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2014/10/04

「特攻隊」という名前は戦後の呼び名


在韓日本大使館前で行われている対日ヘイト「水曜集会」に自称日本人牧師が3人表れて、元神風特攻隊員の謝罪を自称元従軍慰安婦に伝えたのだそうです。

ですが、「特攻隊」、「特攻隊員」というのは戦後の呼び名なのだそうですよ。

戦時中は「特攻隊」を、帝国陸軍は「空中勤務者」、帝国海軍は「搭乗員」または「特定搭乗員」と呼んでいました。

戦後約70年の歳月を経て、"日本人"の自称元特攻隊員が「特攻隊員でした」と名乗り出て、韓国人の自称元従軍慰安婦に意味が通じるというのは、おかしくないですか?

これも韓国の自作自演ではないですか?


  自称元特攻隊員   「元特攻隊員でした」
  自称元従軍慰安婦 「ああ、空中勤務者か搭乗員のことニダね」

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自称元従軍慰安婦は、日本語が理解できないようで通訳付きで日本に来たりしますが、「特攻隊」という日本国内での呼称の変遷にはくわしいようですね。


【人形を抱いて出撃する特攻隊員】
韓国はとうとう神風特別攻撃隊まで汚しましたね。
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【捏造だらけの朝鮮日報の記事】

慰安婦:日本人牧師らが謝罪「過ちを許してほしい」
元神風特攻隊員の牧師が書いた謝罪文を代読、花束を差し出す

2014年10月2日 朝鮮日報日本語版

 「私は皆さんの前にひれ伏して謝罪することをずっと願ってきました。皆さんの真実を知るにつれ、謝罪せずには死ぬこともできないと考えるようになったからです」

 1日午後、ソウル市内の在韓日本大使館前で行われた慰安婦問題の解決を求める1146回目の「水曜集会」に、年配の日本人牧師3人が参加した。韓日教会協議会に所属する日本人のシダ・トシノブ牧師(75)ら3人は、水曜集会に参加した韓国の市民150人の前で、旧日本軍出身のムトウ・キヨシ牧師(87)の代わりに罪を告白する文章を読んだ。福島県在住のムトウ牧師は17歳で志願入隊し、血書を提出して神風特攻隊員となり、自爆訓練を行った。日本人牧師たちは「自身の過ちで苦しんできたムトウ牧師は、死ぬ前に必ず慰安婦被害者の元を訪れて謝罪したいと水曜集会への参加を準備していたが、先ごろ手術を受けて自由に動けないため、やむを得ず謝罪文をわれわれに託した」と説明した。

 謝罪文でムトウ牧師は「どうか皆さんを苦しめたかつての日本の暴力を許していただきたい」と述べた。

 朗読を終えた牧師たちは腰を90度に折って深く頭を下げ、準備してきた花束を差し出した。元慰安婦の金福童(キム・ボクトン)さん(88)が静かに立ち上がった。「日本は悪いが、日本国民が悪いわけではない」。金さんは「こうして来てくださってありがたい」と述べ、慰安婦被害者を象徴するチョウのバッジを日本人牧師たちの襟元に付けた。



参考資料-「特攻隊」は戦後の呼び名


【「特攻隊」-帝国陸軍では「空中勤務者」と呼んでいた】

出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」 第一巻第四号所収 
 元陸軍少尉岡本治一郎 「特別操縦見習士官-生活日記- 熱血の熊谷陸軍飛行学校」



 如何に優秀な航空機があっても、これを操縦し、敵と闘い得る操縦者がいなかったならば、それは無きにひとしい。古今の名刀も、腕の凡庸なものが用いたら庖丁と同じになる。

 飛行機は時によれば、これを一朝一夕に生産できるが、航空要員は決して短日月で養成することはできない。だから、敵味方ともに航空要員の養成に躍起となったのである。

 当時の熾烈なる航空消耗戦において、消耗の率の多いのは、何といっても空中勤務者であった。





出典:1988(昭和63)年 文藝春秋 「『文藝春秋』にみる昭和史」 第一巻所収 昭和二十年 中野実 「八紘隊は征く」



 見張所のガラス戸をあけて入る。

 三浦隊長をはじめ、隊の人たちが、黒板の前に集まっていた。蝙蝠(こうもり)と外套と鞄(かばん)をおいて、私は、隊長の前に立った。

「気をつけ、礼」

 三浦隊長の号令で、隊の人たちは起立して私を迎えられた。

「今度、われわれ八紘隊が出発するに当って、陸軍省の報道部からわざわざ中野さんが、おまえたちに会いに来て下すった。なんでも遠慮なくどしどしお話をするように。みんな腰かけていい。」

(中略)

 第二見張所から職員宿舎へ、薄闇の格納庫の前を横ぎりながら、私は三浦隊長に導かれて、松林の中を行く。桑原少尉と同行。

「昼は割合にごちそうがあるんですが、夜は普通です。空中勤務者は、以前は、なかなかごちそうがあったのですが、この頃は、地上勤務者と同じです。朝と夜は麦飯です。しかし、今度出て行く隊員たちには、せめてと思って、交渉して、夜も白飯を炊いてもらうことにしました。私たち隊員だけの分を炊くというのは手数がかかるらしいですが、部隊長殿にお願いして許されました。部隊長殿は、ほんとにわれわれを大切にて下さるんです。」



【「特攻隊」-帝国海軍では「搭乗員」と呼んでいた】

出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」 第一巻第四号所収 「生き残り特攻隊 戦史に輝く殉国の魂 甲種飛行予科練習生第十一期生座談会」



 吉川 "特攻隊"という名前は戦後の呼び名なんですね。あの頃海軍では正式には、"特定搭乗員"といっていましたよ。私が二十年のたしか七月十日だと憶(おぼ)えていますが鹿屋(しかや)基地にいった時、兵舎の前に銀河隊の遺品がずらりと並んでいるんですね。私は"彗星"でしたが、何か感無量といった感じでしたね。




参考資料-血書の習慣があるのは朝鮮人



出典:1912(大正元)年 日本経済新誌社 全国新聞東京聯合社編  「日本植民地要覧」  四 朝鮮人の性質及風俗 41ページ



 一寸(ちょっと)見た処(ところ)の朝鮮人は温和である。正直である、真面目である、何処(どこ)となくういういしい点がある。之(これ)を一日一日に馴(な)れてから又見ると、非常に軽快な調子になり、一寸の事にすら、直に喜怒哀楽の情を表現し、何ぞといえば、直(す)ぐ血書をする、又は復讐心を起す。




附録-ムトウ・キヨシ牧師をニセ特攻隊員だと思う理由



まず、特攻隊の生き残りといわれる人達は非常に少ないといわれていたことがあります。

それに生き残った特攻隊員は、自ら名乗り出ることも少なかったのです。それがムトウ・キヨシ牧師は自ら「特攻隊員だった」と名乗りでました。

その上、その希少性もさることながら、通常、特攻隊員だった人達は「神風特攻隊員になった」ではなく、「帝国海軍〇〇航空隊に志願した」とか「帝国陸軍□□隊の曹長だった」と言うと思うんですね、ふつう。

もしくは「予科練生だった」とか「飛行学校生だった」と言うと思うのです。


この他にもムトウ・キヨシ牧師をニセモノと断定する理由が3つもあるのです。

① 志願してもすぐに特攻隊員にはなれなかった
② 「自爆訓練」というものはなかった


志願後、学科試験や身体検査に合格した者たちは、陸軍ならば陸軍航空学校または飛行学校、海軍ならば予科練航空隊に入れられ、基礎教育が1~2年ありました。

飛行訓練は基礎教育が修了したあとの過程でした。

逆算するとムトウ・キヨシ牧師は昭和19年か20年に志願したことになるので、「神風特攻隊員になった」という発言は虚偽になります。


【帝国陸軍の飛行兵教育プログラム】

・合格者全員が東京立川にあった東京陸軍航空学校に入学する。

そして一年間、普通学(数学、理科、歴史、国語、図画、英語)と軍事学(地形学、兵器学)を学ぶ。同時に実科教練(地上戦闘)の訓練がある。

一年後、校長以下各教官、教育隊長、中隊長、区隊長などの指導を受け、適性検査を受けたのち、操縦・通信・整備の三方面に分かれ、それぞれの学校に入学する。飛行訓練は入学から2年目の課程だった。

・昭和18年7月5日から導入された「陸軍特別操縦見習士官」制度(大学、予科、高等学校高等科、専門学校、高等師範学校、師範学校等の学生)も、飛行学校に入学後1年~1年半の教育期間があり、なおかつ飛行機操縦検定に合格する必要があった。


【帝国海軍の飛行兵教育プログラム】

・帝国海軍の場合…少年航空兵の教育は3期に分かれていた。

第一期は横須賀海軍航空隊で2年11カ月間、普通学(修身、国語、漢文、作文、算術、代数、幾何、三角、物理、化学、地理、歴史、英語)と軍事学(運用術、航海術、砲術、水雷術、航空術、機関術、工作)、体育(柔道、剣道、遊泳、銃剣術、相撲、体操、蹴球、籠球、排球等)を学ぶ。

第二期は約4カ月間の海上勤務で、第三期になってようやく飛行練習生になれた。



③ 「自爆訓練」というものはなかった


昭和20年元旦、長崎大村航空隊(草薙部隊)は中国成都から飛来した米軍機を迎撃したあと、また基地に帰ってきました。


【敵機飛来図-沖縄の活動家が絶対に言わない事実】
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韓国は「特攻隊=死」と思っているようですが、特攻隊の任務はあくまでも「敵の撃滅」だったのです。

草薙部隊は昭和19年11月21日の空襲の時も出撃し、昼過ぎに基地に帰ってきました。


出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」 第一巻第四号所収 「生き残り特攻隊 戦史に輝く殉国の魂 甲種飛行予科練習生第十一期生座談会」



半場 最初二機を墜(おと)して三機目へ体当りをくれたというから全くすごい。清水兵長(特別乙種飛行兵)もあの時やはり体当りで戦死したなァ。

吉原 そうだ、清水もあの時だ。

半場 邀撃(ようげき)戦でとに角漸(ようや)く蹴散(けち)らして、昼過ぎにへとへとになって帰ってきたんですよ。壕舎(ごうしゃ)に入って昼食です。すると、朝の人数の食器が余るんですね、還(かえ)って来ない者の食器ですよ──淋しかった、誰も眼を見合せるだけで何とも云(い)わないだけに余計……。 




それから、「自身の過ちで苦しんできたムトウ牧師」などと書かれているので、日本国内に朝鮮人慰安婦はいなかったことと、飛行練習生は毎日のスケジュールがきつくて「女を考える余裕もなかった」ということを付け加えておきます。



【資料出典】
1942(昭和17)年 大東亜社 伊藤松雄著 「無敵荒鷲魂」  54ページ 四 陸軍少年飛行兵
1944(昭和19)年 新正堂 佐田侃三著 「若鷲となるまで : 大空へ志す少年の手引き」  126ページ (附)、昭和十八年度 陸軍特別操縦見習士官志願心得
1944(昭和19)年 旺文社編 「海軍への道」 61ページ 海軍飛行兵志願案内


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