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2015/02/01

後藤さん殺害!安倍総理をたたく反日勢力の日本人虐殺


ISISの人質になっていた後藤健二氏が殺害されました。

そこでさっそく、反日マスコミが「安倍が後藤さんを殺した!」と安倍総理たたきを開始しています。


でも日本にはびこっている反日勢力は戦前から、連合国と結託して大勢の日本人を虐殺した共産主義者です。

彼らに安倍首相を批判する資格はありません。


【ソ連の対日宣戦布告を報じる朝日新聞(昭和20年8月10日)】
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終戦直前(1945(昭和20)年8月9日)、ソ連軍が満州国に侵攻して、中国人、満州人、朝鮮人と共謀し、大勢の日本人居留民を虐殺しました。

それまで在満中国人、満州人は日本の企業や施設で働いて給料をもらい、生活していました。

そして当時「日本人」だった朝鮮人は、日本本国から学校を建ててもらったり、中国の官憲に暴力をふるわれないよう保護されたりしていました。

しかし、ソビエト共産党と親密だった彼らは、日本敗戦を一年前から知っていて、ソ連軍の満州侵攻と同時にソ連側につき、日本人を虐殺しました。


【アジア共産ブロック】
ロシア革命の翌々年である1919(大正8)年末、コミンテルン(ソビエト共産党)はウラジオストックにロシア共産党極東部委員会を設置してアジア赤化工作を開始、大正時代末期までに日本海の向こうは共産化した。
外蒙古…1921(大正10)年、ソ連軍の派兵により革命独立、共産化。

内蒙古…1923(大正12)年、ソ連軍が進軍し共産化。だが1937(昭和12)年の支那事変勃発により共産化は中途で頓挫した。

中華民国…1924(大正13)年、五四運動(排日運動)のさなかにソ連が進入、共産化。

朝鮮…1925(大正14)年4月、コミンテルン朝鮮支部として朝鮮共産党が組織され共産化。

満洲…朝鮮共産党組織後、満洲在住朝鮮人を対象として共産運動が開始された。中国共産党も満洲でいくつもの満洲支部を組織した。

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日本敗戦の一年前から在満中国人、満州人、朝鮮人は、日本人の言うことをきかなくなり、横暴なふるまいをするようになったのだそうです。

それだけでなく、彼らは「来年8月日本はツブれる」と言うようになった。

そして昭和20年8月に入ったころから、国境に住んでいた満州人、朝鮮人が馬車をつらねて荷物の移動を始めたのだそうです。

悲しいことに、ソ連軍進軍を知らなかったのは日本人だけでした。

戦争は日本人の知らないところで、操作され、動いていたのです。

敗戦後、満洲の荒野には共産主義者に虐殺された日本人の死体が、葬られることもなく、丸太のように転がっていたそうです。


今、安倍総理たたきをやっている反日マスコミの姿をよく見ておいてください。

その姿こそ連合国と結託して、あれこれと工作し、「日本が悪い!」と歴史をネジ曲げてきた共産勢力の姿なのです。


官房長官「断固として非難」、後藤さんを殺害したとする動画投稿で
2015年2月1日 ロイター

[東京 1日 ロイター] - 菅義偉官房長官は1日午前6時、臨時に会見し、イスラム国に拘束されている後藤健二さんが殺害されたとみられる画像がインターネット上に投稿されたことに対し、卑劣なテロ行為であり、断固として非難すると述べた。

菅長官は「さきほど後藤健二氏が殺害されたとみられる動画がインターネット上で配信された。このような非道かつ卑劣極まりないテロ行為が再び行われたことに一層激しい憤りを禁じ得ない。あらためて、断固として非難する」と述べた。(後略)



日本政府は、被害者ヅラしている朝鮮人、中国人のことも忘れないでくださいね。


本記事の資料


満洲国境からいち早く避難した満洲人、朝鮮人


出典:1958(昭和33)年 日本文芸社 「現代読本」第三巻第五号 
   元綏芬河特務機関 北野征夫 「痛恨! ソ満国境部隊の奮戦」



戦雲ただよう国境の町

 まだ北東の一隅に不気味な雷雲が低迷してはいたが、満州の八月にしては、すがすがし過ぎるくらい、からりと晴れ渡った八月八日の夕は、涼風をただよわせながら、今日も静かに暮れていった。

 しかし日本軍がガダルカナルに転進、南方の悲報が伝わるたびに、毎日、ソ連国境線を彷徨して、情報を集めていたわれわれは、何か物騒な圧力を感じていた。

 すでに七月からだったが、肉眼でもソ連のグロテコウオ飛行場には、一〇〇機に余る戦闘機を目撃したし、またその附近の地上部隊は、毎日実弾を使って歩砲(ほほう)連合演習を繰り返していた。

 このころ、われわれの諜報機関も、そうしたソ連の行動が、何を意味しているのか、それを探るため、七月六日にスパイを潜入させたが、スパイはそのまま帰ってこなかった。

 そして毎日のように、夜をも十時を過ぎると国境前線の作戦道路を、敵の戦車機械化部隊が轟々(ごうごう)とキャタピラをとどろかし、夜通し示威行進を行っていた。

 こうするうち、八月にはいると、国境の町綏芬河(すいふんが)からは、夜になると満鮮人が馬車をつらねて、荷物の移動を開始するようになり、夜の街の一人歩きはちょっと、心細い状態になった。それでもなお街々には、最後の勝利の信念をもった歩兵一個大隊だけの、綏芬河守備隊が残されていた。



丸太のようにころがっていた日本人の死体


出典:1962(昭和37)年 錦正社 原田政盛著 「我が満蒙日記」 28 ああ敗戦



 翌朝新京駅に停車した。一時間余も停車していたであろうか? その間、青天白日(管理人注:中華民国の旗)の徽章(管理人注:きしょう:身分や職業などを示すしるし)をつけた中国人が二、三人乗車して来て、私共をにらみつけるようにして

「此処(ここ)では日本人が沢山(たくさん)殺されている」

と如何(いか)にも憎々しそうに吐き捨てるように言って立ち去った。

 窓の外を見ていた私の隣りの兵隊が真っさをな顔をして指さすので、私も窓の外を眺めた。

 始めは、雨に打たれて何か丸太のようなものが転がっていると思ったのが、じっと見ているうちにそれが人間の屍体である事が判(わか)って来た。

そんなのが三つも四つも転がっていたが、恐らく敗戦の日に暴民に襲われた日本人の惨殺屍体であっただろうと思い、今更乍(なが)ら廃残の悲哀を感じさせられたのである。

昨日に変る今日の此(こ)の同胞の姿は、又、我々日本人全部の運命であると思い知らされた。どんなに無念であったであろうと心を締めつけられる思いがした。




日本敗戦を知っていた中国人、満州人、朝鮮人


出典:1959(昭和34)年 日本文芸社 「現代読本」第四巻第十二号 
   「虚国 『満州国』 の予言」



 日本軍政により、ドタバタと建国された「満州国」は、皇帝執政として、今はソ連に抑留されている溥儀が天津より、例の甘粕元憲兵大尉と、後に天津で銃殺された川島芳子等に連れ出され、途中、苦力(管理人注:クーリー:中国人の人夫)の変装で天津脱出をし、満州国皇帝として迎えられた。

 その実、実権は無く、すべて関東軍司令官のアゴにつかわれていた。儀式、祭祀、皇居出御(管理人注:しゅつぎょ:天皇や皇帝がお出ましになること)には一々関東軍の許可を必要とする単なるロボットに過ぎなかった。

 この国に、ドイツナチスの哲学に学んで「協和会」(日本の翼賛会か)というのがあった。国民の国家的行事、啓蒙宣伝を行った。

 勿論(もちろん)、協和会は全国に支部を置いた(五族協和)(管理人注:今でいう多文化共生)を唱えたのもここである。─── 会員の五分の二はいわゆる満州国人の官吏であって、いかにも、日、満、蒙、鮮、白露人が居た。

 中でも日本人以外はそれぞれの国で一応インテリばかりであった。それが……終戦一年前から決して日本人官吏に対し非常に冷たい態度はとる、協力はしないし、役所の仕事は投げて、室の片隅で密談ばかりする日々が続いた。

 その頃、戦果発表は怪(あや)しくなり、モウ”軍艦マーチ”も鳴らなかった。誰云(い)うとなく

「来年(二十年)八月頃日本ツブれる」

と伝わって来て、心ある日本人を怒らせた。

 一般の満人も、電車やバスの行列に、日本人を押しのけて乗る有様(ありさま)。事実、それ迄(まで)日本人は優位を信じ満人に威張り返していたが、そんな事は考えられなかった。

「来年八月ツブれる」の声は次第に大きくなっていった。

 そしてとうとう予言通り日本人は敗戦の日を「八月」に迎えた。

 それにしても、ピタリ当った八月説の予言は果して何処(どこ)から出たか?




【資料出典】
1933(昭和8)年 朝鮮総督府警務局 「高等警察報 第1号」
アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A04010418400:昭和6年8月 内務省警保局 「外事警察報 第109号」




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