HOME > 大東亜戦争 > title - 台湾高砂族と日本軍
2015/10/02

台湾高砂族と日本軍


台湾の歴史教科書が改ざんされるそうですね。

大紀元の記事によると「台湾人は抗日戦争を戦い、国民党が台湾を解放した」という歴史に変わるのだとか。

でも、まだ日本軍がイケイケだった1942(昭和17)年、台湾高砂義勇隊は日本軍とともに行動しています。その時、高砂義勇隊員は米兵の首を狩っているのですよ。

この事実はアメリカ軍の記録にも残っているでしょう。

さらに台湾高砂族は空挺隊の特攻隊員として、米軍飛行場の破壊活動にも参加しました。

そうした事実を、中国はむりやりネジ曲げようとしているのですね。


【訓練中の台湾高砂族(薫空挺隊)】
台湾高砂族は勇猛で知られた。台湾人が抗日だったならもっとも危険な空挺隊に参加するはずがない。極左朝鮮人のように兵役から逃亡している。薫空挺隊2

薫空挺隊の集合写真。
薫空挺隊1

台湾人と中国人、朝鮮人のちがい



1942(昭和17)年、コレヒドール島の戦いの少し前、台湾高砂義勇隊は軍夫としてフィリピンに到着しました。

のちに台湾高砂族は日本軍人として戦闘に参加することになりますが、この当時は道路造りなどの任務でフィリピンにやって来たのです。

台湾高砂族は日本人を崇拝していたそうですが、日本兵は日本兵で彼らを弟のようにかわいがっていました。

やがてコレヒドール島の戦いに向け、日本軍は台湾高砂義勇隊と別れて行軍を開始しました。しかし、けわしい山道の行軍で日本兵はヘトヘトになってしまいました。

持参した飲み水も底をついて、峠で小休止していた時、30、40キロもある荷物を軽々と担いで、台湾高砂義勇隊が

「みなさん元気ですか」

と日本軍の後を追ってきたのだそうです。台湾高砂義勇隊は疲れきった日本兵になみなみと水の入った水筒を与え、宿泊する小屋の設営も手伝ってくれたそうです。

これがもし、日本軍に強制連行されたという中国人、朝鮮人だったならどうしたでしょう?

日本兵に渡す水筒に毒を入れたにちがいありません。ここが台湾人と中国人、朝鮮人のちがいです。

日本と台湾はともに白人の領土、経済、思想侵略と戦いました。

一方、中国と朝鮮は日本、台湾、東南アジアが白人のあらゆる侵略と戦っていた時に、マッハで白人の手先になってアジア全体を白人に売ろうとした連中です。

いわば中国と朝鮮半島は、アジアの鼻つまみ者です。

中国と朝鮮半島が反日なのはソ連に赤化されたからであって、台湾はソ連から遠いのです。

Soviet_tooi_chikai.jpg


そこで、アジアの鼻つまみ者中国が台湾の歴史を改ざんしたとしましょう。

それならば、在日米軍基地や国会前の赤色デモ隊に台湾人が大勢いなければおかしいということになります。

日本の総理大臣が靖国神社に参拝したら、台湾も国を挙げて日本に抗議しないとおかしいですね?

それに「国民党が台湾人民を解放した」というのも、日本敗戦後、またも反共になった国民党が共産党のような「解放」なんかやるわけないでしょう? 

台湾人が参加した薫空挺隊は昭和19年11月以降に敢行され、11月26日に出撃した4機のうち1機が不時着、3機がブラウエン北飛行場の近くまで進出、そのうち1機が強制着陸に成功したといわれています。

空挺隊の米軍飛行場に近づいた機は集中砲火を浴び、着陸できた機の搭乗員も全員米軍に殺されたそうです。

米軍の記録によれば、燃えあがる航空機の中から「天皇陛下、万歳!」と唱和する声が聞こえたこともあるそうです。

アメリカには米兵の首なし死体と散華した空挺隊員の記録が残っているでしょう。

どんなに歴史を改ざんしても、「台湾は日本とともに白人の侵略と戦った」 という事実は変えられないのです。


【戦後70年目にして歴史改ざん】

台湾歴史教科書新綱要 抗議勃発、自殺者も
2015年8月19日 大紀元

 台湾で8月から実施する、高校歴史教科書綱要の微修正案をめぐって、さまざまな議論が盛んに起きている。「台湾の歴史を大幅に改ざん」「親中国派の仕業」などとして、野党・民進党や学生を中心に反対運動が起きている。陣頭に立っていた男子学生が7月30日に自殺したのを受け、学生は綱要を改訂した台湾教育部前で1週間近く抗議を続け、新綱要の撤廃を求めている。

 2013年末、教育部は同新綱要を発表、「脱台湾化」ではなく、「脱日本化」を目指したものだと説明した。その一方、「中国寄り」の色合いが強いとも懸念された。こうしたことから、当初から民進党が「政治の力で教育を主導しようとしている」「脱台湾化を図っている」などと綱要への反対を表明した。

 教育部は7月はじめ、同微修正案の争点として17カ所の表記変更リストを発表。次にその内容の一部を説明する。

 日本に関しては、「日本統治時期」を「日本植民統治時期」に、「慰安婦」については「強要された」との語句を追加、「台湾人および抗日戦争」の項目も新設した。また、インフラ整備などの日本の統治は台湾住民のためではなく、日本人移民の生活を改善することが目的と強調する内容なども盛り込まれた。

 「中国寄り」に関しては、「中国」を「中国大陸」にと変更し、台湾と中国の関係を近くしたとされる。そのほか、「(中国からの国民党が)台湾を受け継いだ」を「(同)台湾を解放した」など10カ所あまりの変更は、漢人(中国人)及び中国文化による台湾への影響を強調するためとして、綱要反対派が批判を強めている。(後略)



本記事の資料



出典:1945(昭和20)年 文藝春秋社 「文藝春秋」二月號所収 
     永井保 「戰ふ高砂族」



 私が高砂族を始めて知ったのは、大東亜戦争が勃発して間もなく、報道班員として比島(フィリピン)へ渡った時で、皇軍が米軍をバタアン半島に追いつめている時であった。

私はその時まで高砂族については少しの知識もなかったので、バタアンの山中で會(会)った時も、最初は日本内地の兵隊と思い込んでいたのである。

 唯(ただ)内地の兵隊と違って、鐵(鉄)砲を持っていないこと、腰に妙な短剣をたばさんでいることが不思議な存在とおもっていただけで、私たちの隊長であった大塚准尉の説明を受けるまでは氣(気)がつかなかった。

 大塚准尉という人は、よく比島へ従軍した作家等によって、その豪快な人物を紹介されている人で、下士官時代に臺灣(台湾)部落で二年経過したことのある、いわば高砂族とは、なみなみならぬ關(関)係をもっている人なのだ。

 そして大の高砂族禮(礼)讃者でもあるのだ。

 この大塚准尉が、夕暮れ近いバタアン半島のナチブ山脈に陣取った私たちの山小屋で食事をしている時、

「アッ來(来)た來た、ヨク來た。素晴らしいぞ」

 と一人ではしゃぎだしたのが、高砂族に見參(参)したそもそもの初めであった。

 その喜びかたが突拍子もなかったので、私たちが呆氣(あっけ)にとられていると 

「みんな、あれを御覧なさい。ほらこの崖の下を通ってゆく縦隊があるでしょう。あれですよ、高砂族というのは。今度初めて軍夫に採用されて、はるばる臺灣からやって來たのです。それはもうたいへんな内地人(日本人)崇拜(拝)者で、その態度と云(い)いその性根と云い、精(精)悍なことと云い、素晴らしいものです。ウム來た來た。アッあんなに多勢來た。かねて噂には聞いていたのだが、ここで會えるとは全く奇遇だ。嬉しいではないか、なつかしいではないか。ではちょっと會ってまいりましょう。あとで皆さんにも紹介しますかな」

 大塚准尉は云い終らぬうちに崖をかけ下りて行ってしまった。夢中である。

 この邊(辺)は、ナチブ山脈のジャングル地帯でナチブ山の麓が遠く伸びて敵の主陣地であるサマトマリベレスの連山と相對(対)しているところであった。

いわゆる第一線陣地で、敵のドラム罐(缶)と云われる砲弾が、ヒュルヒュルと鞭をふるような音をたてて頭上をかすめるし、竹林や密林をカチーンと音をたてて小銃弾が飛込んで來くるところであった。

 敵は日本軍に、もう一押(ひとおし)されれば海へ押出される運命にあったので、死物狂いの抵抗をしていた。実際よくもこんなに、ストックがあるものだと不思議におもうくらい、無駄弾を撃って來た。

 この敵を押えて皇軍は總(総)攻撃の準備を進めていた。その間人跡未踏のジャングル内には縦横に自動車道路は出来るし、幾多の陣地が造られ、突撃路が開かれていった。

ジャングル内の作業は、皇軍にとって實(実)に難作業であったし、想像以上の困難がともなっていた。

 その時、ジャングルこそ、住みなれた郷土と謳歌している高砂族の義勇隊登場となったのだ。

 まだ志願兵制度も布かれていなかった當(当)時なので、軍夫として採用されることになり、部落に於て初めての銓衡(選考)が行われた。

私が會った高砂義勇隊の隊員たちは、粒選りの高砂族であったわけである。

 日本語は皆標準語で、濁音もはっきりと發(発)音するし、訛(なま)りのある兵隊の言葉を、彼等(かれら)はおかしがって聞いていた。


 高砂義勇隊の隊長で來られた人に、荒川さんという内地人の巡査部長が居(い)た。

 頭が禿(は)げ上っていて、一見年寄りじみてはいるが、非常に元氣のより、四十を少し過ぎた位の人である。

 部隊に在っては、警察官として、同時に學(学)校の先生であり、醫(医)者であり、役場の吏員でありまた農林土木の技術員であるという。

高砂族にとって、絶對の信頼と眞に肉親以上の親しみと尊敬を受けている人である。

 大塚准尉の案内で、作家の柴田氏とこの荒川さんの小屋を訪れたことがあった。

 この小屋は義勇隊員の手になったもので、ニッパーと竹で組まれた床は木の葉を巧みに敷き、彈(弾)力のある坐(座)り心地滿點(満点)であり、岩清水を利用して造られた竹の流しなどもあって、私たちの造った小屋とは比べものにならぬ小屋であった。

 荒川さんの傍らに居た義勇隊員の當(当)番が、器は空罐であったが、素的(素敵)に美味いコーヒーを御馳走してくれた。

 間もなく、私たちのゆくのを待っていたのか、五、六名の義勇隊員が集まって來て歡(歓)待してくれた。

 彼等はみな二十四、五歳位の青年で、大部分が妻帯者であり父親でもあった。

荒川さんの話では、集まったものは、班長とか其の他の役目を持った義勇隊員中の幹部ということであった。

 私たちが持參した日本酒を出すと、非常に喜んで、早速飯盒(はんごう)のふたで飲み初めた。

その酒豪振りは酒豪で鳴らしていた大塚准尉を驚かした。

 飯盒のふたで飲み交わしているうちに、彼等はぽつりぽつりと種々のことを話し出した。

「皇軍の勇ましい?(強)い立派なことは、前から充分想像していましたが、こちらへ來てみて、その感を一層?くしました。こんなに?い皇軍と一緒に戰さが出来るなんて、ほんとうに自分たちは幸せ者です、うんと働らきます」

「そう云って失禮(礼)ですが、おそらく日本の兵隊さんたちは、こんな場所は初めてだろうとおもうのです。しかし來てみると、そんな苦勞(労)などしているところは少しも見えずに何年も密林で暮していた人のように、皆(み)な朗らかに戰争をしているのです、驚ろきました」

「そうだ、自分もそれにはほんとうに敬服しています。だが、自分たちが來た以上、日本の兵隊さんには、そんなに御苦勞はかけないつもりです。日本の兵隊さんの三倍も五倍も十倍も働らいて、日本の兵隊さんに少しでも樂(楽)をしていただきたいとおもっています」

 みんな、たいした意氣込みである。

 すると義勇隊員中の最年長者であり班長である山岸君

「それにひきかえ、敵の捕虜のだらしのないこと」

とグッと顔をしかめて話し出した。  

「あいつらには恥を知るということがないのですね。自分は初めて捕虜をみて本當(当)に嫌な氣がしました。人の顔をみてニヤニヤ笑っているし、圖(図)々 しくも煙草をくれと手を出すんですよ。この恥知らずめって怒鳴ってやりましたが、自分たちだったら舌をかむ?(噛)み切って死んでしまうのが本當です」

 そして

「何としても自分は今度の戰争に參加出來たことを無上の光榮とおもっています。もちろん生還は期していませんが、萬(万)一命があって、部落に歸(帰)るようなことがあったら、部落の青年の指導にこの體驗(体験)を充分に生かしてゆき度(た)いとおもいます」

と云う。山岸君は部落の青年團(団)長を勤めている人で、今年三十六歳で、郷里では四人の子供の父親だと云う。

 彼等が生還を期さないということは、私たちの想像している以上に眞劍(真剣)なもので、妻子や家族たちと水盃(みずさかずき)を交して來た人たちばかりである。

 荒川さんのお話では、彼等の多くは靈(霊)魂の不滅を信じ、人は死すともその魂魄は永くこの世に留って、祖靈とともに、子孫の行為を照覧しているものと信じている。

もし非道悖德の行為あらば祖靈は必らずこれにわざわいを下し、福(福)をむかえ禍を避けるは、ことごとく祖靈の加護によると信じている。

このことを「プサンネタ」と稱(称)して、彼等の社會(会)秩序を保つ嚴(厳)たる戒律となっているということだ。

 現に彼等の中に、日本人と祖先を同じくするとの傳(伝)説をもつ者さえあるそうだ。

 私は彼等の生活を、單(単)なる獵(猟)奇の眼をもって見るのではなく、深く彼等の精神生活を究める時、現代文化に何かの示唆が得られるのではないかと思った。

 彼等が戰場へ來て、感激したことのなかでこういうことも云った。

「兵隊さんたちが、自分たちを可愛がって下さることは本當(当)に嬉しいとおもいます。戰争に参加出來ただけで非常に感激していましたのに、兵隊さんたちから、弟のように面倒をみて下さるのには、何をして御恩がえしをして良いか、出來ることなら鐵砲もなにも要りませんから、第一線へ出して下さると有りがたいのです。そしたら、この蕃刀でひとおもいに敵兵をやっつけてやるんですが」

 瞳をかがやかして云う。

 彼等の指導者として、日本人を得たことは最適の人を得たのかも知れない。他国人であったら現在の高砂族は生れていなかったとおもった。


 愈々(いよいよ)バタアン半島の總攻撃が間近に迫った時であった。

 高砂義勇隊の仕事も段々起動に乘(乗)り相當(当)の成果を擧(挙)げはじめた。

或(あ)る日の午後、私は仲間の寫眞(写真)をやっている豐(豊)島君と、映畫(画)の牛山君とで、義勇隊が敵前間近へ彈薬集積所を造る作業を見に出かけた。

 そこは文字通りの最前線で、附近には砲彈が絶え間なく大地を轟かして落下する危險(険)地域である。

 樹を切り倒すにも枝を切り取るにも、敵に發(発)見されぬように、細心の注意が要る。しかも迅速な作業でなければならぬ。


日本軍と高砂族


 體(体)にからみつく葛や木の枝を蜘蛛の?を拂(払)いのけるように切り拓き、ひと抱えもある木立ちも見る見るうちに切り倒して、數(数)時間後には今出來た自動車路を、山と彈薬を積んだ自動車が彈薬集積所へ入って來て、休む間もなく義勇隊員は荷役を手傳(伝)っている。

その見事な働らき振りには、一緒に居た兵隊たちを

「これはワシ等(ら)の出る幕ぢゃありません」

と感歎(嘆)させた。

 その時であったが、一齋(斉)に樹を切り倒している義勇隊のすぐ傍(そば)に、ドラム罐と云われる砲彈が、ものすごいうなりをたてて落下した。

 一瞬私たちは、身をかわす間もなく地に伏せた。

 硝煙のおさまるのをまって、私は立ちあがったが、そこに妙な情景を見たのである。

 義勇隊の連中が、眞中へ一人の隊員を圍(囲)んで、

「この臆病者め、おいみんな、此奴(こやつ)は敵の彈がこわくて頭を引込めたぞ」

「頭を引込めた? 意氣地なしだ」

「意氣地なし、臆病者」

 と口々に、その中へ立たされた者をなじっている。

 すると頭を引込めたと云われた男は、非常に口惜しそうに、ジッと掌を握り、目に一ぱい涙を溜めて、皆を無言で睨みかえしている。

「さあ、こんなことで、手を休めては申譯(訳)(もうしわけ)ない、作業を續(続)けよう」

とまた一齋に作業を續けた。

 一人眞中に立たされた男は、しばらくジッと棒のようにつったっていたが「ヨシ」と低くつぶやくと、刀片手に密林の中へ入って行った。

 そして一番危險な場所を選んで一人で作業を初めた。今度はどんな近くにドラム罐が落ちて來ようが、小銃彈が、かすめようが、決して頭を下げない。むしろピンと頭を伸ばしたきりで作業を續けている。

「俺は決して臆病者ではないぞ」と云うところが後ろからみていてよく判る。私はその純真さに頭が下った。

 彼等はこのように特性を十二分に生かして兵隊たちをたすけていた。


 四月三日神武天皇祭を期して、總攻撃が開始された。私たちは中央突破を決行する今井部隊について進發(発)した。山又(また)山で、その上深い密林になやまされ非常な難行軍であった。

 今井部隊は數々の戰果をあげつつ四日目にはリマイ山麓に達した。夜のうちに山頂を占領すると夜明けをまってマニラ灣を見下ろし、萬歳を三唱して山を降りた。

 私たちは今度はマリベレス山麓に在る部隊本部付になったので休む間もなく敵の屍體(死体)がゴロゴロしている坂道を登って行った。連日の難行軍で、馴れない私たちは、ヘトヘトに疲れていた。長い坂道にはよけい閉口して齒をくいしばって頑張った。

 やっと峠が見えて來て、そこを下れば目的地に着くという所で小休止していると、

「みなさん元氣ですか」

と私たちの後から、山のように荷物を背負って坂道を登って來くる一群がある。

 その人たちは、ナチブ山脈で一緒に暮した荒川さん一行の高砂義勇隊の人たちであった。

私たちの休んでいるのをみて、荒川さんも義勇隊員に小休止の號(号)令をかけた。

 みんな前線へ運ぶ糧秣を十数貫(一貫は3.75キログラム)づつ背負っているが、平氣な顔をして登って來ると輕(軽)々と荷を下した。

 そして私たちに

「御苦労さまです」

と丁寧(ていねい)にあいさつをするのには、私たちは返す言葉がなかった。

 疲れた私たちの姿を、しみじみ見ていた義勇隊の人が

「どうですか、水でも一杯いかがです」

となみなみと水の入った水筒を私たちにくれた。

 その時は私たちのなかで一滴の水ももっている者もなく、全部飲みほしてしまっていたので、天の助けとばかり頂戴した。

 荒川さんも

「どうですか、私のもよろしかったら」

といっぱい水の入った水筒を私たちに提供してくれた。

「いや、もったいないです。貴重な水ですから貴方(あなた)たちの分として取っておきなさい」

と辭(辞)退すると、

「私たちは、こうした山路にはなれていて、水は一滴も飲まない修練がついていますから大丈夫ですから」

と私たちにとっては命の水を充分に頂戴した。

 彼等は重い荷物を背負って、一日二、三十里(一里は約3.9キロ)の山路を歩くと云うことだ。私たちには忍術使いとしか思えない。

 内地人である荒川さんが、またその修練をつんで部落の靑年達の指導をしていることにも敬服せざるを得なかった。

 早速私たちは本部の近くへ設營(営)にとりかかり、日沒(没)までには義勇隊の小屋と並んで、私たちの小屋も義勇隊の手傳(伝)いで出來上った。

 密林の梢には月が出た。私たちは何とも云われぬ神祕(神秘)的な雰囲氣につつまれていった。

 明けがた、私たちの小屋の上の方で、怒鳴り聲(声)がしたかとおもうと、人のかけ出す足音が聞えた。

みると一人の義勇隊員が蕃刀を拔(抜)いて敵兵を追かけている。

 兵隊を小銃を敵兵に向けた。

 すると、荒川さんが慌てて坂道をかけ上って、その兵隊を制した。

「まって下さい、小銃を撃つとかえって危いです、高砂族は決して敵兵を逃すようなことはしませんから」

と自信ある口調で?く云った。

 米兵は密林の坂を矢のようにかけ下りて行った。高砂族はそれより早く風のように先廻りをしたかとおもうと、一瞬草むらに見えなくなってしまった。

 米兵は谷川の方へ方向を變(変)えて走って行ったかとおもったら、異様な聲(声)を立てて首が飛んだ。

 そこにはもう米兵の姿はなく、高砂族が一人坂を悠々と上って來るのが見えた。

 見まもっていた兵隊や私たちは、其の鮮やかなことに聲(声)も出なかった。

 しかし荒川さんは、米兵を討った高砂族の上って來るのを待って

「ちょっと隊長の小屋まで來い」

と云って悲痛な顔をして先に歩いて行った。

 今迄意氣揚々として坂を登って來た高砂族は急に沈んだ顔になって、隊長の後について行った。

 他の義勇隊員たちも隊長の小屋の前に集められた。

 隊長は族語で訓戒をしているらしい。後で聞いたのだが、それは、

「まだみんなには首を斬っても良いとは隊長として一語も云っていない。それを今日このなかから、例え敵であったとは云え掟をやぶった者が一人出た。隊長としては非常に殘(残)念である。隊長はその人間を直ちに切ってしまうのが當(当)然である。しかしここの部隊長殿から、ゆるしてあげるようにとのお言葉があったので、今回だけは特に許してやる。だが、隊長が部落を立つ時、皆に訓辭(辞)したように人を斬ることは絶對(対)にならぬ。皆はまた、そういうことをしにここへ來たのではない。他の大切な役目を仰せつかって來たのだ。唯(ただで)さえ他の人からは、今もってお前たちを首かり人種のように見られ勝ちである。今ここで皆が勝手に人の首を斬ったりするようでは、第一お前たちの祖先にも兄弟たちにもすまないしまた隊長も腹を切って死ななければならぬ。以後注意するように」

と云うのであった。

 義勇隊員は「隊長も腹を切らねば」と云う言葉がいちばん辛く身に応(こた)えたと云っていた。

 コレヒドール攻略戰の準備が進むにつれ、私たちは高砂義勇隊の勇士たちと別れた。

 高砂族との行動は約二十日程であったが、種々忘れ得ない想い出を殘(残)している。

 今、再び比島の決戰場に高砂族は特攻隊員として、あるいは兵隊として縦横の活躍をしている。

 荒川さんの小屋で

「内地の兵隊さんにジャングル戰では苦勞はかけません」

と云った言葉が想い出される。それと同時に荒川さんの姿が私の頭から離れない。  (完)



ありがとう、台湾!!


【写真出典】1997(平成9)年 KKベストセラーズ 「写真集 カミカゼ」






関連記事
スポンサーサイト