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2015/06/27

関東大震災による皇居、皇族の被害


TBSドラマの「天皇の料理番」ですが、次回は関東大震災時の皇居をとりあげるようですね。

関東大震災による皇居の被害は、二重橋、乾、大手、桜田、和田倉の諸門がことごとく倒壊し、皇居内部は壁が落ち、かわらが飛び散ったのだそうです。

【戦前の宮城(皇居)の二重橋】
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その時、大正天皇皇后両陛下は日光田母沢御用邸で御避暑中であったため、ご無事だったそうです。

幸いなことに、皇居に残ってご政務中だった摂政宮殿下(のちの昭和天皇)も何の障りもなく、吹上御苑中の一亭に避難なさったそうです。

その後、皇居では大正天皇のおぼしめしにより、断水による渇きと飢えに苦しむ避難民を皇居内苑に収容して炊き出しを実施しました。

震災後の東京は三日三晩燃え続け、火薬庫や重油庫の爆発が続発していたので、炊き出しも大変だっただろうと思います。


【ご政務中の昭和天皇】
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【災害地を巡視なさる摂政宮殿下(のちの昭和天皇)】
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震災で薨去なさった皇族方



しかし、避暑のため地方にいらっしゃった皇族方の中には、この震災の被害にあって薨去なさった方々がおられました。

鎌倉ご滞在中だった山階宮佐紀子女王殿下、小田原ご滞在中の閑院宮寛子女王殿下、藤沢ご滞在中の東久邇宮師正(もろまさ)王殿下の御三方です。

いたましいことに、山階宮佐紀子女王殿下は御懐妊中で、御用邸で医師の診察を受けておられた最中に震災が起り、倒壊した建物の下敷きとなって薨去遊ばされたのだそうです。

山階宮佐紀子女王殿下のご診察に付き添っておられた母君賀陽宮大妃殿下も右腕に重傷を負われました。

東久邇宮師正(もろまさ)王殿下も非難するいとまなく、倒壊した御用邸の下敷きとなられたそうです。


戦後、マスコミは「朝鮮人大虐殺」というデマを、あたかも真実であるかのように宣伝してきました。

そしてその一方で、このようないたましい事実が隠ぺいされてきたのです。


本記事の資料



(  )内は管理人による注釈です。

大阪朝日新聞
「宮城(皇居)の諸門は倒壊したので内苑に避難民を収容せられ、炊き出しを頂いている」


出典:1955(昭和30)年 錦正社 石田文四郎編 「大正大事件史」



帝都は見渡す限り焦土
(大正十二年九月四日(火)大阪朝日新聞所載)


 予(船越特派員)は東京市の全滅の飛報に接し一日夜九時富山から信越線に出で高崎、大宮を経て川口町に達すると荒川鉄道傾斜のため列車不通というもので、徒歩して鉄橋伝いに赤羽に出で更に危険を冒して日暮里から上野に達すると早くも鉄道線路の上は避難民で一杯であった。

前途の家屋は濛々(もうもう)の黒烟(煙)に覆われ、その中から紅蓮の炎が時々猛烈に起るので、附近に近寄れない。已(や)むなく、上野の高台に上るとここも数万の避難民で犇(ひしめ)いている。ここから初めて東京市を見下(おろ)すと真に物凄い光景で焦土と化した焼野は一目千里のようである。

遉(さす)がの帝都も今は昔の武蔵野と化した。

(中略)

 一番避難民の多い上野の如きは避難民が飢えきって命も絶えだえ飲む水すら水道断水のためなく絶体絶命に陥っている。

宮城、二重橋、乾、大手、桜田、和田倉の諸門も悉(ことごと)く倒壊したので、内苑の一部に避難民を収容あらせられ特に炊き出しを頂いている。

【大正天皇の御思召により皇居に身を寄せた人々】
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皇居内部は壁が落ち、屋根がわらが飛ぶも摂政宮殿下はご無事にあらせらる。
一方、不幸にしてご災害にかからせ給うた皇族方


出典:1923(大正12)年 文部省普通学務局編 「震災に関する教育資料 第1集」



八、皇室並(ならび)に皇族の御動静

 今回の大災は九重雲深きあたりにまで及び、宮城(きゅうじょう)内に在(あり)ても御内室の壁落ち瓦(かわら)飛び一方ならぬ御混雑あらせられたと漏れ承る幸に 聖上皇后両陛下には折から日光田母澤御用邸に御避暑中であったが摂政宮殿下は時恰(あたか)も新内閣組閣中とて御政務を臠(みそな)はせらるべく宮中に御出御(ごしゅつぎょ)中此(こ)の異変に御遭(あ)ひ遊ばされたのである。

併(しか)しかねて神祐(しんゆう)のあらせらるる殿下には云(い)う迄(まで)もなく玉体(ぎょくたい)何らの御障りもなく御無事吹上御苑中の一亭に御避難遊ばされたと拝承する。

 湘南地方に御避暑中の皇族各宮殿下には不幸にして御災害に罹(かか)らせ玉ふた御方多く、鎌倉御滞在中の山階宮佐紀子女王殿下、小田原御滞在中の閑院宮寛子女王殿下、藤沢御滞在中の東久邇宮師正(もろまさ)王殿下の御三方は御痛ましくも薨去遊ばされ、鎌倉山階宮邸にいらせられし賀陽宮大妃殿下には御重傷を負はせ給ふた、只(ただ)田浦駅附近にて御召車(おめしぐるま)隧道(すいどう:トンネル)通過の際墜落せる土砂の為(ため)に最後の三等車を粉砕し、乗客中死傷者を出したに拘(かかわ)らず、御微傷をも負ひ玉はなかった華頂宮博忠(ひろただ)王殿下、静岡県沼津御用邸に御滞在中の竹田宮大妃殿下並(ならびに)両殿下、箱根湯本に御滞在中震動の為(た)め仮御座所破損せしも些(いささか)の御異状あらせられなかった北白川宮大妃殿下、寛子女王殿下と共に相州小田原御用邸に御滞在中の閑院宮両殿下並華子女王殿下の方々が幸(さいわい)に御厄災を御免れ給ふたのは誠に御不幸中の幸とも云うべく当時の御有様拝聞するだに畏(かしこ)き極みである。

〇おいたはしい佐紀子女王殿下の御最後

 由井浜山階宮御用邸にては武彦王殿下は折柄追浜(おっぱま)に御出張中、佐紀子女王殿下には御懐妊中とて吾妻博士を召され階下の一室に御母君賀陽宮大妃殿下、侍女等列座の上拝診仰せ付けられている最中、俄然用邸崩壊し妃の宮は侍女及び吾妻博士と打ち重なりし儘(まま)無惨の御最後を遂げさせられた、此の時かたへにいらせられし母宮殿下も右の腕に御重傷遊ばされた。


〇師正王のいさらしき(ママ)御最後

 東久邇宮師正王殿下は藤沢の御邸階下には兄君盛厚(もりひろ)王と共にいらせられたが、不幸にして御避難遊ばさるる御暇なくいたましくも倒壊家屋の下敷となられ薨去遊ばされた、而(しか)も御遺骸は午後五時に初めて発見されたのである、いま少し早く発見して御手当を加へたら或(あるい)は御生命は御取り止め得られたことも思はる、御身体には何処(どこ)もお傷の御跡なく全く窒息遊ばされた様であるとは返す返すもお痛ましきかぎりである。


【管理人注】
・臠(みそな)わす…見るの敬語。ごらんになる。

・九重…(むかし中国の王城は門を九重に造る制であったことからいう、また宮居(みやい)を九天にかたどったものということから)①禁中。宮中。大内 ②宮中のあるところ。都帝。都。 

・雲…雲居、雲井(くもい)は禁中、宮中、雲の上、皇居がある所を意味する。皇室をはじめ、宮中に奉仕する人々を雲上人(うんじょうびと、くものうえびと)という。




【写真出典】
1928(昭和3)年 実業之日本社 増田義一編 「金枝玉葉:御大典記念」
1925(大正14)年 警視庁 「大正大震火災誌」
1922(大正11)年 皇室写真帖発行所 皇室写真帖編纂所編 「皇室写真帖」




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