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2015/08/18

玉音放送のレコードが放送されるまで


「日本のいちばん長い日」という映画には、将校らが「終戦の御詔勅」を録音したレコードをさがすという場面があります。

その将校らが見つけられなかったレコードは、徳川侍従長が隠し持っていました。

8月15日未明、徳川侍従長は押し入ってきた将校にいろいろ聞きただされている最中、脇から来た下士官にいきなり殴られ、あごが腫れ上がって、いびつな顔になっていたそうです。

昭和天皇がお吹き込みになられた二枚のレコードは、宮内省の加藤総務局長と筧総務課長が一枚ずつ分担して、8月15日午前11時に内幸町の日本放送協会(NHK)に届けられました。

もし、軍部にレコードを奪われて戦争が続行されていたら、3つ目の原爆が東京に投下されたかも知れない、昭和20年8月15日はまさに、日本のいちばん長い日でした。


【玉音放送を聞く人々-大阪】
玉音放送を聞く人々於大阪

【昭和20年8月15日の皇居前広場】
終戦の日の皇居前広場

3発目の原爆を逃れるために決死のNHK行



終戦時の資料には「3つ目の原子爆弾が東京に落ちる」という文言がよく出てきます。

アメリカの「原爆は2発しかなかった」という主張はどうもマユツバもののようで、6発あったとする説もあります。

終戦時に政府要人や軍、宮内省で言われた「3つ目の原子爆弾」というのは、昭和20年8月11日に軍が傍受したサンフランシスコ放送に由来していると思われます。

その放送でアメリカは

「日本がポツダム宣言に対し回答するまで、原子爆弾の使用を中止する」

と発表していました。

ですから、天皇大権によって日本軍および国民に停戦を呼びかける「玉音放送」が軍に妨害され、戦争続行となってしまっていたなら、東京に3つ目の原爆が投下されていたかも知れません。

そこで軍による妨害を回避するべく、宮内省は二手に分かれてレコードを日本放送協会に届けることにしました。

昭和天皇がお吹き込みになられた二枚のレコードのうち、最初に録音したレコードは、昭和天皇が御文庫にお帰りになられたあと、関係者だけで試聴したのだそうです。

なので、試聴していない第二回目のレコードは「正」として、加藤総務局長が警視庁の車を使って日本放送協会に届けました。

そして、試聴済みのレコードは「副(予備)」として、筧総務課長が宮内省自動車課の車を使い、警戒に警戒を重ねて無事、日本放送協会に届けました。

試聴したレコードを「副(予備)」としたのは、当時のレコード盤は質が悪かったので、一度針を落とすと損傷が大きかったからです。

「詔(みことのり)」と「勅(みことのり)」のちがい



「終戦の御詔勅」を放送する直前、日本放送協会の下村情報局総裁は聴取者に向けて、以下のように呼びかけました。

天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏(かしこ)くも御自(おんみずか)ら大詔(たいしょう)を宣(の)らせ給うことになりました。これよりつつしみて玉音をお送り申します

昔は、文書上の規定で「詔(みことのり)」の字は臨時の大事に用い、「勅(みことのり)」は普通の小事に用いたそうです。「大詔(たいしょう)」とは「詔(みことのり)」の尊敬語です。


【昔はちゃんと敬語が使えた日本放送協会】
日本放送協会1

レコードが届いたとき、日本放送協会も軍に押し入られたあとだったので、みな虚脱状態におちいっていたそうですが、宮内省職員と東部軍司令部の協力によって、「玉音放送」は無事放送され、日本は今に至っています。

本記事の資料



(  )内は管理人による注釈です。

玉音録音盤が宮内省から日本放送協会に届くまで

文中の館野守男放送員は、「大本営発表!」と真珠湾攻撃を伝えた放送員です。


出典:1987(昭和62)年 日本教文社 元宮内省総務課長 筧素彦 「今上陛下と母宮貞明皇后」



マイクの前に立たれた陛下

 御吹き込みが終わって陛下がお帰りになったのは午前零時を少し過ぎた頃であった。そのあと、関係者一同で第一回目の分の試聴をすることになった。

場合によっては陛下にお聴きいただくことも考えて、あとからわざわざ放送局へ取りに行って準備した再生装置であったが、あまりに遅くなったのと、もはやこれ以上は已(や)むを得ずと考えたため、御試聴は願わずお帰りをいただいたのであった。

 この当時の録音は今のように進歩したものではなく、質の悪い円盤が使用されていたため、一度試聴すると相当損傷するとのことで翌日の本番には第二回目の吹き込み分を使用することとし、試聴に供した第一回目の分は予備に供することとした。


深夜の坂下門閉鎖


 録音盤の試聴もすませて、私共は放送局の人達と一緒に、廊下一つ隔てた常侍官候所に集まって今後の打ち合わせを行った。それはもう午前一時を少し過ぎた頃である。

宮内省庁舎見取図

 当初の予定では録音盤は放送局の人達が持ち帰ることになっていたが、前日来、若干不穏な空気も感じられていたので、万一を慮(おもんぱか)り、主管課長である私が放送局の希望によって、この二通の録音盤を預ることとなった。これを午前十一時までに放送局に届けるという約束を、あっさり了承して矢部局長の手から録音盤を納めた扁円型の罐(缶)二個を受け取った。

NHK編纂の 『日本放送史』 には、その時すでに防空服を入れる四角形の布袋に入れたように書いてあるが、それはもっと後のことで、その時は剥(む)き出しの罐のままであった。

 預った私は一瞬考えた。実は前日の昼間、私のところへ守衛隊の一司令から電話があり、御文庫近辺で演習をしたいとの申し出があったが、私が言下にこれを拒否した経緯もあり、旁々(かたがた)詔書をめぐる陸軍側の動きからも若干の危惧も感じていたからだった。

それで、この際、これを総務局の庶務課に置くのは危険であると判断し、また、事実上私の課には適当な堅牢な格納場所もないので、徳川侍従に

「すまないけれど、あなたのところで預っておいてはくれませんか」

と申し出た。徳川侍従は、これまたまことにあっさりと引き受けてくれた。これは後から考えたことであるが、これが若(も)し総務局に置いてあったらどんなことになったかと思うと、本当に預けておいてよかったとつくづく思った次第である。

(中略)


玉音放送開始

 さすがに疲れて少しまどろんだのであろうか、ふと気がつくと外は白みそめ、窓外の様子も先刻とは異なり、めっきり穏やかになった様である。

のこのこと部屋を出てゆくと、皆思い思いのところで夜を明かした面々が次第に顔を合わせ、東部軍司令官田中静壹大将が身を以て説得に当たられた結果、殆(ほとん)ど鎮静に帰したことも判明、やれやれ、これで無事任務も遂行出来、東京も第三の原爆から救われることとなったと、心の底から田中司令官に感謝した次第であった。

 夜が明けて、前夜預かって貰(もら)った録音盤を受け取るために、侍従職に徳川義寛侍従を訪ねたところ徳川侍従の顎(あご)が腫れ上がり顔をがいびつになっているではないか。

わけを聞くと、三時十分頃には木戸内大臣を地下の大金庫室に案内し、それから吹上の御文庫に連絡に行き、他の侍従と女官長に事態をお知らせして、すぐに引き返し、中村俊久海軍武官にもお知らせして廊下に出たところ、途中で出会った将校に色々聞き質(ただ)されているうちに、脇から来た下士官になぐられたとの事であった。

その後、徳川侍従が海軍武官室にもどると、中村武官は海軍省への電話連絡で軍務局第一課長長沢浩海軍大佐に事態を知らせていたところであったという。今の徳川侍従長である。

 さて、いよいよ約束の十一時までに、内幸町の放送会館に録音盤を届ける段取りとなった。その頃にも、途中で待ち伏せて録音盤を奪取せんとする動きが有るなどの情報も有ったので、万一を慮って、いわゆる正副二通の録音盤を、それぞれ別々の方法によって運ぶこととし、試聴のための針を通さなかった第二回目の録音盤は、加藤総務局長が供奉(ぐぶ)服姿で捧持され、警視庁の車で警視庁の警衛課長同乗で出発した。

 一方、私はもう一通の録音盤を、防空服を入れるカーキ色の四角形の布袋に入れ、服装も紺サージ折り襟の宮内省お仕着(しき)せの制服姿のまま、局長より一足遅れて庁舎の東口からぶらりと出て、袋を肩越しに担ぎ、自動車課の方へと歩き出し、途中で向こうから迎えに来た車を止めて乗り込み、まことに相すまぬことながら、人目につかぬよう、録音盤を入れた布袋は足もと近くの敷物の上に(ほう)り出したままで坂下門を出た。当日はまことに暑い日であったと後日聞かされたが、よほど緊張していたものと見え、そんなことは全く記憶に残っていない。


終戦時の皇居略図2


 途中幸いに何事もなく日比谷交差点を過ぎ、間もなく内幸町の放送会館の前に差しかかった。車を徐行させて、あたりの様子を注意深く観察したが異状は認められず、会館正面の入口の左右には、腕に憲兵という腕章を巻いた兵が二人、剣つき鉄砲を持って仁王立ちに立っている。

その面構えを見ると、どうやら大丈夫らしい。会館とは反対側の飛行館近くの路上で単独下車、車はそのまま帰らせて、布袋を担いだまま会館に向かう。裏口から入っては却って怪しまれると考え、正面玄関の二人の憲兵の間をのこのこと咎(とが)められることもなく入って行った。あとで聞けばこの憲兵は東部軍司令部の命によって立っていたものであった。

 会館には先発の加藤局長も無事に到着しておられ、録音盤はここにいわゆる正副二通とも揃ったのであった。

 そこには、夜来、守衛隊司令部に軟禁されていた下村情報局総裁はじめ大橋放送協会会長以下の首脳も待ち受けておられて再会したのであったが、聞けば、この放送会館も、クーデターの首謀者、畑中大佐によって占拠され、放送を強要されていたが、幸いに館野守男放送員たちの勇気と機転によって遂に目的を達することができず、東部軍司令部の許可が得られないため、すごすごと引き揚げて行った後の由(よし)で、皆虚脱状態に近い有様であった。

 私より一足先に録音盤の一つを無事に届け了(おお)せて私を待ち受けておられた加藤局長もまた、守衛隊へ談判に行ったまま捕らえられてしまった一人であったが、この席では、スタジオに入るまでの暫(しばら)くの間、それぞれの体験が語り合われていた。

(中略)

 この間、技術陣によって、二階の第八スタジオの準備は着々と進められ、われわれも定刻十五分位前には放送に立ち会うため同スタジオに入った。

 スタジオには下村情報局総裁、加藤第一部長、山岸課長の情報局側、放送協会側は大橋会長、東部軍の参謀副長小沼少将、そして宮内省側は加藤総務局長と私が立ち会い人として列(なら)び、そこから硝子(ガラス)越しに見える、となりの調整室では、技術関係の人たちが、テストその他の準備をしているのが見えた。

 私共立ち会い人が全員スタジオに入った後、スタジオの近くにいた一中尉が、これが終戦の放送なら切ると激昂し、軍刀に手をかけて中に入ろうとしたが、傍(かたわ)らにいた東部軍通信主任参謀の鈴木重豊中佐が、咄嗟(とっさ)に彼を後から羽がい締めにして取り押さえて憲兵に引き渡したという一幕が有った由。これはわれわれスタジオ内では全く判らず、あとで聞かされて驚いたが、スタジオの入口は憲兵によって厳重に固められている中での出来事であった。

 さて、スタジオ内では録音盤のテストもOK。正午の時報のあと、われわれには相撲放送などで馴染み深かった和田信賢放送員が緊張した様子で口を開いたのである。

「ただいまより重大放送があります。全国聴取者の皆さんご起立願います」

というアナウンスにつづいて下村情報局総裁がマイクの前に進み、

「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏(かしこ)くも御自(おんみずか)ら大詔を宣(の)らせ給うことになりました。これよりつつしみて玉音をお送り申します」

と謹話したのに続いて、荘重な「君が代」が流れ、それが終わると、昨夜のお吹き込みの際に承り、まだ耳に残っている陛下の静かにも悲壮なお声が流れ始めた。

 私共一同は皆ひとしく直立不動、期せずして頭を垂れ、みな涙は滂沱(ぼうだ)として頬を流れ落ち止まるところを知らなかった。お互いに顔を向け合うのが恥ずかしいような思いであった。

 昨日のお吹き込みの時には、まだ今日の任務の遂行を思い緊張し感情を抑圧していたせいであろうか、今日はいよいよこの詔勅を拝し敗戦が本ものになったのだ、厳しい現実がいよいよ始まるのだという思いと、この放送で御自身のお声を聴いておいでになる陛下の御心中はどんなにか複雑であらせられるにちがいないと拝察したのであった。

 我に返った私は、これから先の覚悟の容易ならざることを深く心に刻む一方、兎(と)も角(かく)もこの世紀の重大任務を無事になし遂げることが出来たという安堵感にも浸ることができたのである。

若(も)し昨夜来録音盤を奪われ、万一予定通りの放送が出来なかった場合は、はたしてどんな事態になったであろうかと衷心天佑神助に感謝したのである。

【日本降伏にわくニューヨークリトルイタリー】
日本の降伏にわくニューヨークリトルイタリーの住民


「3つ目の原子爆弾が落ちる」といわれた根拠


出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第四号所収 
     「還らぬ将軍特攻機」」 ※宇垣纏中将の戦時日誌「戦藻録」より



 日本ガ無条件降伏ヲ申出タル旨ノ桑港(サンフランシスコ)放送アリタル後、若干モタタズシテ、マリアナ基地ノ対戦略爆撃作戦部隊司令官ハ、日本がポツダム宣言ニ対シ回答スル迄、原子爆弾ノ使用ヲ中止スルト発表セリ。



「詔(みことのり)」と「勅(みことのり)」のちがい


出典:1953(昭和28)年 全国書房 新村出編 「言林」



みことのり【詔・勅】〔御言宣(みことのり)の意〕
①天皇のおおせ。おおみこと。詔勅。勅諚(ちょくじょう)。勅命。 (昔、文書上の規定では、詔の字は臨時の大事に用い、勅は尋常の小事に用いた)

②天皇が機関を経ないで、親しく臣民に表示したまう大御心(おおみこころ)。




【写真出典】
1931(昭和6)年 誠文堂 日本放送協会編 「ラヂオ年鑑 昭和6年」





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