HOME > 従軍慰安婦 > title - 朝日新聞の女子挺身隊 「朝日挺身隊」
2015/06/29

朝日新聞の女子挺身隊 「朝日挺身隊」


自民党若手議員の勉強会で「マスコミをこらしめろ」という発言が出たと、朝日新聞が憤慨しています。

朝日新聞といえば従軍慰安婦捏造問題における「記事訂正とおわび」が記憶に新しいところですが、

戦時中、朝日新聞は自社従業員で組織した女子挺身隊を東京芝浦(東芝)電気大井工場に出動させていました。
その名も「朝日挺身隊」といいます。


自民党若手議員の発言は共産党の宣伝機関になりさがった日本のマスコミを批判したものであり、国民の多くが共感したと思います。

一方、朝日新聞はどうだったでしょうか?従軍慰安婦も捏造、その「記事訂正とおわび」会見においても

「挺身隊と慰安婦を混同した」

とウソをつきました。

自社から女子挺身隊を出動させた事実があるのに、その事実を隠ぺいして批判をまぬがれようとした朝日新聞は実に不誠実な会社であると言うしかありません。

【女子挺身隊員】
teishin_kinrorei2.jpg


言論の自由の下にデマ宣伝を続けるマスコミが保守派の言論を弾圧する



昭和19年秋、女子挺身隊勤労令が施行され、官庁、会社、銀行などでも女子挺身隊を組織し、指定された工場へ出動することになりました。

朝日挺身隊は昭和19年12月15日に東京芝浦電気大井工場に出動しています。

【挺身勤労令書-女子挺身隊になる要領】

出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06031056800:昭和19年9月6日 内閣情報局 「週報」第411号



新たに女子勤労令書

 挺身隊員となる手続なども従来と異(ちが)って来ましょうか。

 これも前に申しましたように、実質的には変化ありません。ただその手続が明確にされ、かつ一段と慎重になされることになったに過ぎません。

 その要領を簡単に申しますと、まず地方長官が、市区町村長や女子青年団長等の居住地を主とした団体の長、会社、銀行等、職域の長乃至(ないし)は出身学校の校長等に対して、隊員を選抜すべきことを命令します。

この命令によりまして、これ等(ら)の人々はそれぞれ管下に住んでいる人、その団体員、従業員、同窓会員等についていろいろ調査し、また面接して事情をよく聴き、或(ある)いは必要な身体検査などをやって、隊員適格者と認められる者を地方長官に報告します。地方長官はこの報告に基づいて更によく調査して、隊員たるべき者を決定し、これに挺身勤労令書を交付するのです。

teishin_kinrorei1_2.jpg



この女子挺身隊勤労令を見るに、挺身隊組織を命令するのは各地方長官であって軍ではありません。

また、朝日社員の手記には朝鮮人の「ち」の字すら出て来ません。そして資材が底をつき、仕事がなくなり、その後、工場は空襲で焼失してしまいます。

いったい、日本に何百万人だか強制連行されてきた朝鮮人らは、何もない焼け野原の日本で何をしていたのでしょう?

日本は朝鮮人にムダ飯を食わせて、使うあてのない石炭を掘らせていたとでもいうのでしょうか?

それとも朝鮮人らは工場の焼け跡で、もくもくと部品を組み立てていたとでもいうのでしょうか?

こういった事実に直接関わっていながら、事実をねじ曲げ、あるいは隠ぺいして、朝日新聞が創作、宣伝したものが 「従軍慰安婦」 です。


自由民主主義国家である日本にあって日本のマスコミがやっていることは、共産党治下のイタリアと変わりありません。

ムッソリーニ登場以前のイタリアでは、保守派議員には言論や演説の場が与えられず、時には共産党員に殺害されることもあったそうです。

どこかの国の共産党的には、日本革命は日本人民が望んだものなので、その人民の願いをかなえるために解放軍は日本に上陸したのだ、と演出する必要があるのでしょう。

そこへ、日本のマスコミを批判する国会議員が出てくればジャマでしかないからマスコミがたたく、こういうことでしょう。


【宣伝が無効化したら共産主義は終り】

【朝日新聞社説】異常な「異論封じ」無恥に驚き、発想の貧しさにあきれ、思い上がりに怒りを覚える。
2015年6月27日 朝日新聞

異常な「異論封じ」―自民の傲慢は度し難い

これが、すべての国民の代表たる国会議員の発言か。無恥に驚き、発想の貧しさにあきれ、思い上がりに怒りを覚える。

 安倍首相に近い自民党若手議員の勉強会で、出席議員が

「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番。経団連に働きかけて欲しい」
「悪影響を与えている番組を発表し、そのスポンサーを列挙すればいい」などと発言していた。

 権力を監視し、検証して批判する。民主主義国の新聞やテレビならば当たり前の仕事である。
それに対して、政権与党の議員が「反論」でも「批判」でもなく、「懲らしめる」というのだから恐れ入ってしまう。

 【懲らしめる】制裁を加えて、悪いことはもう二度としないという気持ちにさせる(「明鏡国語辞典」)

 正義は我にあり。気に入らない言論には圧力をかけ、潰してしまって構わない――。
有志による非公式な会であっても、報道の自由、表現の自由を脅かす発言を見過ごすわけにはいかない。
勉強会には加藤勝信官房副長官や、首相側近の萩生田光一総裁特別補佐も出席していた。
谷垣幹事長は「クールマインドでやってほしい」と他人事だが、党として事実関係を調査し、厳正に対処すべきだ。




本記事の資料



(  )内は管理人による注釈です。

女子挺身隊に義務づけられた就労期間は一年間でしたが、朝日新聞は社内で報国隊を組織し、それを口実に女子挺身隊を呼びもどしました。

朝日新聞の女子挺身隊 「朝日挺身隊」


出典:1953(昭和28)年 富士書房 田村吉雄編 「秘録 大東亜戦史」 原爆国内編所収 朝日新聞社企画部 五十嵐清江 「女子挺身隊」



戦局がいよいよ苛烈になった頃、朝日新聞東京本社の女子挺身隊として東芝へ動員された筆者のまざまざと見せつけられたものは何であったか。


 昭和十九年秋、女子挺身勤労令により官庁、銀行、会社などの職域で挺身隊が結成され、各工場へ配属させられることになったが、同年十二月、朝日新聞東京本社からも十五名の隊員が東京芝浦電気大井工場へ出動することになった。

 当時東京本社の女子従業員は三百数十名。出版局と編集局には十月一日付で十二名記者志望の女子練習生を入社させたばかりであった。

 「自由」を標榜する新聞社の建前から隊員募集は当然志願の形式をとったが出動先は昭和十七年四月、本土最初の空襲をうけて数名の犠牲者を出した工場でもあり、応募するものの少いことを計算に入れて、員数を各局へ割当てることになった。

 出版局では一名だすことになり、これによって当然起きる混乱をさけようとした堀敏一編集部長から、女の間で指令してほしいとの話をうけたのが当時一番年長の私(「科学朝日」在勤)であった。

 斉藤寅郎(とらお)科学朝日編集長はフィリピン出張中で、いつ帰国するかわからなかったから、二、三名の新入練習生に挺身参加の話をもちかけて、とたんに彼女達の退社をみることになると、ともかく一人でどうにか収拾せねばならぬような気持ちになり、結局私自身がその役を買って出ることとなった。鈴木文四朗出版局長は大変感激して、その後度々(たびたび)慰問文やら心やりの品々をとどけてくれた。

 挺身隊員を局別にみると人事局一名、編集総局四名、業務局六名、印刷局二名、厚生本部一名、出版局一名となっている。

 我々は出動の前日、社から厚い木綿地の作業服を貰(もら)った。袖の上(なが)い上着は安ものの瀬戸物のボタンがついて前で打合わせるようになっており、下はモンペ形のズボンで、カーキ色のどの胸にも、小さな赤い社旗がきらめいていた。

 東京芝浦電気大井工場とは、省線(しょうせん:運輸省の管理に属する汽車または電車の線路。またその電車)大井駅下車三分、線路沿いに建っているウナギの寝床のような工場である。「朝日挺身隊」がそこへ出動したのは十二月十五日、身にしみる寒さの中であった。

 門を入ると、駅の改札口に似た入口がある。持込みや持出しを取締まるために、守衛が出入(でいり)する者の所持品を調べる所だ。ここを入って自分のカードを取出しタイムレコーダーを押した時から工場の一日は始る。

 午前八時、仕事開始。十時、十五分休憩。十二時、四十分休憩。 (この間に工員は列を作って食堂に行き給食を受ける) 二時、十五分休憩。五時終業。

 工員の大部分は時間給でしばられていた。

 工場の中は大別して事務所 (本館)、機械工場、部分品置場、特殊器製作工場 (通称 "特器(とっき)") などに分類されていたが、「朝日挺身隊」は機械工場へ八名、 "特器" へ七名配属させられた。前者は大型の機械によって飛行機用の部分品 (ネジその他) を、後者では手工業による "酸素加給器" を作っていた。私は"特器"に加わった。

 "酸素加給器" とは飛行機に取付けてエンジンに圧搾酸素を送り、プロペラの回転率をあげるもので、ざっと大型球形の金属製魔法瓶と思えば間違いない。

 この製作は熟練工が半円形の金属を熔接して内球を作り、挺身隊員がそれにトメ金をつけた上、再び熟練工が外球と附属品を熔接し、少年工がこの内球と外球間の空気を抜いて仕上げるもので、流れ作業という程のものではなく、最初の磨きから仕上げまでを、殆(ほとん)ど二、三人の工員の手でしてしまうという、ごく原始的なまた非能率的な方法であった。

 事務所をのぞいたどの建物も設備は大変不完全で、更衣室が無いのは勿論(もちろん)のこと、屋根は破れ(天井は無かったから、雪が降ると床の上につもる程だった)窓はこわれ、遮蔽幕は裂けて、便所は戸が閉らぬほどであったから、われわれの作業は機械工場に配属された連中にくらべて、指を切りおとすとか、腕を巻き込まれるといった危険は少ないとはいえ、寒風の縦横に吹きとおる中で、細い板切れを二、三枚接(つ)ぎあわせた名のみの椅子に腰掛けたままで、二時間も金属板にヤスリをかけつづけることは、女の身には大変な苦痛であった。

 マスクをかけていても真鍮(しんちゅう)の粉で鼻の穴は金色になり、はめた手袋もすぐすり切れて、休憩時間にたちあがると腰は棒のように冷え切っていた。女工達に多い結核と不妊性(ふにんしょう)とはこんなところに起因するのかと今更のように考えてはみたものの、かといってどうしようもなく、先(ま)ずわれわれは耳のそばでガナリたてるバフの噪音(そうおん)に馴(な)れようと努めるのが精一杯であった。

 出動して四日目、四十度近い熱が出て私は一週間休んだ。 「どこといって悪いところもありません。まあ健康状態は良好ですな。力仕事さえしなければ工場で働いても大丈夫でしょう」 志願する時に健康診断をしてもらった慶応病院の医者の言葉を思い出しながら、私は床の中で苦笑した。

 女工のいない工場のせいか、男工(だんこう)たちの好奇に満ちた目に馴れるには時間がかかったが、三十名近い少年工たちとはすぐ親しくなった。十五、六からせいぜい十九どまりのかれらはわずかの給料でよく働いていた。そのほとんどが附属寮での生活をしていたようだったが、育ち盛りの身体にとって工場の給食だけでは足りようがなかったから、どこからか、さつまいもなどを仕入れて来ては休憩時間に焚火(たきび)で焼いて食べたりしていた。

「この間は大根を山程買ってね、ナマで腹一杯食ったんです。すっかり飽きちゃったのに、まだ四、五貫も残ってるんでしょう。寮へ持って行かずにどうにかして食っちゃおうっていったら焼いた方がうまいって奴がいたもんだから、焚火でどんどん焼いてみたんです。そしたら、水がジュクジュク出やがるし、大根はしなびてグニャグニャだし、あんなにまずいもの、俺たちはじめてだったなァ」

 それ以来大根は見るのもいやだと、かれらは明るい声で笑った。

 工場の中の人々は素朴であり、単純であった。従って、言葉は常に率直であった。好意はあからさまに示される一方、争いは簡単に暴力で解決がつくそれに馴れるまでしばらくの間、私はとまどった。

 しかしのどかな日はそう長くは続かなかった。二月も半ばになると、空襲は夜を日について激しくなった。午前七時頃、出勤時には、圧(お)しつぶされそうな省線に乗り込むのさえ生命(いのち)がけとなり、くたくたになってやっと工場にたどりつくと、トタンに警報が鳴りひびくことも屡々(しばしば)であった。が、この工場はかつて第一回東京空襲に一度被害をうけたことがあるせいか、運を天に任せたような、どことなく投げやりな、奇妙なノンキさがあった。

 警報ベルが故障しているのも度々だったから、新米のわれわれは常に不安であったが、メガフォンを片手にしらせて歩く警備員は、落着いた顔でわれわれに教えてくれるのだった。

「なあに空襲になったって、警報が出て三分間に防空壕へ飛込みさえすりゃあ大丈夫ですよ。もっともいつかの空襲の時はね、この建物の横へ爆弾が落っこちたンですよ。防空壕の傍(そば)の木の枝に、工員の腕がぶら下っていましたがね」

 三月初めに京橋附近の国民学校から高等科二年の生徒が男女約三十名ずつ工場に通って来ることになった。男子は機械工場、女子はわれわれの "特器" へ配属された。私はこの女子部隊の監督めいた仕事を担当することになった。

 下町の子供たちだから、仕事ののみこみは早いが飽きっぽくて、マセている上に口が達者で手に負えない。それをどうにかこうにかおだてたりすかしたりして、都々逸(どどいつ)や端唄(はうた)を口ずさみながらも仕事をする程度までに漕ぎつけた時にはすでに空襲は激しくなり、作業らしい作業は無くなりかけていた。

 夜ごとの来襲のため、不眠で目をはらせながらも工場へ出かけて来る子供達の姿はいじらしかった。かれらの家の大部分は五月二十四日の夜、焼失した。その翌日も子供たちは来た。

 空襲が激しくなるにつれて、男の工員達がドラム罐(缶)で焚火をしながら世間話に暇をつぶす時間が多くなった。仕事の材料が来ないから仕方がないといいながら、新材料が配給された時も変りはなかった。

 時おり、軍から調査官が来る時だけ工場長が慌ててかけずり廻り、工員たちは忙しげに立ち働くのであった。一週間で、戦前の一カ月分の給料をもらう熟練工は、工場で半月働くとあと半月は休んで内職に出かけた。買出しに行っては闇売りで儲けると、工場の給料よりは余程いいといった。

 その中で、機械の故障をなおしたり錆びかける機具をみがいたり、作業に使用する薬品の研究をしつづけているのは、元気な少年工若い技術員だけであった。が、工場内で変らないのはどんなことがあっても、 「日本は勝つんですョ」 という言葉であった。

 どんな怠(なま)け者の口からも、懸命に働く人の口からも同じ言葉がささやかれていたのである。

 その頃一夜明ける度(たび)に、焼け野原がふえる東京であったから、世間には物資が大変不足していた。工場長や副工場長が、工場の木材や鉄板を使って自宅に立派な防空壕を造ったという噂がひろまった頃には、すでに工員たちは工場の資材をわれがちに持出すようになっていた。

 入口での所持品検査などは何でもない。塀のそとへ投げ出しても、工場の裏を流れる立会川に放りこんでおいても、あとで拾いさえすればわけはないことは守衛と工員の智恵くらべのようなものだった。電気アイロンや電気時計はわけなく作って持出せた。機械の仕上に使う脱脂綿で、子供の胴着はもとより、座蒲団(ざぶとん)から掛蒲団、敷蒲団にいたるまで作ったうえ、 「寝心地が悪い」 とこぼす工員もいた。

 その間も空襲はたえず続き、省線も止まって工場へ出られず、家で艦戴機を迎える日も度々だったが、五月二十五日、やっと開通した省線で昼すぎに工場に出てみると、前夜の空襲で本館をはじめ工場の大部分が焼失し、かろうじてわれわれの "特器" と二、三の建物が残っている程度であった。

 作業は中止。その日以後、工場は毎日焼け残りの機械を疎開するのに忙しかった。小さな機械の荷造りは女手でも出来る。機械のまわりに五分板を打ちつけて枠を作った上に、頑丈に縄をかける。その上から宛先を書いた板切れを打ちつけさえすればよい。五寸釘の打ち方と太い縄をしっかり結ぶ方法を教わりながら、人夫のように一日中働きつづけると、綿のように疲れ切って、毎晩床に就いても身体の痛みで寝つかれぬ程であった。

 われわれが東芝大井工場でそのような毎日を送っている頃、朝日新聞東京本社には社内の女子従業員によって報国隊が結成されていた。というのは、それはわれわれ工場に出動している挺身隊を呼びもどす口実でもあった。鈴木文四朗出版局長が私に約束した事が、六カ月目に実現されたわけであった。

東京本社の女子報国隊員が、本社の中で手を糊だらけにしながら特攻隊用の地図挟みを作りはじめたころ、退団式もないままにわれわれは社へもどって来た。

 その時は、出版の各雑誌編集部は二つに分れ、「科学朝日」は荻窪の、とある病院の中に疎開していた。妙に熱っぽい身体をおしてそこへ通いはじめた頃、私は既に 「肺浸潤」 になっていたのであった。

 「病気」私の得た戦果はこれだけである。

 思い返せば、敗戦近い工場にみなぎっていたものは、捨てばちな、それでいてどこか神がかりめいた ── いわば当時の日本全体にみちみちていた異常心理であった。

 労働力は極端に減少し、資材もまた払底して、内地はいずれも焼土の巷(ちまた)と化してゆく中に、もはやゆきづまった工員達には、すでに何の生活目的もなかった。我利我慾(がりがよく)に日を送りながら、口癖のように繰返す 「勝利」 の合言葉のなかに、すでに 「敗戦」 はあり 「戦後の混乱」 はそのきざしをみせていたといえよう。

 私は自己の健康を代償としてこの体験を得た。戦後八年。人心がようやく平和を取りもどしかけたというのに、私はまだ健康を取りかえしてはいない根強い病気。

これが私の青春をも奪ってしまったように考えられる。しかし今、何をいおう。本来 「戦争」 というものは人間から貴重な何物かを必ず奪い去るものにちがいないのだから。 (完)






【写真出典】
アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06031090900:昭和19年3月22日 内閣情報局 「写真週報」314号




関連記事
スポンサーサイト