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2014/09/11

「天皇の軍隊」は天皇の軍隊ではなかった!!その3つの理由


宮内庁が「昭和天皇実録」を公表したそうです。

それに合わせて、また「天皇の戦争責任」などと言っている人たちが出現していますが、「天皇の軍隊」は天皇の軍隊ではありませんでした。

明治天皇は1882(明治15)年1月4日、軍人に賜わった御勅諭で軍人の政治関与を禁止しました。同じく、陸海軍刑法においても軍人の政治関与を禁止し、軍人には選挙権・被選挙権も与えられていませんでした。


明治天皇および軍が、軍人の政治関与を禁止した理由は、


軍人が政治に関与すれば政争の結果武力行使に出るのは自然の流れで、そうなれば立憲政治終了、国家動乱を招く

大元帥陛下の御統率にあたり軍に政治的見解や何らかの政治勢力が加われば、それら政治勢力の影響が出る


という二つでした。

しかし、二・二六事件という叛乱将校らによる思想事件が起きた時、天皇の軍隊いわゆる「皇軍」は滅亡しました。


【二・二六事件-国会議事堂前を行く叛(反)乱将校たち】
叛乱将校らの裏にいたのは北一輝や西田税(ちから)といった革新主義者と左右の小思想団体だった。2_26.jpg

皇道派と統制派のちがい


皇道派…二・二六事件を起した派。国粋精神に重きを置いて思想問題を取扱い、天皇の軍隊は神聖なる存在であって、一旦緩急ある場合には一身を犠牲にすべきものである、従って、国体の明徴を期し、皇道を履(ふ)み、世道人心指導の先駆者たるべきものであるとなす。二・二六事件後、軍部から排撃された。

統制派…当時の軍部の主流をなした。皇道派のような者は軍内部の乱脈の源であるとして極端分子を排し、統制に意を注いだことから統制派という。この派は、軍の幹部派主流をなすものだったが、元来軍部は藩閥勢力(管理人注:明治維新後、陸軍は長州のもの、海軍は薩摩のものとしたことによる薩長勢力)を受け継いだものであって、政治策謀に興味をよせ、軍を中心とする政権を立てて軍の独裁実現を実行しようとした。 その思想は「皇政維新法案大綱」による。三月事件、十月事件を策謀した。

【出典】1952(昭和27)年 中央公論社 重光葵 「昭和之動乱」上巻


皇道派なきあと、「皇軍」はさらに二度の滅亡をむかえました。それは統制派軍人内閣の誕生と大東亜戦争という革新運動です。明治天皇の御勅諭にそむいた昭和軍閥は「皇軍」の三度の滅亡を経て、日本を敗戦へと導いていきました。

以上が、「天皇の軍隊」は天皇の軍隊ではなかったとする3つの理由です。


天皇陛下の御判断は誤りがないゆえに「御聖断」と呼ばれます。

明治天皇が定めた「軍人は政治活動に関与してはならぬ」という「御勅諭」は、実に正しかったのです。

くれぐれも日本のことなどカケラも知らない左翼の宣伝である

「天皇の軍隊がアジアを侵略した」

というデマにだまされないようにしましょう。

昭和軍閥が本当に「天皇の軍隊」だったのなら、「終戦の御詔勅」という御聖断はなかったはずですから。

本記事の資料


「天皇の軍隊」は天皇の軍隊ではなかった理由その1. 
  明治大帝の御勅諭にそむき思想運動開始


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C04030595000:1882(明治15)年6月 陸軍省 「勅論写の件」



【7コマ目】
朕は汝等を股肱(ここう:ひじとひざ)と頼み汝等は朕を頭首と仰ぎてぞ其の親しみは特(こと)に深まるべき。

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【9コマ目】
世論(せいろん)に惑わず政治に拘(かか)わらずに只々(ただただ)一途に己の本分の忠節を守り、義は山嶽(さんがく)よりも重く死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ。

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明治天皇の勅諭により軍人は政治関与を禁止され、参政権すらなかった


出典:1936(昭和11)年 大阪時事新報社編 「"明日の日本を質す":特別議会に於ける"国政問題"の第論戦 軍人の政治関与について



 彼(か)の有名なる明治十五年一月四日 明治大帝が軍人に賜わりました所の御勅諭を拝しましても、軍人たる者は世論に惑わず、政治に関らず只々一途に己が本分たる忠節を守れと仰出だされて居る、聖旨のある所は一見明瞭、何等の疑(うたがい)を容(い)るべき余地はないのであります。

(中略)

陸軍刑法、海軍刑法におきましても、軍人の政治運動は絶対に之(これ)を禁じて、犯したる者に就(つい)ては三年以下の禁錮を以て臨んで居る又衆議員議院の選挙法、貴族院多額納税議院互選規則を見ましても、現役軍人に対しては、大切なる所の選挙権も被選挙権も与えて居(お)らないのであります。

斯(か)の如く軍人の政治運動は、上は聖旨に背(そむ)き、国憲国法が之(これ)を厳禁し、両院議員の選挙、被選挙権までも之(これ)を与えて居らない、是(これ)は何故(なぜ)であるかと言えば、詰(つま)り陸海軍は国防の為(ため)に設けられたるものでありまして、軍人は常に陛下の統帥権に服従し、国家一朝事有るの秋に当っては、身命を賭して戦争に従わねばならぬ、それ故(ゆえ)に軍人の教育訓練は専(もっぱ)ら此(この)方面に集中せられて、政治、外交、財政、経済等の如きは寧(むし)ろ軍人の知識経験の外にあるのであります。



共産主義と義憤の区別ができなかった陸軍軍人
クーデターの理由は国家国民のためでなく貧困と政財界に対する怒り


出典:1958(昭和33)年 文藝春秋新社 伊藤正徳著 「軍閥興亡史Ⅱ」 



六 革新徒党の「虎の巻」 魅力ある北一輝の小著

 青年将校も多くは農村の出身であって父兄の困苦は身に沁みており、その部下の兵士の訴えは一倍強く胸に感じるのが当然であった。彼等は、戦場で生死を共にするであろう兵に対して特殊の熱愛を感じていたからだ。

 時しも、「国家改造」の教本が、その救う道を指示していた。現在の重臣、財閥、政党の機構の下では絶対に救済の見込みはない。

庶政一新の唯一の途(みち)は、クーデターに依る忠誠無私の軍政府を樹立するに在るのみと教えられた。

その教本は、北輝次郎(一輝)の著書「日本改造法案大綱」であった。この「日本改造法案」は、「資本論」がマルキシストに与えるのと同じ感銘を青年将校に与えた。

青年将校が暴力革命を正当視する理論上の根拠は、実にこの一冊の著作の中にあったのだ。

(中略)

 北がそれを書いたのは、大正八年、上海の下宿に於てであった。彼(か)れは佐渡の中学を中退、独学して文才あり、二十四歳の時に「国体論」を著わして幸徳秋水の社会主義に挑戦し、次いで「支那革命史」の出版で名を知られ、続いて「国家改造原理大綱」を書いたのであった(三十四歳の時)。



「天皇の軍隊」は天皇の軍隊ではなかった理由その2.
  皇道派を処刑した時、「天皇の軍隊」は滅んだ


出典:1954(昭和29)年 日本週報社 橋本徹馬著 「天皇と叛乱将校」



皇軍はあの時に亡(ほろ)んだ

 率直にいえば、反乱将校達を反逆者として処刑したとき、大元帥陛下の帥(ひき)い給う皇軍(すなわち天皇の軍隊)は亡んだのである。

 しかも、その銃には菊の御紋章が入っているのである。大元帥陛下の御紋章の入っている銃で、刑死の瞬間まで尊皇絶対を信念としていた人々を、極度の憎しみで射殺したのである。この深刻なる不祥事の国運におよぼす悪影響を思うて、戦慄せざる者は神経の麻痺者であろう。

〔註〕 もし当時の陸軍大臣、参謀総長、教育総監(あるいは総理大臣、内大臣)らのうちに人物がいたならば

「如何に大罪を犯したりとはいえ、その動機が尊皇に発している以上は、しかして最後の日まで彼らの尊皇の信念が変らぬ以上は、菊の御紋章入りの銃をもって叛乱将校達を射殺すべきではない。さようなことをすれば、軍首脳部みずから尊皇心の崩壊を招くことになるから、彼らの死刑は別の方法によるべきである」

 ということにすれば、あの事件を機会に一層尊皇心を涵養(かんよう)することさえもできた次第であるが、なにぶんにも西園寺元老を始めとして、尊皇の大嫌いな人物が、政界および軍部の上層部に揃(そろ)っていたのであるから、そのようなことを考える者もなかった。

 かくして尊皇を口にする者は冷笑、または痛罵(つうば)を受ける、昭和末期の事態が招来せられたのである。



「天皇の軍隊」は天皇の軍隊ではなかった理由その3.
共産主義者にそそのかされ軍人内閣を樹立、天皇をおそれなかった
帝国陸軍(長州閥)


出典:1952(昭和27)年 中央公論社 重光葵著 「昭和之動乱」 上巻



北一輝

 天剣党(管理人注:青年将校らの秘密結社。自由主義、資本主義を暴力で排除することを目的とした)の行動に、思想的背景を提供した最も有力なものは北一輝であった。彼は生れながらの革命児であって、陰惨なる計画実行家であった。彼が若い時から支那に遊び、革命運動に身を投じたことは、その著書「支那革命外史」その他によって明瞭である。

 彼が支那において最も密接なる関係を有(も)っていたのは、国民党員中の左翼革命家宋教仁であって、宋が北京において袁世凱のために殺されるまで行動を共にしていた。従って北一輝の日本改造法案大綱なる革新計画が、如何なる根底に立っていたかは自ら明らかであって、終局の目的は不明であるが、その計画が全く左右混淆の思想に出でていたことは見易いところである。

軍部の無統制

 武家政治から明治後の藩閥政治となり、統帥権に拠る武人の権勢は、強く自己の意見を押し通さんとする試みとなり、すでに維新直後の征韓論において表われ、参謀本部が設置された後も、児玉台湾総督の対岸に対する計画ごときものが動いた。

特に第一次大戦当時の、田中参謀次長時代のシベリア出兵問題も同様であった。張作霖爆殺事件については、積極外交の本尊たる田中総理は軍部を如何ともすることが出来ず、勅旨をも実現せしむることを得なかった。

軍部は自己の計画を遂行するためには、ついに天皇をも恐れざるの風を馴致した。

士官学校事件

 内偵報告を得た軍当局は、これを理由として、関係者全部を陸軍大学校より放校し、更に軍より退役せしめた。軍の内規によれば、恩給年限に達せざる者は退役せしめぬことになっていたのである。士官学校生徒も多数粛正された。この事件は、士官学校事件と呼ばれるものであるが、これによって、青年将校の統制派軍首脳部に対する反感は極度に達し、復讐心に燃ゆる村中、磯部等は、かくなる上は蹶(決)起すべき時機が来たと考へ、部うかんむり竊(ひそ)かに同志とともにその計画を練った。その背後には、北一輝や西田税(ちから)等の革新主義者がいた。

広田内閣の成立

 二・二六事件の重圧の下に出来、「庶政一新」をスローガンとした広田内閣は、結局軍の傀儡的存在であった。

満洲事変によって、軍は完全に政府の羈絆(きはん:行動を束縛するもの、足手まといになるもの)を離れて、独立の行動を執るようになり、二・二六の叛乱によって、軍はついに、日本の中央政府を事実上乗り取ったのであった。

叛乱と外国使臣

 帝国軍隊は天皇直属であって、軍人は「朕ノ股肱(ここう:ひじとひざ)ゾ」と天皇は仰せられている。その軍人が、天皇の御膝下(おひざもと)において、近衛兵まで参加して白昼叛乱を起し、国家の重臣を殺害し、政府の中枢を占拠すること四日に及ぶとは、一体何たることであろうか。これが叛乱軍であるか否か、の順逆の問題すらも、容易には決しなかった。それだけでも、軍の内部の如何に乱雑であるかが、明らかに看取せられた。

(中略)

 昭和時代の変乱は、明治初年以来、幾多順逆を誤った史実の集積ではなかったか。

吾人(私)は軍人の口から、しばしば、天皇に対する批評を聞き、二・二六叛乱の当時においては、若(も)し天皇にして革新に反対されるならば、某宮殿下を擁して、陛下に代うべし、という言説すら聴かされたことを想起せざるを得ない。所謂(いわゆる)天皇機関説を実行していたのは、却(かえ)ってこれを非難した軍部であった。軍部の跋扈(ばっこ)は、昔、武家専横の時代を回想せしめるものがある。



二・二六をそそのかした北一輝はソ連過激派、上海仮政府、排日支那人と関係があった


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C06031166600:1920(大正9)年5月12日 朝鮮軍参謀部 「 第102号其898 1.上海仮政府の過激派及社会主義者と提携の件」 1コマ目



上海仮政府は表面差したる変化なきも最近浦潮(管理人注:ウラジオストック)より露国過激派十名同地に到り、李東輝等と提携を遂げ、不日満洲方面に向うとの聞込(ききこみ)あり。又社会主義者内地人(管理人注:日本人)北輝次郎外(ほか)一名は仮政府及(および)排日支那人と提携し何事か画策しあるやの疑(うたがい)あり。
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