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2015/07/16

昭和史から消された日本軍宣撫班


安保法制のファーストステップが可決されましたね。

妄想歴史の中で生きている反日野党は採決に反対しましたが、戦時中、日本軍には暴力的な共産主義の対極に位置する宣撫班という部隊がありました。

宣撫班は武器を一切もたなかったため、「平和の戦士」とも呼ばれていました。

大虐殺があったはずの南京で、中国人難民や子どもたちに優しく接している日本兵、それが宣撫班です。


【戦前日本の思想戦展-日本の敵はコミンテルンだった】
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南京大虐殺の真実-平和の戦士日本軍宣撫班



宣撫班に所属する日本兵は、宣撫班員または宣撫官と呼ばれていました。

宣撫班の一番の任務は、中国人民に日本軍の真実と共産主義がいかに悪であるかを知ってもらうことでした。

中国人民は国民党や共産党の日本悪宣伝をすっかり信じきっていたので、宣撫班員は武器を一切もたずに抗日意識に燃えた中国人民の中に飛びこんでいったのです。





宣撫班の他の任務は以下のとおりです。

【宣撫班の任務】

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【従軍宣撫】
・帰来勧告 (南京に中国人民がもどってきた理由)
・治安維持会の組織指導 (共産党の侵入を防ぐため)
・諸情報の収集
・対敵宣伝 (共産主義は悪だと宣伝する)
・人夫、馬車、物資の調達、宿舎斡旋
・兵器、弾薬、薬莢(やっきょう) の収集
・清掃工作 - 戦場清掃、抗日物件 (天皇陛下を侮辱するもの等)の抹消、親日物件の展示
・軍協力工作 - 国共両党組織体の潰滅、兵站線保護

(日本軍による物資配給-日本軍に同調した中国婦人たちが配る)
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(中国のおばあさん@難民)
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【定着宣撫】
・帰来勧告 - 慰撫布告

【鎮撫工作 - 民心安定】
1 事変に対する認識是正
2 良民の生命財産の保護
3 難民の救済
4 施療、施薬
5 民衆問事所の開設 (日本軍の真意を民衆に伝える)
6 布告、ビラ、ポスター貼付配布 (誤った抗日容共治下の民衆を赤化の危険から救う)
7 演芸、催物の開催

(日本軍宣撫班のビラ@天津-拒赤化誘惑〇信任日軍)
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(日本軍医による種痘)
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(通州事件後、日本軍が復興した通州城内-日本製自転車が走る)
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(親日中国人と通州までの道路を造る日本軍)
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【政治工作】
1 県公署の組織指導
2 区公所の組織指導
3 村公所の組織指導

【治安維持工作】
1 治安維持会の結成指導
2 自衛団の組織訓練
3 土匪 (共産主義に染まっていない匪賊) の懐柔
4 情報の収集

【鉄道愛撫工作】
1 鉄道愛護村の組織
2 情報連絡網の設定
3 担任区域線路巡察の実施
4 沿線高稈植物刈取、植付禁止
5 愛護思想の普及徹底

【経済産業復興工作】
1 商舗、工場開業促進
2 新紙幣の流通宣伝
3 金融斡旋
4 物資取引斡旋
5 市場の開設
6 農作物の収穫、出廻り促進
7 商務会の組織指導

【教育文化促進工作】
1 抗日教育の一掃
2 日満支親和精神の徹底
3 学校の開設
4 日本語の普及奨励
5 青少年隊の結成
6 新聞紙の発行

(日本軍が北京に開設した新民学院)
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(新民学院での日本語の授業)
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(日本軍が中国人女性のために開設した北京生活学校)
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(北京生活学校の女学生)
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(日本軍の食事は質素-現在の自衛隊につながるものがある)
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【資料出典】
アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06031061600:昭和13年7月6日 内閣情報部 「写真週報 第21号」
・1968(昭和43)年 朝雲新聞社 防衛庁防衛研修所戦史室 「戦史叢書 北支の治安戦 〈1〉」



中国人民に奉仕した宣撫班の始まりは1937(昭和12)年8月上旬、満鉄(南満洲鉄道)から派遣された数十名の要員が、天津の軍宣伝班に配属され、宣撫班を編成したことでした。

当初は七十班に別れて北寧沿線で宣撫工作に従事していましたが、その後、戦線の拡大にともない、班数、人員数とも増加し、宣撫工作も拡大していきました。

翌昭和13年1月、本部は北京に移り、「特務部宣撫班本部」と称するようになりました。

その間に満鉄からの派遣員のほか、日本国内で新たに募集した多数宣撫官が加わり、昭和13年末には班数百数十、分班を加えれば三百班近く、班員も千数百になりました。

 宣撫班は北京の本部が中央指導機関となり、各軍、兵団に宣撫指導班を配属し、第一線部隊配属の宣撫班は、数名ないし十数名からなり、現地の宣撫工作に従事しました。


もし、いま日本軍がよみがえって中国へ行き、

「共産党は悪だ! 古来から私有財産制を重んじてきた中国人民に、私有財産を制限して搾取する共産党は合わない!」

と宣伝したならば、バブル崩壊でまたもや私有財産を共産党に搾取された人民は、一発で日本軍を信じるでしょう。

日本は100年前から、共産主義の危険性に気づいていました。

安保法制の採決でアカが狂乱する一因は、日本が反共国であることも関係しているのでしょう。

そして戦後、日本は悪だ! と日本内外に宣伝するため、日本軍宣撫班は歴史から消されてしまったのです。


【日本の歴史を勝手に変えるな!】

辻元氏、涙声で「お願いだからやめて!」と絶叫 民主、プラカード掲げ抵抗
2015年7月15日 産経ニュース

 民主党は15日の衆院平和安全法制特別委員会で行われた安全保障関連法案の採決に際し、「強行採決反対!!」などのプラカードを掲げて対抗した。採決を阻止しようと浜田靖一委員長(自民)に詰めよって「反対」を連呼し、最後まで抵抗した。

 特別委がヒートアップしたのは正午過ぎ。浜田氏が大声で質疑の終結を宣告すると、民主党は用意していた「強行採決反対!!」「自民党感じ悪いよね」「アベ政治を許さない」などと表記したプラカードを一斉に掲げて抵抗。安住淳国対委員長代理ら委員以外の“応援組”も多数加勢した。

 民主党議員は浜田氏を取り囲み、マイクや議事進行の資料を奪おうとしたが、浜田氏は必死に議事を続行。辻元清美氏が浜田氏の目の前で涙声で「お願いだから、やめて!」と叫び、「反対、反対、反対…」のコールがわき起こった。(以下省略)

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本記事の資料



出典:1938(昭和13)年 亜細亜出版社 小松孝彰 「現地を語る」



A 宣撫班とは何か

 今次事変は暴戻飽くなき支那軍と国民政府を撃滅し支那に於ける抗日的、共産的勢力を一層するにありと彼等(かれら)の罪は憎みても余りあるものであるが哀れむべきは無辜(むこ)の支那の大衆であった。 

彼等は支那軍によってあくなき略奪や物資の徴発を受けた許(ばか)りでなく柱と頼む働き盛りの男達は強制的に抗日戦線に持って行かれた上、支那軍の予言に反して、彼等の土は弾丸で堀り返され、家は焼かれ、破壊された。(支那軍は民衆を急造のトーチカとしたり、日本軍の進入を恐れて焼き払ったりしたのである。

 その上、特に北支に於ては数十米(メートル)の大水害が穀倉である沃地(ようち)を一呑(ひとの)みにしてしまったのである。

 彼等は愛する土地を荒され、家を失った許りでなく、国を失ったのである。

 世にこんな惨(みじめ)な者は無い。恐らく一世紀前であったなら、そして、之(これ)が日本の近くでなく、征服を誇る異人種の国に依って、発生したとすれば、恐らくこうした受難の人々は、顧(かえりみ)られる事なく、飢えるにまかせ、凍えるにまかせられて、所謂(いわゆる)亡国の民となって流浪するの止(や)むなきに至ったであろう。

 事実、諸外国の戦史を顧みる時かかる事は当然の事として、敗戦国の宿命として放置されて来たのである。

 然(しか)るに今次事変に際して特に世界戦史上未(いま)だ嘗(かつ)てないところの人道的活躍が皇軍に依って遂行されている事を知らねばならぬのである。

 即ち前述の受難の支那大衆に対して温(あたたか)き慈愛の手を差しのべ、彼等を救済、救恤(きゅうじゅつ:困っている人を哀れみ救うこと)し、民衆の自発的地方復興に協力している皇軍の活躍である。

 現地には特にこうした輝かしい人道的な役割を負った人々が宣撫班(せんぶはん)という名称の下にあって働いている。

 この宣撫班に関しては週報や新聞雑誌などにも写真や、映画等で時々載せられているが一般は余りよく知って居(い)ない様(よう)である。

 そこで私は簡単に宣撫班とは何であるかを述べて見る事にする。

 今次事変の要因として挙げられるものは、衆知の抗日思想である。過去十数年に亘(わた)る徹底的の排日抗日教育と共産党と手を握った国民政府が無智(むち)の民衆に対してあらゆる角度から吹き込んでいた抗日思想は殆(ほとん)ど抜く事の出来ぬ程根強いものである。

 かかる誤った人生観、社会観が結局を身を誤り、国を誤る事は今次事変で明(あきら)かにされたところである。特に北支には共産主義の宣伝が侵入している為(ため)、先(ま)ず北支の民衆に対して共産主義の悪思想を脱却して正しい人類愛に立つ共存共栄の大精神を身を以て教えて行くのが宣撫班の一つの大きな使命とされたのである。

 百万辺(ひゃくまんべん)の御説教より身を以て人類愛の行為か実践する事が大事である。

 実に宣撫班員は身に一片の武器も担(にな)わず、単身抗日思想に燃え立っている民衆の中に飛び込んで行き、己を捨てて正義人道の為に働いているのである。

 更に北支民衆は戦争という恐しい突発事件の為に恐怖心に執(とら)われたり、希望を失ったり或(あるい)は亦(また)失心した様な状態になって、どうしたら良いか判(わか)らない有様(ありさま)の者も多いのである。

 従ってこうした人々に元気を与え、希望を与え恐怖心から安心へと民衆の心が鎮定安撫(ちんていあんぶ)する役割を宣撫班は担っているのである。

 尚(なお)、戦争の恐怖のあまり村を捨て、家を捨てて逃げ去った住民を呼びもどして、安心して家業に就(つ)く様に勧誘し、誘導する仕事も行っているのである。

 支那民衆は支那軍隊や支那側の宣伝隊にまどわされて、日本軍を非常に恐れていたのである。それ丈(だけ)に最初は彼等は日本人に近寄ろうともせず、却(かえ)って恐れて逃げるという有様であった。こうした状態の中で宣撫班員は身を挺して支那民衆の心に呼びかけて行ったのである。

支那民衆は前述した様に支那軍の為に家を焼かれた者あり、食糧を奪われた者あり、働き手を徴発された者あり、第一に困る問題は食う事であった。

 宣撫班は先ず彼等支那人の心を安めると同時に食わせてやらねばならなかったのである。然(しか)し彼等に徒(いたず)らに食わせる事は出来ない。それは彼等に乞食(こじき)根性を植えつけるからである。だから働ける者に働かせ、働き得ぬ老人や女子供は特別に保護を加えて養っているのである。

 支那軍は民衆を働かせても賃金を払わない。払うどころか、民衆の物を略奪するのである。然るに日本は働く者には充分の賃金を与えるのである。この事は支那民衆の心境に一大変化を与えたものであった。

 病める者には薬が与えられる。傷(きずつ)ける者は治療して貰(もら)える。老人や子どもは安如(あんじょ:ポルトガル語で天使の意)として建設を楽しむ事が出来る。こうした人間生活の根本問題が解決された事に依って支那民衆は心から宣撫班を信服(しんぷく:信じて服従すること)し日本の兵隊を信頼したのである。

だから支那民衆にとっては日本軍を慈父とすれば宣撫班は慈母といった様な存在で、彼等の唯一の支柱となったのである。

 宣撫班は先ずこうした人間の根本生活の道を開いてやると同時に、閉(とざ)されていた商店の開業や、市場の開設に努力したり、物資の交易の円滑を計ってやったり、閉鎖された学校を開校せしめたり、破壊された道路を修築したり、自警団を組織して、敗残兵や匪賊(ひぞく:集団で略奪・殺人をする盗賊)の来襲に備えさせたり、ありとあらゆる便宜を与え、生活の再建に協力しているのである。

 だから一度宣撫班が去ろうとするとその地区の民衆は一緒について行こうとする程人間愛で結ばれているのである。

 此処(ここ)に確固不抜の日支親善の第一歩が築かれて行くのである。

 宣撫班員の居る村へ行くと、村民は笑って日本人を迎える。中には挙手の礼で挨拶する。子供達は寄って来る。

 何か欲しいのかポケットに手を入れたりすると大変である。煙草(たばこ)などもいくらあっても足りない。子供まで父親にやるのだといってせびるのである。

 兵隊さんと仲良しになった子供達は日本語で挨拶(あいさつ)も出来る。アリガトウ、コンニチワ、サヨナラ、等々そして日本の童謡 「お手々つないで野道を行けば」 や 「白地に赤く日の丸染めて」 を上手に唄って聞かせて呉(く)れる。

 そんな時は私などは熱い涙がこみ上げてしようがなかった。

 帰る時はドッと押し寄せる様にして見送って呉れる。

 こうした美しい世界も実は宣撫班の人々が苦心の結果築き上げられたのである。




【資料出典】
アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06031059700:昭和13年2月23日 内閣情報部 「写真週報 第2号」





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