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2015/10/11

ユネスコ事務局長の祖国が承認した南京維新政府


ユネスコが「南京大虐殺」を世界記憶遺産に登録しました。

ユネスコって捏造歴史でも登録できるんですね、ビックリしました。

中国がこうくるならば、日本政府は南京維新政府を世界記憶遺産に推薦したらどうでしょうか?

南京維新政府とは日本が支援して組織された反共中国人自治政府で、ユネスコ事務局長の祖国ブルガリアも承認しています。

しかも南京維新政府の前身である中華民国臨時政府は、南京陥落の翌日、北京で発足しています。

南京大虐殺が事実ならば、こんなことあり得ませんね。

これは、中国共産党にとって不都合な真実ではないでしょうか?


【日本の支援で誕生した反共南京維新政府】
南京大虐殺中華民国維新政府

【日本が投資した北支経済圏】
河北省、河南省、山東省、山西省、綏遠省(すいえんしょう)、察哈爾(ちゃはる)省は日本の経済圏、安徽省(あんきしょう)、浙江省も日本の影響下にあった。上海はイギリスのアジア侵略拠点、福建省と広東省はアメリカ財閥の拠点だった。南京大虐殺北支経済圏2

【中華民国臨時政府宣言(華語)】
中華民国二十六年十二月十四日(南京陥落の翌日)北京で臨時政府成立。同時に絶対排除共産主義。南京大虐殺が事実なら臨時政府は成立していない。南京大虐殺中華民国臨時政府宣言1

南京大虐殺中華民国臨時政府宣言2

南京大虐殺中華民国臨時政府宣言3

南京大虐殺中華民国臨時政府宣言4【出典】1938(昭和13)年 開隆堂書店 文部省普通学務局 「支那時文講習教材」


補足 南京維新政府の結末と痛快だった汪精衛(汪兆銘)夫人



南京維新政府の要人たちは戦後「敵国通謀、本国叛逆」の罪で捕らえられ銃殺刑に処せられました。

その時、中国に存在した民主主義、資本主義の芽はつみ取られてしまったわけですね。


漢奸裁判で、南京維新政府の男性要人たちは保身のために、必死になって身の潔白を熱弁しました。

漢奸(かんかん)とは、中国語で「売国奴」のことです。

そんな法廷で、南京維新政府の主席だった汪精衛氏夫人だった陳璧君女史は、

「日本軍の侵入が切迫するや国府要人はいずれも逃亡し、一指をも民衆の保護に当ることなく撤退した。われわれは全く徒手空拳のまま事態の収拾に当らねばならなかった。そして南京偽政権を以て和平反共の原則に基き中国を日本より守るべく努力したのである。もしも太平洋戦争が起らなかったならば、われわれは中国を救っていたであろう」

と言ってのけました。

まさにこの言葉が歴史の真実を語っています。

【陳璧君女史】
南京大虐殺 陳璧君1


国民党と中国共産党は、連合国からの支援や中国の銀を売った利益などで私腹を肥やした連中です。

当然、国民党と中国共産党の関心は人民ではなく、お金をくれる西洋人の権益の上にありました。

そして国民党と中国共産党に捨てられた人民を救おうとしたのが、反共日本と日本に同調した南京維新政府の人々でした。


【南京維新政府の五色旗を掲げ、日本軍配給物資をくばる北京婦人宣撫班】
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senbu_han8.jpg


日本が中国に進軍したのは「侵略」ではなく、共産党排撃のためであったこと、そして日本軍が南京大虐殺どころか、中国人民を救おうとしたことは南京維新政府が証明しているのですね。

で、その南京維新政府樹立を承認した国の中にブルガリアもふくまれている。

おもしろいと思いません?

まさに天佑神助ではないでしょうか?

【ブルガリアが南京維新政府を承認】
南京大虐殺 南京維新政府承認1【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06031041100:1941(昭和16)年 内閣情報局 「週報 第249号」


【「侵略、侵略」とこうるさい中国 はよ滅べ】

「ユネスコへの妨害やめよ」=記憶遺産、日本に反論-中国
2015年10月10日 時事ドットコム

【北京時事】中国外務省の華春瑩・副報道局長は10日、南京事件に関する資料が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録されたことについて「歓迎」する考えを表明した。日本政府の非難に対しては「歴史を直視したがらない誤った態度だ」と反論。「中国にとやかく言ったり、ユネスコの正常な業務を妨害したりするのを直ちにやめる」よう求めた。
 
 また「歴史を心に刻み平和を大切にし、未来を共につくり、人類の尊厳を守る役割」を、これらの資料が十分に果たせるよう保護・普及を図ると表明した。
 
 その上で、南京事件は「国際社会公認の歴史的事実」であり、「全人類の共通の記憶」になるべきだと強調。日本に対し「歴史に責任ある態度で、侵略の歴史を直視し深く反省し、誤りを正すよう促す」と述べた。 



本記事の資料


中国人民を救おうとした南京維新政府の要人たち


〔  〕内は管理人による注釈です。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 大陸篇」所収 
    朝日新聞社外報部 大久保泰 「南京政府要人の最期」



漢奸(かんかん)裁判

 重慶の国民政府は終戦後間もなく日本と結託して和平建国を叫んだ「満洲国」、「南京政府」、「華北政務委員会」の要人達に対して戦犯容疑で逮捕状を発した。

「敵国通謀、本国叛逆」の罪で、「漢奸裁判」を行って厳重に処断しようというのである。

 八月下旬になって国府軍警察隊が日本軍占領の主要都市に進駐してくると重慶政府は日本に加担していた中国人要人をつぎつぎに逮捕しだした。

 日本に亡命していた陳公博〔ちんこうはく〕(主席)、同夫人、同秘書莫国康〔ばくこくこう〕女史、何炳賢〔かへいけん〕(経理総監)、林伯生〔りんはくせい〕(宣伝部長)、孫君慧〔そんくんけい〕(実業部長)、周隆庠〔しゅうりゅうよう〕(秘書長)の七名も召喚命令によって十月上旬、南京に連れ戻され、その場で逮捕されて投獄されたのである。

 漢奸の容疑で逮捕された南京政府の要人は蘇州獄舎に八百名、上海獄舎に四百名、南京獄舎に二百名という工合(ぐあい)に、全国の獄舎は漢奸で一ぱいになりその数は千数百人にのぼった。

 漢奸裁判は昭和二十一年四月上旬から各地の高等法院で開始された。

 法廷に立った要人達は「敵国通謀、本国叛逆」という大罪になるか否かの裁きであったので、彼らも死にものぐるいの抗弁を展開した。

 断罪の露と消えたトップは皮肉にも終戦の年の二月、蒋介石の密令をうけたと称し、東京で重慶と日本との和平の橋渡しをかって出た立法院副院長の繆斌〔みょうひん〕であった。

 繆斌は蘇州の法廷で、

「私は戦前、日本に赴き和平を策動して日本の対外侵略を阻止せんとしたが及ばなかった。その後華北〔中国北部〕で新民会〔しんみんかい:中国人が組織した親日反共団体〕に参加しながら裏面で抗日工作をつづけていた愛国者である」

 と滔々〔とうとう〕とまくしたてた。裁判長は、

「ここは法廷であって演説会場ではないぞ」

 と叱責したものであった。

 繆斌の必死の抗弁も及ばず、彼は二十一年五月二十一日蘇州刑場で銃殺刑に処せられたのであった。

 二番目に銃殺されたのは、汪精衛なきあと南京政府を背負って立った主席の陳公博であった。陳も繆と同じく蘇州刑場であったが、陳は四月二日死刑を宣告された日獄中で書いた三万数千語、日本語に翻訳して四百字詰原稿用紙で約三百枚に上る「八年来の回顧」と題する抗弁文を数時間にわたって声高々と朗読し、無実を叫んだ。


無実の弁

 陳はその中で、

「重慶は武力抗戦であり、南京は和平抗戦であった。叛逆罪とはもっての外〔ほか〕だ」

と書いている。また、

「私は中日基本条約には反対しつづけてきた。調印前汪先生は私に正式調印に参加せよとすすめたが、私は私の反対的立場を留保したかったので参加を受諾しなかった。満洲問題につき私は徹底的にこれを処理しなくては中国生存上致命傷になるとみた。そこで一昨年夏芝山陸軍次官が南京にきて重慶との調和を希望した際、私はまず満洲国の取消を行わねば問題解決の途〔みち〕なしと答えた。私はこの問題につき重慶に通知を出してある。何とかして満洲国を取消さんとした私の真意を認めて欲しい。日本は汪先生に対して表面上は尊重していたが蔭〔かげ〕では 『重慶は武装抗戦であり南京は和平抗戦だ』 と批評していた。

経済問題も中国側民間に自主的に処理せしめる〔させる〕といって南京、上海に各種の統制会を作っていたが、実際上日本人が牛耳っていた。偽幣〔ぎへい〕(儲備券:ちょびけん)発行の最大目的は日本軍票を制限することであった。今日の物価昂〔高〕騰は処置の問題で儲備券自身の問題ではない。

南京政府が太平洋戦争に参加したのは日本の搾取から免〔のが〕れ物資を中国の手で獲得保存し、また租界を回収し、治外法権を撤廃し、政治的軍事的経済的独立を計ろうとしたもので、南京は参戦したが一兵も太平洋戦争に参加させなかった。

それのみでなく私は昨年五、六月頃谷大使に、

『重慶に対し太平洋戦争の調停を依頼せよ』

とすすめたが、谷は東京に電請したのみで積極的に働かなかった。私は重慶に調停さすことによって中国の国際的地位を向上せしめん〔させよう〕としたもので、決して重慶を敵とする心はなかった。私は蒋先生指導下に国家を統一せねばならぬことを念願し、国民党は分〔わか〕つべからずと考えてきた。陳公博指導下に中国および国民党を統一せんと考えたことはない」

 財政部長兼上海市長で南京政府の副主席格だった周仏海〔しゅうぶっかい〕は、重慶を脱出してからも重慶政府と絶えず連絡をとっていた。特に終戦間近に蒋介石の密使張叔平〔ちょうしゅくへい〕将軍を上海にかくまい終戦にあたっても周鎬〔しゅうこう〕と通じて自から重慶政府の味方を以て任じていただけ、終戦一年たっても彼には逮捕状が出なかった。

 そればかりではなく、彼は終戦直後に重慶に連れて行かれた。南京では周は

「重慶で華やかな生活をして大手を振っている。うまいことをやった」

としきりに噂がとんだ。

 しかし新聞は彼を陳公博以上の大漢奸だと書いて騒いだ。このためか、周仏海は翌二十一年九月中旬、南京に連れ戻され法廷に立たされた。そして十一月下旬、死刑の宣告を受けたのであった。

 周は法廷で

「自分は中国のため終始一貫地下工作に従事し、多数の中国機関を保護した。終戦直後の接収にあたっても、上海、南京を中共軍の手から守った」と重慶への貢献をのべあげ、重慶を脱出して南京にはしったのは「敵国に通謀して本国の救済を企てるためであった。身は"匈奴"にあっても心は"漢"にあったのだ」と抗弁したのだった。

 その後、周が処刑されたという報道はなく、彼は獄中で病死したともいわれる。


断罪の露、五十二名

 駐日大使をつとめたことのある褚民誼〔ちょみんぎ〕、祭培〔さいばい〕、徐良〔じょりょう〕も銃殺された。

 褚は死刑の宣告を受けた日(五月上旬)ゼスチュアたっぷりの名調子で抗弁、褚夫人の陳爵貞〔ちんしゃくてい〕女史は

「夫は国父孫文に忠実であった証拠がある」

と涙ながらの弁護を行い、再審を要求したのであったが却下されたのであった。

 また監察院長梁鴻志〔りょうこうし〕の夫人も梁が六月二十一日死刑の宣告をうけた時

「夫が在任していた時は米一石が百二、三十元だった。今は五万元にあがっている。夫は善政をほどこしたのだ。私も夫と一緒に死刑にしてほしい」

と法廷で狂ったように泣き叫んだ。梁が処刑されたのは十一月九日だった。

 その外〔ほか〕、日本人になじみの多い有名どころで銃殺刑に処せられたものでは楊撥一〔ようはついつ〕(参謀総長)、胡毓坤〔こそこん〕(陸軍大将)、凌霄〔りょうしょう〕(海軍大将)の軍部の三長老が六月二十四日、特務工作の元締であった首都警備司令の李謳一〔りおういつ〕、同副司令楊杰〔ようじょう〕が六月下旬また万里浪〔まんりろう〕外〔ほか〕二十五名(うち女一名)の密偵らは八月五日、上海の閘北〔ぎほく〕の刑場で数千人の見物人の前で談笑の中に銃殺された。

 さらに内政部長の梅思平〔ばいしへい〕が九月十四日、宣伝部長の林伯生が十月八日、華北政務委員会治安総署督弁斉爕元〔さいしょうげん〕が十二月八日それぞれ銃殺された。

「自分は当然銃殺さるべき身分だ」と如何なる尋問にも答えなかった王揖唐〔おういつとう〕(華北政務委員会々長)、「蒋介石は誰に戦犯裁判の権限をうけたか」と大見得を切った周学昌〔しゅうがくしょう〕、裁判長が死刑宣告をよみあげた時、鼻毛を抜きながらゲラゲラ笑っていた陳春圃〔ちんしゅんぽ〕(広東省長)、抗日前から日本と結託していた殷汝耕〔いんじょこう〕(冀東〔きとう〕政府主席)、糧食部長の顧大椿〔こだいちん〕、安徽省〔あんきしょう〕長の羅君強〔らくんきょう〕らも刑場の露と消えたのであった。

こうして日本に協力した南京政府、北京政務委員会の要人達はほとんど銃殺刑に処せられたのであるが、その数は五十二名にのぼった。

 彼らは法廷で血を吐く烈々の抗弁をやったが、いよいよ死刑が決定した後は清らかな気持で、そこには何の悔〔くい〕もなく静かに死を待っていたという。

 これまで彼らの叛逆を書きたてていた現地の新聞も彼らは毅然として乱れず、微笑すら浮〔うか〕べて従容〔しょうよう:ゆったりと落ち着いているようす〕として死におもむいたとその最期をたたえていた。

笑って死に行く人

 殊に褚民誼、林伯生の最期は現地新聞に六段抜〔ぬき〕で書かれ、その立派な態度を次のようにかかげていた。

「陳公博は死刑の判決をうけた時、その顔は動揺の色さらになく、平然たるものであった。また刑場でひかれて行く時には隣の獄室に居た褚民誼、陳璧君〔ちんへきくん〕に鉄窓から握手を求め"じゃあ行って来ます"とまるで散歩にでも出かけるような挨拶〔あいさつ〕をかわし、刑場に立った時には銃殺執行兵の肩をたたいて"御苦労だなー、うちそんじてくれるな"と云〔い〕いながら握手、自若〔じじゃく:おちついて少しもあわてないようす〕として処刑された」

「褚民誼も刑執行兵の肩をたたいて、"顔だけはうたないでくれよ"と微笑した。また刑執行の当日、褚が死の晴着をつけている時、別れに来ていた褚夫人が"家〔うち〕には教会の牧師に来て貰〔もら〕っています"と云ったので、褚は怒って"自分のやった行為には悔を持っていない。霊魂は自〔おの〕ずから天に上るのだ"と答えたのだった」

 林伯生は銃殺執行の五分前、家族の者との最後の別れの際持っていた洋書の空白に淡々と一篇の詩を書き、夫人に渡した。


烈々、汪夫人の抗議

 一等死をまぬかれ無期懲役の判決をうけた陳璧君女史の蘇州法廷での烈々たる抗弁は、法廷を湧かした。

 六月中旬(昭和二十一年)無期懲役を宣告された日、蘇州法廷は傍聴人で超満員であった。内外の新聞、通信社は廷内に電話まで特設した。

 陳女史は最後の抗弁の時は、自己保身のためには一言もふれず、こぶしをふるって

「汪先生の和平運動は国を救い、民を助けるためであった」

と堂々と和平建国の正しかったことを強調、

「重慶に立〔たて〕籠〔こも〕った人達こそ、国民をすてて逃げたのではないか」

と臆せず要旨次の如くのべて、最後に

「汪先生と私達の行動が本日叛逆というなら、私はよろこんで死に服する」

「日本軍の侵入が切迫するや国府要人はいずれも逃亡し、一指をも民衆の保護に当ることなく撤退した。われわれは全く徒手空拳のまま事態の収拾に当らねばならなかった。そして南京偽政権を以て和平反共の原則に基き中国を日本より守るべく努力したのである。もしも太平洋戦争が起らなかったならば、われわれは中国を救っていたであろう。もしも私が見放された中国同胞に何ら救いの手をのべることなく、これを敵側に引渡したらどうなるか。私の行為が国府の方針に違反したというのであれば私はあえてそれらの民衆に役立つということだけでよろこんで死に服しよう」

と結んだ。




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