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2015/08/15

玉音をレコードにお吹き込みになられるまでの昭和天皇


今日は終戦記念日です。

最近、「日本のいちばん長い日」という映画が話題になっていますが、陸軍将校らが奪おうとしたレコードは昭和天皇が

「一般の国民にはラジオを通じて、親(みずか)らさとしてもよい」

と仰せになられ、録音されたものです。

大東亜戦争は、日本と共産党との戦いでした。

昭和天皇は戦後に日本革命の危険があるということを充分承知なさった上で、終戦の御聖断を下されたのでした。

【昭和天皇】
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1945(昭和20)年8月14日午後11時、いまだ空襲警報が発令されている中、「終戦の御詔勅」のレコード吹き込みが開始されました。

お吹き込みをお願いした場所は、5月の空襲で皇居は全焼しましたので、宮内省二期庁舎で行われました。

二期庁舎とは、旧庁舎を取り壊したあと、昭和10年に完成した一期庁舎に続いて建てられた庁舎で、当時中国と戦争状態にあったことから万一の時には宮殿としても使用できるよう、また一トン爆弾にも耐えるよう考慮されて建てられました。

その二期庁舎の御政務室に日本放送協会(NHK)が器材を運びこんで、レコードは録音されました。

【当時の宮内省庁舎見取図】
宮内省庁舎見取図

昭和天皇はご心労からすっかりおやつれになっていましたが、

「もう一度やろうではないか」

「もう一度やろう」

と仰せになり、三度目のお吹き込みをなさろうとしたところを、陛下のお声を聞いていると侍者らが泣けて泣けて立っていられなくなるので「もう結構です」とご文庫にお帰りいただいたそうです。


終戦の御聖断のとき、昭和天皇はこう仰せになったそうです。

「自分の任務は祖先から受けついだこの日本を子孫に伝えることである。今日となっては一人でも多くの日本人に生き残っていてもらって、その人達が将来再び起(た)ち上がってもらう外(ほか)に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う」

「わたし自身も国民とともに努力する覚悟である。今日まで、戦場に出かけて行って戦死したり、あるいは内地にいて不幸にも亡くなったものやその遺族のことを思うと、悲嘆に堪えない。戦傷を負ったり、戦災をこうむったり、家業を失ったもののこんごの生活についてわたしは心を痛めている。このさい、わたしにできることならなんでもするつもりでいる」

共産党との武力戦に敗北したのですから、外国の王族や国家元首ならばとっくに国や民を捨てて、どこかに亡命したでしょう。

でも、昭和天皇は「わたしにできることならなんでもするつもりでいる」と仰せになられたのです。

つまり、共産党の要求があればそのとおりにしよう、とご覚悟なさっておられた。

だから、普通の敗戦ではありませんから、侍者や国民は泣けて泣けてたまらなかったのです。

このことが今でも

「昭和天皇は御一身をなげうって国と国民をお救い下さった」

と伝えられるゆえんです。

宮内庁のサイトで「終戦の玉音放送」を聞けますよ→ここをクリック

本記事の資料



(  )内は管理人による注釈です。

元宮内省総務課長 筧素彦氏
「昭和天皇のおやつれになった御姿に、ハッと胸を衝(つ)かれた」


出典:1987(昭和62)年 日本教文社 元宮内省総務課長 筧素彦 「今上陛下と母宮貞明皇后」 (上掲の宮内省庁舎見取図も同じ)



午前会議

(前略)

 陛下の次に仰せられましたことの要領は次の通りであります。

『大東亜戦争が始まってから陸海軍のして来たことを見ると、どうも予定と結果が大変に違う場合が多い。今陸軍海軍では先程も大臣、総長が申したように本土決戦の準備をして居(お)り、勝つ自信があると申しているが、自分はその点について心配している。先日参謀総長から九十九里浜の防備について話を聞いたが、実はその後侍従武官が実地に見て来ての話では、総長の話とは非常に違っていて、防備は殆(ほとん)ど出来ていないようである。又(また)、先日編成を終わった或(ある)師団の装備については、参謀総長から完了の旨の話を聞いたが、実は兵士に銃剣さえ行き渡って居(お)らない有様である事が判(わか)った。このような状態で本土決戦に突入したらどうなるか、自分は非常に心配である。或(あるい)は日本民族は皆死んでしまわなければならなくなるのではなかろうかと思う。そうなったらどうしてこの日本という国を子孫に伝えることができるか。自分の任務は祖先から受けついだこの日本を子孫に伝えることである。今日となっては一人でも多くの日本人に生き残っていて貰(もら)って、その人達が将来再び起(た)ち上がって貰う外(ほか)に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。それにこのまま戦を続けることは世界人類にとっても不幸なことである。自分は明治天皇の三国干渉の時のお心持ちも考え、自分のことはどうなっても構わない。堪(た)え難きこと忍び難きことであるが、この戦争をやめる決心をした次第である』(後略)

 陛下の入御は午前二時半近く、会議が終了したのは午前四時近かったという。陛下の捨身の御決断によって、ポツダム宣言を条件つきで受諾することに決したのであった。

(中略)

マイクの前に立たれた陛下

 さて、いよいよ詔書が完成する頃、警戒警報発令、埼玉県熊谷方面へのB29の来襲である。空襲警報が発令中で、敵機が頭上近くにいる間は録音を開始するわけには参らない。

それがようやく解除され、陛下が吹上御苑内の御文庫と呼んでいる防空室から、準備完了の御政務室までお出ましになったのはもう十一時を少し過ぎた頃であったが、警戒警報は未(いま)だ解除されてはいなかった。

(中略)

 マイクは御政務室の中央に近く、やや廊下寄りに北向きに置かれ、陛下はそれに向かってお立ちになった。

 陛下が御到着になって、部屋に入っておいでになった瞬間、そのおやつれになった御姿に、私はハッと胸を衝(つ)かれた。何という御憔悴ぶりであったことか。御無理もないこと、昭和二十年に入ってからも、硫黄島上陸以来の空襲の激化、宮殿焼失、沖縄失陥と、御苦悩の日々に加わる折から殊に八月六日の広島への原子爆弾投下、ポツダム宣言、長崎への原爆、ソ連軍の満州侵入開始と矢継ぎ早の大難局の連続、終戦の御決意を思うと胸もつぶれる思いである。

陛下のおうしろには、刺繍獅子図の二枚折の屏風(びょうぶ)が有ったので、マイクの前にお立ちになってからのお姿は屏風の陰になって拝見できなかった。この拝謁室の中央の東西に、録音機二組、K型十四録音機、録音増幅器、二連再生器が据えつけられ、その両側には長友技師、玉虫、春名、村上の各技術員が立つ。

 器械の位置から御政務室寄りには、大橋放送協会会長、情報局加藤第一部長、放送協会の矢部理事、情報局の山岸放送課長、そして、少し離れた一隅には情報局の川本秘書官も立っている。

 先(ま)ず、下村情報局総裁が陛下の御前に出ると、陛下から

「テストをしなくてもよいか?」

とのお訊(たず)ねがあったので、たしか戸田侍従(後の東宮侍従長・故人)の声で、ちょっとテストをしたように思う。技術者側の方では、もう始めても大丈夫というので、私は隣室に侍立している下村総裁にその旨を告げた。

 間もなく、午前に進み出た総裁がお辞儀をしたので、間髪を入れず、うしろの荒川技術局長に伝え、荒川局長の合図で録音を開始した。調整は長友、村上両氏、カッティングは玉虫氏という配置である。

 私共は均しく頭を垂れ眼を閉じて、一言もうかがい漏らすまいとして、お声に耳を聳(そばだ)てたが、伺っているうちに胸は一ぱいになり、とても耐えられない気持ちになり、涙の湧いて来るのを禁ずることは出来なかった。調整に全身全霊を打ち込んでいる技術担当者は別にしても、この場に立ち会った人達はみな、恐らく同じ思いであったことと思う。

何しろ開闢(かいびゃく)以来の天皇のお吹き込みである。しかも、その内容たるや、四十年を経た今日もなお胸を熱く衝く内容である。

伺っている者でさえそうである。況(ま)して、幾多の御苦難、御心痛、御熟慮の末、この未曾有の決断をなさった陛下、しかも戦いのため非命に斃(たお)れたる者たち、またその遺族のこと、戦災をうけている国民、海外に残されている人たちの上を、御心の底から深く悼み、深く愍(あわれ)み、深く御心配になっておいでになる陛下はどんなお気持ちであろうかと拝察するうち、陛下も、たまらなくおなりになったのであろう。「非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セバ五内(ごたい)為ニ裂ク」というところまで来ると、しばらく絶句なさってしまったのである。

一瞬、お言葉が切れてから、再びお声をはげまして後をお続けになったのである。勿論(もちろん)、この詔書の文句が難しく読みにくいという点もあったかもしれないが、しかし、陛下は、そういう言葉には慣れておいでである。しかも、侍従長の話によれば、十分の時間は無かったものの、事前にテストもなさったと伺った。

 陛下は読み終わられるとすぐ、

「どうか」

と御下問になったが、技術的には間違いなかった旨と、数カ所不明瞭な点があると申し上げたのに対し、直ちに

「もう一度やろうではないか」

と仰せられたので、もう一度お読みになるというのである。

石渡大臣は眼を真赤にして、もうこれ以上は伺っていられないから侍立しなくてもよいか、と加藤局長の同意を得て、となりの部屋に出て来てしまった。

二度目のお吹き込みも大同小異であった。陛下は更に

「もう一度やろう」

と仰せられたが、この旨を私が後にいる荒川局長に伝えたところ、放送局の人達も、もうこれ以上お願いすることは堪えられなかったのであろう。もうこれで結構ということになり、陛下は漸くお文庫へお帰りになった。

 放送局の人達は、ひるすぎから今までの長い時間を、今か今かと待ちくたびれながらも緊張の連続であったが、漸くその技術的任務を果たしたのであった。

 御吹き込みが終わって陛下がお帰りになったのは午前零時を少し過ぎた頃であった。



迫水久常氏
「私が親(みずか)ら国民をさとしてもよい」と仰せになられた昭和天皇


出典:1973(昭和48)年 オリエント書房 迫水久常 「大日本帝国最後の四か月」



堪えがたきを耐えよう

 陛下はみんなをさとすような口ぶりで、ゆっくりとつぎのような話をされた。

「三人が反対する気持ちはよくわかるし、その趣旨も分からないではないが、わたしの考えはこのまえいったのと変わりがない。わたしは、国内の事情と世界の現状をじゅうぶん考え合わせて、これ以上戦争をつづけるのは無理だと思っている。国体護持の問題について、それぞれおそれているようだが、先方の回答文をよく読んでみると、悪意をもって書かれたものとは思えないし、要は、国民全体の信念と覚悟ができているかどうかに問題があると思うので、このさい、先方の回答をそのまま受け入れてもよろしいと考えている。陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領ということはたいへん辛く、堪えがたいにちがいない。それはよくわかっている。また、国民が玉砕して国のために殉じようとする心持ちもよくわかるが、わたし自身は、じぶんの身はどうなってもよいから、国民の命を助けたいと思う。このうえ、戦争をつづけたら、結局のところ、わが国はまったくの焦土となり、国民はさらに苦痛をなめなければならない。わたしはそんな惨状をまのあたりするわけにはいかない。このさい、和平の手段に出ても、もとより先方のやり方に全幅の信頼をおけないかもしれないが、日本という国がまったくなくなってしまうという結果にくらべて、生き抜く道が残っておるならば、さらに復興という光明をつかむこともできるわけである。わたしは、明治天皇が三国干渉のときになめられた苦しいお気持ちをしのびいまは堪えがたきを耐え、忍びがたきをしのんで、将来の回復に期待したいと念じている。これからの日本は、平和な国として再建しなければならないが、その道はたいへんけわしく、また、長いときを貸さなければならないと思うが、国民が心を合わせ、協力一致すれば、必ず達成できると考えている。わたし自身も国民とともに努力する覚悟である。今日まで、戦場に出かけて行って戦死したり、あるいは内地にいて不幸にも亡くなったものやその遺族のことを思うと、悲嘆に堪えない。戦傷を負ったり、戦災をこうむったり、家業を失ったもののこんごの生活についてわたしは心を痛めている。このさい、わたしにできることならなんでもするつもりでいる。国民はいまなにも知らないでいるので、和平を結ぶことを聞くと、きっと動揺すると思うが、わたしが直接国民に呼びかけるのがいちばんよい方法なら、いつでもマイクの前に立つ。ことに陸海軍の将兵の動揺は大きく、陸海軍の大臣はかれらの気持ちをなだめるのに相当の困難を感ずるだろうが、必要があるなら、わたしはどこへでも出かけて行って、親しく説きさとしてもよい」

 みんな泣いていた。だれもが大きな声を張りあげて、思い切り泣きたかったにちがいないが、陛下の前なので、声を押えていた。嗚咽(おえつ)が大きな波のうねりのようにわきあがり、消えかけては、またわきあがっていた。陛下は最後にこうつけ加えられた。

「内閣は、これからすぐ終戦に関する詔書の準備をしてほしい」

 陛下のおことばが終わると、鈴木総理が起(た)ちあがって、おわびを申しあげた。

「われわれの力が足りないばかりに陛下には何度もご聖断をわずらわし、たいへん申しわけないと思っています。臣下としてこれ以上の罪はありませんが、いま、陛下のおことばをうけたまわり、日本の進むべき方向がハッキリしました。このうえは、陛下のお心を休して、日本の再建に励みたいと決意しております」

 陛下は蓮沼侍従武官長の合図によって、しずかに退席された。一同は泣きじゃくりながら最敬礼し、陛下をお送りした。



重光葵氏「昭和天皇は日本革命の危険をご存じだった」


出典:1952(昭和57)年 中央公論社 重光葵 「昭和之動乱」下巻 平和の探求 その二



 当時、識者間には、天皇が時局の全貌について十分知らされてをられるかを疑う者が少くなく、天皇は宜しく重臣を召されて、戦争に対する腹蔵なき意見を聴取せらるべきである、という議論が台頭した。

天皇陛下は、重臣を各個に召されて、別々に意見を聴取されることになった。重臣中、時局について特に意見らしい意見を申上げたものは、近衛公一人であった。これは一九四五年二月のことである。近衛公は特にこの機会に用意して、書き物によって口頭をもって意見を述べた。その要点は、日本赤化の危険についてであって、戦争が長びく結果は、降伏よりも赤化の危険が最も恐るべきであることを縷々(るる)申上げた。

陛下は

「然(しか)らば今、自分は如何(どう)したら好(よ)いと云(い)うのか」

との質問を発せられたが、その実際的対策については、近衛公は奉答は出来なかった。

天皇陛下は、時局については、何もかも承知せられて、見透(とお)しをもつけられていたのであって、陛下はすでに平和の探求を是認せられ、木戸内府を通じ、また直接に記者(重光葵本人のこと)より、平和の方策を承知せられていたのである。





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