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2015/11/04

日本軍は纏足(てんそく)の中国人女性を強制連行したのか?


南京大虐殺の次は従軍慰安婦を世界記憶遺産に登録するアル!と息まいている中国ですが、中国といえば纏足です。

纏足した中国人女性は一歩でわずか5~7センチしか歩けなかったそうです。

中国メディアによれば、日本軍はそんな中国人女性を20万人も強制連行して従軍慰安婦にしたのだそうですが、コスパ悪すぎません?

一歩で5~7センチしか進まないんですよ?

【中国山西省大同の纏足】
纏足 山西省 大同1

【纏足で変形した足】
親指以外の指を足のひらの方へ折り曲げ、奇形にする。
纏足1

【白い布を巻いた纏足】
布でしばっておかないとマヒした足に血が通って痛む。
纏足2

【纏足用の靴】
纏足3

【歴史修正主義的中国人少女像之足】
纏足 中国 韓国 慰安婦像【歴史戦】中韓2体の「慰安婦像」をソウルに設置 共同で序幕式「連帯」強調 
2015年10月28日 産経新聞 

【息するよりも多くウソをつく共産党】

最後の中国人慰安婦24人、1年で4人死去―中国メディア
2015年10月30日 レコードチャイナ

2015年10月26日、澎湃新聞は記事「最後の中国人慰安婦24人の肖像、過去1年で4人が死去」を掲載した。

アジア人全体で40万人、中国人だけでも20万人以上が旧日本軍の従軍慰安婦とされたが、現在存命している中国人はわずかに24人だけだという。うち20人が中国本土、4人が台湾に在住している。

今年のユネスコ記憶遺産では従軍慰安婦関係の資料を申請したが落選した。国際諮問委員会は他国の慰安婦資料と共同で申請するよう勧告しており、次回の審査では韓国など他の被害国と共同申請することが検討されている。(翻訳・編集/増田聡太郎)


纏足の歴史と作り方と目的



かつて中国では「楚々たる蓮歩」という、体が軽くチリの上を歩いても跡を残さず、風が吹けばひょうひょうと飛ぶといった清楚さが美人の第一条件とされていました。

中国も韓国とおなじで、言うことだけはりっぱな国でして、日本で爆買いしている中国人のどこが楚々たる蓮歩だよ?と思いますが、とりあえず中国ではそれが美人の第一条件でした。

その美人の条件も1912年の辛亥革命以後は古い慣習をやめる、という革命的発想のもと都会地では減少傾向になったそうですが、地方ではまだまだ盛んに行われていました。

特に山西省大同では、纏足女の展覧会が開催され、盛況を呈していたそうです。

1941(昭和16)年、英国軍獣医ジョージ・フレミングは中国北部の村で纏足した女性たちに出会い、金を払って素足を見せてもらったところ、あまりのグロさに二度と見たいと思わなくなったそうです。

纏足の害は足のひらだけでなく、ヒザから下も萎縮してしまっていて、纏足女は両手を広げてバランスを取ったり、何かつかまるものがないと歩くことすらままなりませんでした。

【こんな感じ】
纏足5

しかもこの「美」にすりかえられている纏足の目的は、男性の欲望を満たすことにありました。

その欲望とは、女性を家に幽閉し、いつでも欲望をとげられるようにするというものです。

ウィキペディアに「バランスをとるために、内股の筋肉が発達するため、女性の局部の筋肉も発達すると考えられていた」とあります。

女性の足をワザと奇形にして歩行困難にし、展覧会まで開催して、結婚したら足の苦痛に加えて男性の欲望まで受け入れさせられる。

女性は女性で、「纏足は文明国人の証アル!」と思いこんで、周辺国を蛮族とさげすみながら纏足にはげむ。

中国という国は共産党であろうがなかろうが、人権蹂躙国家であることはまちがいないです。

中国は捏造従軍慰安婦よりも「纏足」を世界記憶遺産に申請した方がいいのではないでしょうか?

本記事の資料


(  )内は管理人による注釈です。

英国軍獣医ジョージ・フレミング「中国の北へ行くほど纏足が増える、纏足女は膝まで萎縮して胸が悪くなるような気持がした、中国人は纏足を文明国人の証としている」


出典:1941(昭和16)年 朝日新聞社 ジョージ・フレミング 「南満紀行」 第十二章 纏足と阿片



 少しばかりの間、私達は休養をとることが許された。それが切れてしまうと、私達は着物も着替えないで、まだ二十マイルばかり行く心算(つもり)で出発した。旅行を終える期間は限られている。私達は、これから先どんなことが起るかわからなかったし、どうして天津へ再び帰るかの方法に就(つ)いても決っているわけではなかった。私達は休暇の期限以上延びるのを怖(おそ)れていた。それゆえ、何とかして旅行の出来るような時には急がなければならなかった。

 道は単調で、通り過ぎて行く村は非常に悲しく思われた。非常に古めかしい街を通り過ぎた。勿論(もちろん)支那の町は皆古風だが、これは今まで見た中で一番古風に見えた。恰(あたか)も町中の人達が床に就いてしまったように静かだったが、家は煉瓦(れんが)と石とで出来た立派なものだった。屋根は大抵平たくて、瓦(かわら)か藁(わら)で葺(ふ)いてあった。大商店も少しばかりあったが雨のためか、商売は行われていなかった。

 広い戸口の前の柳の木の生えている所に女達が集っていた。女達は私達を見るとヒステリーにでもなったかのように驚いて逃げてしまった。逃げて行く可哀そうな女を見て見ると、恰も悪魔でもその足を踵(かかと)の所から切断でもしたかのように、壁や何か掴まるもので釣合(つりあい)をとりながら歩いて行く。彼等(かれら)の足は、広東や上海や北京で見たのよりはずっと小さい、人形のような靴の中にはいっている。彼女達が小さい靴をはいて、びっこを引きながら腕を拡げて釣合をとりながら、一歩で二、三インチ(一インチは2.54センチメートル)ほどしか歩けないのを見ると、彼女達の不幸に対する同情を感じないわけにはいかないし、この悪風を考え出した馬鹿者を呪わないではいられない。

 或る時のことだった。好奇心が私をして何も覆いもののないこの足を調べて見る仲間の一人に加えさせた。若い女は、私達のした奇妙な願に対して、初めのうちはすぐさま靴を脱ぎ、足に巻きつけてある木綿の布を取ろうとはしなかった。しかし二、三ドルの金を与えると、すぐさま今までの沈黙を破って、見せるからもうすこしくれといいだした。巻いた布を解くのは、丁度半分腐りかけた肉体を掘り出すようなものだった。

 足指は親指よりほかに見えなかった。他の足指は足の裏にはいってしまっていた。幾週間かの苦痛の後、指の形はなくなってしまい、足の裏と足指とは区別がつかなくなってしまうのだ。ただ白い縫い目と深い疵痕(きずあと)だけが残っている。足の甲にはそれを曲げようとして、ひどい力を加えたために出来た潰瘍の大きな悲しい跡がついていた。色も形も捏(こね)粉の団子のようだった。膝の所までは、永い間麻痺せられた足のように萎縮していた。胸が悪くなるような気持がした。── 私達は逃げるようにして去った。それ以後というものは、生きているミイラが足の布を解くような場合には、よく注意してその席を立つのだった。

 私達が北に行けば行くほどこの忌むべき風習がはびこっているのだった。北京や天津の支那人街には纏足していない女は一人も見当らない。もし稀に纏足していない女があったとしたら、満洲(タタール)人と間違えられるのである。ところが、驚いたことには、地方の女達はこの悪習に熱中しているということである。彼女は何か杙(くい)のようなもので支えられなければ戸外や庭で働くことも出来なかったし、屋内の仕事も実に不手際な恰好をしてやらなければならなかったのだった。

 富商の愛妻から、僅かな金をかせぐにも困難な町の一番低い所に住む貧民の女に至るまで、その理由も知らないで、この自ら課した罰を甘んじて受けているのだ。彼等はこれを一つの風習と思い、彼女等(ら)の母も祖母もして来たのだから、彼女等もこれに従わねばならぬと考えており、もし足を自然のままに放任して置けば、夷狄(いてき:えびす、えみし。野蛮な異民族)と同じことになってしまうと考えている。簡単にいえば、彼等はこれを以て文明国人のなすこととなし、これをしない人を侮蔑の眼を以て見るのだ。



纏足の始まりは唐代天宝年間に桃源の女子「呉寸趾」から起った、纏足は中国人男性が性的満足を得たいという欲望から生まれた、
山西省大同では纏足女の展覧会が開催され、盛況を呈した


出典:1940(昭和15)年 昭和書房 平木多嘉志 「支那の生活」  五、纏足



 初めて支那に行って、一番珍らしがるのは支那婦人の纏足である。彼女等の足は成年者といえども、わが幼稚園児の足以上のものではなく、その恰好は、極細型ハイヒールの爪先だけを想像すれば間違いない。この纏足は、幼少から布を巻いて天然の足を殺し、爪先だけを変形して足としたもので、凡(およ)そ十世紀の間支那婦人流行の尖端となって来た。

 この纏足は何時(いつ)頃から始まったかといえば、唐代の天宝年間に、桃源の女子「呉寸趾」から起ったともいい、修竹閣女訓という書に「聖人女を重んじ軽挙せしめず、布をもってその足を包む」とあるから、古代に始まったとも言われるが、古書に纏足の字句が見当らない処(ところ)を見ると、この唐代に始まったというのが正しいらしい。

 支那ではどんなに美貌でも、足が大きければ美人としての資格がないといわれて居る。「楚々たる蓮歩」等と形容され、体が軽くて塵(ちり)の上を歩いても跡を残さず、風到れば飄々と飛ぶ、という所謂(いわゆる)蘇州型の清楚をもって美の第一条件とされて居(い)る。

 纏足の最初の目的が、婦人を玩弄視するその強烈な性の犠牲として、家庭に拘束せんとした一つの考案に始まった、というに至っては全くの驚くの外(ほか)はない。では何が支那婦人の纏足を流行させたか、といえば、

一、 自由奔放な婦人を如何に御すべきか。

二、 何時(いつ)帰っても満足し得られるよう如何に幽閉すべきか。

三、 ×的満足を得るため、以下に女性を改造すべきか。

 というような男性の勝手な欲望から生れた変風に外ならぬ。

 蒋政権が、纏足は非文明的で、支那の向上を阻害する悪弊であるのみならず、国の恥辱であるといって、新生活運動などで厳にこれを禁止した結果、都会地に於ける若い婦人には殆(ほとん)ど見られなくなってしまったが、田舎に行けば、まだまだ纏足が旧態依然として流行して居る。殊に山西省の大同あたりでは、年一回、光脚会という纏足の展覧会が開催されるが、何時も圧倒的な人気を呼んで居る。支那事変の前まで山西省主席だった閻錫山が、この悪弊打破に躍起となって居たが、やはり纏足しなければ良い女になれないという観念だけは除去し得なかったらしい。

 以前支那では婦人の美を見るのに、先(ま)ず第一に足を見てから顔を見たものだが、纏足の展覧会等は、日本の馬市のように相当盛況を呈し、羞恥屋(はにかみや)の支那婦人も、この日ばかりは得々として居る。

 纏足女の過激な運動の出来ないことはいうまでもないことで、第一歩くことすらもなかなか不自由である。造物の神から何不自由もない肢体を与えられながら、故意に不具者となって一生をトウ・ダンスで暮らす等は沙汰の限りといわねばならぬ。



足に布を巻くのは血流を止めて足が発育しないようにするため、纏足をやめたのは辛亥革命(1912)年のとき、纏足は中国すべての地方に行き渡っていた


出典:1941(昭和16)年 興亜書局 尾関岩二 「支那の子供」 耳輪と纏足



「お母さんの纏足したときは、どんな気持でしたの。」

 徳明(とくめい)君がたずねますと、

「そうですね、美しくなりたいと思って、あきらめはしましたけれど、全く嫌でしたね。はじめてこれをしますのは玉娥(ぎょくが)と同じ位の年頃でね、長さ五尺二寸から五寸ぐらいの白い布(きれ)を足に巻くのでありまして、その時に足指を内側に折りまげてあるのです。あれは大きくなるのを止めるのではなく、足のその部分へ流れて来る血を通わないようにして、発育させないのです。お母さんなど、お前達のように、元気よく歩けたら、どんなに嬉しいだろうと思います。」

(中略)
 
 纏足は蒙古人や満洲人を除くと、すべての地方によく行き渡って居(お)りまして猫も杓子も纏足していたものです。ことに山西の方では足が小さいと言って、それを重宝したこともあったそうです。

 だから纏足した婦人は働くことはできないので、家の内外の用事がはかどりません。

 支那の婦人で足が大きいと、昔はみんなが笑ったものです。しかし今では革命のとき、男子が弁髪を切りすてたように、婦人は纏足をやめたのでありましたが、纏足は髪のように直(す)ぐにやめるということができず、新らしく生れたものだけを控えました。




【写真出典】
1901(明治34)年 東洋社 坪井正五郎、沼田頼輔編 「世界風俗写真帖 第1集」 支那婦人の纏足
1935(昭和10)-1942(昭和17)年 亜細亜写真大観社編 「亜細亜大観 第13集の8」 大同の纏足美人(山西省)



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