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2014/09/06

もう1つの中帰連「在華日本人民反戦同盟」


反日特別キャンペーン絶賛開催中の中共さまが今度は『日本軍は中国人・朝鮮人慰安婦を肉スープにして食べた』などと言っています。そして「食べた」と証言しているのは、いつものように赤い元日本兵のようです。

こういう「赤い日本兵」を製造したのは中国共産党ですが、シベリア抑留から撫順戦犯収容所に送られた人たちとは別の方法で赤化された日本兵がいました。

その日本兵とは、前線で日本人民反戦同盟員などに厭戦気分を煽られ、自ら中共軍に投降していった人たちです。

投降した日本兵を洗脳したのは中国にいた日本人共産主義者でした。


【鹿地亘】
日本人民反戦同盟本部@重慶を組織した。真中の人物が鹿地亘。
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【野坂参三】
日本人民反戦同盟延安支部や日本労農学校を組織した。真中の人物が野坂。左は李初梨、右は毛沢東。野坂は帰国後、日本共産党の議長になった。
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日本人民反戦同盟員が前線で行う「反戦・厭戦」煽動には、日本軍も頭を痛めたそうです。



出典:1974(昭和49)年 一声社 西尾次郎平・矢沢保
    「日本の革命歌」所収  反戦同盟の歌



 日本人民反戦同盟というのは、中国軍の捕虜になった日本兵士が組織したもので、これには華中、華南の国民党地区と、華北の八路軍(共産軍)地区の二つの系統があった。

(中略)

 反戦同盟の活動は戦局の悪化とともに将兵の厭戦気分をあおり、日本軍当局を大いに悩ませた。



支那事変勃発前に、毛沢東は日本人捕虜取扱方針について

・「捕虜を殺さない」
・「捕虜を優遇する」
「帰国または帰隊をのぞむ捕虜は釈放する」

と述べているので、赤化した日本兵を日本に帰国させ、日本革命を煽動するという計画は、あらかじめ練ってあったのですね。


出典:1953(昭和28)年 筑摩書房 エドガー・スノウ
    「中国の赤い星」 3 日本との戦争



 1936(昭和11)年7月16日

毛沢東「われわれに捕えられ、武装解除された、日本の将校、兵卒は歓迎され、良い待遇を受けるでしょう。かれらが殺されるようなことはないでしょう。かれらは同胞のようにあつかわれるでしょう。私たちの盟友である日本プロレタリア出身の兵卒を立ちあがらせ、かれら自身のファッシスト圧制者に対抗させるために、あらゆる方法がつくされるでしょう



洗濯中の大日本帝国海軍

管理人の義父は中国に出征していましたが、陸軍でもしょっちゅう洗濯していたそうです。汚れた軍服(戦闘服)のままケガをするとひどく化膿したり、性病や疫病に感染したりするからだったそうです。それほど不衛生な中国人を日本人が食べるはずありません。
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中共が「日本軍が食べた」と宣伝する当時の中国人

毛沢東中国ソビエト政府首席。汚い。
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ソビエト中国の四巨頭。汚い。右端は毛沢東。
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中国共産党に狩り出された農奴兵。汚い。
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中国人女捕虜。汚い。
捉えられた中国人女捕虜

パシリの周恩来先生も汚かった。
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もともと、日本に人肉食の習慣はありません。それなのに事実無根の共産党プロパガンダがあたかも真実であるかのごとく証言したりするのが「赤い日本兵」たちなのでしょうね。

ヘイト大国中共さま「日本軍は中国人・朝鮮人慰安婦を食べた」


"日本軍、慰安婦殺害人肉食べた"…日戦犯自白書
2014年9月4日 ニューシス

【ソウル=ニューシス】文芸性記者=中国が抗日戦争勝利記念日の3日に前後して日本慰安婦強制連行など日帝侵略の証拠になる戦犯自白書を電撃公開し、その中に日本軍が慰安婦を殺害してその人肉を食べたという衝撃的な証言が明らかになった。

(中略)

合わせて当時、日本軍に捕えられた中国女性捕虜1人は強制的に日本下士官の慰安婦にされ、その後、日本軍の食糧供給が厳しくなるとすぐに下士官はこの女性を殺害し人肉をゆでた後、肉のスープだと所属の全中隊隊員が共に食べたと伝えた。当初、兵士は人肉を食べたという噂を知っていたが、後に当事者が戦犯収容所でこれを事実だと自白したと彼は付け加えた。

タケシはまた、日本軍が中国人を殺害し、女性を強姦する事件は当時、日常的で、日本軍が統制する'治安区'には慰安所がたくさん設置されていたが、韓国と中国の女性が慰安所に閉じ込められていたと伝えた。

ソース元URL:ニューシス(韓国語) "日本軍、慰安婦殺害人肉食べた"…日戦犯自白書
http://www.newsis.com/ar_detail/view.html?ar_id=NISX20140904_0013152036


習近平が「日本軍は投降した」と言う理由


最近、「大朝鮮」との呼び名をほしいままにしている習近平国家首席は、何かにつけ「日本軍は投降した」と言っています。

おそらく、戦時中の中国で日本人民反戦同盟のような組織が、最前線で日本軍兵士に「投降」を呼びかけていたからそう言うのでしょう。

日本人民反戦同盟が戦場で配布していたビラ

「山西第一軍司令官吉本将軍の闇取引」「日本国民は仙人か?霞(かすみ)を食って生きている」。
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日本人民反戦同盟員香河正男氏の回想録には、日本軍に投降を呼びかけた時のことが記されています。

1942(昭和17)年3月、香河氏は同志とともに、薄い布団と「平和的」宣伝材料を背負って、日本軍国主義者と大資本家が膨大な資金と強大な軍隊を派遣している華中の黄橋鎮という街へ行きました。

そして日本軍が駐屯させていた一コ小隊の小隊長の通訳をしていた朝鮮義勇軍の李徳武に、日本軍に薪(まき)を届けている中国人農民に頼んで薪の中に反戦宣伝ビラを仕込んでくれるよう頼みます。

数日後、李にその反響をたずねに行くと、炊事当番だった日本兵が薪の中のビラに気づいてあとで何人かでいろいろ話し合っていたとのこと。それを聞いて、日本人民反戦同盟員はとても嬉しくなったのだそうです。

まさに「平和的」手段だったのですね。

そして1937(昭和12)年から1944(昭和19)年11月までの7年間で、中共軍に投降した日本兵の数は2407名にのぼりました。

投降する日本兵が多いほど、日本軍内の厭戦・反戦気分を高めることが可能だったそうです。

投降する日本兵

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投降した日本兵は八路軍の捕虜になり、その後、日本人民反戦同盟や日本労農学校といった洗脳組織に送られ、思想改造を受けました。

369旅団長と日本軍捕虜の対談

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岡野進(野坂参三)が延安に創立した日本労農学校

岡野進は偽名。
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思想改造によって、日本国の中心である皇室を階級の頂点だと洗脳された日本兵は、軍隊と戦争がイヤになって投降したはずなのに、なぜか八路軍に入隊し、今度は自分たちが前線で「反戦」を叫んで、日本兵をたぶらかすようになりました。

反戦ビラを準備する反戦同盟員

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日本敗戦後、赤い日本兵は国共内戦に参加した者もいましたが、国共内戦で生き残った者は日本に帰国しました。

1953(昭和28)年3月23日付の朝日新聞の報道によると、本当に日本人なのかあやしい人物が中国からの引揚船に乗っていたようです。

朝日新聞が異常な高揚感をもって報道した中国からの引揚者

1953(昭和28)年、中国残留者の帰国が開始された。3月23日に興安丸、高砂丸が舞鶴港に到着した。興安丸で2009人、高砂丸で1959人の中国残留者が帰国した。第三、四船の白龍号、白山号は同月26日に到着する予定だった。akai_nihonhei_54001.jpg


1953(昭和28)年3月23日付 朝日新聞
"氏名は言えない" 興奮にとけぬ一群の人 (抜粋)

 さまざまの話題を満載した帰還第一船はいままのあたりだ。舞鶴港内のあちこちで帰還者たちの目に映ずる日の丸は独立新日本の旗。あの丘、あの街にはもう占領軍もいないのだ。シベリア引揚当時とはなにもかもみな変っているのだ。国内の様子も、帰国者の迎え方も。興安丸はまっすぐ進んで来(きた)り、船上のどよめきがはっきりと伝わってくる。いや顔、顔、顔が大きくそこに迫っている。若い、みんな若い。元気だ。白い歯を出して笑っている、あれを人民服というのか紺色の中国服が多いのがとても目立つ。人民服というのか、写真でみる毛沢東首席がかぶっているような帽子も多い。手をふっている。「やあご苦労さま!」 こちらの歓呼には大きな声で答える。しかし歓声は聞えない。デッキの上はおろか丸い船窓という船窓から手だけが出て振っている。赤い布片を振っている手もある。子供の顔もずいぶん多い。この騒ぎに不思議そうな顔をしている。若い婦人の赤いネッカチーフがあざやかないろどりだ。七時かっきり、興安丸は検疫所地点ピタリ止った。

 よく見るとこの興奮に溶けこもうとしない一群の姿もあった。小雨にけぶる山々をみているその落着いた視線は何を想っているのであろうか。船上のざわめきが一段と高まって来た。

 話しかける人一人残らず奉天を中心とした旧満州地区の人達ばかりだ。中央ホールの手すりのかたわらで「あちらの生活は──」「仕事の内容はいえない。氏名もいえないことになっている。まあ大いにやろうよ」とかんじんな点には何も触れさせないカチンとした手応えの廿(二十)五、六歳の青年にぶつかった。さりげないようでシンのある中共帰還者の一つの特徴を見出した感だ。



このようにして、戦後日本では共産党の侵略が続行されていたのです。

そして、現在の日本で「反戦」だの「護憲」だの「平和」だの「日本は侵略国家」だのと言っている連中は、日本人が国の存亡をかけて戦争をしている時に中国やソ連に逃げて、日本が戦争に負けるよう工作していた連中なのです。

戦前中国で組織された日本兵洗脳団体一覧


日本兵士覚醒連盟…1939(昭和14)年11月7日、中国共産党の朱徳指導のもと、山西省林県麻田村で組織された。最初の組織者は、杉本一夫、高木敏雄、小林武夫。1939(昭和14)年~1942(昭和17)年にかけて、太行支部、太岳支部、晋東南支部、冀南支部、冀魯予支部、山東支部の6つの支部を持つにいたった。

反戦同盟延安支部…在華日本人民反戦同盟。延安(当時、毛沢東が拠点にしていた)で岡野進(野坂参三=日本共産党第一書記のち議長)が、森健、春田好雄らと組織した。

在華日本人民反戦同盟…重慶で組織された。鹿地亘が責任者を努める。

日本労農学校…1940(昭和15)年、岡野進(野坂参三)の指導のもと、延安で創立された。


在華日本共産主義者同盟…1942(昭和17)年6月23日創立。

反戦同盟華北連合会…1942(昭和17)年8月26日に「覚醒連盟」と「反戦同盟」を一本化した組織。また華中においても蘇中支部、蘇北支部、淮北支部、淮南支部の四支部をもって「華中地方協議会」を組織した(1944年5月には冀東支部が成立)。

日本人民解放連盟…1944(昭和19)年4月、日本帝国主義者の敗北は決定的として、上記反戦同盟をより広い政治綱領をもつ組織に改組したもの。



【資料出典】
・1963(昭和38)年 日本共産党中央委員会出版部 反戦同盟記録編集委員会 「反戦兵士物語-在華日本人反戦同盟員の記録」
・1982(昭和57)年 同成社 鹿地亘 「日本人民反戦同盟闘争資料」


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