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2015/07/12

戦時中の皇居-空襲で焼け落ちた明治宮殿


TPP妥結に向けて、アメリカが調子づいているようですね。

大東亜戦争の一因は連合国による日本経済圧迫と日本の権益強奪ですから、TPPも武力を背景にした経済統一のゴリ押しとしか思えません。

戦時中、アメリカは 「日本民族を世界から抹殺せよ」 と叫んでいました。

そして、日本向けの焼夷弾を設計して日本焼尽作戦を決行し、金沢と京都以外の都市を焼き払いました。

現在、天皇皇后両陛下がお住まいになられている皇居も、戦後再建されたものです。

戦前日本人の心のよりどころだった旧皇居(明治宮殿)は、1945年5月の東京大空襲で全焼してしまいました。


【旧皇居焼け跡】
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【旧皇居全図】
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日本の神社を焼き払った朝鮮人と米軍



日本敗戦の日である1945年8月15日、朝鮮人が朝鮮中の神社を放火、破壊したことは有名な話です。この時、朝鮮人が真っ先に放火したのは伊勢神宮の御神霊である天照大御神を祀った平壌神社でした。

この平壌神社は、今上陛下のご誕生を紀念して神殿を造営した神社でもありました。

通常、日本国外の神社を取り壊したりする場合は「昇神式」という祭祀を行って、御神霊にお社から離れていただき日本にお帰りねがうのですが、朝鮮人は御神霊が宿ったままの神社をいくつも焼き払い、破壊しました。

この「昇神式」という祭祀は、日本国内ではまだ一度も行われていないはずです。

皇国史上初の「昇神式」が朝鮮でとり急ぎ行われましたが、大半の神社が間に合わず、神様が宿ったまま破壊されました。


【平壌神社】
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1945年5月24日、米軍は前日と同じように皇居付近のビル群を狙って、焼夷弾を投下しました。

数日前から乾燥していた東京はあっという間に火の海となり、業火が渦をまき、熱風の勢いは火のついた板が空を飛んで旧皇居に降るというすさまじいものでした。

その熱風が総ヒノキ造りだった旧皇居の正殿のひさしの一角に火をつけ、その火が天井裏へ、そして廊下を伝わって東溜(ひがしだまり)の間から豊明殿へ、西溜の間より千種(ちぐさ)の間へと広がっていきました。

そのすさまじい火の勢いから旧皇居は、二、三時間で焼け落ちてしまいました。

幸い、宮中三殿の賢所(かしこどころ)にあった天照大御神の御神体である八咫鏡(やたのかがみ)は、仮賢所(かりけんしょ)の庭に造られた防空壕に御動座ねがって移動しておりましたので無事でしたが、豊明殿、賢所、そして歴代天皇を祀る皇霊殿も焼失してしまいました。


なんとか火の勢いを防ごうと、多くの人たちが命がけでがんばりました。

内舎人(うどねり)は火の手があがっても、御文庫(昭和天皇が寝起きなさっていた部屋)の屋上で立ち番を続け、

近衛兵は屋根に突き刺さった焼夷弾に濡らした防火ムシロをかぶせて抱きつき、そのまま屋根からころがり落ちて、

下行(げぎょう)と呼ばれた外部との連絡路の中では、焼け落ちた建物のために退路を絶たれた消防隊員が多数殉職しました。

そして天照大御神の御神霊には神官が一人、空襲中も正座して付き添っていたとのことです。


それから、昭和天皇の母宮であらせられる皇太后陛下がお住まいだった赤坂大宮御所にも、焼夷弾が直撃しました。

皇太后陛下が御文庫に避難なさるや、今くぐったそのひさしの上に焼夷弾が落ちてきたのだそうです。

【皇太后陛下】
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米軍はラジオを通して在日朝鮮人に 「空襲時には民家に放火せよ」 と指令を出していたそうですから、空襲の被害が甚大になるのも当然ですね。

朝鮮人もアメリカも日本の神様を軽く見る似たもの同士ですし、朝鮮人とアメリカの共通点は共産主義であり、天照大御神の御神霊を攻撃したことです。


【参考記事】
【衝撃】軍艦島から韓国人が脱出するストーリーが韓国で映画化決定! 米軍と協力して脱出!!日本では歓迎されない内容


戦後70年間、日本人はマスコミと教育を通してずっと赤化宣伝にさらされてきました。それでも、日本人は戦前と同じように共産主義を排撃し続けました。

戦後70年間で、アメリカが人種差別をやめ、共産主義による天皇抹殺をあきらめ、親日になったかというと、そうではないでしょう。

民族性、国民性というものは、そうやすやすと変わるものではないからです。

そのうち、アメリカにもなんらかの神罰が下るでしょう。


【いすわり強盗アメリカが本領発揮-TPP反対!】

政府、コメ輸入上積みへ TPP日米協議が前進 閣僚決着探る
2015年7月11日 日本経済新聞 電子版

 日米両政府は10日、環太平洋経済連携協定(TPP)交渉を巡る2日間の2国間協議を終えた。最大の懸案である米国産のコメの輸入枠について一定の前進があった。日本は従来主張していた5万トンから小幅に上積みする姿勢を示し、米側に歩み寄りを求めたとみられる。ただ日米間にはなお立場に開きがあり、自動車部品などの扱いも含め、今月末に米ハワイ州で開く閣僚会合での妥結を目指す。

URL:http://www.nikkei.com/article/DGXLASDF10H0Q_Q5A710C1MM8000/?dg=1


本記事の資料


天皇の料理番 秋山徳蔵氏
「宮殿は二、三時間で焼け落ちた。そのあと米軍が何度も偵察にきた」


出典:2005年(平成17)年 中央公論新社 秋山徳蔵 「味-天皇の料理番が語る昭和」 終戦前後覚え書



 昭和二十年五月二十五日、ついに皇居は炎上した。

 大膳寮から豊明殿は庭つづきである。あの広壮な宮殿が白と黄と赤の焔(ほのお)を噴き出しているさまは、この世のものとも思われない。貧弱な防火用具と、乏しい人数では、どうすることもできない。ポロポロ泣きながら、見ているよりほかはなかった。

 三日三晩くらいは燃えつづけるだろうと思っていたのが、二、三時間ですっかり焼け落ちてしまった。あとには、礎石と焼け釘が残っているだけであった。総檜(そうひのき)造りで、屋根もあかがね葺(ぶき)だったので、すべてが焼けて灰になってしまったのであった。

 それから、艦戴機がやってくるようになった。繰返し、繰返し、しつこくやってくる。それが大膳寮の屋根をすれすれに飛び過ぎる。乗っている者の顔もよく見える。ニヤニヤ笑っている。しゃくにさわるやから、くやしいやらで、涙が出て仕方(しかた)がなかった。

 いったい陛下はどうなられるのだろう ── そればかり考えていた。敗戦は既(すで)に明らかだ。それから先は、どうおなりになるのだろう ── ひとすじののぞみも、はかないもので、ただ目の前が真暗になる心持(こころもち)であった。



宮内省総務課長 筧素彦氏
「燃えさかっている板が渦を巻いて飛び、皇居に飛び火」
「米軍は皇太后陛下のお住まいにも焼夷弾を投下して全焼させた」

(青文字)と漢字の読みは管理人による注釈です。
  

出典:1987(昭和62)年 日本教文社 筧素彦 「今上陛下と母宮貞明皇后」 
    皇居宮殿焼失



 戦局はいよいよ深刻となっていった。

 これまでに皇居内に焼夷弾や油脂焼夷弾が落ちたことは二回有(あ)ったが、五月二十五日の空襲では一発の焼夷弾も落ちなかった。しかし、空襲が激化するにつれ、皇居の外周、殊(こと)に霞が関、三宅坂方面に起こった火災は夜の更けるに従って益々(ますます)猛烈を究め、宮内省の庁舎から見ると、南西部の空は紅蓮(ぐれん)の焔(ほのお)である。

加うるに大火災の常として猛烈な風が起こり、厚さ一センチもある大きな板、しかも焔を上げて燃えさかっている板が渦を巻いて虚空をかけ巡りつつ襲来するのである。

こんな物凄(ものすご)い光景は全く想像の外(ほか)である。皇居と三宅坂、永田町方面との間には広い道路もあり、それ以上に大きな濠(ほり)、そして厚い大樹木の層もあって、こんな飛火(とびひ)による類焼のような事態は絶対に考えられないことである。

 殊に宮殿の防火ということは、昭和十三年に防空部が設置されて以来、内匠頭(うちのたくみのかみ、たくみのかみ:旧制宮内省の一部局。宮殿その他の建築・土木に関する事項を管理。1947年主馬(しゅめ)寮と合併して宮内庁管理部となった)、帝室会計審査局長官、そして後に侍従次長となられた木下道雄さんが初代の部長として心血を注いで検討し(私も部員としてお手伝いしたのであるが)、自らも何度か宮殿の天井裏までも調べつくし、その後の担当者もそれぞれ研究に研究を重ねて来たばかりでなく、宮殿の防火には最大の重点を置いたため、最も優秀精鋭なる人達を充(あ)てることとしていた。

 平素からこれを任務とする皇宮警察の消防担当者、近衛師団の禁闕(きんけつ:皇居の門。皇居。内裏)守衛隊の外(ほか)、近衛兵及び警察庁特別消防隊員を配置して万全を期したのであったが、何分にも晴天つづきであった上に、何時間も続いての異常な熱気によって、宮殿の檜(ひのき)材は乾燥の極に達していた。

それにこれはかねてから予想していた折柄、火の渦による大熱気と熱風が吹きつけた途端(とたん)、正殿の廂(ひさし)の一角の乾き切り熱し切った檜に火がついた。と見る間にそれがあたかも電光の如(ごと)くに火の線となって左右に走り、一せいに燃え上がって次々と延焼するさまはたとえようもない物凄(ものすご)さであった。

 大体、檜は強く摩擦しただけで発火するので「火の木」と言われる所以(ゆえん)であるがまさにしかり、火は瞬時にして正殿の廂から天井裏に及び、忽(たちま)ち廊下を伝わって東溜(ひがしだまり)の間より豊明殿へ、西溜の間より千種(ちぐさ)の間へ、又(また)一部は奥宮殿方面へと奔(はし)り、その火勢は熾烈(しれつ)を極めたため遺憾ながら施す術のない状態に陥った。

 この間、宮殿中坪(中庭)に配置された警視庁特別消防隊等の防護要員は、その部署を死守して防火に狂奔するうち、廊下の下部を潜(くぐ)り抜ける下行(げぎょう)と称する外部との連絡路が、その上部の建物が焼け落ちて塞(ふさ)がれたため退路を絶たれ、正殿と豊明殿及び千種の間の中間にある中坪中央の池の周辺で、多数の殉職者を出す結果となってしまったのであった。当時を回想するたびに痛恨、愛惜の念を禁じ得ない。

 宮殿に接しては、鉄筋コンクリートの内廷庁舎及び大膳寮調理場があり、この部位で防がなければ宮内省庁舎もまた救い難いこととなるので必死の防火を試みた結果、辛くも大勢を食い止めて延焼を防止することができたことは不幸中の幸いであった。

 この夜、私は宮内省庁舎三階の東南隅にある大臣官房庶務課の窓の外、宮殿に通ずる渡り廊下の、バルコニー風の屋根の上に出て、水を張ったバケツと火叩(はた)きを持って、延焼防止のために頑張り、窓の内側の延焼のおそれあるカーテンは引きちぎり、窓という窓は閉めていたのであったが、俗に「焦眉の急」などというが、宮殿の焼け落ちる時の熱さは正に眉が焦げる思いであった。

また、あの正殿と豊明殿の銅板葺(ぶ)きの大屋根が炎に包まれて焼け落ちる一瞬の、縁(へり)は黄金色に輝く緑色の大火焔の美しさには呆然(ぼうぜん)たる思いであった。

 この夜、赤坂の大宮御所もまた無数の焼夷弾の直撃にあって全焼、皇太后陛下は危機一髪のところでお文庫(防空室 ── 御殿からはお庭伝いに坂を下りたところに在った)に御避難になった。

あとで伺ったところによると廂の下にお入りになるや否や、その廂の上に焼夷弾が落下炸裂したとのことであった。皇太后さまはその後、八月二十日に信州軽井沢においでになるまでこの狭苦しい防空室の御生活をなさったのであった。

【皇居全図 昭和20年8月15日】
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朝鮮人もアメリカも同じ-宮中三殿を焼き払ったアメリカ


出典:1975(昭和50)年 新潮社 加瀬英明 「天皇家の戦い」 皇居炎上



 宮殿は、廊下でつながれた、二十七の大小の建物が連なってできていた。緑青色の銅葺(ぶ)きの屋根には、被弾した時に備えて、外から何百という竹梯子(はしご)がかけられていた。そして、その周囲を取り巻くように、二十二台のポンプ車が配置されていた。このうえに、八十本以上の消火栓や送水栓があった。

 この日、敵機は前日に続いて、皇居付近のビル街を狙って攻撃した。各所であがった火の手は、風によって強められて、大きな火流となって渦巻いた。

 空襲が始まって一時間ほど後には、強い南風に乗って、何百、何千という火の粉が皇居の森めがけて飛びはじめた。

 明治宮殿(管理人注:皇居の戦前の呼称)の天井裏に入っていた警察官たちは、銅葺きの屋根に間断なく小石が当るような、乾いた音をきいた。そして、このなかにも皇居を覆いはじめた煙が入りこんでいた。闇のなかで煙が目に滲みたし、臭いがしたのだ。しかし、懐中電灯をつけても、煙は見えなかった。

 広い吹上御苑から西のほうにある宮中三殿では、警戒警報とともに床下に三十人ほどの近衛兵が入っていたが、火の粉が飛びだすと、表に出て、道に待機していた皇宮警察官や、警視庁消防隊員とともに、ポンプ車を使って、屋根に放水をはじめた。宮中三殿には、神殿、賢所、皇霊殿や、付属建物が並んでいた。

 ここは宮中でもっとも神聖なところと考えられ、神殿には八百万の神々、賢所には天照大御神、皇霊殿には歴代の天皇が祀られていた。

もっとも賢所にあった天照大御神の御神体である八咫鏡(やたのかがみ)は、近くの仮賢所(かりけんしょ)の庭にとくにそのために造られていた防空壕に御動座ねがっていたので、ここにはなかった。宮中では神には人格が与えられていたので、御神体はあたかも生きている人間のようにして話された。

【皇居全図 昭和20年8月15日】
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 宮中三殿では、被弾しないかぎり注水することが禁じられていたが、もうそれどころではなかった。そのうえ、焼夷弾が屋根に落ちて、何本か突きささり、炎をあげはじめた。

近衛兵が梯子をかけて屋根にのぼり、トビグチを使って叩き落とした。ある兵は濡らした防火ムシロをかけて抱きつき、いっしょに地面に転げ落ちた。

 仮賢所の裏庭の地下防空壕のなかは、静かだった。厚い鉄扉が閉められていた。

 ここは「斎庫(さいこ)」という名前がつけられていたが、大型爆弾の直撃にも耐えられるように、コンクリートで造られていた。十五坪ほどの内部には、白木が張られ、壁は白絹のたれぎぬで覆われ、なかは御鏡が入ったツヅラが安置された内陣と、外陣に分かれていた。

二つの間は、やはり白絹の帷(とばり)で仕切られていた。外陣では、常に常明灯が二つ燃えていた。そして空襲中は、浄衣(じょうえ:白の布または生絹(すずし)で仕立てた狩衣(かりぎぬ)形の服。多く神事に着用)を着た、神官である掌典が一人、外陣でずっと正座していた。

【狩衣】
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 二重橋にでる正門内側の衛兵所のわきや、宮内省屋上、図書(ずしょ)寮屋上、旧本丸台上では、近衛高射機関砲大隊の将兵が二十ミリ機関砲にとりついて、空を睨(にら)んでいた。しかし、上空は濃い煙によって覆われ、視界が阻まれていたので、敵機を見ることはできなかった。

もっとも、射撃することによって皇居が目標になることを怖(おそ)れたので、皇居が低空から直接襲われないかぎり、発砲することを禁じられていた。そこで、まだ一発も撃たなかった。

 皇居の外から飛んでくる火の玉は、ますます激しくなった。

 御文庫の前の芝生や、庭の立ち木に火がついて、煙をあげて燃えはじめ、火の粉といっしょに、空襲中、御文庫の屋上にずっと立番(たちばん)している内舎人(うどねり:旧制で、東宮職・主殿寮の雑務に従事した判任官)の姿を照らしだした。

 この煙は、換気装置を通って、御文庫のなかにも侵入した。侍従武官の野田大佐は、警護の内舎人から、天皇、皇后用のガスマスクを受け取ると、御避難所へ行って、両陛下にお渡しした。



ビッゲスト・ボンファイア-3月10日の東京大空襲を喜んだ米軍と日本人大虐殺のために設計された焼夷弾


出典:1996(平成8)年 光人社 大谷内一夫訳編 「ジャパニーズ・エア・パワー-米国戦略爆撃調査団報告 / 日本空軍の興亡」 "日本焼尽"作戦の全貌



ビッゲスト・ボンファイア

「一九四五年三月十日午前一時半、街が寝静まったころ、二二〇〇馬力のエンジンの轟音が空にひびき、数百万の日本人が、あわてふためいて木と紙の家から防空壕へ逃げこんだ。二時間後、世界第三の大都市の中心部が炎上した。三〇〇機余りのB29が、日本の首都に未曾有の大空襲を加えたのだ。

 約三八平方キロの火のじゅうたんが眼下にひろがったとき、アメリカの航空兵たちは我が目をうたがった。高く上がった火柱の炎で、腕時計の針を読むことができたからだ。もっとも、通常なら高度七六〇〇メートルの上空を飛ぶ爆撃機が、このときは高度一五二〇メートルから二四〇〇メートルの低空を飛んでいたのだ。これは防空体制を混乱させ、爆撃の精度をたかめるための戦法だった。

 マリアナの基地に帰還して歓声をあげた航空兵たちは、眠たげな目をした地上兵をゆり起こし、東京に『世界最大のかがり火』を起こしたことを語って聞かせた。

 この日本向け専用に設計された合計二三〇〇トンのM69焼夷弾は、大いにその威力を発揮した(五〇〇ポンド「グープ」爆弾は、ゼリー状の石油とマグネシウムのつまった二・七キロ爆弾の束から成っていて、それぞれの爆弾は半径約二七メートルの火の輪をつくる)。

 四十八時間後、同じく低空爆撃戦法をとった三〇〇機余りの重爆撃機が、大工業都市名古屋に対して、東京へのそれに劣らぬ激しい爆撃を加えた」 (ニューズウィーク誌、一九四五年三月十九日号)



元海軍航空隊参謀
米軍は「日本民族を世界から抹殺せよ」と叫んでいた


出典:1960(昭和35)年 自由アジア社 安延多計夫 「南溟の果てに 神風特別攻撃隊かく戦えり」 本土決戦



 八月十五日の聖断がなかったら、どんなことになっていただろう。

 沖縄が落ちたからといって、敵は進攻の歩みを止めるものではない。 「日本民族を世界から抹殺せよ」とまで叫んだ彼等(かれら)である。日本の息の根が止るまで、攻めてくることは説明するまでもない。

彼等(かれら)は日本を屈伏さす手として、二つの方法を考えていた。その一つは強烈な航空攻撃に伴う空海の包囲封鎖によって、日本人および日本の工場を餓死させようとする案であり、他は直接日本本土に上陸して、城下の盟を乞(こ)わしめようとするものであった。

種々論議された後に、統合参謀本部は五月二十五日、「十一月一日に南九州に上陸作戦を開始する」ことを発令した。



共産アメリカ軍の戦争目的は天皇を抹殺すること


出典:1979(昭和54)年 日新報道 モルデカイ・モーゼ 「日本人に謝りたい」 極左的戦後改革を強行したユダヤの秘密



原爆搭載機 「エノーラ・ゲイ」 は天皇を抹殺せよ

 その証拠を示そう。広島へ原爆を投下したB29に書かれてあったあまり見なれぬ二語がある。 Enola Gay がそれである。

 この意味はほとんど日本では知られていないようである。それはイディッシュ語である。イディッシュ語とは中東欧のユダヤ人が使っていた言葉で、現在はニューヨークのユダヤ人の間で多少使われている程度であるが、第二次大戦前までは中東欧で非常によく使われていた言語で、ヘブライ語、ロシア語、ドイツ語の混血語といえよう。

 さて Enola Gay の意味であるが、「天皇を屠(ほふ)れ」がそれである。ユダヤ勢力が君主制を国家破壊のため非常に重要な第一段階と考えていることは再三触れたが、日本の「天皇制」は第一次大戦でロシア、ドイツ、オーストリー・ハンガリーの三大王冠を射落した後残るのは日本の天皇制であったことも触れたが、いよいよ最後の目的を達しようとするわけである。 

【アメリカとこの人らの根は同じ国際金融資本=共産党】
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附録-1945年8月15日、朝鮮人が天照大御神の御神霊を祀り、今上陛下御誕生紀念で造営された平壌神社に放火


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 森高繁雄 「秘録 大東亜戦史 朝鮮篇」 「三八線に変貌する北と南」



神宮を焼く

 終戦当時、官幣社(かんぺいしゃ)は、朝鮮神宮のほか、扶余(ふよ)神宮が造営進行中であった。京城、全州、光州、大邱(たいきゅう)、竜頭山(釜山にあり)、平壌、江原(こうげん)(春川にある)、咸興(かんこう)の各神社は国幣小社(こくへいしょうしゃ)であった。ほかに一般神社六九、神祠(しんし:神をまつる祠堂。神のやしろ。ほこら)一〇六二を数えていた。

 八月十五日の夜、平壌神社が放火されたのをはじめとし、相(あい)ついで各地の神宮、神祠の破壊放火が伝えられた。


【管理人注】
・平壌神社…大正二年一月一日伊勢大神宮の御神霊(天照皇大神)を奉体し、西京の氏神として鎮座ましまし、昭和十年 皇太子殿下御誕生紀念として現在の神社を造営し、昭和十二年五月国幣小社に昇格せらる。

出典:1938(昭和13)年 平壌観光協会 「観光資料柳京の話」 ※平壌神社の写真出典も同じ




【写真出典】
・1975(昭和50)年 新潮社 加瀬英明 「天皇家の戦い」
・1992(平成4)年 「能面と能装束」 白地波の丸模様単(ひとえ)狩衣
1928(昭和3)年 実業之日本社 増田義一編 「金枝玉葉:御大典記念」



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