HOME > 皇室 > title - 玉音放送のレコードが運びこまれた反日NHK
2015/08/20

玉音放送のレコードが運びこまれた反日NHK


終戦の日、玉音放送のためのレコードが運び込まれた日本放送協会内では、とっくに

「終戦だ、ピース、ピース」

という言葉がささやかれていました。

知らぬは国民ばかりなりで、8月8日時点でNHK局内にはもう「「戦争が終わる」というウワサがひろまっていたそうです。

なので、昭和天皇が大御心が国民に伝わるよう、レコードの吹き込みを何度もやり直しておられた時も、宮内省職員が命がけで玉音を録音したレコードを軍による強奪から守っていた時も、NHK内では

「戦争が終わるぞ、ピースだ、ピース」

という不敬発言をしていたのですね。

そして、NHKさまは「一億火の玉」と叫んでいる国民にショックを与えないように配慮して、玉音放送を行ったのだそうです。

ありがたいことですね。

それ以前にも、NHKには大本営から電話で、真珠湾攻撃という「大ニュース」がもたらされています。

最近のNHKは「戦前の言論統制で軍部に圧力をかけられた」といった具合に「被害者」を演じていますが、本当は大本営との間にホットラインがあったのですね。

【NHKラジオ体操】
1928(昭和3)年11月1日、昭和天皇御即位を記念して始まった。
NHKラジオ体操

特攻隊を煽り、アメリカを煽り、国民世論を煽り、東京大空襲では沈黙したNHK



「NHKスペシャル」などでは、あたかも日本国民が戦争に熱狂してアジア侵略に突進して行ったように報道しますが、戦争を煽りまくったのはNHKや新聞といったマスメディアでした。

そして昭和20年3月の東京大空襲では、大本営がNHKを通じて国民に状況を伝えていたのですが、空襲が激しくなるにつれ、NHKは沈黙してしまったそうです。まあ、NHKも避難したのかも知れませんが。


そんなNHKの戦争煽りぶりを簡単にまとめてみました。

① 特攻隊に対する煽動

・1945(昭和20)年3月、沖縄戦開始直後、NHKは大本営発表のウソの大戦果を報道した。その内容は「1000機の特攻機が敵艦393隻を沈没させ、あるいは大損害を与えた」というものだった。

・当時、軍隊内で合言葉のようにして使われていた「必死絶殺」という言葉を盛んに報道した。この報道は一般の日本国民にも影響を与え、「敵は一人も許さない」という考えを植えつけた。

② アメリカ軍に対する煽動

・アメリカ艦隊が沖縄に現われた時、NHKは騒々しく誇らしげに、「彼らがわが神風特攻攻撃の行動圏に入って来たことは、まことに絶好のチャンスであって、太平洋からアメリカ海軍の勢力を抹消することはいと易いことである。神風特攻隊員は一機一艦の作戦で、アメリカ海軍の最後の一隻となるまで戦うであろう」と挑発した。

・アメリカ軍に対する挑発は当然、特攻隊員にも影響した。イヤでも出撃して突入して死ね、という煽動にほかならない。

③ 日本国民に対する煽動

・真珠湾攻撃を感動的に報道し、戦争長期化に不安を抱いていた日本人をさらに戦争へと突き進ませた。真珠湾攻撃のニュースを聞いた日本人は「行けるとこまで行って、当って砕けろ」というヤケクソ状態におちいった。

④ 国民世論に対する煽動

・あたかも日本が国をあげて戦争を望んでいるかのように世論を「沸騰」させた。

・マスコミによる世論形成によって、統帥部と内閣による「開戦の決意」にご不満であらせられた昭和天皇が、御下問をもって開戦を阻止しようとなされたが、戦争反対だった政治家までもが軍や世論による批判をおそれて口をつぐみ、日本は誤った方向へ暴走する結果となった。


この「世論を動かして赤化目標国を内部から崩壊させ、赤化革命を起こす」というのは、共産党が使う手段ですね。共産党は今も熱心に「反安保法制」をネタに革命勢力集めをやっていて、それを助けているのがマスコミです。

今もマスコミはゲストに「天皇の戦争責任」を論じさせたりしますが、日本を戦争に向かわせた責任はマスコミにあるのではないでしょうか?

戦時中も今も、皇室と日本国民は共産主義者に包囲されているも同然です。

幸いなことに今はインターネットの発達で、善良なる日本人の精神衛生はかなり守られるようになりました。これはとてもよいことだと思います。

共産党は宣伝が無力化したら終了www

なのですから。

本記事の資料


NHK
「いま大本営から、電話で大ニュースが入った」
「戦争が終わるというウワサは8月8日から局内に拡がっていた」
「平和だ、平和、ピース、ピース」


出典:1988(昭和63)年 文藝春秋社 「『文藝春秋』 にみる昭和史」第一巻所収 館野守男 「大本営発表」 (昭和29年9月号「オール讀物」掲載) 
※館野氏は真珠湾攻撃を報じたアナウンサー。



(前略)

「感激の放送」 とか何とかいって、当時の模様や感想をよくきかれたものだが、どうもはっきり思い出せない。特に開戦の放送については、「感激」とか「感慨」というよりは、むしろ、私がいつまでも一番気になっていたのは、あの放送が洵(まこと)にまずいものであったということである。戦争中は、毎月八日の大詔奉戴日に、その録音が必ず放送されていたが、私はそれを聴くのが実にいやだった。 

 アナウンサーとして、自分の下手なアナウンスを繰り返し聴かされるくらいつらいものはない。もっとも、八日ごとに繰り返し放送され、レコードや映画にも使われた録音盤は、実は、昭和十六年十二月八日午前七時に放送されたものではく、確か二度目に繰り返して放送した時のものである。

最初の放送は、まったくの突然だったので、録音係の方で間に合わず、その前半が欠けて終わっていたように憶えている。

 これはせめてもの幸であって、最初の放送は、もっとひどいものであった。何しろ、どういう内容ともわからず、マイクロフォンの前にいる時、いきなり原稿を渡されたのだから、ただ字づらを追って読んだというだけで、今から思えば、お通夜の放送のように沈んだものではなかったかという気がする。

二度目になると、その意義がわかって来たせいか、「これは感激して読まなければいかんぞ」というので、あのようなアナウンスになったのではないかと思う。しかしこれもまったく意に満たない放送であった。

(中略)

 こうして昭和十六年十二月八日が明けた。この頃、日本航空部隊の真珠湾攻撃の成果はすでにはっきりしていたのである。

 午前七時直前、私が七時からのニュース原稿を持ってマイクの前に待機していると、スタジオの扉をあわただしくあけて、報道部の一人が飛び込んで来た。

「いま大本営から、電話で大ニュースが入った」

 といって、走り書きの原稿を渡してくれた。すぐ臨時ニュースのチャイムを慣らし、

「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます」

 まず二回繰り返した。そして走り書きの原稿の字を追い追い読んだのである。

「大本営陸海軍部午前六時発表、我が陸海軍部隊は本八日未明、西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れり」

【太平洋戦争開戦ラジオ放送】


 その後、ニュースを繰り返しさらに八時半頃から入り出した外務省発表の開戦までの経緯を、マイクの前で、次から次へ手渡されるままに、およそ四十分間余にわたって読み上げ、私は昼勤のアナウンサーにバトンを渡したのである。

(中略)

 戦争が終わるという噂は八月八日頃から放送局に拡がっていた。憲兵が制服や私服で、放送局をひんぱんに訪れ始めていた。終戦の交渉を放送を通じて行うのを監視するためだといわれた。

 放送員(もうアナウンサー呼ばれていなかった)の間では「ピース」ということがひそひそ語られ始めていたが、ピース (平和) という英語が、変に懐かしく、きかれたものである。

 十四日から私は宿直当番である。十五日ポツダム宣言を受諾して、日本が降伏することはすでにはっきりしていた。陛下の終戦の詔勅は録音によって十五日正午から放送されることになり、朝のニュース放送からその旨、一般国民に知らせるということになった。

「一億火の玉」を覚悟している国民に急に衝撃を与えないよう、その文句には特に細心の注意がくばられたようで、当時の高橋報道部長(現局長)から、

「こんなのではどうだろう」といって示されたのは、

「本日正午より重大放送があります。天皇陛下が直接放送されますから、国民の皆様はこぞってお聴き下さい」 といったようなものであった。

 一般には未(いま)だ降伏とも何ともわかっていなかったが、「玉砕」を唱える軍の一部にはすでにもれており、降伏をがえんじない部隊の反乱ということも充分予想される状態であった。当日の放送局の準備について、報道部を通じて問い合わせても何の確答も得られないまま、昭和二十年八月十五日の朝が来た。



元海軍航空艦隊参謀「なぜ大本営発表は間違ったか」
アメリカを煽ったNHKの放送


出典:1960(昭和35)年 自由アジア社 安延多計夫 「南溟の果てに-神風特別攻撃隊かく戦えり



なぜ大本営発表は間違ったか

 四月十六日の攻撃後、大本営発表として、

「三月二十三日いらい、神風特攻機の攻撃により、沖縄周辺のアメリカ艦隊の三九三隻は或(あるい)いは沈没し、或いは大損害を蒙(こうむ)った。この数字には二一隻の空母、一九隻の戦艦、一六隻の戦艦または大型巡洋艦、二六隻の大型軍艦、五五隻の駆逐艦を含んでおり、巡洋艦以上の大型艦八五隻を含む二一七隻は撃沈確定である。沖縄周辺の敵艦船の六〇%はすでに沈没し或は傷(きずつ)いた。この間に於(お)けるわが損害は一〇〇〇機である。」

 と綜合戦果を伝えた。ところが、実際は沖縄戦の四月中旬の段階に於て、敵側の艦艇は一四隻が撃沈されたのみで、艦種も駆逐艦以下の小型艦艇である。しかし沈没はしなかったけれども、大なり小なりの損害を被ったものは、空母、戦艦以下多数にのぼっていることは、既に読まれた通りである。

 大本営発表がかくの如き誤りを伝えて、戦後十数年を経た今日に於ても、なお峻烈な批判を受けていることはまことに残念な次第である。



総決算

 アメリカ側ではこんな見方をしている。

「アメリカ艦隊が沖縄に現われた時、日本の放送は騒々しく誇らしげに、彼等(かれら)がわが神風特攻攻撃の行動圏に入って来たことは、まことに絶好のチャンスであって、太平洋からアメリカ海軍の勢力を抹消することはいと易いことである。神風特攻隊員は一機一艦の作戦で、アメリカ海軍の最後の一隻となるまで戦うであろうと言った。しかし、日本はこの一機一艦の取り引きは容易でないということがわかるまでに、三五〇〇機の代価を支払った。これは日本海軍が使用し得たであろう全航空兵力に近いものである。」



陸軍特攻隊員の婚約者
「マスコミがさかんに報道した必死絶殺という合言葉」
「東京大空襲でラジオは何も報じなかった」


出典:2010(平成22)年 新潮社 水口文乃 「知覧からの手紙」



第三章 婚約 たった一晩の子守唄

【帝国陸軍第二十振武隊 穴沢利夫少尉】
anazawatoshio_shoui.jpg

 急ごしらえと言ってもいいほどの部隊でしたが、結成された当初から「今日より死ぬときは一緒」と、長谷川隊の団結力たるや相当なものだったといいます。隊員たちが合言葉のように口にしていたのは、「必死絶殺」 という言葉でした。

 こうした軍隊の合言葉のようなものは、新聞やラジオでも盛んに報道されており、当時の国民の中にも、「敵は一人も許さない」という考えが常識としてありました。

(中略)

 警報が鳴り響くと、すぐにラジオを付けました。

「東部軍管区情報、東部軍管区情報……」

 途切れ途切れに声が聞こえてきます。敵は上空何千メートルにいて、何機編隊で、どちらの方向に向っているのか、大本営陸海軍部がNHKを通じて情報を流していました。

聞き取りにくくても、「B29」という言葉は、はっきりと聞こえました。富士山を越え、東京方面に向っているようです。私たちは飛び起きると、裏の崖に掘って作った防空壕に逃げ込みました。

 中でラジオに耳を澄ましていましたが、状況がどうなっているのか、よくわかりません。私はひとりで防空壕を抜け出ると、空を見上げました。

 視界に入ってくる空をふさぐように、真っ黒な姿をしたB29が飛んでいます。私には、頭上の空間を埋め尽くすかと思うほど、B29は大きく感じられました。高度も相当低かったのでしょう。それが何機も何機も編隊をなして、東に向って飛んでいきます。

〈一体、どこに向っているんだろう〉

 私は利夫さんが乗ってきた戦闘機の心配をしていました。もし、戦闘機に乗って帰れないような状況になったりしたら、厳しい軍律では、どのような罰が下されるのでしょうか。

 ザァーと、急に強い大雨が降っているかのような音がしてきました。焼夷弾が投下されたためか、空が真っ赤になっています。

 この日、午前〇時を過ぎた頃、本所深川を中心として東京の下町が空襲にさらされていました。十万人以上の死者を出した「東京大空襲」でした。

「これは容易じゃないぞ。どこかがやられている……」

 シンガポール作戦に参加していた長兄は、ただならぬ様子を案じていました。ラジオをつけっぱなしにしていましたが、どこが被害にあっているのか、何も報じません。



重光葵「沸騰した国論が日本を太平洋戦争に向かわせた」


出典:1952(昭和27)年 重光葵 「昭和之動乱」上巻 



重臣会議

 この重要なる宮中の会合において、戦争に対して反対をなし、また国家の前途に対して深い意見を表示したものはなかった。

当時、国論は沸騰し、識者は、連日和戦の形勢について憂慮していた時である。政府が重臣を宮中に会して、国家の直面せる内外の形勢を説明したことが、すでに異例である。その後に、特に天皇陛下の御下問があって意見を徴せられたのは、異例中の異例である。

何のために、この異例な会合が行われ、天皇が重臣の意見を聴かんことを欲せられたのか。その意義を関知していなかった重臣は、一人もなかった筈(はず)である。

かように国家の危きに際し、最高主権者たる天皇に、直接意見を申し出づる絶好の機会が与えられたるに拘(かか)わらず、何故(なぜ)国家の重臣が、若(も)し戦争に反対であったならば(彼等は反対であった)、赤裸々に且つ大胆にその所信を披瀝しなかったのであろうか。

(中略)

奇襲

 十二月八日未明、東京の電話は忙しかった。早耳の人々が真珠湾攻撃の大戦果を、すでに知人に知らしてをった。間もなくラジオは、日米英開戦の報道とともに、詔勅をも伝え、市民は襟を正してこれを聞いた。

奇襲の吉報を喜ぶとともに、国民は一般にホッとした感情をもった。この感情は、奇襲の成功に対する喜びというよりも、長い間、陰惨なる空気の下に蒸して来た戦争気分が、この決定によって、公然ときまりがついて、ここにすべてが片が付いた、と云(い)う意味で日本人的にホッとしたのである。

行くところまで行って、当って砕けろ、と云う日本人的感情である。これが如何なる意味を有するかを、深く考える暇は無論なかった。




関連記事
スポンサーサイト