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2014/04/26

慰安所がないとこうなる!米軍による日本人女性強姦虐殺事件@フィリピン


オバマ大統領が訪韓後、「従軍慰安婦は重大な人権侵害だ」と、聞き捨てならない発言をしました。


慰安婦問題「甚だしい人権侵害」=北朝鮮核実験を容認せず-米韓首脳
2014年4月25日 ハフィントンポスト

【ソウル時事】韓国訪問中のオバマ米大統領は25日午後、ソウルの青瓦台(大統領府)で朴槿恵大統領と会談した。オバマ氏は会談後の共同記者会見で、旧日本軍の従軍慰安婦問題について「歴史を振り返るなら、実に甚だしい人権侵害と考えなければならない」と明言した。その上で「(日韓は)過去を振り返りつつ、未来に進むべきだ」と、関係改善も重ねて求めた。(以下省略)



韓国は「従軍慰安婦」捏造で戦時性暴力の被害者になりすましていますが、実際に戦時性暴力の被害者になったのは日本人でした。

太平洋戦争開戦直後、フィリピンに住んでいた日本の民間人が大勢、アメリカ兵に強姦され、殺されました。

フィリピンダヴァオの惨劇…男は惨殺、女は強姦死


日本人がフィリピンに進出したのは、ちょうど日露戦争開戦の年、1904(明治37)年頃のことです。

太平洋戦争開戦時には在比日本人は2万9000人にのぼり、そのうち1万9000人がダヴァオに居住していました。

日本人はダヴァオを営々と開拓し、十数万町歩の沃野を開き、フィリピンの最重要産物である麻を生産しました。日本の投資は約1億5000万円の巨額に達し、約5万人のフィリピン人を雇用していました。ダヴァオ州の租税の8割を納めていたのも日本人です。

日本人は、当時アメリカの植民地だったフィリピンで不当な圧迫に耐えながら、このような権益を作り上げていました。

【ダヴァオはココ】
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そんな日本人をアメリカ軍は、太平洋戦争開戦と同時に虐殺し始めました。日本人はみな民間人ですから、武器など持っていません。当時から「人道」をスローガンにしていたアメリカ軍は、日本人に対しては「人道」などなく、国際法違反など日常茶飯事のことでした。


在比日本人がアメリカ軍になぶり殺しにされている…。

その報せを聞いて、日本軍坂口部隊がフィリピンを急襲し、ダヴァオに突入したのは、アメリカ軍が収容した約4000人の日本人を虐殺しているまさにその時でした。

慰安所や慰安婦を持たなかったアメリカ軍は、日本人ならば13歳の少女から老婆までことごとく、死ぬまで強姦して、その残虐ぶりは、話を聞いた坂口部隊長がはらはらと落涙してしまうほどだったのです。

その時の生存者が坂口部隊長に語っています。アメリカ軍のあまりの残虐さにたまりかねた日本人売春婦が少女たちの身代わりを申し出て、自らの肉体に群がってきた米兵とともに手榴弾で自爆した、と。

韓国の自称「元従軍慰安婦」どもの口からは一言も、こういった戦場や敵軍の残虐な話は出てきません。かの婆たちが語るのはただ一筋に「日本軍に強姦された」、それのみです。

韓国や朝日新聞、日本の売国政治家それにアメリカは「捏造」を根拠に「慰安所」を非難して、戦時性暴力を肯定していることに気づいていますか?

自らの利益のために、世界中の女性の人権を踏みにじっていることに気づいてますか?

自称「元従軍慰安婦」の婆ども

こいつらの証言と以下の事実を比較してみてください。こいつらの証言がいかに安っぽいものか分かります。
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本記事の資料


帝国陸軍軍曹の手記:
女は少女から老女まで米兵に抱き殺され、男は頭から熱湯をかけられ、斧で頭をたたき割られた


出典:1958(昭和33)年 日本文芸社 「現代読本」第三巻第五号 元山下兵団部隊坂口部隊陸軍軍曹 伊藤清吉 「総虐殺寸前! 救援快速部隊来る」



 坂口部隊がダバオに上陸したのは、昭和十六年十二月二十日の早暁だった。

 ダバオはミンダナオ島の主都で、昔から日本と関係が深く、約二万の同胞が居住していると聞いていた。

 その同胞が、開戦と同時に、今までは二個中隊ばかりが駐留していた敵が、今は三千名に増強され、この軍隊に同胞が監禁され、婦女は殆(ほと)んど強姦に等しい目に会わされている、という情報だった。

「鬼畜だ! 今に見ていろ!」

 坂口部隊の将兵は血涙をのんでこれを聞いた。

 さらに情報では、この米軍が『日本軍はおそらくタロモ湾からダバオ桟橋目がけて上陸するだろうから、この方面に陣地を固めろ』と、もっぱら、この地点に兵力を配置しているという。

『よし、敵の裏をかいてやれ。主力はサマル島北岸から急襲し、一部だけがオトリになってタロモ湾から上陸する』

 こうしてまず部隊はダバオを南北から包囲攻略する態勢をととのえていった。

(中略)

 戦友の遺体は後方にまかせ、部隊はいよいよダバオに突入する。日暮にならないうちに同胞を救助しなければ、どんな虐殺が行われるか測り知れないのだ。

「前進! 前進!」

 部隊長自ら屍体を越え、散兵壕を越えて先頭に立つ。つづく将兵も怒濤の波である。

 こうしてついに午後三時半、ダバオの街に突入した。そして、寸刻の猶予もなく同胞の捜索が開始された。しかし、まだ、残敵の執拗な狙い撃ちが絶えない。戦車を先頭にわれわれが後につづく。

 間もなく、フイリッピン中央小学校に一団を発見した。手を振り、ガラス戸を叩き、婦女子のワッと泣き叫ぶ声が痛ましく響いてきた。つづいて、現地の森領事の報告で現地人にかくまわれている若干の同胞の家屋も知らされてきた。

「婦女子はどうだ!」
「老人はどうだッ!」
「何名殺されたッ!」

 矢つぎ早に尋ねるが、誰もが互いに相抱(あいいだ)いて泣くばかりである。見れば男も女も、骨と皮ばかりになって、余りの嬉しさもあったろうが、声を出す力がないのである。

 ともかく、一万数千名の同胞を救助した部隊は、市街を厳重に見張り、残敵の掃蕩も終ったのはすでに真夜中であった。

 翌早朝から、同胞に対する敵の残虐行為の調査が始められた。ぞくぞくと報告が集る。

 監禁されていたもののうち、婦女子にだけは一日二回、パンと水だけを与えていることが判った。しかし、男と名のつく者には、すでに四日も食糧を与えていない。それどころか水も与えていないのだ。

 これが人道を叫ぶ米軍の処置なのだろうか…。聞くも語るも涙である。

「一滴の水も呑(の)めないということが、いかに苦しいものであるか、しみじみ知りましたよ、はじめのうちはそれでも歩哨の比島(フィリピン)人に金を握らせて、コッソリ、水を買いましたが、水はコップの底にあるかなしです。それを十人で分けて、唇をぬらしただけで終りました。それからとうとう水乾しで、七人が死にました。死ぬ時はまるで狂人ですね。見ていられませんでしたよ。顔をひっかき、ノドをむしり、流れる血をなめて死ぬんですからね…

 暗澹として語るのは牧野という、ダバオで十年も暮しているゴムの採集人だった。

「あそこで死んだ人は百名近いですよ。日本軍が刻々と近づいて来たと知ると、男は全部、表に出ろというのです。出ないと、どんな目に合わされるか判らないから、おそる、おそる入口の部屋にいた連中がフラフラと出たのです。この瞬間、銃列を敷いていた機関銃が一斉に火を噴いたんですからねえ…。ひとたまりもありません。見る間に死体の山です。窓からみていた私は、血が逆流する思いでしたが、どうにもなりません。まったくアッという間でした。伜(せがれ)の顔が苦痛にうめいて目先から消えたのは…」

 そういって、とめどなく男泣きに泣くのは雑貨商だったという木村老人だった。まったく聞くに耐えない暴虐である。

「炊事場を見ましたか…あすこでは二十人殺されているんです。比較的に元気な青年ばかりでしたが、奴等(やつら)の炊事手伝に狩り出されていたわけですが、日本軍が入ってきたとなると、全員を数珠(じゅず)つなぎにするのです。何をしたと思います…。グラグラ湧(わ)き立った煮湯を頭から一杯ずつぶっかけたんですよ…。よく聞いて下さい。生きている人間に煮湯をブッかけるんですよ。そればかりか半死になった人間を、一人が背中から押(おさ)え、一人が水瓜(すいか)でも割るように、古斧(おの)で脳天をたたき割って行くじゃありませんか…

 憤激に耐えかねたのか、神谷というその男は大声で泣き、あとの言葉がつづかない。

 何たる鬼畜の振舞(ふるま)いだろう。地獄の鬼といえども、これほどの残虐は行うまい、と思うと怒髪天を衝(つ)いてくる。

「いいえ、男ばかりではありません。あの兵隊等は鬼や悪魔以上ですよ。一人の女に五人から七人が寄ってたかって手足を押え、人前もクソもあったものではない…。気を失っているのに、まだ欲望をとげようとしているんです…。可哀想に十三の娘さんが二十人に冒(おか)されて死にました。内股がまるで三倍に腫(は)れ上って、見るに耐えない姿でした。それを放って置いて、また次の女に飛びかかるんですからね…鬼です! 悪鬼です!」

「本当に何といってよいか、言葉では現(あ)らわされません…。川口さんという女の人は商売女(管理人注:売春婦)の方ですけど、余りのムゴさにたまりかねて、人身御供(ひとみごくう)を申し出たんです。そしたら、いっぺんに三十名もの兵隊がその肉体の奪い合(あい)なんです。それもいいんですが、抱きついている兵隊を、他の兵隊が小銃で殴りつけて飛びつくんです。これを女の前で臆面(おくめん)もなくやるんですからねえ…。三日目に川口さんは、どうせこれで抱き殺されるんなら、相手を殺さないうちは死ねない、といっていましたが、本当に、いつの間に盗ったのか、敵の手榴弾で群がっている兵隊と一緒に自爆しました…

 かわるがわる女性たちに与えた暴虐、欲望の鬼共は、少女も老婆も見境(みさかい)なく挑んでいたようだった。

「しかし、上野校長先生は立派でした。ちょうど、部隊が市街に入ったという頃でしたが、これで私達が救われると思ったのでしょう。一つは日本軍に場所を知せる手段、一つは悪虐非道に一矢を報いる覚悟だったのです。同志五人と共に並べて一斉機銃掃射を浴せる敵兵の中に飛び込み、その機銃一挺を奪取したと思うと、たちまち敵を射撃しはじめたのです。何というか、実に一瞬の早業でした。しかし無念にも校庭の椰子(やし)の木の下で弾丸がつき、壮烈な戦死を遂げました。この同志のうち、ダバオ小学校の本重先生も、敵の第二機関銃を奪おうとして敵兵に単身、踊りかかったのですが、やはり、壮烈な戦死をとげました」

 こう語るのは、同じダバオ小学校の杉浦先生だった。

 武器なき無辜(むこ)の同胞にこの天人(てんじん)も許さざる暴虐の数々である。われわれの血潮はたぎり、流す涙は血と染まるかのようであった。

「よし、もう許せないッ!」

 果敢な一面、温情に厚い坂口部隊長もたまりかねて、ハラハラと落涙数条、越えて二十五日、再び兵力を整え、ホロ島からボルネオ島へ、この敵を追ったのである。

 かくて、三月七日、ジャワ島のバンドンまで徹底的に敵を追いつめたのは、あまりにも有名なことだったと思う。



外務省報:上野校長への表彰状


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:B13091923600:「外務省報  第五百六号」昭和十八年一月一日 16ページ
 

 
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(書き起こし)

表彰状
在外指定「バヤバス」日本人小学校長兼訓導
故 上野信重

右者昭和十二年末在「ダヴァオ」帝国領事館に出向を命ぜられ昭和十三年一月在外指定「バヤバス」日本小学校長兼訓導の重責を担い爾来在留邦人子弟の教育に従事し居りたる処 偶々(たまたま)大東亜戦争勃発するや捕われて一般居留邦人と共に「ダヴァオ」比島人中央小学校に収容せられたる処 昭和十六年十二月二十日皇軍の収容所周辺攻略に際し非戦闘員たる約四千名の収容邦人が敵機銃の掃射を受け其の生命危殆に瀕するや敢然起(たち)て軍に協力し一命を顧みず敵機銃奪取に挺身し不幸敵弾に傷(きずつ)き応急加療の効無く遂に同月二十三日死亡せり

本人は郷里長野県に奉職中既に志操堅固なる教育者として令名あり 「バヤバス」小学校に奉職すること四箇年其の間克(よ)く皇国臣民たる不抜の信念と熾烈なる同胞愛の精神とを以て生徒の訓育に尽瘁し其の人格は汎(ひろ)く在留民を感化して信望を一身に聚(あつ)め在外教育者として邦家の為貢献せる所鮮(すくな)からず 右戦難に臨み敢然挺身遂に殉難するに至れるは平素抱懐せる皇国精神の発露にして寔(まこと)に其の生涯は大東亜戦争将又大東亜建設に対処すべき我国民就中(なかんずく)在外教育者竝(ならび)に海外同胞の亀鑑と言うを得べし

仍(よっ)て玆(ここ)に在外指定日本人小学校長兼訓導としての功績顕著なるに鑑み之(これ)を表彰す

昭和十七年十二月二十三日
外務大臣従三位勲一等 谷 正之






【資料出典】
アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06031079400:1941(昭和16)年12月17日 「写真週報 199号」 12ページ フィリピン


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