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2014/08/06

朝日新聞は「従軍慰安婦」捏造の被害者と靖国神社の英霊に謝罪せよ


朝日新聞が「従軍慰安婦強制連行記事を取り消します」と発表しました。 朝日新聞は記事を取り消せば『無罪』になるとでも考えているのでしょうか?

朝日新聞をはじめ日本の共産勢力が「従軍慰安婦」を捏造したために、中国で慰安婦検診を任務としていた麻生元軍医は『強制連行の責任者』と事実ではないレッテルを貼られ、その御家族は今でも苦しんでいらっしゃいます。

朝日新聞は「誤りを再生産し続けた加害者」として、従軍慰安婦捏造の被害者と靖国神社の英霊に謝罪すべきです。


【戦後「日本軍の慰安所」とされてきた写真の正体】
真実は日本軍とはなんの関係もない民間経営慰安所の写真。しかも日本軍の兵営内にあったわけでもない。反日マスコミや左翼は脚注をカットして『コレが日本軍の慰安所だ!!』と宣伝してきた。
(脚注書き起こし)
慰安所入口 江湾鎮にある民間人経営の慰安所。その衛生管理に問題が多い。場所は日本租界の奥、北四川路の北端、海軍陸戦隊本部より更に進む、部落民家の跡。但し海軍とは何ら関係なし。

minei_ianjo2.jpg【写真出典】1993(平成5)年 石風社 麻生徹男著 「上海より上海へ」所収 「写真集 戦線女人考」※写真の脚注は麻生元軍医によるもの。

小冊子の寄稿に群がった反日マスコミと左翼たち


麻生徹男元軍医は、1938(昭和13)年に日本軍が上海に設けた慰安所第一号で慰安婦の検診を任務としていました。

1946(昭和21)年、麻生元軍医は南太平洋から故郷の福岡に復員、1957(昭和32)年には博多の小冊子「うわさ」に「戦線女人考」という慰安婦について書いた一文を寄稿しました。

するとその一文をきっかけに、伊藤桂一氏や千田夏光氏、金一勉氏や吉田清治氏といった面々が麻生元軍医に近づいてきました。

そして麻生元軍医が書いた「戦線女人考」を元に、数々の「従軍慰安婦」関連の書籍が出版され、テレビ番組が制作され、その流れの中で「朝鮮人女性強制連行」が捏造されてゆきました。それらの書籍やテレビ番組は次のとおりです。



出典:1993(平成5)年 石風社 麻生徹男著 「上海より上海へ」 付録・麻生徹男 「従軍慰安婦資料」をめぐって



〔著作物〕

・『兵隊たちの陸軍史』 伊藤桂一著 (昭和四十四年 番町書房)

『従軍慰安婦-声なき八万人の告発』 正・続 千田夏光著 (昭和四十八年・四十九年 双葉社)

・『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』 金一勉著 (昭和五十一年 三一書房)

・『朝鮮人慰安婦と日本人』 吉田清治著 (昭和五十二年 新人物往来社)

・『一億人の昭和史』10巻 「不許可写真集」 (昭和五十二年 毎日新聞社 六二-六五頁に写真五枚掲載)

・『沖縄のハルモニ』〔大日本売春史〕 山谷哲夫著 (昭和五十三年 晩聲社)

・『昭和二万日の全記録』5 (昭和十三-十五年 平成元年 講談社 四八-四九頁に慰安婦関係写真四枚と三一九頁に従軍看護婦写真掲載)

・「十五年戦争重要文献シリーズ」① 『軍医官の戦場報告意見集』 (平成二年 不二出版 論文(「花柳病ノ積極的予防法」)と一一三-一二二頁に十枚の写真収録)


〔テレビの放映及び映画〕

・NET 「従軍慰安婦」 (みどり魔子・千田夏光出演 昭和四十九年)

・RKB 「従軍慰安婦 突撃一番」 (ディレクター・上坪隆 金一勉出演 昭和五十二年 二月十三日)

・日本テレビ 11PM 「女子てい身隊という名の韓国人従軍慰安婦」 (大橋巨泉と韓国の映画 昭和五十七年三月一日)

・JNN 「従軍慰安婦」 (昭和五十九年)

・映画 「戦場の女たち」〔ビデオ〕 (関口典子監督 五十五分 平成元年九月)




特に千田夏光氏著「従軍慰安婦」では、麻生元軍医が陸軍に提出した性病対策レポート「花柳病ノ積極的予防法」をとりあげて、

『このレポートの結果として軍の目は当然のようにそこへ向けられていく。それは同時に、朝鮮人女性の怖るべき恐怖のはじまりでもあった。朝鮮半島が若くて健康、つまり理想的慰安婦の草刈場として認識されていくことになるのだった』

とまったく事実ではないことを書いたため、麻生元軍医は「強制連行の責任者」のように記述されたり、言われたりするようになりました。

麻生元軍医が陸軍に提出した「花柳病ノ積極的予防法」の内容は、

『軍の慰安所は娼楼(遊廓)ではなく、音楽、活動写真(映画)、図書あるいは運動が良い』

といったもので、『朝鮮人女性は慰安婦に適している』などとは一言も書かれていなかったのです。

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マスコミや左傾ジャーナリストの「従軍慰安婦強制連行」捏造のせいで、

・1991(平成3)年12月6日…韓国人らが強制連行の補償を求めて東京地検に提訴

・1992(平成4)年1月11日…政府が従軍慰安婦に軍の関与を認める発言をし、宮沢首相が訪韓して韓国人に謝罪を行い、ソウルの日本大使館に卵が投げつけられる

・1993(平成5)年8月4日…「河野談話」発表


と、日本の対韓外交はいわれなき、事実無き土下座外交となっていきました。

それと並行して、宮沢首相訪韓の前後には麻生元軍医宅の電話が鳴り響き、『あなたがあんな資料を出したため、日本は困った立場に立たされた』と非難されたそうです。

麻生元軍医死去後も、いろんな人たちが麻生元軍医宅を訪れて、麻生元軍医を中傷し、その中には「民族の恨みを晴らすため」と言う者までいたそうです。

怖いと思いませんか?

朝日新聞や一部の左傾ジャーナリストの捏造は、朝鮮人売春婦を悲劇のヒロインに仕立てていく一方で、まったく罪のない日本人を危機におとしいれていたのです。

朝日新聞が生産し続けた罪なき人々への「いわれなき批判」


戦前の書籍に

新聞社内のストライキは記事にならない

という一文がありました。新聞社が報道しなければ、それは世間に知られずなかったことになるという意味です。

日本の新聞社が錦の御旗のように掲げる「報道の自由、報道しない自由」の恐ろしさは、朝鮮人売春婦の神格化もですが、善良な日本人を命さえ奪われかねない状況におとしいれるという点にあると思います。

朝日新聞はシャーシャーと

「当時、虚偽の証言を見抜けませんでした」

などと弁解していますが、上掲の慰安所の写真の脚注にはちゃんと「民間経営慰安所」「日本軍とは関係なし」と書かれています。このことは朝日新聞社がこの写真資料を借り受ける時に、麻生元軍医の御家族から説明も受けているはずです(朝日百科「世界の歴史」124号平成3年4月21日号に上掲の民間経営慰安所の写真が使用されている)。


【朝日新聞、弁解もウソ満載】
慰安婦問題とは
2014年8月5日 朝日新聞
 Q 慰安婦問題が国内で知られるようになった経緯は。

 A 戦後まもない時期から兵士の体験談や手記で触れられていた。70年6月、作家の故千田夏光氏が週刊新潮で「慰安婦にさせられた」という女性や旧軍関係者の聞き取りを紹介。73年にルポ「従軍慰安婦」を刊行した。当時はまだ戦時下の秘史という扱いだった

■読者のみなさまへ

 吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました。



麻生元軍医のご家族の苦悩




朝日新聞には、麻生元軍医とその御家族、女衒・楼主扱いされた靖国神社の英霊の御霊に謝罪していただきたいと思います。

朝日新聞は「いわれなき批判」を受けている被害者ではなく、罪なき人々に「いわれなき批判」を与え続けた加害者側なのです。

本記事の資料



出典:1995(平成5)年 石風社 麻生徹男著 「上海より上海へ」 あとがきにかえて



 「従軍慰安婦」に関する父の資料」と題して「西日本新聞」(一九九二年〔平成四〕二月六日)文化欄に書いたものを、一部加筆して再録する。


 私の生まれた家は産婦人科医だった祖父が明治四十一年(一九〇八)より私立の助産婦養成の学校をしていました。そこには日本の各地と台湾、朝鮮半島、中国大陸などからやってきた若い向学心に燃えた女性がいて、父も私も幼い頃からこうした人達とともに生活して来ました。

(中略)

 父・麻生徹男は昭和二十一年南太平洋の戦地から復員して、祖父の後を継ぎ産婦人科医として福岡市で働き始めました。戦争の傷が癒されて再び旧勢力の復活が目立ち始めた昭和三十二年九月の博多の情報誌「うわさ」に、中国戦線における体験(昭和十三年)をもとに父は「戦線女人考」という一文を書き、従軍慰安婦のことを紹介しました。これが縁で作家の伊藤桂一氏、千田夏光氏らが本を書かれ、金一勉氏や吉田清治氏などとも知り合うようになりました。

 それから脈々と戦争の裏面のこの問題は心ある人達によって語り継がれて来ました。

 ところが、父が陸軍に提出した性病対策レポートが原因で、朝鮮人の女性たちが慰安婦として連行されることになったとか、連行そのものの責任者のように記述されたり言われたりすることがあったので、「誤解を解くために、ちゃんと事実を書いて、本にしたらどうですか」と私は父に言ったことがありました。

 その時父は「自分は事件の当事者であって、それを解釈するのは他の人なのだ。だから私は自分の体験したことだけを手記として残しておく」と言いました。事実だけを述べる科学者の態度に徹していて、また後の世代の者への信頼がありました。

 その父のレポートは結論として娼楼ではない軍用娯楽所の設立を希望し「アルコール飲料の制限とそれに代わるものとしてより高尚なる娯楽施設を必要とす。音楽、活動写真、図書あるいは運動が良い」と言うことが書かれていて、これを強調したかったと手記にあります。「それは私個人としても切に求めたものであった」と書かれています。

 平成元年七月十一日父が七十九歳の生涯を閉じ、その三カ月後に東京の不二出版の舟橋治氏から母あての手紙が届きました。

 氏はアメリカから返還された資料などを纏(まと)めて『十五年戦争極秘資料集』二十巻を作っておられましたが、その作業中に出合った、極秘資料ではない戦争の資料の貴重なものもきちんと纏めて公開したいと言うことでした。

 そして父が死の二カ月前に送った軍の慰安施設の写真などを預かっておいででした。新たに「十五年戦争重要文献シリーズ」を作ってその第一巻『軍医官の戦場報告意見集』としたいと申し入れて来られました。船橋氏は、官製の極秘資料だけで戦争が語られたら一方的だと言われ、私も恐ろしいと思いました。その一点で合意して私共は公表に踏み切りました。(従軍慰安婦関係写真資料十点と「花柳病ノ積極的予防法」の手書き原稿一編)

 戦争と性に関する記録が一産婦人科医の手によって残されたのです。私自身は父が娘達に戦争とはこんなに悲惨なものだから戦争を起こさずに賢く生きてゆけよと言うメッセージと受取りました。

 父の患者さんには朝鮮の人も多く、父の死後、私の診察室に在日韓国人二世の患者が「母がドクター麻生の所へ行け」と言うので訪ねたと東京から来られた方もありました。

 父が作った写真集「戦線女人考」には戦争の中の女性の姿が温かい眼差しで捉えられています。スパイ容疑で殺されるところの中国女性をある軍医から預かり、祖父の助産婦学校で学ばせて帰した女性の写真もあります。私は幼い頃その女性と共に生活しました。

 父の残した資料は民族間の紛争をあおるために、また性的興味のために扱われるものではありません。私は戦争の悲惨さを特に女性に知らせたい思いで、いろんな圧力に耐えています。どうぞ父と遺族のこうした思いを正しく受け止めてください。

 事実は、私の父は上海の兵站病院の外科で働いていたところ産婦人科医なので呼び出しを受け、昭和十三年一月二日、陸軍慰安所のために連れてこられた約一〇〇人の女性の検診を行った。その人達は八〇人が朝鮮人で二〇人が日本人であった。その一年六か月後の昭和十四年六月三十日、第十一軍の軍医会同という軍医の会で「花柳病ノ積極的予防法」という講演をしてその中で述べている。この論文は軍医医部を通して軍司令部に提出されている。軍命令で慰安婦の検診をして、その一年六か月後にレポートを提出した者が、この著者の思い込みによって、朝鮮人強制連行の責任者のようにされてしまった。そしてこの数年間、従軍慰安婦に関する本を出す人達が、この著者の本を孫引きし、誤りが再生産されてきた。

 私の父は強制連行の責任者のように言われることに耐えてきたが、父の死後は、いろんな人達が父を中傷して私の所にやってきた。「民族の恨みを晴らすため」というものから「子としてどう思うか」というものまで様々だった。私はまず事実の誤認を述べた上で、日本人の行ったことには私にも責任があるので遺憾の意を表してきた。しかし、私を告発する日本人が、外国人と同じ態度でもの言いされるのが、私はとても気にかかった。「私に責任を問うあなた方日本人には私と同じくらい責任がある」と思う。何があってその結果どのようになったかという因果関係をきちんと記述することは、歴史を取り扱う者の基本的な態度である。事実に基づいた記述をすべきである。

 父の死後、慰安婦の資料と関わらざるを得ない立場に追い込まれて、約四年になろうとしている。その間の経過は〈付録・麻生徹男「従軍慰安婦資料」をめぐって〉に述べた。「毅然とした態度をとらなければ相手に悪いことをさせてしまうのだ」と、私のお人好しの態度を叱った父の言葉を思い起こすことの多い日々だった。近隣の人々との真の友好関係を築いていくために、父の回想録が何かのお役に立てば幸せである。

 この稿をまとめるに当たり、多くの方々のお世話になった。ご協力くださった岩波書店の大塚信一氏、不二出版舟橋治氏に感謝の意を表する。新幹社高二三氏、麦秋社柳久美子氏のあたたかいお申し出に感謝している。

 石風社福元満治氏に大変お世話になった。私家版の手記を公にすることにはためらいがあったが、若い方のお薦めで、ずっとずっと後に樫の木にささった矢を見つける人のいることに望みを託して出版に踏み切った。今までのように言葉を一つ一つ取り出してそれにこだわるのでなく、どうか全体を読んで欲しい。何度も暗礁に乗りあげたが、彼のお蔭で出版の運びとなった。心よりの感謝を捧げたい。(後略)




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