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2014/09/08

関東大震災中国人虐殺?同胞に慰問金を渡すため中華民国は来日してます


近頃、「大朝鮮」の呼び声高い中共さまですが、今度は『関東大震災で中国人も虐殺されたアル』と言いだしました。

しかし真実は、当時の日本は『外国人労働者を受入れれば社会問題を惹起する』という理由で、中国人自由労働者の日本渡航を禁止していました。

それに中華民国は被災同胞や横浜在住中国人商人、日本に慰問金を手渡すため、わざわざ来日していますから、『生き延びて帰国した中国人』に話を聞かなくても、もっと早くに震災の状況は分かっていたのです。


特亜三国は戦後、従軍慰安婦、強制連行、関東大震災朝鮮人・中国人虐殺などを捏造してきました。

日本のことをあれこれ言う前に、特亜三国のそういう行為こそ戦後秩序を乱しているのであり、極東軍事裁判(東京裁判)を軽視しているのではないでしょうか?

関東大震災記録写真

現在の江東区に相当する深川安宅町付近。
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深川木場方面
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本所横綱安田本邸跡
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宮城(皇居)前広場に避難した人たち
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小石川砲兵工廠の被害。陸軍に朝鮮人・中国人を虐殺しているヒマなどなかった。
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現在の警察庁に相当する内務省も倒壊、焼失。このガレキの中で日本官憲や軍が朝鮮人だけを集めて、川原まで機関銃を押してきて虐殺した、と韓国や反日勢力は主張している。
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警戒救護で疲労困憊(ひろうこんぱい)し、爆睡している警察官
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宮城(皇居)二重橋に押し寄せた避難者。中国や韓国はこの中から、日本人が正確に中国人、朝鮮人を選別して虐殺したと主張している。
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上野駅に押し寄せた避難者
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大地震だけでなく、津波も襲来した
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東京駅前巡査派出所。貼り紙はたずね人のビラ。中共は日本人が自分の家族も探さずに中国人を虐殺したと言っている。さすが人権のない国。
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千葉方面に収容された支那人二千名の帰国。中国人虐殺も捏造。
関東大震災支那人帰国1【出典】1926(大正15)年 内務省社会局編 「大正震災志写真帖」

1899(明治32)年勅令第352号「条約若(もしく)は慣行に依り
居住の自由を有せざる外国人の居住及営業に関する件」

『労働者は時に行政官庁の許可を受くるに非(あらざ)れば従前の居留地及雑居地以外に於て居住し又は其の営業を行うことを得ず。』

【意訳】中国人・朝鮮人労働者が居住、営業を行いたい場合は行政官庁の許可を受けろ、と規定したけど申請しても許可しないのでよろしく。

日韓併合により、1910(明治43)年以降、朝鮮人はこの勅令から省かれることになってしまいました。


chokurei_dai352gou1.jpg【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A03020415700:1899(明治32)年7月27日 「御署名原本・明治三十二年・勅令第三百五十二号・条約若ハ慣行ニ依リ居住ノ自由ヲ有セサル外国人ノ居住及営業等ニ関スル件制定明治二十七年勅令第百三十七号(帝国内居住清国臣民ニ関スル件)廃止」


なかったことを知っているはずがないよね?

当時のただの山東省の共産匪賊にすぎなかった中国共産党が中国人の、そして日本の何を知っていたというのでしょう?


「事実軽視しないで 」関東大震災の中国人虐殺遺族18人が来日し追悼
2014年9月7日 神奈川新聞

 関東大震災直後の被災地で日本人らに虐殺された中国人の遺族18人が来日し、6日、東京都墨田区の横網町公園で先祖を悼む儀式を行った。遺族らは大震災の死者を追悼するために中国仏教徒が寄贈した公園内の「幽冥鐘」前で、中国式に紙銭をたき、先人を弔った。1924年、当時の日本政府は虐殺を認めたが、現在、事実を知る日本人は少ない。遺族からは「両国友好のためにも、この事をないがしろにしないでほしい」との声が上がった。

 遺族は、虐殺の事実を伝える活動を続けている市民団体「関東大震災中国人受難者を追悼する会」(江東区)などが招いた。昨年9月に続き、2度目の来日。

 鐘の前には被害者の慰霊碑の写真が置かれ、果物や中国酒が供えられた。遺族らは線香を手向けるとともに、紙銭をたいて深々と先祖におじぎした。

 中国人の虐殺が行われたのは23年9月2日ごろから。3日昼ごろには大島町(現東京都江東区)で日本人によって数百人が殺され、同じころ横浜でも事件が発生した。地理的に日本と近い温州から来日した労働者や、横浜の居留地に暮らしていた華僑の職人たちが命を絶たれた。大島町の場合、中国人労働者らに仕事を奪われたという日本人の被害者意識が震災をきっかけに吹き出した、という説もある。

 悲劇については、生き延びて故郷に送還された中国人労働者らによって知らされた。翌24年には当時の中華民国・温州知事や在日中国公使館が被害状況を調査し、日本の外務省に伝達。これを受けて日本政府は虐殺を認め、賠償する方針を決めた。だが、現在に至っても果たされていない。

 来日した遺族の一人で温州に住む周江法さん(68)は、合法的な中国人労働者として大島町に暮らしていた祖父、瑞楷さんら一家4人を殺された。江法さんの父親、錫昌さんは当時3歳。祖父の死を知った祖母は翌年病没してしまい、錫昌さんはその後、苦労を重ねたという。

 江法さんは「惨劇を日本人は知らないと聞いている。日本政府が隠蔽(いんぺい)を続けてきたのだろう。日本の民衆には何の罪もない」と話した。一方、日本政府がいまだ正式な謝罪や賠償をしていないことについて「公道(正義)を果たしてほしい。それは恨みを恨みで返そうということではない。惨劇が二度と起こらないようにするためだ」と訴えた。

 遺族らは8日、安倍晋三首相宛てに歴史の事実を認めて謝罪することや、賠償の実行などを求める請願書を提出する予定だ。

ソース元URL:http://www.kanaloco.jp/article/77273/cms_id/100195


山東省の共産匪賊の頭目だった毛沢東↓↓↓
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被災同胞に慰問金を渡しに来た中華民国



出典:1925(大正14)年 警視庁 「大正大震火災誌」  第五 諸外国よりの救援

※現代語に意訳しています。


(e)支那公使館

 支那公使館は不幸なことに全焼してしまったので、同館員は警視庁、外務省および戒厳司令部に同国罹災者の救護を依頼してきた。なので本庁(警視庁)がその保護に任命した一班は、すでに述べたとおりである。

かくして九月八、九日の両日、代理公使張元節、同秘書官全襚緑参謀本部奥大尉、外務守島事務官及び当警視庁員と共に、麹町・赤坂・麻布・四谷・小石川等に於ける同国罹災者を慰問し、その収容・救護の実況を視察した。

そして同八日公使館焼跡にバラックを建設し、同国罹災者を収容保護した。

尋(つい)で同二十一日にも張代理公使随員揚雲偏及び外務省岡部事務官、参謀本部佐藤大佐、陸軍省山下少佐並びに本警視庁員と共に、府下尾久町及び習志野収容所における罹災者の状態を視察慰問した。

同二十二日には代理公使施履本主催の下に、各省経理員および学生代表等と会議をして、中華留日学生(留学生)同胞救済会を調査機関として、罹災学生、商人の調査をし、慰問使江庸が携帯している慰問金三万二千五百円を、調査済みの者より順次分配給与した。

さらに、同二十四日施代理公使銭秘書官ならびに帝大生王非澄と共に、芝浦にある清水組バラック収容所を視察し、収容者五百十名にドーナッツを二個ずつ給与した。


(c)支那

(イ)支那慰問使、前教育総長湯爾和、同北京病院長候●(管理人注:金へんに流のつくり)汝外(ほか)二名は、九月十五日上京して、東京駅ホテルに止宿し、市内各救護所を視察し、罹災者を慰問した。


(ロ)九月十五日支那紅十字会救護隊荘簶牛恵霖以下医師、看護婦等一行二十五名上京して、府下渋谷町下渋谷元東京感化院跡に止宿し、傷病者の治療に従事の予定だったが、言語不通その他の関係上、九月二十二日より赤十字社病院に加入して治療を応援し、十月十六日退京した。


(ハ)支那各団体慰問代表江庸は随員二名及び中華留日(在日)同胞被災急賑会代表件学術研究会日災慰問代表瞿国眷同、王佐臣同、胡己任等と共に、九月十七日上京して、帝国ホテルに止宿し、留日学生代表王澤民、蔡文爟外(ほか)二十五名を招き、各団体代表として慰問を述べ、且(かつ)学生より被害情況を聴取し、其の携帯していた慰問金三万二千五百円を施代理公使に手渡し、十月十六日退京した。


(ニ)山西省慰問使孝秀中、張承炤は九月二十三日上京して小石川区指ヶ谷町三十番地尚友学舎に止宿し、其の携帯していた慰問金五千余円を罹災者に分与し、十月十六日退京した。


(ホ)中華学芸社特派員上海中華教育団救済日災会代表林騤一は、九月十三日上京して、本郷区西須賀町十六番地村田方に止宿し、其の携帯していた慰問金二千円を施代理公使に手渡し、十月四日退京した。


(ヘ)陝西特派日災慰問使揚鶴慶及び揚鶴年は、九月三十日上京して、府下中野町千九十三番地絡南方に止宿し、同省学生三十五名に対し、全焼者五名に百円あて、半焼者五名に五十円あて、その他の者に二十五円を給与し、尚澤南省よりの委託金を同省学生全焼者三名に三百円、半焼者五名に四百円、外(ほか)十二名に対し二十円乃至(ないし)三十円あてを支給し、十月十四日退京した。


(ト)中華民国内務部賑務所華洋義賑会代表勞王帝陳憲錯は、十月六日上京して帝国ホテルに止宿し、震災情況を視察し、横浜罹災支那商人に慰問金二千円を寄贈し、本邦に対する慰問金三十万円は、既(すで)に駐支芳澤公使に交付したけれども、猶(なお)帰国の上、東京罹災民には綿布、綿、木材等の物資を輸送すべき事を約束し、十月十三日退京した。


(チ)支那参議院議員雷殷は対日救済各団体代表として、九月二十一日上京して、小石川区関口台町二十四番地福井方に止宿し、広西省長依(委)嘱として、同省学生の罹災者に一人あて三十円乃至(ないし)八十円の範囲に於て、被害の程度に応じ、合計金千二百余円の慰問金を配給し、九月二十八日退京した。


(リ)新任山東省経理員干明信は、同省学生慰問の為(ため)、九月二十七日上京して、小石川区戸崎町十四番地同省経理所に止宿し、残留者五名(帰国中の者が多かった為)に対し、五十円あて支給した。


(ヌ)湖南外交交渉員王分泌は、同省慰問使として九月二十九日上京し、小石川区白山御殿町百九番地中華聖公会寄宿舎に止宿して、同省罹災学生五十名に対し、四十円乃至(ないし)八十円あて計二千四百余円を給与し、残額二千五百円は学費補給金として、適宜分与の事を同省経理員に委托(託)し、十月十三日退京した。


(ル)江蘇省特派日本賑済華僑専員南京知事沈訴は同省在留学生及び商人慰問の為(ため)に金二千円を携帯し、十月二日上京して、本郷区菊坂町菊富士ホテルに止宿し、曩(先)に金五千円を携帯して入京していた同省経理員廬壽銭と共に、被害程度を調査し、一人あて三十円乃至(ないし)八十円を配給し、十月十日退京した。


(ヲ)世界紅卍字会中華総会代表紫財政部員馮閲模、揚承諾は、十月六日上京して本郷区菊坂町菊富士ホテルに止宿し、京浜間の被害を調査し、十月十四日退京したが、同人等は渡日途中の南京に於て、白米二千石を購入し、熊野丸に托(託)して神戸に輸送したが、当時京浜間は米穀充実し、又(また)其の必要がなかったため、外務省を訪問し、神戸陸揚げの白米を適当に処分して欲しいと委托(託)した。


(ワ)広東省経理員沈任楨は同省よりの慰(問)金三千円を携帯して、十月十三日入京し府下巣鴨町宮仲二千四百四十六番地同省経理所に入り、罹災程度に応じ、一人あて二十円乃至(ないし)八十円の範囲に於て慰問金を分与した。


(カ)対日震災救済同志会代表袁良は震災慰問竝(ならびに)情況調査の為(ため)に、十月二十六日上京して帝国ホテルに止宿したが、同会は九月四日付で十万円を日本政府に郵送し、二万円を日本駐在日本総領事の手を経て寄贈し、尚(なお)支那各地より義捐(援)金を募集し、応募金十数万円以上に上ったのでこの寄贈の手続をした。



のちに戦火をまじえることになってしまいましたが、中華民国はまっとうな国でした。


【その他写真出典】
1925(大正14)年 警視庁 「大正大震火災誌」
1926(大正15)年 内務省社会局編 「大正震災志写真帖」


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