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2015/05/14

朝鮮人を満州に連行したブローカー


1935(昭和10)年刊行の書籍に、ブローカーに連行されて満洲へ行く朝鮮人移民団の記述があります。

筆者は南満洲鉄道満洲線に乗って奉天、新京方面へ旅する途中、汽車の中で二、三十人の朝鮮人移民団を目撃しました。

朝鮮人移民団は「かた言の日本語と怪しい英語」を話す「仲介者」に連れられていました。

筆者がその仲介者について 「別に責任あるリーダーではないのに、いささか驚かされた」と記述していることから、この仲介者も朝鮮人だったのではないかと推測されます。


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朝鮮人が朝鮮を離れて満洲へ移民して行った主な原因は、日本軍の強制連行とか日本帝国主義による弾圧などではなく、

・1890 (明治23) 年の凶作が原因で罹災民が満洲の間島に移入し始めたこと

・日清戦争から4年後の1899 (明治32)年に晴れて独立国家となった朝鮮が清国と「韓清通商条約」を締結したことで、ふたたび朝鮮半島に大量移入してきた清国人に仕事と土地を奪われたこと

でした。

最初は在満中国人に差別され、排斥された朝鮮人でしたが、日露戦争後に朝鮮が日本の保護国となったことで、大手を振って満洲に移民できるようになりました。

日本政府は1907 (明治40) 年に満洲の龍井村に統監府派出所を設けて、朝鮮移民の保護に当たりました。

しかし、1917 (大正6) 年のロシア革命を機に龍井村は反日朝鮮人の巣窟となり、在満中国人・朝鮮人は中共やソビエト共産党と結託して満洲赤化に狂奔し、パルチザン (遊撃隊) として在満日本人を虐殺し、日本を敗戦に導いていきました。

現在、韓国は日韓外交を正常化したいようですが、半島に温情をかけても必ず日本を裏切ることは歴史が証明してるのでお断りしたいですね。


本記事の資料




出典:1935(昭和10)年 日本公論社 吉方一広 「飯の社会学」  鮮満一巡記



□白衣の流浪民族

 満洲線を奉天、新京と奥へ入ってゆくごとに、鮮人労働者の多いのにちょっと驚かされるが、これが新京からハルビンへの、元の北鉄(管理人注:北満洲鉄道。1935年に日本がソ連から買い取った東支鉄道。1986年露清密約によりアジア侵略の目的でロシアが清国から敷設権を得たもの)となると俄然激増して、列車は支那の苦力(管理人注:クーリー。不熟練労働者)と鮮人労働者とで殆(ほとん)ど一杯である。

 朝鮮人口の激増ぶりは、内地のそれより一層甚(はなは)だしい。深刻な不況を極めている農村やその他の一般社会情勢は、これらの過剰人口を消化し得ないから、自然に内地へ来たり、満洲に出たりすることになる。現在、満洲へは少なくとも三百万人以上の鮮人の農業労働者が行っている筈(はず)だというから、実際に鮮人の満洲の行っている者の数は、相当なものであろう。

 例のだらだらした白衣、汚れに汚れた白衣の鮮人は、何か大きな布に包んだものを肩にし、家族を引具して、満洲の奥へ億へと進んで行っている。あの風呂敷包みの中には、恐らく全財産があるのであろうが、支那の苦力に突き退けられ突き退けられ、汽車にだって最後にでなくては乗れないような彼等(かれら)の鈍い行動には、何か運命の暗示が見えるように思える。


 満洲に押し出して行って、一体何をやるのか? 大部分は農業労働に従事するから、ここでも満洲農業の恐慌下に、食うや食わずの惨めな目に遭(あ)う。

 略奪農法式な満洲の農業経営は、流浪に慣れた彼等のために、都合がよいかも知れないが、その代り、支那の苦力に対立した低級な生活と、深刻な不況に揉(も)まれねばならない。

 支那人の農業労働者と来たら、 ─── それは単に農業労働者にばかりは限らないが、豚の食うようなものを平気で食って、それで結構やってゆく。およそ牛馬に等しい生活ぶりであって、風呂になんぞ、三ヶ月や六ヶ月位、入らないからと言って別に問題にはせぬ。

 こういう働きぶりだから、金など、ほんのちょっぴり貰(もら)えれば生きてゆく。日本の渡満労働者が、これらと対立競争してやってゆかれるわけがない。

 こんな、無代のような労働力が溢(あふ)れている満洲へ、白衣の朝鮮人がのそりのそりと、故国を食いつめて流れ込んでゆく。あとから、あとから、列をなして流れ込んでゆく

 どうして、幸運が彼等を待っているだろう。


 午前八時すぎ、新京を発してハルビンに向う列車の中で、筆者は二、三十人の鮮人移民団に出会(であわ)した。どれもこれも、頗(すこぶ)る人間放れのした顔をしているが、それでも家族連れが大分ある。荷物と言えば、例の汚ない風呂敷包みがあるばかりで、身軽と言えば身軽だが、そぞろあわれを催(もよお)さすような旅ではある。

 昼食が始まった。取(とり)出された黄色っぽい大きなむすび(管理人注:おむすび)なのだが、それが極めてこわれ易(やす)く、ぼろぼろとこぼれるのを見ると、粟(あわ)と麦から出来たものらしい。

 真黒(まっくろ)い手にそれをつかんで、膝の上一杯に散らしながら、きょろきょろ傍見(管理人注:わき見)をしつつ食べる姿は、まず動物園のお猿と思えば大した相違はない。

 塩ぐらいはつけてあるかも知らないが、副食物があるではなし、水一杯飲むではなし、手の指についたのは、ぺろぺろと嘗(な)めて、またごろりと横になってしまった。

 これだから、支那人と競争して牛馬のような生活が出来、食うや食わずで流れて歩けるのであろう。

 かた言の日本語と、怪しい英語とをちゃんぽんに話す引率者を見つけて、種々と話をきいたが、この移民そのものについては、彼は単に仲介人であることがわかり、別に責任あるリーダーではないのに、いささか驚かされた。



朝鮮人の満洲移民経緯


出典:1935(昭和10)-1940(昭和15)年 東洋協会 〔東洋協会調査部〕調査資料 第13集 「朝鮮農民の満洲移住問題」



  豆満江の対岸間島地方に於ける朝鮮人の去来に就(つい)ては、古き史実は暫(しばら)く之(これ)を措(お)き、康凞五十三年に至り、初めて支那側に於て琿春(こんしゅん)に駐防協領衙門を設けて辺境の防備に当らしめたが、当時既(すで)に清韓両国の移民は雑居の姿であった。咸豊十年には露清両国の間に所謂(いわゆる)北京条約が締結されて、清国は沿海州一帯を露国に割譲し、玆(ここ)に漸(ようや)く清韓露三国間に於ける紛争の端を開くに至った。

 越えて我が明治二三年の交(管理人注:かわりめ)、北鮮一帯に希有の凶歉起り、之(こ)れが罹災民は相次いで間島の各所に移住し始めた。明治十六年朝鮮側に於て国境の封鎖令を撤廃し、又(また)支那側に於ては、光緒の初年漸く禁令弛緩したるを以て、却(かえ)って招撫開墾の政策を採るの態度に出で、光緒三年(明治十年)には局子街に招墾局を設くるに至った。

 新(ママ)くて日清戦争後漸く清国の威信衰うるに伴い、同地方に於ける朝鮮人の勢力日を追うて扶植せられ、日露戦争後韓国が我国の保護国となるや、帝国政府は明治四十年龍井村に統監府派出所を開設して、鮮民の保護に当ってより以来、頓(とみ)に朝鮮人の移住が増加し、当時既に約七万八千名の多きを示していた





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