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2015/05/13

朝鮮のブローカー 「シブチャン」


朝鮮人労働者を募集するブローカーは朝鮮にもいて、朝鮮語で 「什長(シブチャン)」 と呼ばれていました。

戦前日本は朝鮮人の日本渡航を防止するために、朝鮮で窮民救済の目的で土木事業などを実施していました。

そういった事業に就労を希望する朝鮮人も、朝鮮人ブローカーが集めていました。「什長(シブチャン)」という呼び名は、労働者を十名集めてくることから付いたものだそうです。

朝鮮でも朝鮮人労働者はブローカーや労働下宿経営者に搾取されていました。


【朝鮮の農楽】
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朝鮮での労働者募集シーズンは「春窮期」だったそうです。

「春窮期」とは、「前年の秋に収穫した穀物が春になる前に底を尽いてしまい飢餓に苦しむ時期」 という意味です。

どうも 「ソメイヨシノだ、花見だ」といった風情ではなかったようです。

朝鮮旧来の小作法では、収穫したイネの束をバンバンと石や樋 (ひ) に打ちつけて脱穀したあと、落ちたモミは地主のもの、稲穂に残ったモミが小作農の取り分と定められていたので、小作農の取り分は非常に少なかったのです。

それで春窮期に、腹をすかせている労働者を募集すると食いつきがよかったということなのですね。

そして、ブローカーの募集に応募した朝鮮人の待遇は、

・労働下宿の下宿代は粟(アワ)で前納する決まりだったので、粟屋は労働者が賃銀受領に使う印をあすかり、市価の一、二割高い価格で労働者に粟を貸し付け、賃銀支払日には粟屋が工事現場の窓口に殺到した

・労働下宿の下宿代は以前は一日二十銭といった現金払いだったが、踏み倒す者が多かったので主食である粟で前納するという決まりになった

・労働者の下宿は粗末な土幕家屋だった

・労働者の食事は北鮮人の主食は粟、南鮮人の主食は麦にアズキを混ぜたものだった。肉体労働に従事する時は米三割、麦七割の飯で副食物は漬物、汁、干魚などであった

・労働者の賃銀は一日平均五、六十銭であり、そのうち三十銭を飯場代として支払った。そして、労働者が「酒が飲みたい」と言えば什長が酒を買って来て飲ませたりしたので、労働者は一銭も現金をもらったことはなかった

といった具合で、日本在住朝鮮人ブローカーにくらべるとさほど悪質ではなかったようですが、労働者がブローカー、労働下宿、粟屋に搾取されたことに変わりはありません。

強制連行にしろ、従軍慰安婦にしろ、韓国の「歴史」ではすべて日本軍がやったことになっていますが、

実際は朝鮮人ブローカーのしわざ

だったのですね。


本記事の資料



出典:1933(昭和8)年 南満洲鉄道株式会社経済調査会 「朝鮮人労働者一般事情」 第六章 鮮内労働事情



七、宿舎

 大規模の鉱山にてしかも鉱夫を直轄して居(い)る箇所にありては鉱業主自身が宿舎を建設し、これに収容して居る、平壌の海軍燃料廠平壌鉱業所の如(ごと)きは其(そ)の一例である、然(しか)し比較的小規模の鉱山にありては、開山当時附(付)近の密集せる民家を買入れ漸次必要に応じ増築しつつある状態である。

(中略)

 曾(かつ)て朝鮮人の独身労働者の下宿料は一ヶ月分粟四斗だと云(い)うことを耳にしたことがあるが、今回の調査より下宿代として粟を徹するに至った原因が判明するに至った。


【粟(アワ)】
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 黄海道にある某鉄山には約一千名の採鉱夫が居るが、彼等(かれら)の中(うち)約六十%は附近の部落民で、其他(そのた)は他地方から来た所の単身者乃至(ないし)は独身者である、勿論(もちろん)この部落其のものも鉄鉱山が生んだものであることはいう迄(まで)もない。

 この単身者或(あるい)は独身者は下宿住居 ─── 下宿といっても飯場よりも多少自由だというだけで、単に食わせてやり、寝る場所を与えてやるというに過ぎない ─── をするのであるが、一ヶ月の下宿料は粟三斗五升という相場になって居る、昨今粟の価格は一斗につき一円五十銭と概算されるからこの下宿料は五円二十五銭という計算になる。

 下宿代が粟であるということは如何(いか)にも不思議であるが、曾(かつ)ては一日金二十銭というように定めて居たそうである 然(しか)し、下宿代を踏み倒す者が少なくなかったので今では何(いず)れも一定量の精粟を前納したものでなければ世話をしないということになったのだと云う、

そこで彼等(かれら)は三升五升の粟を買って前納するだけの用意があるかというに将来に備えるという様(よう)な考(かんがえ)のない彼等としては勿論(もちろん)現金購入を為(な)す用意がない、玆(ここ)で 『粟屋』 が繁昌 (繁盛) することになる、粟屋は各鉱夫から賃銀の受領印を預った上必要なだけの粟を市価よりも一、二割高い価で貸してやる、そして毎回の賃銀支払日には其の鉱山の賃銀支払口に多数の粟屋が押しかけて来るという。


第四節 日傭(ひやとい)労働者事情

(中略)

ニ、労働者の組織

 朝鮮人の日傭労働者の中には内地に於(お)ける親方、満洲の所謂(いわゆる)苦力(管理人注:クーリー。中国、インド等の不熟練労働者)頭に相当する 「什長」 と云(い)うものがある、これは朝鮮読(よみ)にすれば 「シブチャン」 と謂(い)い文字其(そ)のものは十人の頭と云う理(ことわり)であるが現今では配下人数が十人であろうと五十人であろうと什長と云って居(い)る。

 この什長対労働者の関係は、苦力頭対苦力の如(ごと)く密接な関係に於(おい)て結合されて居ない、勿論(もちろん)中には同郷関係等で相当固い結合をして居る者もあるが多くは其の仕事をするに当り遇(偶)然一団となった者の中から有力者を推すとか、傭(雇)主の命により指図通りの労働者を募集して来たものが什長となるとか云うのが多く、其の場限りの長たるに過ぎない。

 苦力頭対苦力の関係は玆(ここ)に記す迄(まで)もなく、親分子分の関係に於て結ばれて居(お)り、苦力頭は配下苦力の私生活上に於ける世話迄もして居るが、朝鮮人の什長と云うものの多くは作業場に於ける長即(すなわ)ち傭(雇)主対労働者間の連絡員であり、交渉員であり、且(かつ)通訳であると云うに過ぎず、私生活には何等(なんら)の関係を持たないと云うものが多い。


三、需給関係

今回の出張中に各労務機関或(あるい)は社会事業家の口から何辺(なんべん)となく 「春窮(しゅんきゅう)」 と云う言葉を聞かされた。

これは小作農民が秋の収穫物を食い(つく)尽して仕舞った三月頃から麦の刈り入れ期の直前迄の期間を謂う(い)ものであって、この期間内は小作農民或(あるい)は農業労働者は困窮のどん底にあると観られて居る、それで、この期間を逸しては(管理人注:逃しては)容易に労働者の募集を為(な)し得られしないと云う、

それは水田の植附(付)期に至れば現に土木建築労働に従事して居る者迄も好賃銀を与えると云う条件の許(もと)に農業方面に引き抜かれて行くと云った有様(ありさま)で、窮民救済の目的を以(もっ)て起した土木工事が予定の工程を以て進捗されないと云うことさえもある、つまり貧窮のどん底から浮(うか)ばれる為(た)めである。

 朝鮮人は食うことに困難を感じさえしなければ労働しない、生活に窮して後始めて労働すると云う悪弊がある、しかも農繁期には、自己の郷里に於て農業労働者となることにより、食うということには余り苦痛を感じない、故(ゆえ)に労働者を募集するにはこの 「春窮期」 を利用することが最も策を得たものであると云う。

四、生活状態

 玆(ここ)では日傭(ひやとい)労働者の衣食住に関し其の概要を記述する。

 朝鮮人の住居には必ずオンドルが附属して居る、この温突(管理人注:オンドル)は朝鮮に於ける特殊の暖房装置を施したもので床下に数条の煙道を設け、薄い石を以て蓋(おお)い、其の上を粘土にて塗り立て、更に油紙を貼り込み、壁も土壁の表面に洋紙等を張るのであるが、普通下層労働者等は床土の上に単に安平(管理人注:アンペラ=インドおよびその付近に産するカヤツリクサ科の多年生草本の茎で編んだむしろ)または筵(むしろ)を敷くのみで壁も荒壁(管理人注:あらぬりのままのかべ)の儘(まま)のものが多い。

 家屋は一戸三坪乃至(ないし)五坪程度のものが多く斯(か)かる(管理人注:このような)家を所有して居る家族持(もち)の者は大概数名の労働者を下宿させて居る、尚又(また)、大工事場の近くにはバラック式の飯場が建てらして居る、

そして其の附近には家族持土工の住居などが目につくが斯かる家は一戸二坪程で入口は土間と炊事場とになって居り居室は一坪程しかなく其処(そこ)には古叺(管理人注:かます。穀物、石炭などを入れるわらむしろの袋)等を敷物にして居る、以上は釜山の牧の島で見たものであるが、其後(そのご)平壌に至り窮民の土幕生活を見た時、牧の島の妻帯土工の生活と大差がない様(よう)に感じられた。

【土幕家屋】
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 今年三月末に京畿道庁に於て道内京城(管理人注:現ソウル)、仁川、開城の三府及び高陽、富川、開豊の三郡につき土幕 ─── 土幕とは小丘又は土堤(どて)などの地形を利用し其処(そこ)に建て掛けた所の原始的な小屋をいう ─── 又は不良住宅居住者の職業別戸数の調査を為(な)したのであるが今この結果を記せば、

【土幕及(および)不良住宅生活者職業調 (戸数) 】
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これに従って見るに土幕生活者の七四%不良住宅生活者の五三%は労働者であり、如何(いか)に彼等(かれら)が貧困生活を持続して居るかの一端を窺(うかが)うことが出来る。

 主食物は期(季)節、入収(収入)関係、地方別、労働の激否等により変化がある、然(しか)し既(すで)に第二章に於て述べたるが如く北鮮人の中には粟食を為(な)す者が多く、南鮮人の中には麦食者が多い、そして麦の中に小豆(あずき)を入れて飯に炊く者もある、この小豆を入れるのは、飯の膨張量が大であることと、味がよくなる為(た)めであると云う。

粟食のみの場合一人一日消費原料は何程か、この点については計数的な材料はないが、五合見当と観(み)られる、玆(ここ)で昭和七年一ヶ年の精粟価格に関する考察を為(な)すに、これは地方的に多少の差は存する(管理人注:あるが)も便宜上仁川府のそれを採ることとする。

【昭和七年中に於ける精粟価格 (単位:石) 】
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 右の如くであるが、小売の場合には多少高価となる故(ゆえ)、一斗に付一円五十銭と見て、五合の価格は何程であるかを算出するに僅(わず)か七銭五厘に過ぎないものとなる。

 尚(な)お釜山にて土工の飯場生活の実際を見たが、此処(ここ)では什長が飯場頭を兼ね什長対鮮人土工は恰(あたか)も苦力頭対苦力の関係の如き状態に於て結ばれて居(お)った、

この地方の飯場料金は一人一日三十銭乃至(ないし)三十三銭程度である、土工は激務に従事する関係上麦の単食をせず米三分麦七分位の混合食を摂り、副食物は漬物、汁、干魚等である、

彼等(かれら)に対し色々な質問を試みたが、答うる所を総合するに

『自分は一日平均五、六十銭の働きをして居る、だから三十銭の飯場代を払っても尚且つ二、三十銭残る計算になる、然(しか)し何時(いつ)の計算日にも現金は一銭たりとも貰(もら)ったことがない、酒を飲みたいと云えば什長が酒を買って来て飲ませて呉(く)れる

と云うのである、

又(また)什長は什長として

自分は水原方面から二百円余り費(ついや)して三十名余りの土工を募集して来たが、激務に忍(た)え兼ね作業中に山を越え大部分逃(にげ)出して仕前(しま)った、実に大損害をした、然し自分は此処(ここ)を去ることも出来ない』

などと云って居た。

 又(また)下級労働者専門の下寄料は一日二十銭程度であり、粟を前納する場合は一ヶ月に付き三斗五升乃至(ないし)四斗が普通である、これは鉱夫の場合と全く同様である。






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