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2014/09/12

テレ朝「性奴隷に謝罪を」?吉原遊廓で親日になったアメリカ艦隊のお話


32年間、「捏造従軍慰安婦」を世界に広めてきた朝日新聞が、ようやく謝罪しました。

「慰安所」とは日本軍占領地に進出した遊廓(貸座敷業者)です。

戦前は日本に来たアメリカ人やイギリス人、ドイツ人、フランス人、中国人なども遊廓=慰安所で遊び、日韓併合後は朝鮮人出稼ぎ労働者が「慰安所(@大阪)」に宗主国の婦女を買いに行っていたのです。


折しも、自民党の稲田朋美政調会長が「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」で、「日本の名誉回復国民運動を」と発言なさいました。

そこで提案ですが、「慰安所」の歴史を鎌倉時代からさかのぼって、洲崎遊廓や吉原遊廓で遊んで親日になったアメリカ艦隊や、日韓併合後に朝鮮人出稼ぎ労働者が大阪の遊廓に行っていた場面でも挿入してみたらどうでしょうか?

「人道主義者ぶって日本は慰安婦に謝罪と賠償をしろ!と言っているあなた方も慰安所で遊んだのじゃー!!」

と、痛烈なブーメランを返してやればいいのに、と思います。


【日本を威嚇しに来たアメリカ連合艦隊】
1907(明治40)年12月16日、日清、日露に勝利してイケイケだった日本を威嚇するため、アメリカは新鋭戦艦、巡洋艦16隻からなる艦隊を組み、世界周航に出発した。翌年10月、日本を訪問した艦隊は遊廓で遊んで親日になった。
日本を威嚇する米艦船団


河野談話見直し「前政調会長の方針引き継ぐ」 自民・稲田氏「日本の名誉回復国民運動を」
2014年9月11日 産経新聞

 自民党の稲田朋美政調会長は11日、慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の河野洋平官房長官談話をめぐり、前政調会長の高市早苗総務相が新たな官房長官談話を出すよう政府に求めていたことについて、「前政調会長の方針を引き継ぐ」と述べ、自身も河野談話の事実上の見直しを求める考えを示した。

 党の議員連盟「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(会長・古屋圭司前国家公安委員長)の総会で語った。

 稲田氏は、朝日新聞が「慰安婦を強制連行した」との証言報道を虚偽と認めたことを踏まえ、「国民全体で地に落ちた日本の名誉を回復する国民運動をやっていきたい」とも述べた。

 また、総会では産経新聞の阿比留瑠比政治部編集委員が講演し、慰安婦に関する朝日の報道について、「日本をおとしめることができれば事実などどうでもいいという考え方があったのではないか」と指摘した。

ソース元URL:http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140911/stt14091117580005-n1.htm


ご先祖さまに感謝!! 日本のおもてなしパワー 


1908(明治41)年10月18日からの3日間、日本威嚇クルーズに出ていたアメリカ艦隊が日本を訪問しました。

そこで日本政府は、事前に細かい「米艦隊お・も・て・な・しプラン」を立て、横浜に上陸した乗組員たちを市民あげて歓迎しました。

その日本政府「米艦隊お・も・て・な・しプラン」の中に、洲崎遊廓、吉原遊廓訪問が組み込まれていました。

遊廓訪問が組み込まれていたのは、中国・韓国名物のハニートラップではなく、日本では太閤秀吉の時代から上品で学芸に秀でた遊女(公娼)たちが、貴人の相手を任じられていたその名残りだと思います。


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その結果、アメリカ人たちはいたく遊廓を気に入って、なかなか帰ろうとしない者もいたため、日本の巡査が注意するほどでした。

その遊廓が大東亜戦争中に日本軍占領地に進出して、おくゆかしい日本人はそれを「慰安所」という代名詞で呼んでいただけのことです。

「慰安所」というのは固有名詞ではなく、スラングのようなものです。

元禄時代以後は中国人やオランダ人が長崎の丸山遊廓で、江戸時代末期からは白人が主に居留地があった横浜遊廓、日韓併合後は朝鮮人出稼ぎ労働者が大阪の慰安所(遊廓)といった具合に、外国人も日本の遊廓=慰安所で遊んだのです。



出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:B07090417500:外務省 1901(明治41)年10月1日~明治41年10月20日 「2.太平洋ニ回航ノ米国大西洋艦隊ヲ帝国ニ於テ招待ノ件(前冊ヨリ続ク)/分割1」


※管理人注:書き起こしは意訳です。

「今回来航すべき米国艦隊並びに実業家歓迎に関し、過日商工会議所において東京実業組合連合会の臨時総会を開き、協議したところ、結局、ちょうちん行列を挙行して歓迎の意を表すことにした。午後5時、日比谷公園に集合し、それより市中行列、二重橋前-商業会議所前-外務省・米国大使館前-首相官邸前において万歳の合唱等を行う計画となって、すでに会長から各組合長にそれぞれ通知したという。以上」。
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米国艦隊ご一行さま名簿。
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「今回米国艦隊の来航については、一般市民は熱誠をもって歓迎しようと数十日以前から歓迎準備おこたりなく、その状況はほとんど想像以上だった。その概略をあげれば市内各町各団体ごとに種々の意匠を凝らし、装飾をほどこし、各町出入口には門に縁飾りをして「ウエルカム」の文字を掲げて、その周囲は無数の電球を取り付け、日米両国旗を交差させ、各家には紅白の幕を張り、日米国旗、日米のちょうちんをつらね、装飾をほどこした各町の状況は一見あたかも国旗と電球のトンネルのようで、いずれも虚礼を失せず、熱誠をもって歓迎するものだ」。
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「海岸通りはもちろん、艦隊乗組員が通過する沿道は歓迎のために押し寄せた数万の群集で立錐の余地がないほどで、沿道両側に整列し艦隊員の通過ごとにおのおの手にした日米小国旗を打ち振り、万歳をさけぶその状況はほとんど気が狂ったかのようだった」。
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「第十一回報告 米国艦隊員入京状況左記のとおりにこれあり候 明治四十一年十月二十日 一、昨夜深川区洲崎遊廓に泊まりこみだった米艦員は午前八時全部帰艦の途につきました」。
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「第十四回報告 一、昨夜米艦隊水兵一名吉原遊廓政花井楼に登楼(管理人注:遊廓に遊びに行くこと)、遊興したが帰艦の途につこうとしないので注意したところ、翌朝十時まで時間があるからと言って帰艦しようとせず、(遊廓に)宿泊し、今朝九時帰艦の途につきました」。
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「第十九回報告 一、米国艦隊員の入京を奇貨として、深川区洲崎貸座敷(遊廓)より遠く新橋停車場付近まで客引きを出し、同艦隊員を乗せる人力車夫と結託し、客を引いているとの聞き込みあり。一面各署長に注意し、一面貸座敷業主にそういうことをやってはならないと説諭した」。
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参考資料


1907(明治40)年 アメリカ艦隊の日本威嚇クルーズ


出典:1987(昭和62)年 講談社 「20世紀全記録」
    1907(明治40)年 



アメリカ海軍、おごる日本にデモンストレーション
16隻の大艦隊で世界一周の航海へ


12月16日
アメリカ海軍の新鋭戦艦、巡洋艦など16隻から成る艦隊が大西洋岸のハンプトンローズを出港、1年2カ月の世界周航という一大デモンストレーション航海に旅立った。

パナマ運河が未完成のため、南米南端を回ってサンフランシスコに寄港。カリフォルニア沖で大演習を実施したのち、ハワイ、ニュージーランド、オーストラリア、フィリピンを経て日本を訪問し、インド洋からスエズ運河を通過して地中海、大西洋に出て、09年2月ハンプトンローズに帰港するという大航海である。

この狙いは、内外に「強いアメリカ海軍」を宣伝するというものだったが、日本に対する示威運動でもあった。

日露戦争で勝利を収め、国際政治の舞台に登場してきた日本に対して、アメリカ国内では日本への警戒感が急速に増していた。 

しかし、翌年10月18日、米友協会の歓迎花火のあがるなかを横浜に入港したアメリカ艦隊のスペリー提督は日本側の歓迎行事にすっかり感激。

また艦隊乗組将兵も3日間の滞在中に、心のこもった歓待でたちまち「親日家」になったという。



日本の遊女(公娼)は貴人の相手もした


出典:1925(大正14)年 大京堂書店 沢田順次郎著 「売淫と売笑婦の研究」



79ページ 

 慶長元年閏(うるう)七月二十二日の大地震に、伏見の城隍(じょうこう:城と堀)石壁、殿閣等悉(ことごと)く崩壊して、圧死するもの夥(おびただ)しく、参陽実録に次ぎの如きことがある。

 此(こ)の大地震に依りて、城中の侍女多く死せり。故に太閤、徳善院玄以に命じて京大阪、当地の遊女、容顔勝れたるを召し集めて、給仕さすべし

近日異国の使、来たるべき時に、其の盃酌(はいしゃく)の為(た)めと宣(のたま)う。之(こ)れによって玄以、所々より遊女を撰み召し置けり。

 是(こ)れに由(よ)って之(こ)れを観(み)れば、当時の遊女は、品格高く、城中に召されて、貴人の相手を為(な)したるものと思わる。

82ページ

 斯(か)くの如くして家康は、着々其の歩を進めて、遊女を保護した結果、遊女の数多くなり、妓楼(ぎろう)の数も殖(ふ)えて、慶長の頃には、麹町は道三町及び麹町八丁目に、神田は鎌倉河岸に、或(ある)いは内柳町等に、妓楼多く建てられ、其の数五十余軒に及んだ。

これ唯(ただ)、江戸のみでない大阪及び京都も同様にして、遊女の之(こ)れに準じて多くなり随(したが)って一時賤劣に下れる遊女が、此の頃より品位を高めて、服装こそは極めて質素であったが、昔の面影を止(とど)めて、遊芸は勿論(もちろん)、文学にも達し、茶の湯の如きは知らぬものなきに至った

而(しか)して(そして)客の招きに依っては、其の家に行きて、茶を立てて歌を謳(うた)うこともあったということである。



宗主国で売買春していたトンデモ植民地民@大阪


出典:1933(昭和8)年 司法省調査課 「報告書集.2」 第七節 風俗慣習



 移住朝鮮人の青年者に於て男女の数が甚(はなはだ)しく異なりまた女子は殆(ほとん)ど郷里から呼び寄せられた既婚者であるため、性に関する紛擾(ふんじょう:もめごと)も起る。

(中略)

 独身者の為(た)めに遊廓は唯一の慰安所であり、また飲屋の女は殆(ほとん)ど売淫行為をする様である。



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