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2015/10/26

従軍慰安婦は追軍売春婦と証明した明月館報道


今年の八月、ソウル聯合ニュースが「スマトラ島に明月館という慰安所があって朝鮮人慰安婦がいた」という報道をしました。

その明月館というのはもともと朝鮮のソウルで営業していた妓生(キーセン)料理屋です。

この報道が、従軍慰安婦は追軍売春婦だったという事実を証明しました。

【ソウル光化門にあった明月館本店客室】
明月館1

朝鮮の官妓。
明月館3

慰安所"明月館"とキーセン料理屋明月館の一致点



聯合ニュースの報道と日本側資料の一致点は以下の三つです。


1) どちらも朝鮮人経営であること

2) どちらも本店(第1明月館)と支店(第2明月館)があること         

3) 名簿が存在すること


です。

ニュース中にある61人の女性の名簿とは、貸座敷娼妓取締規則の第九条と第十条により作成されたものと思われます。

貸座敷(かしざしき)とは妓楼のことです。

【聯合ニュースの報道】

ソンさんは1992年に韓国の地方紙に対し、スマトラで朝鮮人会の幹部だったころに人員を把握するために書きとめていた61人の女性の名簿を公開し、これら女性は全員、旧日本軍の慰安婦だったと証言している。



【貸座敷娼妓取締規則@朝鮮】

第九条 貸座敷営業者は附録様式に依り遊客名簿を調製し使用前警察署長の検印を受け遊客ある毎に記載を為(な)すべし
前項の帳簿は使用を了(おわ)りたる後二年間之(これ)を保存すべし

第十条 貸座敷営業者は娼妓毎に貸借計算簿二冊を調製し其の一冊を娼妓に交付し毎月三日迄に前月分の貸借に関する計算を詳記し娼妓と共に捺印すべし

出典:1934(昭和9)年 帝国地方行政学会編 「現行朝鮮法規集覧 第2巻」

この帳簿のほかに


・日本国内や朝鮮の妓楼が日本軍占領地への渡航を願い出て、所轄警察署が発行した許可証

・日本占領地で妓楼を経営するための現地領事館の許可証


のどちらかがあれば、スマトラ島にあった明月館はみずから希望してキーセンを連れ、日本軍占領地に進出したキーセン料理屋だと証明できます。

もしこれらの証明がなかったならば、明月館は密航で日本軍占領地に渡航したモグリの慰安所、ということになります。

日本軍占領地にあった慰安所すべてが日本軍専用慰安所だったわけではありません。

上海にあった慰安所のように、日本軍占領地のはずれで安い値段設定で現地人相手の商売をする慰安所もあったのです。

韓国が日韓首脳会談の条件として、またもや従軍慰安婦問題を持ち出しているようですが、安倍さんはクネに会わなくてよいと思います。

日韓併合時代、朝鮮人は妓楼経営で私腹を肥やし、日本敗戦後は「従軍慰安婦」を捏造したと証明されたのですから。

韓国が安倍首相に謝罪要求 首脳会談の調整難航  日中韓は共同宣言へ 2015年10月26日(産経新聞)

【日本からの賠償金欲しさで語るに落ちたバ韓国】

旧日本軍にいた韓国人 映像で慰安婦や軍事裁判を証言
2015年8月3日 YAHOO! ニュース(聯合ニュース)

【ソウル聯合ニュース】韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会が3日、太平洋戦争中に旧日本軍の軍務に就いていた韓国人の生前のインタビュー映像を公開した。この韓国人は、旧日本軍の朝鮮人慰安婦や日本敗戦後の軍事裁判の経験について証言している。
 遺族会によると、ソン・ボクソプさん(1916年生まれ、故人)は強制徴用から逃れようと1940年代初めに旧日本軍の軍属となり、インドネシアで捕虜の監視や補給などにあたった。1945年の終戦後はスマトラ島のパレンバンにできた自治組織「朝鮮人会」の監察役を担ったが、翌年2月に連合軍に逮捕され、7月にシンガポールで英国による軍事裁判の法廷に立たされた。

◇「朝鮮人慰安婦がいない所はなかった」

 遺族会が今回公開したのは1990年代初めに撮影されたインタビュー映像の一部だ。この中でソンさんは「当時パレンバンにいた旧日本軍慰安婦は『第1明月館』『第2明月館』の二つに分かれていた。スマトラでもシンガポールでも、近くに朝鮮人慰安婦がいない所はなかった」と話した。名月館の運営者は韓国人の兄弟で、旧日本軍に協力して慰安婦を管理することで庇護(ひご)を受けていた。この兄弟は日本敗戦後、朝鮮人会に入れず、むちで打たれたという話を聞いたという。
 ソンさんは1992年に韓国の地方紙に対し、スマトラで朝鮮人会の幹部だったころに人員を把握するために書きとめていた61人の女性の名簿を公開し、これら女性は全員、旧日本軍の慰安婦だったと証言している。
 ソンさんが連合軍に連れて行かれたのは朝鮮人会に入ってから1か月後のことだったため、元慰安婦のその後については知らない。

◇元英国人捕虜の証言のおかげで九死に一生
 
 旧日本軍の軍務に就いた朝鮮人はBC級戦犯として東南アジア各地で連合軍による軍事裁判を受けるケースが多かった。
 ソンさんもシンガポールでの裁判で死刑を宣告されそうになり、思わず当時監視を担当していた英国人捕虜を呼んでほしいと頼んだ。ソンさんは捕虜だった中佐に人道的に接しようと努め、たばこやコーヒーをひそかに差し入れるうちに親交を深めた。知らせを受けた中佐がアフリカから飛んできて証言した結果、ソンさんは無罪を言い渡された。この裁判で無罪となった朝鮮半島出身者はソンさんを含め2人だけだったという。
 しかし、ソンさんはその後もオランダやインドネシアによる軍事裁判の法廷に立たされ、戦犯として扱われた。1947年5月にようやく長崎・佐世保に移され、釜山経由で故郷の全羅南道に戻ることができた。
 ソンさんは命の危機にさらされたこうした経験に対し、日本は十分に補償すべきだと訴えた。 mgk1202@yna.co.kr



本記事の資料


(  )内は管理人による注釈です。

明月館は朝鮮建築の建物で官妓(かんぎ)がいる

官妓とは李氏朝鮮時代、宮中にいたキーセンのことです。


出典:1930(昭和5)年 鶴岡日報社 諏訪尚太郎 「朝鮮漫遊記」

※上掲の写真の出典もおなじ。


明月館

 (明月館)は純粋の朝鮮建築で雅趣に富んだ建物である。客室も五十幾間もあるそうだが百畳敷(ひゃくじょうじき)に至るまで暖房を装置してある。

とある部屋にさしかかると二三人の官妓(かんぎ)が片膝を立て頻(しき)りと扇面に四君子を書いている我が輩も好きな道なもんだから、中に入って見ると或(ある)記者君が墨竹を畫(画)いて居るが失礼ながら甚(はなは)だ御粗末(おそまつ)なものである。

こ奴記者団の対面に関すると思い応援! 意味で我が輩も筆を拝借して色紙に瓢箪(ひょうたん)を描き梅花を添え

  萬里江南雪一花天下春

昭和四年九月於(おいて)京城明月館写桂山樵者

ぴったりと拇印を捺(お)して与えた。他人のあらわ見えるがさて自分が書いて見ると更にまずい様だ、そこで蘭史(らんし)と言える官妓が扇面に蘭を描き

  生於幽谷 香聞十里

桂山(けいざん)先生清監(しんかん)属すと認めて差し出された  



明月館は朝鮮側の妓生(キーセン)料理屋、明月館の妓生は元官妓


出典:1930(昭和5)年 南山吟社 今村鞆 「歴史民俗朝鮮漫談」



妓生

 朝鮮側の方は光化門通りの四ッ角に、明月館(今の明月館は、元の家が火災に罹(かか)りて、現場所に移ったものである)と云(い)う、唯一の高等料理屋があり、此処(ここ)が京城貴顕紳士の宴会場であった、現在の朝鮮料理屋は、料理も座敷も、家具も、妓生も、様式が余程変化して、日本味と西洋味が加わって居(い)るが、元は純粋の朝鮮式で、朝鮮カラーが濃厚であった。

 妓生に今のよりは、品格があっておっとりとして、落着いて、優美で、平安朝の遊君を想わせるものがあった、妓生の中には「正三品平壌月桂」、「正四品晋州玉蘭」と云(い)うような、名刺を持って居る者があった、位階付きの妓生は可笑(おか)しい、正三品と云えば、郡守と同等官であるが、此(こ)れには訳(わけ)がある、

元々(もともと)宮中には、官妓と称するものが、三百余人も居(お)って、景福宮中春深(ふ)かき所燕楽の興を助けて居った、表面は女医とか、裁縫を司どる役人と云う様な形式に仕(し)てあったのを、宮中の廓清の時追い出した、其(その)時李太王当時の皇帝から、御下賜金があって、将来夫々(それぞれ)正業に就くように、若(もしくは)止むを得ずして、市井の妓生と伍する事もあるも品性を保てよとの、お諭しがあった、

夫(そ)れ等(ら)の残存者が明治四十年頃には、僅かに四五人となって花街に居た。位階付き丈(だけ)一段と品が佳(よ)かった。



名月館は第一流の料理屋で妓生の巣窟にある


出典:1917(大正6)年 誠文堂 渋川玄耳 「藪野椋十日本世界見物」



此(これ)は前の慕華館(ぼかかん:李氏朝鮮時代、中国の使者を宿泊させるため迎恩門のそばに建てられた)や清水館とは大違いで料理屋である、午餐(ひる)に朝鮮料理を試みようと一朝鮮紳士と我社の山本特派員と三人連れで車を駆った。

一体京城(けいじょう:現ソウル)の街は東西両大門間の一条を除く外(ほか)滅多に真直(まっすぐ)な大通(おおどおり)は無い、東京なら根岸の様に不規則で、地図は鹿角菜(ひじき)をばら撒いた如く見える、路幅(みちはば)も極めて狭い、其(そ)れをうねくね挽(ひ)き廻されるので、一向検討がつかぬ、時々頭を挙げて北漢山を望んで纔(わづか)に方位を案ずるのみ。

町は坊に大別し更に洞と小分(こわけ)してあるらしい、寛仁坊、貞善坊、達徳坊、積善坊、蓮花坊、観光坊、安国坊など、宛(さな)がら坊さんの名だ、洞名は芹洞(きんどう)、筆洞、桂洞、竹洞、青石洞、隻林洞、紫霞洞など詩に入り相なのが多い、

日本人は自分等(ら)の呼びよい様明治町、長谷川町、桜井町、二葉町、羽衣町、若葉町などと命(つ)け換え、新しい地図には日韓両様に記入して却って煩わしい。

さて俥(くるま)が駐(と)まった、街燈には名月館とある、朝鮮の貴顕紳士が豪遊を試みる第一流の料理屋と吹聴を受けて居たに此(これ)は案外粗末な構えで、念の為(た)め門札を見れば、中部瑞鱗坊(ずいりんぼう)避馬洞(けばどう)とある、厳(いか)めしい町名だ、此を日本流に換えたなら何とあろう、馬避町(うまさけちょう)も可笑(おか)しい、妓生(キイサン)の巣窟というから字其儘(そのまま)避馬町(ひめちょう)は怎麼(どう)だろう。

さて愈(いよいよ)妓生なる者に見参する。



陸軍省「明月館には支店がある」


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C06031151200:1920(大正9)年2月13日 陸軍省 「密第102号 其726 公娼廃止運動」



密第一〇二号其七二六 軍事第六〇号 大正九年二月十三日 高警第三九二七号 

秘 京城民情彙報 ○公娼廃止運動 

京城南大門外所在基督(キリスト)教長老監理各派連合経営「セブランス」病院医師英国人「スコフヰ(イ)ルド」ハ客年十一月頃より市内基督教青年会館等に於(おい)て頻(しき)りに公娼廃止の必要を叫び 当初主として基督教徒のみを以て運動を試みむ(ん)と企画せしも遅々として進行を見ざるより更に範囲を拡大し青年学生と諮(はか)り団体を組織し此(こ)の勢力を利用せんと奔走しつつありしが略(ほぼ)其(そ)の準備成りしより権基観外(ほか)七名を発起人とし団名を「革清団」と名づけ二月五日市内高等普通学校卒業以上の資格を有する青年級約五十名を明月館支店に招待し別紙訳文の如き趣旨書を配付し左の通(とおり)役員を選定し教育せり





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