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2015/10/21

出陣学徒が特攻基地で育てたみなしご


72年前の今日、東京の明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が行われました。

出陣学徒の中には飛行科予備学生となり、特攻隊員となって、散華した英霊が数多くいます。

そんな死を目前にした身でありながら、航空基地でみなし子を育てていた特攻隊がありました。

それは鹿屋航空基地の神雷爆撃戦闘隊です。


【出陣学徒壮行会 1943(昭和18)年10月21日】
出陣学徒壮行会1

学徒応召は日本よりもアメリカの方が一年半早く開始しました。日本だけが学生を出征させたかのような共産主義者の悪宣伝にダマされないようにしましょう。

出陣学徒壮行会米国の大学は1

1945(昭和20)年、鹿屋航空基地では瀬戸口昭男君という11歳の少年が特攻隊員に育てられていました。

おそらく空襲で両親を亡くしたのでしょう、瀬戸口君は特攻隊員と一緒に風呂に入り、空襲が始まれば一緒に防空壕に入り、勉強も教わっていたようです。

大分師範学校の学生だった西田高光中尉は、瀬戸口君のことを

「算数の頭不良なるも、画(絵)は非常に上手なり。よく話し、かわいらしい」

と手記に記しています。

また、その手記には、「近所の人たちがニワトリ85羽と卵3000個を特攻隊に差し入れに来た」とも記されています。

このように日本軍の飛行場や航空基地には面会人が来たり、女学生の見学会があったり、特攻隊が出撃する時には近所の人々や女学生たちが見送りに来たりしていたので、朝鮮人女性をおおぜい閉じこめておくなどということは不可能です。

それどころか、鹿屋航空基地ではみなし子を育てていたのです。

【ニセ特攻隊員の代理が"従軍"慰安婦に謝罪するというサル芝居】
jugun_ianhu00003.jpg慰安婦:日本人牧師らが謝罪「過ちを許してほしい」 元神風特攻隊員の牧師が書いた謝罪文を代読、花束を差し出す  2014年10月2日 朝鮮日報日本語版

おおぜいの人が出入りしていながら、「日本軍の飛行場や基地内で強制連行されてきた朝鮮人女性を見た」という人が一人もいないのはなぜでしょう?

日本軍は兵に日記を書くことを強制していましたが、なぜ一人も「従軍慰安婦」について記していないのでしょうか?

それは「従軍慰安婦」が戦後捏造されたものだからです。

それに、日本は朝鮮人女性が日本国内で慰安婦(公娼)になるとこを禁止していましたし、日本軍は周旋人や遊廓経営の鑑札を持っていたわけではありませんし、何よりも誇り高い日本軍が女衒や楼主まがいのことをやるはずがないのです。


みずからの死をもって少しでも戦況を好転させようとした英霊のみなさん、

死に直面してなお両親を亡くした少年を隊で養育していた英霊のみなさん、

心優しい英霊のみなさんに汚名を着せる「従軍慰安婦」という捏造は決して許せるものではありません。

西田高光中尉が散華した菊水6号作戦


【1945年5月11日 菊水6号作戦】
5月11日、空母バンカー・ヒルの後部エレベーター後方に特攻機が命中、猛烈な火災を起こした。
菊水6号作戦1945年5月11日バンカーヒル2

側方から見た炎上中のバンカー・ヒル。
菊水6号作戦1945年5月11日バンカーヒル

軽巡ウィルクス・バレにかつぎこまれた米兵。恐怖と苦痛で意識がもうろうとしている。この日、バンカー・ヒルでは396名が戦死または行方不明となり、264名が負傷した。
菊水6号作戦1945年5月11日バンカーヒル3

5月12日、戦艦ニュー・メキシコの甲板に安置された米軍の戦死者たち。
菊水6号作戦1945年5月12日ニューメキシコ

5月14日、空母エンタープライズに突入するゼロ戦。
筑波隊2

5月14日午前6時56分、敵のスクリーンを突破して空母エンタープライズに突入する第六筑波隊。
筑波隊1

5月14日、被弾しながらも空母エセックス至近まで到達した神風(ゼロ戦52型)。尾翼と主翼に破口が見える。大破した機体を操縦し、突入を続けようとする特攻隊員のすさまじい闘志を感じる。
菊水6号作戦1945年5月14日突入するゼロ戦

本記事の資料


(  )内は管理人による注釈です。

鹿屋基地
「わが神雷部隊で、みなし児を育てている」「大崎町から慰問文と共にニワトリ85羽、卵3000個ほどいただいた」


出典:1953(昭和28)年 白鴎遺族会 「戦没飛行予備学生の手記-雲ながるる果てに」



西田高光
 大分師範 大分県
 神風特別攻撃隊第五筑波隊長、昭和二十年五月十一日南西諸島にて戦死、二十三歳

進出命令下る

四月二十五日 (昭和二十年)

 愈々(いよいよ)出撃も余す二三日だらう。明日より菊水四号作戦あり。一号より三号まで多大なる戦果と共に、数多(あまた)の戦友は散華した。

  ひとヽせをかへり見すればなき友の
  数へ難くもなりにけるかな

 四号作戦終れば、愈々俺の中隊突入の番だ。最後まで自重せん。沖縄は断じて敵にゆづらず。生命もいらず、名誉も地位もいらず、只(ただ)必中あるのみ。深山のさくらの如く、人知れず咲き、散るべき時に潔よく散る。何の雑念も含まず。

 夜十時、進出命令下る。

(中略)

五月七日

 シーラス(巻雲)に低気圧の来襲を知る、〇八〇〇より三時間待機なり。二時間待機、三時間待機とは、攻撃命令受領より発進迄(まで)二時間、三時間の余裕あるを云(い)ふ。

但し敵の所在を知り二時間三時間の余裕あると云ふも愛機の諸準備、航法計画、列機の面倒を見、また規約信号、天象地象の研究等、只(ただ)に必中と云ふも至難にして、大死するに斯(か)くも忙しく難きは搭乗員ならでは知る由もなし。

怜悧にして明快、果断にして率先、計画的頭脳、統率的才能なくしては出来得ず、只不断の努力研究こそ良くそれを為(な)し得る只一つの方法なり。

 〇八〇〇より何時(いつ)出撃必中の命下るやを待ちながら平素通り実に皆、純真明朗、快として只々必中を念じ、その努力をなしつヽ、暇さへあれば野球、ドミノ、将棋、歌、食、寝、実に寸前に必死必中の命を待つ者とも思はれず。

又(また)そんな考へは毛頭ない。只大命一下それ、やるぞ、只それ丈(だけ)、なるが故に生のよろこびを満喫するかの如く、無邪気な生活、すべての慾(欲)も未練も既に他界の事かと思はれる程あっさりしてゐる。日々の中にもやはり人間か、親の事は一日一回くらひは思ひ出される。

 吾(わ)が神雷隊の養ひ児に父母なき瀬戸口昭男と云ふ十一歳の子供あり。隊に寝泊り、敵来たらば一緒に壕に入る、算数の頭不良なるも、画非常に上手なり。良く話し着の身着のまヽなるも、兵隊と共に風呂に入れ、人気者で可愛らし。通称神雷モンキーと云ふ。


五月九日

 天候快晴。二時間待機。

 午後、大崎町より、慰問文と共に鶏八十五羽と卵三千個程を吾等(われら)特攻隊に下さる。有難き極み。都市の人情いさヽかすたれたるを嘆き居たりしに、農村僻地に純粋なる皇道保たれゐたるを眼前にし、何をかせざれば已(や)まざる決戦意識の溢れる顔々と相語り、明朗敢闘、益々必中の意気旺(さか)んなり。


五月十日

 一六〇〇、特攻隊員整列。

 明早朝を期し、吾(わが)隊にも待望の攻撃命令下る。第一線鹿屋基地に来て旬日(じゅんじつ:十日間。十日ほど)余、着の身着のまヽシラミもいそうな感じがする。機動部隊ついに慶良間周辺より近寄れず、攻撃の機なし。よし来たらざれば吾等(われら)征く。

 洋上航行四時間、憤眼を見開き必らずや命中せん。午後六時より飛行場に飛行機の試運転に征く。調子良好なり。終わって暗い飛行場の端を通って帰る。シーラスが夜光雲の如く魚鱗の如く、南北に走る。風は北西、明日は立派な天気だ。

五月十一日──暗い道の中で自分の年を数へて見た。今年の四月一日二十三才となっている。何時(いつ)俺は息をしたか、明日も入れて俺は二十三年と四十二日となる。永いやうで実に短かかったやうに思ふ。

将(まさ)に夢の如く幼き昔の事共(ことども)もちらほら思ひ出されて来る。両親兄弟の顔、そして知っている人々総(すべ)ての顔を思ひ浮かべたが、だれも笑顔のみ思ひ出される。

昨夜、自分の歩いている道の前に七匹の蛇の子がいる夢を見た。三匹は近づいたら逃げたが、四匹はのろのろしていて逃げない。ある人にきいたら蛇の夢は一番よいと云ふ。この日に明日の事を聞き、空母七隻の機動部隊に攻撃命令下るとは夢もまんざら嘘ではない。必らず命中疑ひなし。

 燃ゆる殉忠の血潮、撃滅の闘志、必中の確信、日本男児として誰にも劣らざる気概はある。而(しか)し人間としての弱さか、生の不可思議、死の不可思議、それは未解のまヽ残っている。

而しそれは悩みとか、未練とか云ふ意味ではない、軍人としてこの機を頂き、よろこびに耐へざるものだが、今俺は死して良いのかとも思ふ、否(いな)、今死んでもよい開戦の当初に引返す戦機を作るのだ。今こそ征かざれば征く時なし。

考ふれば明日どうもこの体が木葉微塵(こっぱみじん)になるとは思はれない。而し生き延びたものだ。今日迄も。

今まで大空の防人として召されてより、死中に活を求むる実践的猛訓練に幾度か死に直面し命びろひをした事だらう。常に「浜までは海女も蓑(みの)着る時雨(しぐれ)かな」の歌を心中に持ちつヾけ幸ひ今日まで斯(か)くも壮健なりし。

 今日の機を得ずして死して逝った多くの友を思ひ、今こそこの壮挙に参加し得る自分の幸福を満喫し、必らず二十三年の生涯の生けるしるしをこめ、総力を尽して皇国のため必らず命中最後の御奉公を致さん。

二〇〇瓩(キログラム)爆弾に国民の憤激をこめて、血と汗でなれる愛機諸共(もろとも)敵を太平洋の海底深く葬り去らん。

 昭和二十年五月十一日午前九時三〇分前後、皇国の一臣高光、総てのものに感謝しつヽ別れを告げん。明朝は三時半起し。つきぬ名残りもなしとせざるも明日の必中のために寝る。只(ただ)皇国の必勝を信じ、皇国民の一層の健闘と幸福を祈りつヽ。


 お父さん

 お母さん

 兄弟

 そして教へ子

 その他の人々 さらば。

                           神雷爆撃戦隊
                             筑波隊一隊長 西田中尉




【写真出典】
アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06031089100:内閣情報局 昭和18年11月3日 「写真週報 第296号」
・1997(平成9)年 KKベストセラーズ 「写真集 カミカゼ」


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