HOME > 対日ヘイト・ヘイトスピーチ > title - タイピスト嬢の片目を吹き飛ばした朝鮮人テロリスト
2015/01/16

タイピスト嬢の片目を吹き飛ばした朝鮮人テロリスト


1932(昭和7)年4月29日、上海天長節爆弾事件で、大勢の日本人が死亡、負傷しました。

犯人は朝鮮人テロリスト尹奉吉です。


【コイツ】
terrorist_in1.jpg


尹奉吉が投げた爆弾は日本政府要人と軍人合わせて5名に重傷を負わせ、白川大将と河端民団行政委員長が死亡しました。

そして、上海総領事館に勤務していたタイピスト嬢の片目を吹き飛ばしました。

これを「ヘイト」と言わずして、何というのでしょうか?

しかもテロの原因は、「共産主義思想による資本主義国敵視」なのですから。

特アは「日本による植民地支配」「日本の侵略」とか言っていますが、それはコミンテルン(西洋列国の植民地支配を批判したマルクス思想)の受け売りです。


【事件直前の上海虹口公園】
shanhai_tero.jpg


尹奉吉が起こしたテロ事件は世界を震撼させました。と言っても、朝鮮人の勇気とか愛国心に震撼したのではありません。

西洋列国から見れば、宗主国民を爆殺するような植民地民など論外です。

世界が震撼したのは、ようやく終了した日本-中華民国間の「停戦協定」交渉がこの事件をきっかけに破棄され、世界戦争に突入するのではないかという懸念です。

事件を知ったイギリス、アメリカ、フランス、イタリア公使の中には「第二のサラエヴォ事件だ!」と叫んだ人もいたそうです。


【上海事変の停戦会議場】
右からジョンソン米公使、ランプソン英公使、郭泰祺、戴戟両委員。テロのせいで朝鮮独立”共産主義民族主義まじぇまじぇ”運動が世界に知れ渡った。「みな平等」が建前の共産主義と「民族」という境界を設ける民族主義は相矛盾する思想である。
shanhai_tero3.jpg


世界情勢を知らない朝鮮人がコミンテルンの手下になって、「日本憎し」とやりまくった対日テロのせいで第二次世界大戦勃発が早まるところだったのですね。

事件を知った各国の公使は詳細な状況を本国に報告し、日本政府や軍部がこの時も「大人の対応」をしたので、上海停戦協定は無事締結されました。

共産党的にはテロが裏目に出て、戦争という暴力革命は「おあずけ」になってしまったのです。


【上海停戦協定にサインする病床の重光葵】
shanhai_tero2.jpg


共産党のテロはおおぜいの日本人を虐殺しました。当時の朝鮮や中国はソ連に赤化され、共産主義の敵である資本主義国日本を標的にしてテロをくり返しました。

おそらく、異民族や異人種に虐殺された数は日本人が世界一ではないかと思うくらいです。


【中共軍の手榴弾製造所】
朝鮮人が対日テロに使った爆弾はソ連製または中国製だった。
chukyo_shuryudan.jpg


なので、戦後、日本人はこう思いました。

狂ったように対日テロをやって朝鮮人の希望どおり日本は敗戦、朝鮮は独立した。だから朝鮮人は祖国に帰るだろう。

ところが、帰らないのです。21世紀になった今でも「日本に強制連行されてきた」と言って日本にいる。そこで、日本人が

「帰れ」

というと

「ヘイトスピーチだ! 日本人はレイシストだ!」

と反抗する。


今、日本人はこう思っています。

祖国独立を叫んで日本人を虐殺しまくった朝鮮独立運動とは何だったのか?

祖国で革命すら起こしていない異民族が、なぜ日本で革命を起こしたがるのだ?


その問いの結果として、「帰れ」という言葉が日本人の口から出ているのです。

それでも、「ヘイトスピーチ」なのでしょうか?


【右足切断手術を受けた重光葵】
重光は軍艦で九州帝国大学に運ばれ、右足を切断した。
shanhai_tero4.jpg


【クローズアップ現代 ヘイトスピーチを問う ~戦後70年 いま何が~】
戦前の対日ヘイトスピーチがブーメランで返ってきただけ。


sabetsu2.jpg


本記事の資料



お急ぎの方は赤い文字の部分だけお読みください。


出典:1953(昭和28)年 毎日新聞社 重光葵著 「重光葵外交回想録」



爆弾破裂

 天長節の朝は引続きごたごたの最中でも朗かに過ぎて行った。総領事館事務所で御真影の拝賀を行い、一同は大礼服をモーニングに着替えて新公園の観兵式に臨んだ。

観兵式は公園の内外で行われて、砲兵隊だとかタンクだとか道具建ての大きいものは公園内に持ちこむことはできないので公園の入口の道路上で閲兵が行われた。

閲兵官はいうまでもなく軍司令官たる白川大将であり、観兵式の諸兵指揮官は植田第九師団長、参謀長は田代少将であった。

観兵式には上海にいる各国公使、総領事、領事ら、その他外国武官も多数案内されていた。観兵式は公園外で始められ、公園内の分列式で終った。

行進音楽は特に海軍の艦隊司令部附属の軍楽隊によって行われた。観衆はほとんど上海全部の日本人を初め、シナ人、欧米人も多数あって、観衆をさえぎっている縄の柵もなかなかこれを制しきれないほどであった。

観兵式の終ったのはもう十一時を過ぎていただろう。

 引続きその場で居留民団主催の一般祝賀会が開始された。式台は白川大将が公園内で閲兵をした地点の後方に設けられてあった。

それは前に軍人勅語下賜五十年記念祭に用いられた高さ一間(管理人注:けん:長さの単位。一間は六尺=約1.8メートル)くらい、幅二間、長さ三間くらいのものをそのまま用いたのであった。

 式台の上には司会者側から友野民団書記長、河端民団行政委員長や村井総領事が上がっており、来賓として向かって右から日本公使である自分、野村艦隊司令長官、白川大将、植田師団長の順に並んで起立していた。

行政委員長の発会の辞についで、村井総領事の祝詞がいずれも簡単にすんで君が代の唱和が海軍軍楽隊の音楽によって始められた。

 先刻から降ってきた小雨はだんだん強くなり出した。式台の上から正面を見ると、すぐ前には陸海軍の将官以下多数の将校及び在留民の主な人々が居並んで、その後方には中等学校や小学校等の生徒が所せましと並んでいる

観兵式に参加した軍隊も未(ま)だ隊列のまま式場の一角に並んでいた。観衆も式台のすぐ裏手のほうからたくさん集まっていた。

雨はしきりと降る、そのために傘を開くものもあり、また三々五々帰途につくもののあるのを台の上に直立しながら目撃した。

しかし君が代の合唱は新公園を圧して続けられた。二回目の君が代がまさに終ろうとする瞬間であった。異様な形をした金属製のものが式台の上に投げ上げられた。式台の上で野村中将と思うが、

「爆弾!」

と叫び

「二発目がくるぞ!」

と大声で叫んだ。急に動揺が始まった。台の上も下もざわつき出した。自分は君が代の合唱を不動のまま続けた。が、それとともに今か今かと思う幾瞬間の後、水筒形のその怪物は爆発した。

爆音は強かった。自分には極めて堅い鋼鉄と鋼鉄とを強く撃ち合わせたような、歯切れのいい、耳をつんざくような音であった。それと同時に鬼の金棒か何かでしたたか打ちつけられた感じがした。

倒れた自分を起そうとして手にしていたステッキの助けで立ち上がろうとした時、ステッキが自分の身体を支え切れずにボキボキと三つに折れた。止むを得ず倒れたままで脚部に目を注ぐと鮮血がズボンを通してほとばしり出ている。

「やられた」

 と思った。急に強い苦痛を感じ始めた。それから、瞬間的に種々のことが頭にひらめいてくるのである。

「停戦交渉も事実上終了して好都合だった。思い残すことは別にない」

 と思った。次の瞬間に、

「ひょっとしたらこの爆弾事件から停戦交渉が不調になってさらに大事に至りはしないか。しかしそんなことはまずあるまい」

 と思い返したりした。

 苦痛はますます昂(こう)じてきた。家族や親戚にはいつもそれとなく暇(いとま)乞(ご)いはすんでいるなどと頭にひらめくように浮んだ。浜口首相のやられたことも頭に浮んできた。浜口首相は腹部であったと思った。

深く呼吸をしてみた。呼吸はできた。苦痛はますます激しくなって投げ出された脚の出血はひどかった。式台の上を見回したが、人影ひとりも見えなかった。

やられたのは自分ひとりだと思った。もし第二発目が来たならば倒れている自分は粉砕されるだろう。「今か、今か」と心待ちにその第二発目を待った。

しばらくすると顔の先に大礼服の帽子の黒い毛がちらついて見えた。村井君(総領事だけは大礼服を着ていた)が来てくれたなと思った。村井君は自分を抱え起そうとしたが、重いのでどうすることもできない。

しばらくして人の足音がまた聞えた。自分の護衛の警察官などの姿が目に映った。これらの人々が自分を抱えようと努力した。十六、七貫(管理人注:かん:約60キログラム。一貫は約3.75キログラム)もある自分を抱えるので、足は引きずられるよりほかなかった。

陸戦隊の鉄兜(てつかぶと)と長剣を引きずっている人の姿が見えた。人々はなお第二発目の不安にかられているあわただしい様子である

ひきずられた足はちぎれるような痛みを感じる。自分を援(たす)けてくれる人々は一所懸命である。「閣下、しっかり」とか「公使、しっかり頼む」とか、しきりに自分を激励しながら身体を運ぼうと式台の上をひきずっている。自分は、

「大丈夫、傷は脚だ。脚がやられているから脚もかついでくれ」

 と頼んだが、とにかく台からひき降ろされたようで、雨に濡れた芝草の湿りがぶら下った手に触れた。自分は、

「自動車、自動車」

 と呼んだ。こういう場合はなんでも早く病院に駆けつけるに限る。これはかつて外務省で阿部政務局長や斎藤課長がやられた時の経験からそうきめていた。憤激しきった公園の中をようやく自動車にたどりついたようだ。その時狂気せんばかりの婦人の声が聞えてきた。

「おじさん、おじさん」

 自動車のところにきて、

「おじさんしっかり、おじさんしっかり」

 また人々は、

「朝鮮人の奴こんなことを仕でかしやがって、あんな奴はたたき殺してしまえ」

 と恐ろしい興奮である。それで自分は初めて爆弾犯人が朝鮮人であることを知り、事件が甚(はなは)だ限定せられ得べきものだと思って、むしろ一安心したのであった。

「おじさん、おじさん」 と私を呼んだ婦人は長い間上海に居留して牧場を経営している石崎氏夫人であった。

 石崎一家は上海事件が始まってから間もなく公使官邸に避難して来て長く自分と同居生活をした。その子供は私を「おじさん、おじさん」と呼んで私の夜帰るのを待ち兼ねて蓄音器をかけたり歌を歌ったりして慰めてくれたのであった。またしばしば代る代るに肩をたたいたりして私の疲労をなおしてくれた。

私はそれで「おじさん、おじさん」で通っていた。今日やられて自動車に運び込まれた時に石崎夫人は「おじさん、しっかり、しっかり」と狂気の如く自分の安危を心配して駆け付けてくれたのであった。石崎氏の子供は女学校の学生として式場にあって自分の倒れたのを目の前に見て顛倒せんばかりに驚いたとのことを後で聞いた。

自動車にかつぎ込まれて石崎夫人らの注意で人々は自分の両脚を大腿上部の処(ところ)でバンドをはずして、しっかり結んではなはだしい出血を止めようと試みた。その時に平素見知った顔が次ぎ次ぎと現れて、激昂した群衆の騒ぎの中に見舞の言葉を聞かしてくれた。

 警衛の領事館警察員は直(じか)に身辺に来た。署長花里氏の顔も見えた。自分は署長に向かって、「犯人は取り逃さぬよう厳重捕縛は必要だが、これに虐待暴行を加うる如きは一切厳重に取締ってもらいたい」との厳命を下した。私はこのような列国環視の中にあっては日本は飽くまで大国らしく男性らしく行動したいと考えた。

(中略)

 しばらくして自動車はとまった。程遠からぬ福民病院に着いたのである。診察室にかつぎ込まれ、一番はしの診察台にのせられた。

その室にはすでにだいぶ人がはいっていた。爆弾の破裂した直後に駆けつけて自分を援(たす)け起そうとした村井総領事も脚部に貫通傷を受けていて、病院に先着していた。

また眼に負傷して一眼を失った総領事館のタイピスト嬢も診察を受けたところだった。自分のほかに犠牲者のあったことを初めて知って暗い感じがした。

(中略)

 自分の仮手当が始まって間もなくまたどやどやと人がたくさんはいってきて、苦痛を訴えるうなり声が聞えてきた。次の犠牲者が運びこまれたのだ。それは河端行政委員長である。

人々は黒山のように入口に立ち塞(ふさ)がって自分らをのぞき込んでいた。やがて担架に乗せられて病室へ運ばれた。

病院は半ば建築を終えたばかりで、未だ設備等は不完全である。とにかく一室にかつぎこまれてベッドの上におかれたので、ほっとしたが苦痛はますます甚だしくなる。

ズボンや上着の袖は切りとられているけれど、洋服の上衣は雨に濡れたままで未だ身体につけられている。傷口はちょっと数えただけでも百六十幾つあったとのことだった。

傷口の消毒だけでもなかなか容易のことではない。とっさのことで看護婦も付添いも十分でなく、あまり健康でない石崎夫人が献身的につききっていてくれた。

 病院内でのうなり声は自分の室にもよく聞えたが、それはその夜限りであった。河端行政委員長の最期の消息だったのである。

長い間上海の民団に尽くされた河端氏はこうして逝かれた。


意見上申

(前略)

 自分は考えた。

犯人は朝鮮人であっても、いかなる背景があって事が重大化せぬとも限らぬ。

しかし日本は満洲問題の将来を控えている。上海事件はこの辺で名誉の終局を告げることが国家将来の大局上絶対に必要である。

遠く離れている東京政府は或(あるい)は判断に苦しむことがあるかもしれぬ。東京の事情は複雑であろう。国家の安危の分れるところである。

(中略)

 日本側首脳部全部が洩れなくやられたのはなんと言っても世界を震撼させた。この事件がどうなるかは、たいへんな不安と憂鬱(ゆううつ)をもって世界の人から見られた。

特にジュネーヴの軍縮会議中、東亜問題で集まっていた各国の政治家の神経をも痛く刺激した。直ちに世界戦争を連想した人もあった。

その時に自分の最後の意見として、爆弾事件は爆弾事件として取り扱い、停戦協定はあくまで成立せしむべし(管理人注:させなくてはならない)という趣旨の電報がジュネーヴにも、またその他の都にも到着した。

上海のランプソン英公使は状況を詳細にジュネーヴにいるサイモン英外相に電報で報告、日本公使の爆弾事件に対する態度及び意見も間接に探知して電報した模様である。

各国の代表ももちろん詳細の状況を報告したに違いない。ジュネーヴの空気は上海における重傷の日本公使の意見を知って俄然緩和するとともに多大の同情を表すようになったとのことだった。

日本政府も停戦交渉を成立させる決意をすぐ表明したので一時世界をおおった迷雲も間もなく晴れ、交渉は急テンポで成立に導かれた。






関連記事
スポンサーサイト