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2015/08/29

日本人の遺骨を土足でふみつけ汚物をまいた朝鮮人


在日朝鮮人へのヘイトスピーチを禁じる「人種差別撤廃施策推進法案」が採決見送りになったそうです。

朝日新聞の報道なので信用はできませんが、日本敗戦直後に朝鮮在住日本人が受けたヘイトスピーチ・クライムにくらべれば、在日朝鮮人が受けているヘイトスピーチなどカワイイものです。

日本敗戦直後、条約や世界のしくみを知らない朝鮮人は、暴力をもって日本人の財産と命を奪いました。

それだけでなく、日本人の墓をあばいて、日本人の遺骨を土足でふみつけ、汚物をまき、墓石はバラックの土台にしました。

朝鮮人は墓に対する執着が尋常ではないので、この行為は彼らにとっても最高の対日ヘイトクライムだったのです。

【日本が造った都市京城(現ソウル)】
京城市街展望

朝鮮人と米軍によってなされた対日ヘイトの数々



朝鮮人とアメリカの関係は、日本が朝鮮に統監府を置く前から宣教師を通して始まっていました。

大陸における権益が欲しかったアメリカは、宣教師を朝鮮に派遣して朝鮮人の排日を煽っていたのです。

そして1917(大正6)年のロシア革命後は、さらにソビエト共産党が朝鮮に侵入して反日(反日本帝国主義)を煽りました。

ですから、朝鮮人の排日、抗日、侮日、反日は、中華思想と共産主義によるものであって、捏造歴史にあるような日本が朝鮮を弾圧したからというのが理由ではありません。

昭和20年8月15日、日本敗戦後、朝鮮人は赤色ソビエト朝鮮政府を樹立すべく、

「革命はついに成れり」

「革命だ、革命だ ─── 」

と喜び、ソ連軍の進駐を心待ちにしながら、建国準備委員会なるものを組織して日本人の資産を接収し始めました。

朝鮮における日本の資産を接収できる権利は米軍にあったにも関わらず、です。

朝鮮人とソ連(現ロシア)の絆が深かったのは、1919(大正8)年の「三・一独立万歳騒擾事件」のときから、朝鮮人は共産化していたからです。

要するに、

朝鮮人は朝鮮半島を日本に防衛させながら、その裏では敵とつるんでいた

ということです。

朝鮮人が日本人の財産を接収する方法はピストル、刃物、木銃(木で作った銃)などで日本人を脅し、または殺害して奪うという暴力的な方法でした。朝鮮進駐軍は朝鮮にもいて、日本軍の将校服を着て群衆を煽動する朝鮮人がいたそうです。

接収する範囲は個人資産だけでなく、学校、放送局、会社など広範囲にわたり、サギや置き引きまでやる朝鮮人もいて、そのせいで日本に帰国できなくなった人々もいました。

あるおばあさんは親切なふりをして近づいてきた朝鮮人に荷物を預けたばかりに、日本に帰れなくなって一人で泣いていたそうです。

トランクを盗んだ朝鮮人を発見して、問いつめたところ、殺されてしまった日本人もいました。

学校も朝鮮人に奪われたので、日本人の子どもは学校に通うこともできなくなりました。


【ソ連軍の朝鮮進駐を拍手で迎える朝鮮人】
Sovetkorean.jpg

1945(昭和20)年9月8日、米軍は釜山と仁川から朝鮮に上陸しましたが、米軍は日本人がどんな目にあおうと一切保護せず、中には朝鮮人とつるんで日本人の家を強奪しに来た大尉もいたそうです。

朝鮮人は毎日、

「倭奴、早く帰れ」

「船便がなければ、泳いで玄界灘を渡れ」

と書いたビラをまきました。

そして、日本敗戦後は日本人の墓をあばいて遺骨をふみつけ、汚物をまいたのです。

日貨併合時代、日本在住だった朝鮮人は家族の遺骨を大切に朝鮮に持ち帰り、供養したそうですよ。許せますか?


日本敗戦直後、朝鮮ではまだ日本の法が機能していましたが、その法ですら日本人を守ることができませんでした。なぜなら、朝鮮人のやりたい放題だったからです。

で、現在、日本人が在日朝鮮人に「帰れ!」というのはヘイトスピーチだと非難して、日本の主権者たる日本人の口を法をもってつまもうとしているのですね。

これ以上の差別がありますか?


日本人の嫌韓は今に始まったことではなく、明治時代からです。

日本人の朝鮮に対する憎悪は、100年以上前から渦巻いています。

朝鮮人が日本人にアレコレ要求する根拠である「歴史」は、祖国が捏造したもので事実ではありません。

朝鮮に駐留した米軍は、日本が朝鮮に何をしたか、また朝鮮人が日本人に何をしたか、よく知っているでしょう。

日本は朝鮮人が住むには一番適さない場所、と言っても過言ではないですね。


【この記事もデマだったりして@朝日新聞】

ヘイト禁止法案、採決見送りへ 表現の自由で与野党に溝
2015年8月28日 朝日新聞

特定の人種や民族への差別をあおるヘイトスピーチを禁じる「人種差別撤廃施策推進法案」について、自民、公明の与党は今国会での採決を見送る方針を固めた。与野党はヘイトスピーチを問題視する姿勢では一致したが、「表現の自由」とどう両立させるかで折り合えなかった。国際的にみて日本は関連法の整備が遅れており、課題は先送りされた。

 与党は27日、国会内で民主党など野党が出した推進法について協議したが結論は出なかった。出席した自民党議員の一人は「何がヘイトスピーチか、誰が認定するかが難しい」と語り、今国会中は与野党合意できず、採決に至らないとの見通しを示した。

 「ヘイトスピーチは許されない」との考えは自民、公明、民主、維新の4党で19日に一致していた。しかし、憲法が保障する「表現の自由」との兼ね合いを巡り、溝は埋まらなかった。

URL:http://www.asahi.com/articles/ASH8W5GW1H8WUTFK00C.html



本記事の資料



(  )内は管理人による注釈です。

抜粋ですが長いので、お忙しい方は赤文字の部分だけ、お読みください。

「竹林はるか遠く」だけではない、凄惨なる朝鮮引揚史


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史」所収 元京城日報社主筆 中保与作  「略奪と赤色の劫火」



赤旗のるつぼ

 西大門刑務所の屋上には、いつの間にか、 「革命は遂(つい)に成れり」 と大書(たいしょ)したのぼりが高々と翻った。政治犯や思想犯や経済犯としてそこに囚われていた人達は、囚衣を着替える暇もなくさっと街頭へ走り出した。重罪犯人 ─── 死刑囚までがゾロゾロ列を成して街へ街へと繰り出した。

西大門刑務所写真1

私はバスチーユ監獄の破壊がフランス大革命の先駆となったことを思い浮べながら、本社へ自動車を急がせた。

「治安を自ら混乱させるものじゃないか」

と政治部でどなったのは、やはり私の心の動揺を暴露したものであった。記者たちは、自分が叱られでもしたように、

「いや、あれは刑務所長の勘違いだったんです。総督府が重罪犯人や死刑囚までも釈放せよ、という指令は出さなかったんです」

といった。政務総監が所長を呼んで叱りつけているそうだ。が、「重罪犯人脱獄!」という声は、日本人たちに、のしかかるような暗いかげを投げてしまった。

 いつの間にか、

「午後一時、ソ連軍入城」
「行け京城駅へ」
「ソ連軍歓迎」
「ソ連軍万歳」


などの貼紙が硝子(ガラス)戸にも、壁にも、塀にも、電柱にも貼られている。人間を満載したトラックが右へ左へ猛烈なスピードで駛(はし)って行く。

ひっきりなしに、オートバイが赤旗を振りちぎりながら、

「革命だ、革命だ ─── 」

と叫んでゆく。ワーッ、ワーッと潮騒を思わせるざわめきが全城の隅隅(すみずみ)から湧(わ)き立っている。あの窓からもこの窓からも赤旗を振っている。

 人々は争って街へ出た。どの通りからも、弾かれたように、男も女も飛び出して来る。露地から裏通りへ、裏通りから大通りへ、大通りでは人・人・人が押し合いひしめきあって京城駅の方へ走っている。人間の大河である。人間の奔流である。長い間抑えに抑えられた民族の鬱水(うっすい)が堤を決して激発する大洪水となって押し寄せている。

誰も彼も瞳を光らせ、息せき切って吼(ほ)えるように「万歳、万歳」と怒鳴ってゆく。盆地に湧き立つこの百万人の大怒号は、それを取り巻く周囲の山々に木霊(こだま)して北漢山も揺(ゆら)ぐかと思われる物凄い一団の唸(うな)りを立てた。


接収はじまる

 そうした荒れ狂う大本湍(ほんたん:急流)の中を、やがて音楽隊を先頭に、ザックザック靴音をそろえて街頭行進を始めた一隊がある。延禧(えんぎ)専門学校その他の学徒や青年を中心とする建国準備委員会の学徒青年隊である。西大門刑務所を出たばかりの人々もそれに加わっている。

社会部の自動車が私を見つけて、

「呂運亨(ろうんきょう:朝鮮の共産主義者)が先頭に立っている筈(はず)ですが……」

といった。しかし、いない。「この一隊が出発のとき、呂運亨は朝鮮独立を歓(よろこ)ぶ挨拶(あいさつ)とともに、諸君こそ新朝鮮建設の大任を担う先駆者であると激励してまっ先に進み出した」のであった。

 空には低く飛行機がゆっくりと輪を描いている。米軍のダグラスである。何万となく、白い紙片を雪のように降らしている。アートペーパーを用いて英文と日本文と諺文(おんもん:ハングル)とをガリ版で印刷したマッカーサー軍司令官の布告である。

「朝鮮在住民族の生命財産は保護せらるべし(される)」

という一句が、強く目を惹(ひ)いた。飛行機が米軍捕虜収容所の上に差しかかると、赤・青・黄など色とりどりのおもちゃのような落下傘をつけた包みを何千となくばら撒(ま)いた。地上の朝鮮人たちは、それを見ても「万歳、万歳」と飛び上った。

 自室へ帰ると、T秘書が青ざめた顔を私のデスクへ寄せた。

「朝鮮人社員たちが、貴賓室に朝から集まって何事か、密議をこらしています」

と耳うちした。

「で、まだ何も決まらないのか」

と聞いたが、日本人は一切出入を禁じているので、何を相談しているか分らないそうだ。

嘗(かつ)て共産主義運動をしていたといわれる日本人社員も加わっているという。私は、ゆうべ二、三の機密書類を鉛を鎔(と)かす炉にほおりこませたとき、婦人秘書の手を抑えて、

「そんなことを止(や)めろ」
 
 と叱った朝鮮人があった
ことを知っている。社会部から「重大情報」というものをもって来た。

「建国準備委員会の指令をうけたと称するものが、手別(わ)けして日本人の経営する目ぼしい事業を一斉に接収した」

 というのである。

 各種の統制機関も、学校も、デパートも、軍需会社も、電車も鉄道も、商店までも、片っぱしから接収してその入口に、「接収完了」と書いた貼紙をした。従業員に接収させたところでは「××従業員管理委員会管理」などと書いた。

「放送局もやられました」と聞いたときには

「京城日報も、覚悟しなければならないのか」

と暗然たる思いに包まれた。ラジオもない、新聞もない……ということになると、在住日本人はみな闇夜の中にあてどもなくさ迷う羊となるではないか、しかも狼は至るところに目を光らせ、牙を磨いている。

京城放送局1

狙われた京城日報

 私は壁に向って独(ひと)り言をいっていると、突然ドアを開けて編集局長や主なる幹部がドヤドヤと雪崩(なだ)れこんだ。

「もうダメです。朝鮮人たちが木銃(もくじゅう:木で銃のかたちに作ったもの。木製の銃)をふりかざしながら、各室へ踊りこんで日本人はみんな出て失せろっと叫んでいます。もしも、いま彼等(かれら)と争って流血の惨事でも惹き起したら、それこそ大変です。いや、すでに、××会社の重役は殺されました。△△会社では社長が水づけにされています。おいやでも、一しょに引揚げましょう」
 
 と、みんなで私をかつぎ出すように取巻くのである。私は、

「ひとりだけこの室(へや)にふみ止(とどま)ろう。こちらさえ手出ししなければそれでいいではないか……」

といった。

「しかし、京城日報には、全市民の目と耳とが集まっています。ここで鮮血を流すようなことがあっては、全市にどんな悲惨事を巻き起すかも知れません それを避けたい」

 という忠告には、反駁する言葉がなかった。
 
 私たちは一応、私の宅(自宅)へ引揚げた。朝鮮に来てすでに十余年、朝鮮人との間にも多くの友人をもち、娘を朝鮮人に嫁がせようとさえ考えていた幹部のMが、室中(へやじゅう)を閉じこめた長い沈黙を破った。

「最も日本人と親しくし、教育も東京で受けたあの××が、みんなの先頭に立って悪鬼のように木銃をつきつけて来たのには、もう一言も口が利けなかった。まさかあの男がね……」

 と、はじめて悪夢から醒めたような(まなざし)をした。

「この男こそと見こんだのに……」

とか

「あれくらい、可愛がったのに……」

と、いうものもあった。多くの日本人がいった言葉である。

 しかし、彼等は決して裏切ったのではない。今後の自分を守るために、心を鬼にしてほかの朝鮮人に本心からの親日派でなかったように見せようとしたのに過ぎない。私はむしろ彼等の切っぱ詰った立場を気の毒に思った。

(中略)

孤立無援の日本人

 十六日の午後三時から三回、朝鮮建国準備委員会副会長安在鴻(あんざいこう)は、京城放送局から全鮮に放送した。その放送は同会が恰(あた)かも総督府に代って政治・経済・文化その他あらゆる分野における実権をその掌中に握ってしまったかのように思わせた。

日本に五百万の朝鮮同胞がいることを考え、朝鮮に在る百数十万日本人の生命財産を絶対に確保しなければならない」

といった。それにつづいて、

「これを保護するがために、学生及び青年隊と警官隊とより成る警衛隊を建国準備委員会のもとに置き、これをして一般秩序を整理せしめる」

とか、

「この外(ほか)、別に武衛隊即ち正規の軍隊を編成する」

とか、

十五、十六日の二日にわたり一万六百人の政治犯人を釈放した」

とか、

「食糧の配給制は現状を維持する」

とか、

「通貨及び物価政策について差し当り現状の通りでゆくが、いずれ新政策を断行する」

とか、

「遠からず一般行政機関も接収する」

 などといったのは、まるで建国準備委員会が政治の全権を握ったかのように思いこませたのである。朝鮮人は、全鮮各地で、公然、日本の諸機関や日本人の財産の接収を始め出した。

 京城では、総督府に近い中心の鐘路(しょうろ)をはじめ幾つもの警察署が朝鮮人の手に帰した。ピストルを狙って襲撃するものもある。警察官にも襲撃者側にもぞくぞく死傷者が出た。ほとんど、どの駐在所からも巡査が影を消してしまった。駐在巡査の大部分は朝鮮人であったが、職場を守ろうにも、大ぜいに襲撃されるので二人や三人ではいられなくなったのである。

 このように警察が力を失い出した矢先き、安在鴻の放送があったので日本人に日頃恨みを抱くものや泥棒は、この時とばかり、目ぼしい日本人の家へ押しかけた。泥棒は大ていピストルか刃物をもっているので、街々には、あちらでも、こちらでも、たまぎるような悲鳴が起った。

「助けテ!」

 と呼んでも叫んでも、誰も表へ出るものがなかった。日本人はもう互いに助け合わぬと知ると、今度は三人五人と組む集団強盗が横行した。

 私の宅へも夜半三人組が襲った。私は二階の窓からメガホンで、

「火事だ! 火事だァ!」

 と怒鳴ったが、それでも近所の日本人たちは森閑としわぶき(せき。せきばらい)一つしない。私の声に驚いて逃げたその三人組は、その足で近所の家を襲ったが、襲われたその家では声さえ立てなかったので翌朝まで誰も知らなかった。

(中略)

軍刀を揮(ふる)う暴徒

 九月九日、米軍が京城に入ると、夜明けごろから日報を遠巻きに取(とり)まいていた朝鮮人の数が刻一刻増えた。ゆうべから社内に泊っていた私には、予期していたことではあるが 「今度はちと手強いゾ」 と思った。

五六百人の朝鮮人たちのうちに、日本軍の将校の服装をし、軍刀を提げたものも二、三人加わっているのが、窓から見える。それが、右へ行ったり左へ行ったりして何かをいい渡しているようである。

二、三人ずつ表と裏から社内へ入り、これが赤い旗を振ると、それを合図に、将校服が先頭となり、ワーッと喚声を挙げて、みんな社内に突入した。

 彼らは、米軍が一人の将校と七人の兵とを京城日報へ派遣していることを知らなかったようである。米軍代表は一人一人を紹介し

「この兵たちは、日鮮両民族の間に起るかも知れぬトラブルを防止するために、当分、ここに留(とどま)る」

という意味の挨拶をした。朝鮮人たちは、その代表将校が帰った直後を狙ったのである。あとに残った七人の兵たちは、任務につくひまもなく、突如、この慌しいただならぬ事態を見て少したじろいだが、

「ここを乗っ取ろうとするのだ」

と説明すると、いい切らぬうちに、一同、サッと室を飛び出して群衆の前へ立ちはだかった。

 めいめい銃を小脇に、引金に指を当てながら、なんにもいわずにジリジリ群衆へ迫った。将校服の一人が、私たちをにらみつけて

「貴様がいまいったことを覚えていろっ」

と怒鳴った。しかし、群衆は一歩一歩後ずさりをはじめ見る見るみんな黙々と潮が退(ひ)くように引揚げて行った。

 こうしたことからか、米兵は、その晩から、社内に寝泊りすることになった。沖縄で激しい硝煙の中をくぐって来た疲れもあるらしい、彼らは、彼ら仲間でもあまり口を利かなかった。それでも、ブランデーをすすめると少し口がほぐれて、

「僕はフジヤマとゲイシャガールが見たいんだ。朝鮮なんかへ来たくなかった」

などと言った。酔(よい)がまわった一人は

「早くゲイシャガールを見せてくれ、今直ぐにだ。見せぬと撃つゾ」

と社員をからかったりした。

 こうして、京城日報の日本人残留社員と売子(うりこ)の少年少女たちは、また報道の任務についた。しかし、米軍政庁は間もなく、朝鮮人李相哲(りそうてつ)を管理人に指名した。

江原道(こうげんどう)で鉱山の仕事をしていた李にこうした任務を与えたのは、米軍政庁官の側近にいる知合いの旧宣教師が斡旋したからであるといわれた。

(中略)

四面悉(ことごと)く強盗の声

 日本人は誰も彼も、

「勝ったからといって出先軍隊が戦敗国の国民の財産を、タダで取上げていいものであろうか」

と深い疑念に襲われた。たとえ、書類を整え、登記をさせたりしても、事実は脅迫による強奪である。

 文明と人道との名をふりかざす軍隊がそれをしてもいいのであろうか ─── といい出した。

ここでは京城日報だけを挙げたがこれは、ひとり京城日報だけでのことではない。三十年四十年、親子二代三代にわたって営々として築いた血と汗との結晶も、およそ目ぼしい日本人の財産は悉く強奪されたのだ。あとで記すように、托(託)送荷物までも、悉く取上げてしまったのである。

 日本人の土地、日本人の家屋、すべての日本人の不動産は朝鮮人に直接売ることを禁じられた。それは、事実上その代金を朝鮮人から受取ることを禁じたのである。

すべてを朝鮮人に売渡させ相手がいなければ、米軍政庁が指名する仮(か)りの朝鮮人を買取人としても売渡させたが、しかし、その代金は米軍政庁が受取って売主たる日本人には渡さなかった。日本人に渡されたのは仮預り書といった一片の紙片(かみきれ)に過ぎない。

「これで、日本政府から代金を受取るがよい。しかし、日本政府がそれを支払うかどうかは、われわれの関知することではない」

 というにべもない挨拶である。

 日本人に直接代金を渡した朝鮮人は、そうした取引が有効と認められない結果、住宅などはそこに住んでいると三カ年分の前家賃を支払えと命ぜられるのであった。

「自分が買い取った家に、家賃を払う馬鹿がどこにある」

 と憤慨して、その家に火をつけた朝鮮人もあった。

 日本人の預金は一切凍結された。一家族一カ月千円払い戻されるだけになった。どんな財産をもっていたものもこの千円が、最後の命の綱となったのである。

引揚げにはリュックサック一つしかゆるされない。なまじ家財らしいものをもっていると強盗につけ狙われるのである。むしろ、それを売って金に替えた方が始末がいい……というので、思い出のこもった家具も什器も一せいに街頭へ並べ出した。八月十六日以来、日本人はみんな古道具屋さんになったのである。

朝鮮人たちはそれを二束三文に値切っている。中には、

「いずれ遠からず、戻って来るから……」

 と家も家具も什器も、すべてを懇意な朝鮮人に預けて日本へ帰った人もあったが、大ていの日本人はもはや、リュックサック一つが唯一の財産となってしまった。それでも、二人三人と組んだ強盗が宵の口を狙って、最後の金、最後のリュックサックまで持って行った。

 米軍の保護は、少しも一般の日本人には及ばなかった。日本人がどんな被害をうけても、それを取調べようともせぬ。言葉がという不自由な障害があるせいもあるが、どこまでも日鮮双方の争いに割りこみたくないという態度である。目の前で行われる暴力沙汰は一応押えるが、

「いま、強盗が入ったから……」

 と、MPの駐屯所に愬(うった)えても、駈(か)けつけてくれはしない。知ってか知らずにか、家を強奪しようとする朝鮮人に同行している米軍大尉もあった。

U総務局長の建てたばかりの住宅を、タダで引渡せといって来た朝鮮人があったが、米軍大尉は、その男の横に腰をかけて時々、英語で話しかけるとその男の言葉に耳を傾けた。Uは、

「どういうわけで、私があなたに私の家を提供しなければならないのか」

 となじると、

「まあ、僕に見つかったのが災難と思って、あっさり渡すことです」

 といって、また米軍大尉に耳うちするのであった。

「日本人は、無警察の国というより、強盗国のまん中に、坐(座)っているようだね」

 と私たちは語り合った。一日一日、昼でも、街の一人歩きが危ぶまれ出した。

「倭奴、早く帰れ」

 と、いう宣伝ビラが毎日まかれてゆく。それには、

「船便がなければ、泳いで玄界灘を渡れ」

 とも書いている。

「俺は、ここで骨を埋めるつもりで来たんだから、帰化してもここに残る」

 と固い決心をしていた人々も、

「もはや、これまでだ」

 といい出した。

「親兄弟の墓を守りたい」

 と思っていた人々も、墓石をバラックの土台とし、その上で焼酎屋や焼鳥屋を開いているのを見て、やはり、引揚げのリュックサックを買うことにした。

親たちや、夫や妻や、わが子わが兄弟の遺骨が土足にふみにじられ、不浄なものをさえかけられているのは、到底、見るに忍びないのである。




櫛の歯の抜けるごとく

 秋に入って学校が始まると、朝鮮の児童たちが、勝ち誇ったように元気な声をはり上げながら、学校へ急いでいる。学校を取られた日本の児童たちはそれをじっと見送っているのである。


京城高等小学校1

向かいの家は、

「子供を学校へ入れるために、早く帰ることにしました」

 と別れの挨拶に来た。隣りの家も、その隣りも次ぎへ次ぎへと歯が抜けるように引揚げて行った。北鮮から脱出して来る家族を待っていた人々のうちには、寒さが迫り、持ち金もなくなったので本願寺の白壁に、

「きっと、きっと生きて帰ってくれ」

 と家族の名と自分の行先きを書いて一まず帰国する人もあった。

 引揚列車が出る竜山駅へ、来る日も来る日も、延々長蛇の列がつづいている。

 独り者のBのお婆さんが、竜山へ出かけたばかりなのに、慌しく帰って来てガラン洞の元のわが家で泣いていたこともあった。たずねてゆくと、

「私はもう、国へ帰れない」

 といって、身もだえしているのである。

「お婆さん暫(しばら)く、あんたも帰るんですか」

 となれなれしく近寄る若い男があるので、

「永々(ながなが)お世話さまで」

 と挨拶すると、

「その荷物、私がかついで上げましょう」

 と親切気(げ)に取上げて、その男は間もなく人ごみの中へ姿を消してしまったのであった。
もしや元の家へ戻っていはせぬかと来てはみたが、

「もう誰もいやしません」

 と、身寄(みより)のないこのお婆さんはサメザメと泣き伏した。

 駅前で用を足している間に、最後の財産であるトランクを盗られてしまった人もあった。血眼になって走り回ると、二、三町先きの路傍でそれを開いて、セリ売りをはじめている男がある。

「それは僕のものだ」

 といい寄ると、その男は

「ナニッ! 何の証拠があって、そんないいがかりをつけるか」

 とつかみかかるのであった。群衆が

「なんだ、なんだ」

 と取りかこむと、打つ、殴る、蹴るの狼藉(ろうぜき)。 ─── 忽(たちま)ち、顔も手も血と泥とにまみれて動かなくなってしまった。

 路傍では、ツギのあたった袷(あわせ)や、赤児(あかご)のオシメを指でつまみながら売っているのを見たこともある。

「こんなものまで盗らなくてもよさそうなものだ」

 と思った。

 それと同時に、こんなものをせめてもの財産として大事にもって帰ろうとした人には、どんなに深刻な痛手であろうと思うと、止め度もなく涙が溢れ出るのであった。

(中略)

あと書き ─── 大ていの引揚者は、二、三個から十数個の荷物を、一コ当り三百円の特別運賃と和英両文の内容を記した書類とを添えて、日本人世話会指定の、運送業者へ托(託)している。

日本人世話会が骨を折って米軍の諒解を得てくれたのであった。しかし、日本へ帰ってから、いくら待っていてもそれは遂に来なかった。

京城に残る日本人が数えるばかりになった頃、米軍はそれを韓国側に引渡したからである。どの荷物も解いて、米人向きのものと韓国人向きのものとに分け、韓国人向きのものはみんなに売り払ったのであった。

公然たる泥棒市場を開いたのである。



墓に執着し、同胞の遺骨は大切にする朝鮮人


出典:1927(昭和2)年 司法省調査課 「報告書集 10」



(一) 墳墓に関する犯罪及(および)墳墓に関連して行わるる恐喝

朝鮮人は儒教の感化と祖先を崇拝するの古来よりの観念とよりその墳墓を尊ぶこと甚(はなは)だしき結果、墳墓の良否は死後の冥福に関するのみでなく子孫の盛衰にも関係ありとする迷信深く 墓地に関する民事の訴訟が起った時は如何にしても勝たんとして両者和解に応ぜず 為(た)めに帰って昔時は観察使、郡守等の賄賂(わいろ)を要求せらるる好餌となり 遂に家産を盪尽(とうじん:洗い流す、とかす)するに至ることありしと。

墓地に関する犯罪は一、勒葬 二、誘葬 三、犯葬 四、隠葬 五、暗葬 なりとせられている。

一、勒葬 威力権勢を恃(たの)んで白昼公然暴行又は脅迫を以て他人の墓地に入葬するもの。

二、誘葬 詐欺的手段を以て他人の墓地に入葬するもの。

三、犯葬 朝鮮には墳墓の界限と禁断地帯とが法律に規定してある、その規定を犯して入葬するもの。

四、隠葬 他人の墳墓を発(あば)き其の死屍を他に移し其の跡に自家の死屍を埋葬するもの。

五、暗葬 暮夜密かに他人の所有地又は墓地に入葬するもの、而(しか)して(そして)暗葬には

 (イ)公然墳形を作り唯(ただ)入葬者の何人なるやを隠匿するものと

 (ロ)遺骸のみを埋めて墳形を為(な)さず屍体のあることを知らしめず他人の耳目を欺くもの とがある。

右墳墓に関する犯罪は第五の暗葬が最も多く他は極めて稀(ま)れに行わるものである。

(中略)

自己の所有地内に私有墓地を任意に設くるを許し、共同墓地原則に私有墓地の制度を大に認容されたが、之(これ)を見ても朝鮮人の墓地に関する観念の深きが知れる、内地来住の朝鮮人も死者の遺骨は必ず故郷に持帰り葬るのである。





【写真出典】
1935(昭和10)年-1939(昭和14)年 朝鮮総督府編 「朝鮮事情 昭和11年版」




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