HOME > 対日ヘイト・ヘイトスピーチ > title - 日本要人暗殺専門だった朝鮮義烈団
2015/10/29

日本要人暗殺専門だった朝鮮義烈団


11月2日に日中韓首脳会談が開催されるそうですね。

一日本国民として、安倍総理を韓国に行かせるのは不安でなりません。

なぜなら韓国は駐韓アメリカ大使を切りつけるような国ですよ?

しかも、戦前朝鮮には日本人暗殺を専門に行う義烈団というテロ集団があって、数々の日本人殺傷事件を起こしていました。

韓国とはそういう土壌のある国なんですよ。


【処刑される朝鮮人テロリスト尹奉昌】
上海停戦協定調印前に爆弾テロを犯し第二次世界大戦勃発を早めようとした。
尹奉吉処刑写真3

【中共軍の手榴弾製造所】
chukyo_shuryudan.jpg

戦前朝鮮は中国とソ連による赤化工作の結果、朝鮮総督府の朝鮮人警部らが日本要人暗殺や朝鮮革命を計画するありさまでした。

義烈団を支援していたのは中国とソ連(現ロシア)です。もっと突きつめれば中国とソ連の背後にいたのは米英です。

もし安倍総理に万一のことがあれば、その空白に乗じて北からロシア、南から中国が侵攻してくることも可能です。

そうなればアメリカも「今は南沙で忙しいんじゃ」と知らん顔できるし、中国とロシアは楽々と日本侵攻を完遂できますね。


【どうして安倍総理はソウルへ行くの?】

日韓首脳会談11月2日開催 安倍首相「率直に意見交換」 正式会談は3年半ぶり
2015年10月28日 産経新聞

政府は28日、安倍晋三首相が11月1日午前にソウルを訪問し、午後の日中韓首脳会談に出席、初となる韓国の朴(パク)槿恵(クネ)大統領との日韓首脳会談を2日に行うと発表した。正式な日韓首脳会談は平成24年5月以来、約3年半ぶり。冷え切っていた首脳対話を再開させることで、米国をともに同盟国とする日韓関係の改善を進め、北朝鮮の核・ミサイル問題などでの連携を図る。

 安倍首相は28日、日韓首脳会談について「経済や安全保障などさまざまな課題がある。率直な意見交換をしたい」と述べた。モンゴル・中央アジア歴訪からの帰国後、羽田空港で記者団に語った。首相は「未来に向かってどのような関係構築をしていくか率直に述べたい」とも語り、両国が共有できる協力事項を模索する考えを示した。(後略)



義烈団とは上海仮政府のなれの果て



義烈団とは1918(大正7)年に満州吉林省で創設され、その翌年北京に本部を移した結社、ざっくり言うと日本人暗殺を専門にした朝鮮人テロリスト集団でした。

義烈団の元となった集団は上海仮政府です。

共産主義者に内紛はつきものですが、上海仮政府も内部分裂によって温和派と武断派の二派に分かれ、その武断派による過激派結社が義烈団です。

その義烈団の内部は爆弾部、短銃部というように、日本人を殺害する手段別に分かれていました。

最低ですよね?

その日本人暗殺集団義烈団を直接保護していたのは蒋介石の国民政府革命軍事委員会で、その背後にいたのはソ連でした。

ソ連が支給する爆弾や資金が蒋介石を通じて義烈団に与えられていたのですね。

そうして中国とソ連は義烈団を使って朝鮮人の抗日意識を煽動し、朝鮮赤化を進めました。

そして親玉は決して表に出ずに、朝鮮人を使って日本人を殺害させていたのです。

義烈団による主な日本要人暗殺事件



義烈団の日本人殺害方法は、爆弾または拳銃によるものでした。

爆弾や拳銃ならば、事件を起こしたあとにサッサと逃亡できますからね。

【義烈団が起こした主な事件】

1. 秩父宮殿下の満州御視察をねらって武装暴動を企図

2. 朝鮮総督府の朝鮮人警部、朝鮮日報支局長らが日本要人暗殺とその騒乱に乗じた朝鮮革命を計画

3. 朝鮮の密陽警察署爆弾テロ事件

4. 朝鮮総督府爆弾テロ事件

5. 陸軍大将田中義一暗殺未遂事件

6. 朝鮮鐘路警察署爆弾テロ事件および警察官殺傷事件



あと、皇居二重橋爆弾投擲事件、上海虹口公園で起こった天長節爆弾投擲事件も義烈団の犯行でした。

とにかく、朝鮮人には日本人を殺害することに対するためらいや後悔などカケラもありません。

それは中国も同じなので、日中韓首脳会談にどんな意義があるというのでしょう?

連合国の手先だった中朝抗日人民戦線と反共日本が歴史観を共有できるはずがないし、韓国側で飛行機が撃墜でもされたら日本は大変なことになります。

義烈団による事件詳細


(  )内は管理人による注釈です。

秩父宮殿下御来満を狙って武装暴動を計画した義烈団員を検挙

義烈団3

1936(昭和11)年2月20日 満州日日新聞

不逞鮮人の巨頭金元鳳を中心とする朝鮮革命党は蒋介石の中国国民政府革命軍事委員会の支援を受け、反満抗日、地方撹乱を策した団体である。

朝鮮民衆の武装的総動員すなわち武装暴動により朝鮮、満州各地で騒乱を起こして革命に導き、一挙に日本から政権を奪って朝鮮の解放独立をめざした。

秩父宮殿下御来満を狙って満州に潜伏し、当局に逮捕された不逞鮮人は以下のとおり。

本籍 朝鮮平安北道定州郡郭山面石洞六九七
住所 不定 無職 辺昌裕(二八)

本籍 朝鮮平安北道定州郡郭山面造山洞四一〇
住所 不定 無職 崔枝英(二六)

本籍 朝鮮平安南道江西郡星台面硯谷里四九二
住所 不定 無職 蔡東竜(二五)

本籍 朝鮮慶尚北道尚州郡洛東面物良里一二五四
住所 不定 無職 鄭海竜(二八)

本籍 朝鮮平安北道定州郡郭山面造山洞四三九
住所 不定 無職 金基亨(二六)

本籍 朝鮮平安北道鉄山郡鉄山面道台洞五三〇
住所 不定 無職 安世雄(二四)

本籍 朝鮮慶尚北道永川郡華北面公徳洞六七三
住所 不定 無職 徐万誠(二七)

〔出典〕神戸大学新聞記事文庫 満州日日新聞 1936.2.20(昭和11)


朝鮮を震撼させた義烈団の背後には赤派の連中(中国、ロシア)がいて、外人と連絡を取りつつ爆弾を製造している

義烈団4

1923(大正12)年4月26日 大阪時事新報

身の毛のヨダつ話ばかり 義烈団の計画が次から次へ しばしば伝えられて来る

朝鮮における義烈団一派の大陰謀を未然に検挙してすでに一カ月あまりを経過した今日、いまだ各地から義烈団に関係する情報は頻々として発せられ、その内容は北京においてロシア人技師を雇い入れて爆弾製造工場を大規模に設置したとも伝えられ、または北京において不逞団ダンス会を組織して直接行動に関し具体的計画を進めているともいわれ、同団の第二次、第三次、第四次の計画として聞くも恐ろしき情報がほとんど毎日のごとく警務局に到着している。

福島みずほ ダンス1

 これについて新庄高等課長は語る

 事実彼らの背後には赤派の連中があって糸を操り、爆弾を供給し、朝鮮を赤化するに必要な資金の供給はあえて辞さないといった態度を取っている、その矢先、義烈団なるものが朝鮮全土を震撼せしめた事を大なる誇りと考え、これに勢いを得てさらに計画のみは大規模に樹立し、同時に口頭の宣伝はさらに倍して大げさに行われているので、情報の全部を信ずるのは早計もはなはだしいが、しかし外人の技師と連絡を取って爆弾の製造を計画を立てている事は事実に近いが、なにしろ情報が多くてこれを取りまとめて確かな証拠を握るのはかえって困難である。(京城特電)

〔出典〕神戸大学新聞記事文庫 大阪時事新報 1923.4.26(大正12)


朝鮮人警部、朝鮮日報各支局長が日本要人爆殺と朝鮮革命を計画して逮捕

義烈団5

1923(大正12)年4月12日 大阪毎日新聞

驚くべき不逞鮮人の画策

朝鮮京城(現ソウル)府三清洞ならびに新義州、安東県において朝鮮総督府警察官憲ならびに関東庁警察官憲によって爆弾36個、不穏文書950部を発見押収するとともに、日鮮併合以来未曾有というべき大陰謀事件が発覚したことは、その当時総督府警務局発表としてその一部を報道したが新聞紙掲載禁止のため、詳細は報道の自由を有しなかったが、該陰謀事件は北京に根拠を有せる有力な不逞鮮人が組織している義烈団において企画されたもので、その計画は三月一日の独立記念日を期して朝鮮内各官公署ならびに要路の大官に爆弾を投擲して諸官署を破壊し、大官の暗殺を敢行し、しかも朝鮮内各主要地でいっせいにこの挙に出て、その警衛のため全鮮の警察官、憲兵等を奔命に疲労させ、その虚に乗じて革命を断行せんとするもので、もし革命に失敗した時は各地の富豪から再挙に要する運動費として莫大な資金を徴発する計画であったもので、関係犯人は京畿道警部黄●(三十八)で爆弾の押収と同時に京城府内において次の十二名を検挙した。

京畿道警部 黄●(三十八)

朝鮮無産者同盟会長 金翰(三十七) (金錫鎮、迂●等変名を有す)

南寧得(二十七)

金始顕(四十二)

学生 李賢俊(二十二)

割箸製造業 趙東根(二十八)

劉錫鉉(二十四)

東亜講習所生徒 柳秉夏(三十七)

漢石事(こと)趙晃(四十二)

金思容(□十一)

李慶熈(四十四)

黄稷淵(三十四)

又新義州署で左の六名を検挙した

朝鮮日報安東支局長 洪鍾祐(三十一)

朝鮮日報平北支局長 白英武(二十一)

李吾吉妻 曹栄子(二十二)

朝鮮日報平北支局長 趙東根(二十八)

趙東根の妾 金楚仙(二十五)

正則学校教師 李在坤(二十二)

〔出典〕神戸大学新聞記事文庫 大阪毎日新聞 1923.4.12(大正12)


鐘路警察署爆弾事件 警官数名を殺傷したテロリスト金相玉
-義烈団は上海仮政府のなれの果て

義烈団7

1923(大正12)年4月5日 大阪朝日新聞

大仕掛の陰謀団義烈団の検挙 大官暗殺=官公衙(が:役所)爆破

京城および義州、安東県の各地官憲が必死となって活動の末逮捕した鮮内官公衙爆破の大陰諜を企てた北京義烈団事件の取調は、ようやく一段落を告げ、京城で検挙した分は二十九日午後五時京城地方法院検事局に、義州で検挙した分は二十八日新義州地方法院検事局にそれそれ送り、爾来引続き両地検事局で取調中である。(京城特電)

この北京の義列団は上海仮政府の不平分子が大正七年吉林で創設し大正八年北京に本部を移した結社である、すなわち上海仮政府が温和派と武断派の二派に分かれ、温和派はすべて温和の手段をもって朝鮮独立の目的を貫徹せんと主張し、武断派は武力爆弾の偉力を以て目的を達せんと主張したため両派の意見が一致ず、ついに両派は分裂し、仮政府は依然たる温和派の集まりとなってしまった。

憤慨して脱出した武断派は北京に集合し義烈団なる過激結社を造り、上海の仮政府と対抗し朝鮮独立の目的を達するには徹頭徹尾武力を以てするの計画を樹て着々その歩を進めたのである。

〔出典〕神戸大学新聞記事文庫 大阪朝日新聞 1923.4.5(大正12)



補足記事:朝鮮人側から見た義烈団
「われわれ朝鮮民族はこの惨絶壮絶たる記録を記しつつ前進するのみである」


出典:1972(昭和47)年 レボルト社 世界革命研究会 「世界革命運動情報 第28号」 朝鮮南半部 反日帝闘争の根拠所収 申采浩 「朝鮮革命宣言」



(前略)

一九二〇年三月、義烈団は第一次行動を開始しようとしたが、密陽及び進水で官憲に爆弾を発見され、密陽で十三名、進水で七名が逮捕された。

一九二〇年九月十四日、義烈団員朴戴赫(一八九五年釜山で出生)は上海から長崎を経由して釜山に上陸し、中国人古書籍商に変装して釜山警察所長橋本秀平に会い爆弾を投げつけ、橋本を殺し他に日本人警官二人に重傷を負わせた(日帝側資料は「署長ハ右膝部ニ軽傷ヲ受ケシノミ……」〔『高警第三一一九二号』としている〕)。

朴戴赫は重傷を負ったまま逮捕された。日帝は釜山地方院で無期判決を下し、大邱覆審法院で死刑判決を下した。死刑確定後、朴戴赫は敵の手で辱めを受けないと言って断食し、九日後、一九二一年五月十二日餓死した。二十六才だった。

一九二〇年十二月二十七日、崔敬鶴密陽警察署内に爆弾二発を投げつけたが、一発は不発、一発は廊下で爆発して失敗した。崔敬鶴は逮捕され、二十一才で刑死した。

一九二一年九月十日、義烈団員金益相日本人学生に変装爆弾三個をもって北京を出発し、十二日早朝ソウルに着き、電気修理人に変装して、朝鮮総督府庁舎の正門から入り二階の秘書及び会計課に爆弾を投げ(秘書課の爆弾は不発、会計課の爆弾は爆発)、午後直ちに日本人大工に変装してソウルを脱出、北京に帰還した。

一九二二年三月二十八日、金益相、呉成侖、梁健治は、マニラから帰国途上の日帝陸軍大将田中義一を上海で襲撃した。上海黄浦灘虹口公共埠頭に到着した田中に呉成侖が拳銃を三発発射したが失敗した。次いで第二線に待機していた金益相が拳銃を二発発射し爆弾を投げたが当らなかった。第三線に待機していた梁健治の爆弾も田中には当らなかった。金益相と呉成侖は逮捕されたが、呉成侖は脱獄した。金益相は長崎に押送され、長崎控訴院で死刑判決を受け恩赦で無期懲役となり、さらに二十年に減刑され、二十一年目に出獄したが、その直後日帝刑事の手で暗殺された。

一九二三年一月十二日、金相玉(一八九〇年ソウルで出生)はソウルの鐘路警察署構内に爆弾を投擲した。十七日、金相玉は官憲に発見されたが拳銃で応戦し、警官一人(鐘路警察署柔道師範、田村長七刑事)を射殺、二人に重傷を負わせ脱出した。二十二日午前五時半、金相玉の逮捕のために日帝は武装警官を動員し包囲した。金相玉は三時間応戦し、西大門警察署警部粟田清造他数名を殺傷したが、最後の一弾で自殺した。金相玉のこの戦いを日帝官憲は二ヶ月間隠し、三月十五日、『東亜日報』号外ではじめて公表した。


 このような義烈団の闘争を前提として申采浩は「朝鮮革命宣言」を一九二三年一月に起草した。この宣言のなかで申采浩はこう述べている。

「……われわれは日本の強盗政治すなわち異族統治はわが朝鮮民族生存の敵であると宣言すると同時に、革命によってわれわれの生存の敵である強盗日本を殺伐することがわれわれの正当な手段であることを宣言する。」

「われわれはわれわれの生存の敵である強盗日本と妥協する者(内政独立論者、自治論者、参政権論者)も強盗政治下に寄生する主義の者(文化運動者)もすべてわれわれの敵であると宣言する。」

革命の記録は、おのずから惨絶壮絶たる記録となるであろう。だが、後退するならばその後面は暗黒の陥穽(かんせい:落とし穴)であり、前進するならばその前面には光明に満ちた活路が開けるのであるから、われわれ朝鮮民族はこの惨絶壮絶たる記録を記しつつ前進するのみである。(後略)」



本記事の資料


司法省調査部「皇居二重橋爆弾投擲事件犯も義烈団」「義烈団内部は爆弾部、短銃部等に分かれている


出典:1927(昭和2)年 司法省調査部 「報告書集 10」



第三節 政治犯に就て

(4)是(これ)より先明治三十五年(一九〇二年)頃支那北京を本部として設立せられたる義烈団なる秘密結社に於ては爆弾部、短銃部等を設けて日本大官の暗殺を計画し、朝鮮に於て狂暴の挙に出て居(お)ったが大正十一年三月二十八日右義烈団暗殺部の全益相事(こと)金鳳男呉成侖と共に折柄上海に立寄りたる陸軍大将田中義一に爆弾を投じたる事ありしが其後(そのご)監視厳重なる内地に潜入し爆弾を投じてその威力を示し朝鮮は到底日本の統治に服するものにあらざることを示さんと義烈団より特派せられたる金祉變は大正十三年一月五日東京二重橋附近に到り警察官に追呼せらるるや携帯し来(きた)りたる爆弾を投じた。





関連記事
スポンサーサイト