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2015/07/18

仏教を弾圧した李氏朝鮮


韓国が日本から盗んだ仏像を一体だけ返却するそうですね。

朝鮮仏教の歴史には李氏朝鮮時代の500年間、仏教は朝鮮王に弾圧された、とあります。

国に弾圧され、困窮した朝鮮寺院は、仏像や石物など寺にあるものを投げ売りしていたそうです。

しかも、日本が朝鮮に統監府を置くと、経済的、身分的に最底辺だった朝鮮寺院は日本の寺院に帰依して命をつなごうと運動まで起こしました。

帰依する宗派は曹洞宗、臨済宗、真宗など、なんでもよかったそうです。

つまり、日韓併合前から「困ったら日本に寄生」していたのですね。

それが今では、「日本が朝鮮の文化財を盗んだ!」ですからね。

李氏朝鮮時代、寺院は両班(朝鮮貴族)の旅館にされ、遊び場にされました。

宗教だけでなく、李氏朝鮮は朝鮮固有の歴史、文化、芸術まで破壊しました。なんと、寺の鐘まで溶かして銭に作りかえたそうです。あきれますね。


【朝鮮にあったなら銭にされたかも知れない仏様】
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【仏教弾圧を開始した世宗王】
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【朝鮮族の神様-天下大将軍】
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朝鮮仏教を保護した日本



李氏朝鮮初期、朝鮮王は儒教を重んじ、仏教を弾圧することにしました。

その理由は、高麗王朝が重んじていた宗教が仏教だったので、高麗朝の痕跡をぜんぶ消し去るため、

そして、仏教を弾圧して寺院が所有する広大な土地を没収するためでした。

朝鮮実録には、仏教弾圧を開始したのは世宗王と記録されているそうです。

この仏教弾圧を圧仏政策というそうです。戦前までは、朝鮮の史家も世宗王の仏教弾圧を知っていました。


【世宗王が発明した愚民のための文字ハングルを自賛する韓国】



李氏朝鮮時代、僧侶は宮廷に立ち入ることを禁止され、戦争になると兵としてかりだされました。

当然、朝鮮官吏は国に保護されない寺院の足もとを見て、不当なワイロを要求したりしました。

なので、困った寺院は財産を投げ売りして、官吏に渡すワイロを調達していました。

このような仏教弾圧が500年間続いたのち、大韓帝国政府はようやく朝鮮寺院が消滅の危機に直面していることを知り、法を作って僧侶が宮廷に立ち入ることを許可し、東大門の外に元興寺という寺を創建しました。それと同時に官吏が寺院に不当なワイロを要求することを禁止しました。

しかし、朝鮮人が法を守るはずもなく、日本が統監府を置くと困窮のドン底にあった朝鮮寺院は日本の寺院に帰依して命脈を保とうという運動を開始しました。

要するに、朝鮮寺院は自力で現状を打開するのはイヤなので、日本の寺院に寄生することにしたのです。

1906(明治39)年には朝鮮奉元寺の僧侶である李寶潭、華溪寺僧侶洪月初などが内地浄土宗の後援の下に仏教研究会なるものを組織して浄土宗を名乗りました。

1908(明治41)年には、妙香山普賢寺の僧侶が本末寺を率いて臨済宗妙心寺派に帰属しました。

1910(明治43)年、日韓併合の年には、朝鮮各道の寺が集合して設立した圓宗が、代表者李晦光を日本に送って、曹洞宗と連合協約を締結しました。

またその他の朝鮮寺院も日本の真宗に帰依したり、日蓮宗に近づこうとする朝鮮僧侶も続出しました。

察するに、朝鮮では

真心、誠意=品物

なので、朝鮮寺院が日本の寺院に帰依するときに手土産として仏像を持参した、ということも考えられますね?


日韓併合後、日本は寺刹令という寺院に関する法律を発布して、日本の寺院に帰依して 「朝鮮臨済宗ニダ」 などと標榜していた朝鮮寺院を朝鮮本来の姿にもどしました。

朝鮮本来の仏教とは、禅教両宗です。禅教両宗とは日本の禅宗と華厳宗との長所を取り入れたような宗派だそうです。


【禅教両宗とは】

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大阪朝日新聞 1920(大正9)年7月2日

新旧両派に別れて朝鮮仏教の勢力争い
互に虚実を尽して暗闘す


朝鮮在来の仏教なるものは李朝五百年の間迫害を蒙った結果として僅に形態を止むるに外ならない態勢にあるがソレでも全鮮を通じて千三百箇所の寺院と約五千名の僧侶と九万人内外の信徒とを維持して居るのである、シカモ本山と称するものが三十余の多きに達して居るので京城府鐘路に三十本山事務所を設置して統一的に事務を執って居る、現存の朝鮮仏教なるものは禅教両宗と称して内地の禅宗と華厳宗との長所を採ったようなものであるから朝鮮僧侶にして内地に遊学する者は多くは教義の最も近い臨済宗曹洞宗等の学林に入って修学するのである、所が近頃臨済宗の後藤瑞厳師と提携して朝鮮仏教の新発展を企図しつつある李海光師と前記三十本山の委員長たる姜大蓮師との間に凄じい暗闘が繰返されて居る、 (後略)

【資料出典】
神戸大学 新聞新聞記事文庫



なおかつ、日本は寺刹令において、朝鮮寺院の財産を売却する時、朝鮮寺院がなんらかの負債を負う時は朝鮮総督の許可を取るように定め、朝鮮寺院がふたたび困窮におちいることのないようにしました。


【寺刹令】

出典:1934(昭和9)年 朝鮮総督府学務局社会課 「朝鮮に於ける宗教及亨祀一覧」



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韓国に文化財になるような仏像がないのは、日本が奪ったからではなく、

朝鮮の悪政

が原因です。

日本には長い間、日本人に崇拝されてきたきれいな仏様がたくさんいらっしゃるのですから、朝鮮の仏像を盗む必要などありません。


【自国の歴史を歪曲するバ韓国】

対馬の仏像返還に韓国の専門家は?「ユネスコに寄託し国際論争を」=韓国ネット「韓国政府はあらゆる面で無能」「韓国人であることが恥ずかしい」
2015年7月16日 Yahoo! ニュース(レコードチャイナ)

2015年7月16日、韓国・YTNラジオは、対馬から盗まれ韓国に持ち込まれた仏像の日本への返還を韓国検察が決定したことについて、韓国の専門家へのインタビューを報じた。

返還に賛成の立場を示したのは、崔鳳泰(チェ・ボンテ)弁護士。韓国の刑事訴訟法上、違法に取得された物は被害者に返還するよう定められているとし、日本に略奪された可能性が高くても、日本に占有権が認められるとした。また、今回の返還は、過去日本に略奪された他の重要な文化財を正当な方法で取り戻すための、いわば「大を得るために小を失う」方法だと述べた。

一方、返還に反対する恩平歴史韓屋博物館の黄平雨(ファン・ピョンウ)館長は、国内法でなく国際法を適用すべきであり、仏像を返すのではなく、ユネスコに寄託し、国際的な論争を巻き起こすべきだと主張した。また、実際に対馬を訪問したという黄館長は、現地での文化財の管理が非常にいいかげんで、誰でも盗めるような状態だったと述べた。

これについて、韓国のネットユーザーからはさまざまなコメントが寄せられている。

「あらゆる面で無能な政府。本当に見事だよ」
「朴正煕(パク・チョンヒ)が駄目にして、朴槿恵(パク・クネ)がまた駄目にする無能な国民。本当に無能なのは国民だ」
「国民が文化財を見つけて来ても、それを奪って返してしまう韓国政府。戦争が起こるたびに、国民を捨てる指導者たち。これが韓国指導層の実態だ」

「日本が略奪した証拠がないというなら、正当に買ったという証拠はあるのか?」
「大を得るために小を失うって?日本にある6万点の韓国の文化財を取り戻すまねでもしてから言え」
「自分の物も何一つ守れない上に、韓国の物を自分の物だと主張するやつらと、どんな外交をするんだ?だから韓国がばかにされるんだ」

「自分が韓国人であることが本当に恥ずかしい」
「そんな論理なら、独島(日本名:竹島)や東海(日本名:日本海)も渡さなきゃならない」
「韓国政府にたった一つでいいからまともにできることがあってほしい」 (翻訳・編集/和氣)



本記事の資料


朝鮮総督府
・苛酷をきわめた李朝歴代の圧仏政策
・李朝末期になって僧侶の入城を許可、東大門外に元興寺という寺を創建
・朝鮮官吏は寺に不当なワイロを要求、そのため寺が寺の財産を投げ売り、大韓帝国政府がようやく寺院保護へ
・統監府時代になると困窮をきわめた朝鮮寺院は日本の寺院に帰依しようという運動を開始
・日韓併合後、日本は寺刹令を発布し、朝鮮寺院の財産売却・負債を負う場合は総督の許可制にした


出典:1933(昭和8)年 朝鮮総督府編 「朝鮮総攬」 



寺刹令の発布と其の運用に就(つい)て

 寺刹令は明治四十四年六月制令第七号を以て発布せられ、同年七月寺刹令施行規則の発布を俟(ま)って、同年九月一日より施行せられたるものであるが、この法令こそは、衰頽を極めた朝鮮仏教を更生せしめ、朝鮮文化史上尠(すくな)からざる(少なくない)貢献を為(な)しつつあるものである。

以下寺刹令発布前後の朝鮮仏教の状勢、寺刹令の内容竝(ならび)に其の運用状況及び寺刹令発布後の仏教の進展に関し、略叙して見たいと思う。

 さしも苛酷を極めた李朝歴代の圧仏政策も、其の末期に至りては、時勢の進運に伴い多少緩めざるを得なかった。即ち李太王三十二年(明治二十八年)には、内地日蓮宗の僧侶佐野某の上奏を容れ、僧侶入城の禁を解き光武三年(明治三十二年)には、東大門外に元興寺という寺を創建して、久しく廃止の状況にあった明宗以前の両宗都会所の例に倣(なら)い、之(これ)を朝鮮仏教総務院となして、都摂理なる僧職を置き、全国の寺刹を統(す)べしめ、越えて光武六年(明治三十五年)には、寺刹に関する勅令を発布して、僧侶・出家・布教・伝道等を法規上に於て認め、官府士族の賦課誅求(ふかちゅうきゅう:朝鮮官吏がワイロを要求すること)を訴うるの途(みち)を設くるに至った。

是(こ)れ全く李朝僧政の大変革であって、官府として久し振りに仏教庇護の態度に出でたのである。然(しか)し当時は李朝政道の腐敗益々(ますます)甚(はなは)だしく、法令は空文に過ぎずして、官家の寺刹に対する誅求は依然として絶えず、仏教自身も累年の受難に因(よ)り、法網の弛緩、僧侶の困迫其の極(きわみ)に達し、折角(せっかく)の機会を得ながら其の陣容を整えて、復興を策するだけの余力を持たなかった。

之(これ)に加えて時勢は漸次多事多難となり、全国挙って帰趨(きすう:いきつくところ。帰結)に迷いたるを以て、僧侶達は内部の結束を固め、法律上保障を利用して頽勢を挽回せんとする意気に乏しく、徒(いたずら)に他に依頼せんとするに汲々とし、其の結果内地宗派と連合の盟を結び、若(もし)くは内地宗派に付随帰依せんとする運動が起った。

即ち光武十年(明治三十九年)には廃奉元寺僧李寶潭、華溪寺僧洪月初等、内地浄土宗の後援の下に仏教研究会なるものを組織して公然浄土宗を名乗り、隆煕二年(明治四十一年)には、妙香山普賢寺の僧侶本末寺を率いて臨済宗妙心寺派に帰属し、隆煕四年(明治四十三年)には、各道重なる寺刹に依(よ)りて設立されたる圓宗が、其の代表者李晦光を内地に送り、曹洞宗と聯(連)合協約を締結し、其の他に於ても或(あるい)は真宗に帰依し、或は日蓮宗に近づかん(近づこう)とする者続出した。

そして如斯(かのごと)き運動が進行して居る反面に於て、寺有財産は益々散逸の度を増して行くのみであった。

 寺有財産に就(つい)ては、前記寺刹に関する勅令に於て、寺刹と僧侶の財産の区分を明かにして、寺刹の財産を政府の監督保護の下に置き、且つ官府士族の賦課誅求に対し救済を求め得るものとしたけれども之(これ)が一片の空文に過ぎず、奸僧は盛(さかん)に寺有の土地什物を投売り、之が為(た)め黄州の成仏寺、平原の法興寺の如き、全く破産の状態に陥りたるを始め、各寺刹の減失するもの夥(おびただ)しかった。

一方、地方官憲は教育費に充用すると称して、盛んに寺有の土地山林等を没収し、其の弊余りに甚(はなはだ)しかった為め、当時の政府も之を見かね、隆煕二年(明治四十一年)各観察使に訓令して、地方官憲が擅(ほしいまま)に寺有の田土山林を他に移属させることを禁止した位であった。

故(ゆえ)にかかる状態のまま尚数年を経過したらんには(したならば)、朝鮮仏教は遂に四分五裂の悲運に陥り、千余年或は数百年間守護して来た寺有財産は、殆(ほとん)ど減失されたであろうことは、疑いの無い事実である。

 寺刹令は、かかる危機一髪の際に発布せられ、同法に基(もとづ)き総督の許可を受けて成立する寺法と相俟(あいま)って、当時朝鮮仏教の逢着していた目前の急を救うと同時に、其の永遠の帰趨を示したのである。此(こ)のことは寺刹令全体の精神を一瞥することに依って、何人でも頷(うなず)けるであろうと思う。

 第一、宗派を統一し分立の弊を絶った。

 寺刹令は先(ま)ず宗派を統一して禅教両宗とした。朝鮮の僧侶は何れも西山大師の法脈を継承し、禅教兼修を以て旨となすに拘(かか)わらず、前記の通り曹洞と締結し、或は臨済に帰依し、或は浄土を称号するもの等続出し、一方には是等(これら)の運動に反対して朝鮮臨済宗を標榜して立つものもあって、宗論囂々(ごうごう:かまびすしいこと)として帰するところを知らなかったが、寺刹令は之等(これら)を抑えて、元の禅教両宗に帰せしめ、以て各宗分立の弊を根絶し併(あわ)せて朝鮮仏教として復活して行くべき理想を示したのである。

 第二、寺刹財産の安全を図った。

 寺刹令に依り、寺刹の法律上の権利能力及び其の財産権を確認して、外界からの侵犯を防止し、一方寺刹に属する土地・森林・建物・仏像・石物・古文書・古書画、其の他貴重品を処分せんとするときは、其の寺刹の住持(住職)に於て朝鮮総督の許可を得せしめ、更に昭和四年の改正に依りて、寺刹が負債をなすに就ても、財産の処分と同様総督の許可を得せしめた。之(これ)に依って寺有財産の保護が安全になったのである。

 



金玉均の弟子金振九
「李朝は朝鮮固有の歴史、文化、宗教、芸術をかたっぱしから破壊し寺の鐘をいつぶして銭にした」


出典:1936(昭和11)年 名古屋出版社 金振九 「国癌切開」  四、民族意識強烈の由来と現在



1. 尊周主義と事大思想

 一口に朝鮮といっても、二千年前の粛慎高句麗時代の如き、武を以て支那を懲(こら)し、厳然たる東方の雄を鳴らしたる時代(隋の煬帝は、乙支文徳将軍の為めに、清川江 ── 今の平安南道 ── にて惨敗し、唐の太宗李世民は、楊萬春のために ── 鳳凰城 ── 今の満洲安東省 ── に於て、敗戦と共に中矢隻眼の不具となったのです)もあり、その後、新羅、高麗の如く、文物燦然(さんぜん)、東方文明の絶頂時代もありましたが、一旦李氏の天下となるや、固有の歴史と文化並(ならび)に宗教と芸術を、片ッ端から破壊し、駆逐したのであります。

 旧臘(きゅうろう:昨年の十二月)、大毎紙上に、井上吉次郎博士の筆になる『木枯し朝鮮』と題する随筆中、国宝、慶州の鐘(新羅聖徳王の神鐘)の讃辞に

李朝は、鐘の音に頓着せぬ野蛮時代であった。見つけ次第、鋳(い)潰(つぶ)して銭にした。雉(きじ)も鳴かずば、打たれまい、そんな時代には、沈黙に限る。事実、李朝にこの鐘の鋳潰されなかったこと、不思議である。十二万斤(きん)、銭に鋳直せば、相当なもんだ。それが不思議に、蛮人の耳目に触れず、もとの都の荒廃に帰した、その田圃(たんぼ)の中に、沈黙を守って、生命を保って来た。』

 と、書いてあります。この一文が、その固有文化破壊の一端を、立証するのであります。

しかも、李朝破壊時代に於ける政治家連の、我利我欲(がりがよく)、邪淫乱行(じゃいんらんぎょう)と、国運の興廃、子孫の盛衰なんぞ、てんで、眼中になかった悪夢時代を歯軋(はぎし)り憎む心情がハッキリ見えるのです。この点、私達の共鳴する所であります。




朝鮮実録 「朝鮮仏教弾圧を開始したのは世宗王」
朝鮮の史家も世宗が仏教を弾圧した、と指摘


出典:1925(大正14)年 雄山閣 稲葉君山 「朝鮮文化史研究」



四、王室に利用せられた儒学

 半島の儒教が、遂に形式的に堕した顛末は、今、述ぶるの遑(いとま)はないが、ともかくも、それの急激に発展した事実を顧(かえり)みるときは、自(みず)から次の二個の理由を見出すことが出来るのである。

その一は、王室が、儒教を利用したことである。王室が儒教を利用したということは、必(かならず)しも哲王が時代の思潮を捉えたというのではないのである、私の見るところをいえば、王家の祖先のかかる態度に出たのは、仏教徒圧迫の手段に充(あ)てたのであった。

仏徒の手中よりあの広大な寺産(じさん:寺の財産)を取り上げようとするに外(ほか)ならなかったのである。世宗王は、それの最初の下手人であったと思う。

実録を検するに、王は世子に命じ、大学にゆき、儒服して、束脩(そくしゅう:師のもとに入門する時に贈呈する礼物。転じて、入学の時に納める金銭)の礼を行わしめたこともある。四書を試験に採用するの命を下したこともある。この時代まで毎年末には、必ず仏寺山川に人を派して祈福をやったものであるが、王は、そんな馬鹿げたことがあるかといって採用せなかったといってある。

これら多くの事実を綜合するときは、世宗王は、心からの排仏であった、そして専(もっぱ)ら儒教を尊重したかのように思わるるけれども、しかし、その裏面を窺(うかが)ってみると、王の心底面には、前代からの宗教的気分を放棄することは出来なかったのである。

王は、禁中(きんちゅう:宮殿の中)に内仏堂を置いたことがある、それをば学士連に嗅ぎだされて、排仏問題を惹(ひ)き起した際、王は、泣いてもそれを手放そうとはせなかった。

朝鮮の一史家は、この事実を指摘して、世宗王には、わからないことがある、已(すで)に仏教を排斥し、寺刹の奴婢(ぬひ:朝鮮の奴隷)を取り上げながら、却って仏に侫(ねい)する(へつらう、おもねる)とは、どういう次第であるかと述べたものもあるが、それらの批評は、肯綮(こうけい:ものごとの急所、要点)に中(あた)ってはいない。

世宗の志は、始めから寺産藉没に在った、ただそれを実現するには、儒学を倡(奨)励するより捷径(しょうけい:近道)はないとしたまでである。




李朝初期、ドン底にたたき落とされた仏教
朝鮮の寺院は両班(朝鮮貴族)の旅館にされ遊蕩場にされた


出典:1925(大正14)年 雄山閣 稲葉君山 「朝鮮文化史研究」



十一、ドン底に落された宗教

 第五、宗教について考えて見るに、内地仏教と朝鮮仏教とは、その昔から親類でありながら、その境遇には恐ろしい差別の生じたことを、私は認めるのである。

全体に於て、日本の僧侶は、武士と殆(ほと)んど等しい程の地位を占めて居た、切支丹(キリシタン)禁制の為(た)めでもあるが、寺院は、一般人民の戸籍を預かって居たから、一倍権力を付与されて居たものと思われる。

民間の教育でも、普通教育の発達せぬ前は、寺子屋と称した、即ち前代社会の知識階級は、多く寺院に在(あ)り、寺院よりして、文化は維持されて居たから、社会の尊敬を受けることも、当然であると言わねばならぬが、朝鮮仏教は、不幸にして李朝初年、政治的の圧迫を被(こうむ)り、社会のドン底に敲(たた)き落された。

高麗時代の反動ということも出来るけれども、主なる目的は、李朝の政治家が、寺産(じさん:寺の財産)を強奪することの目的の下に、新来の儒学を利用して、これに代(かわ)らしめたのである。

仏教には、印度(インド)芸術が伴って居るから、貧弱なる朝鮮の社会には、副(ママ)わしいものではなかったかも知れない。形式、内容ともに単純なる儒学の方が、境遇に適当したものであるかも知れないという観察もある。

それは兎(と)も角(かく)も一旦社会のドン底にたたき落された仏教は、五百年の久しき、徒(いたず)らに其の内容を悪化させるのみであったのである。

内乱若(も)しくは、外難の際、僧軍が組織されたから、武士に比せられぬこともないではないが、併(しか)し、朝鮮の武士そのものは、前に述べた如(ごと)く社会の尊敬を受けるものでなかったから、僧侶が軍人になったからと言っても、少しも其の地位を昂(たか)めたということは出来ない。

数年前、独立騒擾(三・一独立万歳騒擾事件)のあった際、東京に於ける有志の方は、朝鮮仏教と内地仏教との関係を説き、それを利用すべく、私に意見を求められたことがある。

当時、私は次の如く述べた。同じ仏教ではあるけれども、朝鮮仏教過去五百年間の歴史は、内地仏教の如く、人民の信頼を得ることは、甚(はなは)だ困難であるから、今、俄(にわ)かに、これを利用するといっても、効果を収めることは、寧(むし)ろ困難であろう。社会のドン底より水平面まで、引上げることすら、今では困難である。況(いわ)んや是等(これら)の仏教を利用して、統治の上に好影響を与えしめようなどと考えるのは、今のところ、比丘尼(びくに:尼、あま)に何とやらと言ってもよいことであるまいかと述べた。

私は、今日でも、是等の観察は変らない。成程(なるほど)宗教課も設けられ、三十本山など称するものもあるけれども、それは、所謂(いわゆ)る内地延長主義に他ならぬのであって、内鮮両方面の仏教の地位には、著しき差別がある。寺院が朝鮮に於ては、両班(朝鮮の貴族階級)の旅館に充(あ)てられ、甚だしきは遊蕩場と化しても、一般の人民から、何等怪(あやし)まれないということの事実は、地方に居られる諸君の、定めて実験なされたことであろうと思う。 

朝鮮仏教と、シャマン(シャーマン)教との関係、及び道教との種々なる交渉は、改めて述べる機会があろう。








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