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2015/03/11

東京大空襲下での御出産…照宮成子(しげこ)内親王殿下


3月10日は東京大空襲の日でした。

70年前の3月9日夜半、B29が来襲、10万人にものぼる無辜(むこ)の日本人を焼き殺し、東京の町を焼きつくしました。

その激しい空襲下、昭和天皇の第一皇女であらせらる東久邇宮盛厚(もりひろ)王妃殿下は初めてのご分娩を迎えられていました。

そして、両殿下のお住まいがあった麻布鳥居坂の防空壕の中で、昭和天皇、
香淳皇后両陛下の初孫である信彦さまを御出産になりました。


【ご幼少の頃の照宮様】
「今上陛下の第一皇女にましまし、大正十四年十二月六日、御生誕あらせらる。」
shigeko_naishinnou_denka1.jpg【出典】国立国会図書館:1928(昭和3)年 実業之日本社 増田義一 「金糸玉葉帖:御大典記念」


【東久邇宮盛厚(もりひろ)王殿下 同妃成子内親王殿下御成婚:昭和18年】
東久邇宮盛厚王殿下と照宮成子内親王殿下との御めでたき晴れの御婚儀は、十月十三日、瑞気たなびく大内山の賢所大前において、いとも厳かに挙げさせられた。
shigeko_naishinnou_denka2.jpg【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06031089000:内閣情報局 「写真週報」第295号


元宮内省総務課長だった筧元彦氏は、空襲下のご出産について

「両陛下の御心配の程はいかばかりかとお察し申し上げた次第であった」

と述懐しています。

大変残念なことに、香淳皇后陛下が東久邇宮邸に差し向けた塚原侍医の家族は空襲で全滅、病院も焼けてしまったのだそうです。

その後、ただ一人残された老侍医は皇居内の官舎に住むことになったそうです。

しかし、銅の破風がきらきらと美しく輝いていた皇居、

訓練を終えた予科練生、飛行学校生が戦地へ赴く途中、空から今生の名残にと目に焼きつけた皇居も、

5月25日の空襲で炎上、全焼してしまいました。


【富士山と零式艦上戦闘機(ゼロ戦)一一型】
zero_11.jpg


こういうことを書きますと、
「大東亜戦争は日本の侵略戦争」
「昭和天皇の戦争責任」
などと叫ぶ戦争工作人らがワラワラと湧いてきそうですが、

大東亜戦争は容共連合国と反共日独伊の思想・領土戦争でしたし、
戦争に突き進んだ大本営は中国共産党や上海仮政府と関係があった北一輝が将校らをそそのかした結果ですし、
その将校らが二・二六事件という共産クーデターを起こした時点で日本軍は
天皇の軍隊ではなくなりました。

本当に戦争をしたがっているのは、「日本の右傾化ガー」と叫んでいる、戦争という暴力革命を望んでいる人たちです。

そういう人たちが「反戦、平和」を叫ぶのは、日本人を精神的にも武装解除するため、それから共産主義は「平和・不戦」を看板にしている建前上、「日本人自らが望んで共産主義国の属領になった」と見せかけるためです。


1961(昭和36)年、戦後臣籍降下された成子内親王殿下は35歳という若さでこの世を去りました。もし、戦争がなかったなら、幸福に暮らせた日本人が数えきれないほどいたでしょう。


本記事の資料


東京大空襲下でのご出産


出典:1987(昭和62)年 日本教文社 筧元彦 「今上陛下と母宮貞明皇后」 戦争末期の皇居内



空襲・空襲……

 三月になって戦局はいよいよ逼迫。空襲もまた激化の一途を辿(たど)りつつあり、三月四日にはB29編隊が一五〇機をもって帝都に来襲し、主として帝都外周を雲上より盲爆、翌五日は「単機波状来襲十目標」と報ぜられた。

 三月六日は皇后陛下の御誕辰(管理人注:たんしん:生れた日。誕生日)に当たるので、九時から正午まで参賀、その間は幸いに警報が出なかったが、正午直前の十一時五十八分より十二時三十三分まで警報発令、夜半にも再び警報発令、連日警報が出されて三月九日夜は東京大空襲。烈風下の低空を火の色を映して鈍い銀色の巨体のB29が大挙来襲し、下町の大部分がこの時焼失したのであった。

 この空襲下で忘れることのできないのは、この空襲のはげしい中での、陛下の御寵愛深い第一皇女照宮様、当時はすでに東久邇宮盛厚(もりひろ)王妃殿下となっておいでになった成子(しげこ)内親王の、はじめての御分娩であった。両陛下の御心配の程はいかばかりかとお察し申し上げた次第であった。

 御結婚後、両殿下は麻布鳥居坂の御殿にお住まいになっていらしたが、この三月十日の大空襲で防空壕に御避難になり、その中で始めてのお子様であり、両陛下の初めてのお孫さまである信彦さまを御出産になったのであった。この時、皇后さまが差し遣わされた産婦人科の塚原伊勢松侍医は、本所に病院を持ち、家族も本所に住んでいたため、"その夜"の空襲で病院は焼け、家族は全滅、ただ一人残された老侍医は単身皇居内の官舎に住むこととなったのであった。

 翌十日夜も十時二十分、B29一三〇機来襲、皇居内では主馬寮事務所が焼失、浜離宮では御茶屋が焼け、三番町では賀陽(かや)宮邸をはじめ宮内大臣官邸等も焼失するに至った。

 三月十四日は名古屋の大空襲、十七日には神戸が、そしてこの日に硫黄島の日本軍は全滅するに至ったのであった。




東京上空から見た宮城

戦前は皇居を「宮城(きゅうじょう)」と呼んでいました。


出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第四号所収
  「-特攻垂直急降下隊-万朶(ばんだ)特別攻撃隊」 
     万朶隊飛行隊員元海軍少尉 湯川清司



 われわれの猛訓練は、勿論(もちろん)熊谷陸軍飛行場で行われた。そして、昭和十九年十月に熊谷を飛立って比島(管理人注:フィリピン)前線に行った。

 澄み切った秋晴れの大空軍編隊を組んで、飛翔間もなく東京上空に至ると、遥かに宮城の青々とした樹木、眼に光るのはお濠(ほり)だったろうか、私はそれを見下(おろ)しながら身内のひきしまる感激に涙さえ流れてきた。








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