HOME > 連合国 > title - 鬼畜アメリカのわが野戦病院、病院船不法攻撃とその理由
2015/10/06

鬼畜アメリカのわが野戦病院、病院船不法攻撃とその理由


米軍がアフガニスタンで「国境なき医師団」の病院を空爆し、22名もの死者が出ました。

こういった不法攻撃を、わが日本も何度も受けています。

連合国が日本の民間人を虐殺し続けた理由は、日本人の排外思想を高めて日本人自体によって日本を滅亡させるためでした。

【1944(昭和19)年8月21日フィリピン沖で撃沈された瑞穂丸】
米軍非道_瑞穂丸

米軍の反攻が開始された1942(昭和17)年から終戦までに、米軍は日本の野戦病院を執拗に攻撃し、病院船にいたっては米英軍に17回もの不法攻撃を受け、そのうち3隻が沈没しました。

それだけでなく、米軍はドゥーリットル空襲で国民学校の児童を機銃掃射し、ガダルカナル島では重傷の日本軍兵士をローラーでひき殺しました。

連合軍による不法攻撃を受けるたびに、日本は「ジュネーブ条約違反だ」と連合国側に抗議しましたが、連合国はまったく意に介さず、日本の病院船攻撃をやめることはありませんでした。

日本の病院船を不法攻撃した英国イーデン外相は、英国人俘虜(捕虜)が日本に不当な扱いを受けているとして「日本の武士道という語を聞くと嘔吐を催す」と英国議会で述べたほどです。

【アンソニー・イーデン】
イーデン2

連合国の非人道的行為が報道されるたび、日本人は激昂し、好戦的になっていきました。

世界的共産勢力は敵である民族主義、資本主義をつぶそうと、日本人の怒りに油を注ぎつつ、「ファッショは危険だ!共産主義こそ平和主義だ!」という宣伝に利用しました。

その結果、日本軍はソ連の思惑どおりに南進して中国大陸の奥深く誘いこまれ、南方に戦線拡大して補給を絶たれ、敗戦に至りました。

大東亜戦争における日本敗戦は、まさに共産党の本領発揮といえる戦法だったと思います。

世界中のメディアは日本悪宣伝をまくしたて、共産党の策動はその陰に隠されてしまいました。

21世紀になったいま、日本の共産主義者はバカばかりになりましたが、昔の共産党は決して表に出なかったのです。

【日本人を怒らせ、排外思想を高めようと運動中@SEALDs】
kyosanto_gaki1.jpg

【ふたたび日本悪宣伝を開始した共産圏】
親分子分ソビエト1

そしてまた、世界的な日本挑発が始まっています。

日本人は決して感情的にならず、この難局を乗り越えなくてはならないと思います。


【ハルビン丸撃沈事件 @1942(昭和17)年1月10日 】
米軍非道_ハルビン丸1【資料出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:B02032924600:1942(昭和17)年 外務省 「2. ハルビン丸」撃沈事件


【ぶえのすあいれす丸撃沈事件 @1943(昭和18)年11月27日 】
米軍非道_ブエノスアイレス丸1【資料出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:B02032925700:1943(昭和18)年 外務省 「10. ブエノスアイレス丸」爆撃事件


【牟婁(むろ)丸撃沈事件 @1944(昭和19)年11月13日】
米軍非道_牟婁丸撃沈事件1
【資料出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:B02032927000:1944(昭和19)年 外務省 「18. 牟婁丸撃沈事件」


【病院船うらる丸がうけた米機鬼畜の所業の跡】
本文書き起こしは下 ↓ に掲載しています。
米軍非道_うらる丸1【資料出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06031086700:1943(昭和18)年 内閣情報局 「写真週報」 第272号


【瑞穂丸の甲板で笑顔を浮かべる日赤看護婦たち】
1937(昭和12)年11月28日の撮影。日赤看護婦には応召が義務づけられていたので、まさに従軍、軍属だった。
瑞穂丸日赤看護婦


【瑞穂丸で日本本国に後送される傷病兵たち】
1938(昭和13)年3月20日の撮影。白衣の人々は瑞穂丸の医員と看護婦たち。戦傷者の中には壊疽の重症者で四肢を切断した者もいた。瑞穂丸輸送患者


【ワザとやった?】

米軍司令官“空爆はアフガニスタン側から要請”
2015年10月6日 NHKニュース

アフガニスタンで国際的なNGO「国境なき医師団」の病院が空爆を受け多数の民間人が死傷した問題で、アメリカ軍の現地司令官は、空爆はアフガニスタン側からの要請で実施していたことを明らかにし、さらに詳しい調査を急ぐ考えを示しました。

この問題は、今月3日、アフガニスタン北部のクンドゥズで、国際的なNGO「国境なき医師団」の病院が空爆を受け、患者やスタッフなど22人が死亡したもので、5日、アフガニスタンに駐留するアメリカ軍のキャンベル司令官が国防総省で記者会見しました。
この中でキャンベル司令官は、空爆の経緯について「アメリカ軍の兵士が攻撃を受けたため」としていた当初の説明を訂正し、敵と交戦中だったアフガニスタンの部隊から要請を受けて空爆を実施していたことを明らかにしました。(後略)




敵のわが病院船不法攻撃状況一覧



日本側は条約どおり赤十字の標識を掲げ、夜燈を点灯して不備のない状態でした。

船  名日  時場  所攻撃方法状  況
 あらびや丸1943(昭和18)年
1月4日
ラングーン港爆撃 
 1月4日ラングーン港入港の
 為港内を微速航進中、敵機
 3機
(コンソリテッド)の反復爆
 撃
を受く 

 敵機は数回の低空 飛行
より爆撃を反復、投下 爆弾
十数発
にして何れも本船
 より十数米(メートル)内外の
 至近弾なり 

 若干の損傷あり
 
 当時快晴にして雲高50米以
 上に達し視界極めて良好なり
 あめりか丸
1月30日
ラバウル港銃爆撃
 1月30日4時30分ラバウル港
 外(南緯4度12分38秒東経
 152度17分45秒)を航行中
 敵機1機来襲し先ず爆弾4個
 を投下(右舷後方に落下)
 
 次いで機関銃掃射をなせり
 
 損害なし

 当時夜間標識8ヶ 所完全に
 点燈しありたり
 まにら丸
3月4日
パラオ東南
約135海里
魚雷攻撃 
 3月4日11時20分東経136度
 17分北緯5度36分に於て
 雷攻撃(2発)
を受けたるも
 転舵により損害なし
 うらる丸
4月3日
カビエン-
ラバウル間
爆撃
 4月3日ラバウルに向い航行
 中14時59分南緯2度47分
 東経150度7分に於て敵機の
 急降下爆撃を受け直撃弾1、
 至近弾数発により相当の損
 害傷をこうむる

 戦死者衛生班6、 船員1、
 重傷者衛生班6、船 員4

 出せり

 当時若干の雲 ありたり
 扶桑丸 
4月15、16日
エレベンタ
付近
銃爆撃
 (一)
4月15日エレベンタに
 向い航行中東経152度20分
 南緯3度33分に於て左の
 如く3度敵機の爆撃を受けた
 るも損害なし

 (イ)船首前方約2500米高度
 より照明弾1個、爆弾2個
 投下 船首約500米前方に
 落下

 (ロ)左舷船首前分約1500米
 高度より照明弾1個、爆弾2個
 を投下 左舷約35度約400米
 に落下

 (ハ)左舷正横約2000米高度
 より照明弾1個、爆弾1個
 投下 左舷正横約200米に落
 下

 (ニ)16日エレベンタにて
 患者収容後帰航中18時13分
 より20時22分にわたり敵機の
 機関銃掃射2回、爆撃4回

 受く 人員に死傷なきも船体
 に若干の損傷あり

 (三)当時月明(あかり)、且つ
 夜間標識完全に点燈しあり
 ぶえのす
 あいれす
 丸
4月25日
香港沖魚雷攻撃 
 4月25日香港沖航行中15時
 45分敵潜水艦の魚雷攻撃
 受け船体小破

 傷者7を 出せり
 瑞穂丸
4月27日
22時30分
南緯 3.09
東経22.30

 一、当時スコール模様にして
 視界悪く敵機影を認め得ず
 
 上記地点に於て敵単機の
 機銃掃射約20発
を受く

 二、同日15時28分、
 南緯2.35東経150.02度の
 地点に於て潜望鏡を発見
 せるも雷跡を認めず

※1944(昭和19)年8月21日、
フィリピン沖にて米軍に撃沈
された。

 あめりか丸
9月5日
ラバウル-
パラオ間
銃爆撃
 9月5日12時40分ラバウルに
 於て患者247名収容し出帆

 9月6日11時29分敵機来襲
 爆撃
を受けたり

 当時天候気象海象良好たり

 来襲機はコンソリート1機に
 して米国標識見たり
 ぶえのす
 あいれす
 丸
11月27日
パラオ-
ラバウル間
爆撃
 敵大型機2機
太陽を背にして
 高度1000米内外にて船尾方
 向より飛来 爆弾1ケ投入し
 前方雲間に入る

 爆撃命中40分にて沈没
 高砂丸1942(昭和17)年
5月16日
 S 3,19
 E 127.27
雷撃 
 患者約142名収容
し輸送中
 雷撃を受く

 損害軽微なり
【資料出典】
アジア歴史資料センター:レファレンスコード:B02032924500:外務省 「1. 敵国ノ帝国病院船ニ対スル不法攻撃事件一般」

上記以外の敵のわが病院船不法攻撃事件

船  名日  時場  所攻撃方法状  況
ハルビン丸
1942(昭和17)年
1月10日
南シナ海魚雷攻撃
 1月10日朝、敵潜水艦
 の攻撃を受け沈没

 乗組員および患者の
 大部分は救助されるも
 6名が行方不明
朝日丸
3月26日
チモール島
クーパン湾
爆撃
 3月26日7時53分チモー
 ル島クーパン湾を単独
 航行中

 突如英国所属の 飛行
 機ロックヒード(ロッ
 キード)型1機の爆撃を
 受け、爆弾5個同船左舷
 後方100米にて炸裂

 同船は条約所定の塗粧
 および標識を施し、
 対飛行機用標識として
 最上部短艇甲板及び
 後部電信室上部に縦横
 6.5米の赤十字旗を描き
 あわせて後甲板に縦横
 6米の赤十字旗を展張し
 ていた
ばいかる丸
1943(昭和18)年
5月22日
ラングーン
河口付近
銃撃
 5月22日10時30分ごろ
 ラングーン河口付近を
 航行中

 敵機7機が来襲、 その
 うち3機が同船に銃撃
 加え南方に飛び去る
 
 同船は第三国を通じ敵
 国側に通告済みであっ
 た

※1942(昭和17)年10月
29日にも不法攻撃を受く

吉野丸
1944(昭和19)年
1月26日
南方方面爆撃
 1月26日2時30分ころ
 南方方面第一線基地に
 向い航行中

 敵機の爆撃を受けるも、
 幸い 人員船体ともに
 被害なし

 敵のわが病院船襲撃
 昭和17年5月16日高砂
 丸襲撃以来、12回目
 なった
橘丸
11月5日
フィリピン
銃撃
・ 11月5日12時45分マニラ
 港西方約16海里を東方
 に向い航行中

 敵機数十機が来襲、
 うち2機が本船右舷側方
 より飛来、約100米の
 高度にて船首より船尾に
 旋回し左舷上甲板に向い
 機関砲を掃射しつつ
 船首方向に飛び去る

 本襲撃により見張船員
 1名戦死
、船体は赤十字
 標識、煙突、救命艇、船
 橋等60数発の機関砲弾
 を受く

 ・11月6日10時、バターン
 半島かカボネス灯台約1
 キロ沖航行中

 グラマン50数機来襲し、
 うち1機 約100米の高度
 にて船尾方向より本船に
 向い飛来し

 第一回は右舷側、

 第二回は左舷側に対し
 機関砲をもって反復掃射
 後、本船針路方向上空に
 飛び去る

 乗組員、患者、船体に
 損傷なし

 天候は晴天にして視界
 良好なり
牟婁丸
11月13日
マニラ港
銃爆撃
 11月13日8時15分マニラ
 港外において

 マニラ来襲の米国戦闘機
 ならびに爆撃機
の銃爆撃
 を受け沈没
和浦丸
1945(昭和20)年
3月29日
 東経
 9度23分

 北緯
 15度5分
爆撃
 3月29日19時15分、敵
 B-241機は高度約1500
 米より爆弾2個を投下

 その結果至近弾により
 機関(発電機)および
 赤十字標識一部が
 損傷する被害を受く


米軍機による日本軍病舎爆撃
1944(昭和19)年5月23日~24日 ラバウル



(  )内は管理人による注釈です。


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:B02032941500:1944(昭和19)年5月 外務省 「5.「ラバウル」ニ於ケル日本軍病舎攻撃に関する件」



別 紙

五月二十三日、二十四日の両日米国戦闘機及(および)爆撃機は「ラポール」に来襲し居住地域に執拗なる銃爆撃を加えたるが病舎及其の附属施設に対しても無差別の攻撃を為(な)し 之等(これら)に重大なる損害を与え且(かつ)入舎中の傷病者及看護人の間に多数の死傷者を生ぜしめたり

攻撃を受けたる各病舎には当時多数の傷病者を収容し満員の状況に在り素より軍事上の目的に使用し居(お)らず 而(しか)して(そして)各病者及其の附属施設には凡(すべ)て明瞭にして且大なる白地に赤十字の標識を附し上空より容易に認識し得る如く表示しありたるものなり

而して米国飛行機の攻撃は白昼低空より行われ当時天候は半晴視界良好なりして 以て如何なる不熟練なる飛行士と雖(いえど)も右標式(原文ママ)を上空より視認し病舎なることを覚知すること極めて容易なりしに拘(かかわ)らず数回に亙(わた)り反復攻撃を加え病舎及其の附属施設の大部を破壊し尽すに至る迄止めざりし(やめなかった)事実は米国飛行機が明(あきらか)に故意に且計画的に病舎攻撃を企図したるものと認めざるを得ず(得ない)

【資料画像】
米軍非道_ラバウル1

米軍非道_ラバウル3


本記事の資料


ドゥーリットル空襲、皇軍重傷兵をローラーでひき殺した米軍
「病院船うらる丸がうけた米機鬼畜の所業の跡」本文書き起こし


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06031086700:1943(昭和18)年 内閣情報局 「写真週報」 第272号



 敗戦に喘ぐ米英はますますその残虐ぶりを発揮し、病院船に対する不法攻撃だけでも、昭和十七年十月二十九日ばいかる丸、さらに今年に入ってからは、一月四日あらびや丸、同じく三十日あめりか丸、三月四日まにら丸、四月三日にはこの『うらる丸』、二週間も経たぬ十五日に扶桑丸、更に二十五日には、ぶえのすあいれす丸と七回を越えている。

 うらる丸は南太平洋ニューハノーバー・バチャンギ岬南々西七マイル半の位置で、ボーイング B-17 に 襲撃されたのだが、敵機は条約に基づく塗粧及び標識がうらる丸に施されてあることを、わざわざ旋回して確かめた上で残忍な攻撃を加え、三番船艙には直径五メートルの大穴をあけ、船腹には百を越す被爆穿孔と二百以上の弾痕を残し、さらに二番甲板をぶちぬいて四つの穴をあけたばかりか、病室の梁をへし抂(ま)げ、悲憤の戦死者をさえ出したのだ。凄惨な当時の被害を生々しく訴えているこの写真は、僅かにその一部にすぎないのだ。

 在米同胞に対する飽くなき残酷な仕打、空襲の際、いとけない国民学校児童をむごたらしく機銃掃射した非道、ガダルカナル島において我が軍の忠勇な重傷兵をローラーでひき殺した等、枚挙にいとまないその鬼畜ぶりは、もはや断乎(だんこ)として許すべからざるものではなかろうか




日本への抗議を増やしてきた連合国
英イーデン外相「日本の武士道という語を聞くと嘔吐を催す」


出典:1952(昭和27)年 中央公論社 重光葵 「昭和之動乱」 下巻 



俘虜問題

 満洲事変以来、日本における英米人に対する反感は、事変が進展し、国際的の軋轢が強くなるに従って、深刻となって行った。

米英における反日言動は、著しく日本人の感情を刺戟した。軍部の勢力が急増するとともに、排外思想は、一種のイデオロギーとなって、新聞雑誌及び著書によって宣伝せられ、国民の間に浸透して行った。

世界的共産勢力は、国の内外を通じて、この傾向に油を注いだ。これら排外の気風は、時に常軌を逸するものがあった。

(中略)

 戦争が進行するに伴い、利益代表の中立国を経て、外務省の受取る敵国側の抗議は増えて来た。外務省は俘虜情報局を初め、関係の各省にこれを送付して、回答振りの回示を受けるわけである。

抗議の内容も種々のことにわたった。印緬鉄道俘虜使役の問題や、ウェーク島の残虐行為や、南方地域における俘虜の待遇の不当、または俘虜収容所の訪問問題であり、また病院船撃沈問題も含まれておった。

幾多の事例は、人道上では勿論(もちろん)、戦争法規の上で弁解の余地のないものであって、日本人としてまことに恥かしいことであった。

敵国側は、南方地域における俘虜の取扱いについて、甚(はなは)だしく不当のことがあるのを逃亡者から知って、非常に興奮して事件を取扱った。

英国においては、イーデン外相は議会でこれを暴露して、日本を攻撃し、日本の武士道という語を聞くだに嘔吐を催す、と述べた。




【写真出典】
・1993(平成5)年 石風社 麻生徹男 「上海より上海へ-兵站病院の産婦人科医」


関連記事
スポンサーサイト