娼婦と称し、"便所に防臭剤備え付け"の規定すら守れない」
「芸妓置屋(貸座敷)は年々増加の傾向にある」


出典:1927(昭和2)年 朝鮮総督府警務局 「朝鮮警察の概要」 八 料理屋、飲食店、芸妓置屋、貸座敷、芸妓、娼妓、酌婦取締



 従来朝鮮に於ては朝鮮人料理店、飲食店等に対する業名の区別なく単に酒幕と称し、酌婦及芸妓置屋に付(つい)ても何等の沿革なく貸座敷、娼家、娼婦と称したり、又(また)内地人(日本人)に在りても貸座敷は乙種料理店又は第二種料理店、娼妓は乙種芸妓又は第二種芸妓或(あるい)は乙種酌婦と称し芸妓置屋に付ては形式上の名称なし、而(しか)して(そして)内地人に対しては領事館令又は理事庁令の設けありしも朝鮮人に対しては併合前京城のみに施行せられし娼妓団束令を発布し娼婦の名称を娼妓と改めたり、併合後は地方の発展に伴い前記各営業者年々増加の傾向あるを以て地方警察部令を発布し逐次取締の歩を進めしも時世の変遷に伴い従来発布の法令にては取締上多大の不便あるに依り全道に施行すべき統一的法規制定の必要を認め大正五年三月警務総監部令を以て料理屋飲食店営業取締規則、芸妓酌婦芸妓置屋営業取締規則、貸座敷娼妓取締規則を発布し同年五月より之(これ)を施行せり、

(中略)

然(しか)れども朝鮮人料理屋、飲食店の構造設備に関しては未だ厳格なる取締を加うるに困難なる事情あるを以て土地の状況に依り該規定事項を斟酌し地方の実情に適用せしむることに勤めつつあり、又市街地外の飲食店営業者に対し点燈及厠(かわや:便所)其の他不潔の場所に撒布すべき防臭剤備付の規定あるも該規程は聊(いささか)厳格に失し実行困難なる嫌(きらい)あるのみならず、今日の実情に適せざるものあるを以て之(これ)が改正をなさんと目下調査中なり。



朝鮮警察
「従来朝鮮には売春婦を取り締まる法がなかった」
「併合後、日本が売春取締規則を発布した」
「朝鮮人は日本の遊廓をパクリ、経営する店に売春婦を置いている」


出典:1927(昭和2)年 朝鮮総督府警務局 「朝鮮警察の概要」 九 私娼取締



 従来朝鮮に在りては売笑婦に対する何等(なんら)取締を行う所なく随所に私娼出没し風俗衛生上看過すべからざるものありしが併合以来先(ま)づ明治四十五年発布の警察犯処罰規則中に私娼処罰の規定を設け越えて大正五年料理屋、飲食店、芸妓、酌婦、貸座敷、娼妓等の取締規則を発布し法制の画一を計り取締に任じたる為(ため)旧来の面目を革(あらた)むるところ少からざりしと雖(いえども)因習の久しき一朝にして之等(これら)の弊風の掃滅を期し難く生活難其の他種々なる社会上の欠陥は数に於て多少の差こそあれ依然彼等の跡影を止め巧(たくみ)に取締官憲の視線を避け売春行為の密行せらるるものあるは誠に遺憾とす、

近時公娼問題の高調と併(あわせ)て私娼の取締は極めて喫緊事と認め在来の取締方法たる営業監査、戸口調査、巡察其の他の機会に於て臨検を行うの外(ほか)私娼の弊に陥り易き前記の接客業者に対し必要に依りては雇女の数を制限し或(あるい)は雇入当初の実情を調査し苟(いやしく)も雇用後売淫行為に依り前借金を支払わしむるが如き又は多額の前借金を契約の内容とするものの如きは絶対に許可せざる等の方針に依り徹底的取締を期しつつあるも尚(な)お大正十三年七月の調査に依れば全鮮に散在せる私娼及(および)其の疑いあるの者内鮮人(日本人と朝鮮人)を通して実に七千六百五十一人の多きを算するの状況に在るを以て一段の革正的取締を要するものあり。



大正7年、京城(現ソウル)市内に散在する鮮人貸座敷を新町に集めた


出典:1936(昭和11)年 日本商工興信所編纂 「日本商工興信要録」 〔昭和11年 満洲、朝鮮〕 53ページ



shinmati_enkaku.jpg
 新町遊廓の沿革概要

明治三十七年六月新町遊廓開設 同年十一月八軒営業許可 逐年増加して十二軒となり同四十三年十月明石将軍警務総長時代に於て市内に散在せる小料理屋を新町及(および)彌生町の両遊廓に移転を命ぜられ当遊廓に二十一軒を増加するに至る、

是(こ)れ即ち大和新地の濫觴(管理人注:らんしょう。物事の始まり、起源)なり、

次に大正七年当時の京畿道警務部長隈部大佐時代に於て市中到る処魔窟(管理人注:戦前、日本人は朝鮮の私娼窟を「魔窟」と呼んでいた)散在し風教上寒心に堪(た)えざるを以て是等(これら)を一地に収容するの必要を感じ北米倉町、長谷川町、笠井町、其(その)他に散在せる鮮人貸座敷を新町東方に移転せしめらる 是(これ)今日の東新地の起原(源)なり




【写真出典】
1930(昭和5)年 鶴岡日報社 諏訪尚太郎 「朝鮮漫遊記」
1910(明治43)年 小川一真出版部 統監府編 「大日本帝国朝鮮写真帖:日韓併合紀念」  


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